遠藤周作のレビュー一覧
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ネタバレ海と毒薬含めて面白い作品でした。
面白いというかずっしりと心にのしかかるというか。
私もそうであるが、読者の大半は折戸と矢野に苛立ちともどかしさを覚えるのと思う。しかし、いざ自分や社会を俯瞰して見てみるとほとんどが、折戸や矢野のようなことを知らず知らずのうちにしているはずである。だからこそ、わかっているからこその苛立ちやもどかしさである。
勝呂は生体実験に携わったことが原因で、過去が知られる度にその街から追い出されるように転々としている。
海と毒薬では気胸のおじさんが引っ越した街で医師をしていた筈だが、あの街は今回の舞台の新宿ではないはずで、海と毒薬の後に追い出されたということが分かる。
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Posted by ブクログ
すごく読みやすい一方で、神や愛、運命とは何かを考えさせられた作品だった。作品自体が良かったことももちろん、特に解説が素晴らしかった。あの時のこの表現はこういう意味だったんだ!という気づきがたくさんあって、この解説を踏まえてもう一度読み直したらまた新しい発見があるだろうと感じた。主人公の吉岡と森田ミツのリアルな男女関係と人間性の違いを反映していて共感しやすかった。でも読み終わった後に振り返るとその対比が鮮やかで、さすがなと思う。
醜く、教養のない家庭で育ったがために無償の愛をもらえず、孤独に苦しみ、病気になった時は周りの恵まれた人間を妬ましく思うミツ。病気で体が変形した患者を忌み嫌いながら、自分 -
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むごい……ただその一言に尽きる……。
そして内容があまりにも深すぎて一読では味わいきれないので、また再読したいと思う。
ただの信仰の話ではないのは確か。
日本という閉鎖的な国家はやっぱりどこかおかしいらしい。キリスト教の本来の信義を曲解して日本流の宗教にしてしまっていたり。
そもそも信仰する習慣そのものがない気がする。
お正月の初詣だって、都合よく神様にお祈り。
クリスマスなんてそもそもキリスト教徒でもないのに今や国民全員に染み付いてしまって。
すぐにいろんなことに対して、神だ!神だ!といったり。
読んでて苦しかったのは、日本人を救いたい一心でキリスト教を布教をしようとしたのに、その行為が -
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この小説と同格の小説はあれどこの小説を上回る小説はこの世に存在しない。この作品を読むことができただけでもこの世に生まれた価値があったと感じさせてくれるほどの作品。小説という表現型が到達しうる最高到達点の一つ。
普遍的な命題を扱いメッセージの方向性は提示しながらもすべてを解説することは避け解釈に余白を持たせる、いくつかの矛盾を矛盾のまま残しておくなど、意味のつながりと余白のバランスが後世に残るマスターピースとなるための条件の一つであると考えるが、この作品ほど精緻なバランスを高い密度で実現している作品を私は知らない。信仰という普遍的なテーマに対し江戸時代長崎のキリシタン弾圧というドラマティックな舞 -
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「沈黙」というタイトルは神の沈黙だけを指すか?
→違う。3つの意味がある。
キリシタン禁制時代の布教活動の話が本書のストーリー。
しかし、その舞台設定で描いたのは、「人間の思いの強さ」「生の意義(あるかないか含め)」「守るべきもの」「人間や社会の残酷さ」。
私のようないわゆる普通の宗教感(≒無宗教)を持つ日本人に、宗教の話は伝わらないと思っていた。でも、同じ日本で行われていたキリシタン迫害について、こんなに物語として魅力的で早く続きを読みたくなるように描けるのは、遠藤周作、凄まじい。。
そして、この歴史という存在の過酷さに絶望する。
そして、「沈黙」というタイトルが指すのはなにか -
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ネタバレあまり読み慣れない歴史小説だったけど、スラスラと読み進められた。内容は重いが、日本人として知っておかなければならない事実だと感じた。当たり前に何かを信じることができて、それを共有することができる現代の幸せを、改めて実感するとともに、何かを信じることがどれだけ人間の心を救うのかと考えさせられた。家族よりも大切なものなんてこの世にないと思っていたが、信じるものを裏切ることは、その家族も裏切ることなのだと、当時の価値観には今と違うものがあるのだなと、強く思った。正直、うわべでも信じてませんって言えばいいのに。と思ってしまったが、きっとそれは自分の人生を否定することに等しいのだろう。その気持ちを理解し
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圧倒的に素晴らしかった。
江戸時代前半の話。
それよりちょっと前からイエズス会は、その版図を広げるために東へ東へ布教していき、ついぞ日本へ辿り着き、日本でもその版図は広がりました。
貿易で利益を得ていた切支丹大名がいた一方で、勢力の拡大から、侵略を危惧した日本は鎖国、キリスト教の禁制を行いましたね。
政治的にはそういう背景があったと思います。
末端の司祭達はどうかというと、純粋に、東の果ての日本においても、キリスト教を求めている人がいて、救われることを信じている。
日本の信徒はというと、貧しく厳しい生活の中で、確かに救いを求めているが、ヨーロッパでのキリスト教とは違う理解が進んでいそうで、 -
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太平洋戦争中に、捕虜となった米兵が臨床実験の被験者として使用された事件(九州大学生体解剖事件)を題材とした小説。
重いテーマなのでなかなか手に取りにくかったが、文章自体は読みやすく、あっという間に読めた。
戦後の人の視点から始まり勝呂(すぐろ)医師の視点、加害者達の視点から感情を描写する。自分の事情や感情に囚われながら殺人に加担していくところに恐怖を覚えたけど、勝呂の気持ちだけでなく、一見冷酷に見える戸田や上田の気持ちも分かる気がする。表面的な正義感では語れない。極限状態におかれた人間の心理は実際には戸田に近いかもしれないとも思う。呵責や罪悪感を感じないようにすることで精神的重圧から耐えれたの -
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ミツという女は、愛を与える行いを考える上で自分の中から消えないものになると思う。
登場当初からこの女は鈍臭く頭が弱そうに卑下し、目の前を通る人たちがどうしようもない弱さや辛さを抱えているとみえるや否や、自分を犠牲にして尽くす。
そこまでするところか?自分がなさすぎる、自分が地に足をつけて健康でいて初めて人を愛し救えるのではないのかと苛立ちながら読み進める。
しかし福祉や看護など奉仕を生業とする仕事をしている人には浮かぶのではないか。自分ももしかしたら、カーディガン諦めて戻ろうかとよぎるのではなかろうか。自分ももしかしたらハンセン病でなかったと知ってももう一度御殿場の輪に戻ろうとよぎるのでは -
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ネタバレ再読。神を持たない日本人の良心のあり方が描かれている。神なきがゆえに、罪を罪として拒絶することもなく、罰を受けることもないかわりに救いもないような。アメリカ人の捕虜を生体解剖して殺した、そのことへの呵責に苛まれる勝呂はまだ良心があって、罪の呵責を背負って生きている。彼にはまだ救いがある気がするけれど(その救いは描かれてはいないけれど)、全てに無感動で己の出世のことしか考えないような医師たちには何があるんだろうか。呵責の念の起きない戸田は戸田で、何も感じない自分を不気味に感じ、勝呂がうらやましいのだと思う。寂寞とした海鳴り。
作品冒頭では、腕は良いが機械的で人間味を感じさせない変わり者として登場 -
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ネタバレ白い人
キリスト教でドイツ人の母親と、放蕩に酔しれる父との間に生まれた斜視の主人公
母親の父親への犯行を示すかのようなまでの厳しい禁欲的な教育を、様々な罪悪で呼び覚まされる
(父が斜視を馬鹿にし女にモテないと言ったことで生じた女性に対するコンプレックス、女中が肺病の犬を懲らしめる為に膝で押さえつけ殴り口を紐で結ぶ、父について行った旅行でサーカスの少年が女性に踏みつけにされる、その少年を黒い日陰に失神させた状態で放置した)
そんな少年期を経て、父は浮気中に自動車事故で死に、母は大学在学中に病気で死んだ
両親のどちらにも主人公の本心は知られることなく、敬虔なキリスト教として終わった
大学生の時、主 -
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人が持つどうにもならない影や矛盾、割り切れないものを描いた作品。勝呂医師やガストンさんを中心としながら多くの登場人物が交差する中で、それぞれが持つ卑しさや罪の意識、割り切れない感情に、大なり小なり自分にもある部分だと共感しながら読み進めた。作者が表現する『自分がその時、その立場だったら同じことをしていたかもしれない』がまさにそれだと思う。
海と毒薬の続編ということで、海と毒薬を再読してこの本を手に取った。この2冊は必ず続けてまた読もう。『おらぁだめだ』と言ったあのシーンに勝呂のすべてが凝縮されていて、その勝呂の葛藤がまた続編でも描かれている。たとえ救えなくても寄り添おうと、彼は生きたと思う。 -
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感想というか思ったこと
(キクや清吉についても語りたいことは尽きないけど、いったん整理)
『女の一生』第二部では、戦争や日本におけるキリスト教弾圧に対するローマ・カトリック教会の姿勢に疑問を抱く修平の葛藤が描かれていたが、第一部にもまた、キリスト教弾圧の中でローマ法王の沈黙に対する疑問が示されていたのが印象的だった。
それでもなお、人は信じるしかないのはなぜなのか。
考えてみると、信仰とは本来、人の内に宿るものであって、教会はあくまでその信仰を持つ者たちの集まりにすぎないのかもしれない。だからこそ、信仰心において絶対的なのは教会という組織ではなく、むしろ個人の内にある信仰そのものなのだと思