遠藤周作のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
私達は「生きること」について本を読んだり
深く考えたりしながら生きているが
なるべく「死」については考えないようにして
生きているように感じられる。
しかし 「死」を免れる人は誰一人いない。
上智大学のデーゲン先生が
「死を迎える心には
一朝一夕に達することができないのだから
早くから準備しておくべきだ」と言われるように 健康なうちから「死について」
考えておくことが大切だと感じた。
本書の中にキューブラー・ロスが
臨死体験者2万人を調査した
アンケートについての記述がある。
そのアンケートには共通する三つのものがある。
その中に「(臨死の際に)慈悲に満ちた
何とも言えないやわらかい光に包まれ
その光の中で
自分が烈しく愛された気持ちを感じた」という
体験談がある。
死への得体の知れない恐怖を
抱き続けるばかりでなく
そう言った文献に今から触れることによって
「死は消滅ではなくて
次の世界に行くプロセスなのだ」と
考えることができる。
この本を読みながら
今を懸命に生きていく中で
若い時から死というものを
人生の中心に置いて考えることの大切さを
知ることができました。 -
Posted by ブクログ
海と毒薬に続き
前作で戦争中に人体実験に関与した医師見習い勝呂の20年後
前作の若さゆえの、大変な時期から来る疲れゆえの、暗い海に流されるまま良心に背くことをしてしまった人間の20年後
いつしか町医者でのらりくらし病人を治したかった勝呂
救われない一生
たたみかけてくる戦後一変した若い風、資本主義による人を2極端でしか切り分けられない社会的成功者の暴力
イエスの化身のような謎のフランス人ガストン
もしこの世界に神様がいるなら、なんでこんな悲しみをもたらすのですか?という問い。
神は希望であると同時に、こんなに悲しみをもたらす神の存在をどう信じればいいのか?
ガストンの歌、霧雨、太鼓の音、街の喧騒
聴覚の対比がパンチ効いてた
是非とも前編とセットで読んで欲しい -
Posted by ブクログ
7月の五島と長崎の旅の間に映画を観たことがきっかけで作品を読むことに。
紙で小説を読んだのは久々でしたが、やっぱりページをめくるというのはいいなと再度認識しました。そして今回の発見は「映画は目で見えるものを表現、再現できるが、臭いは届けられない」ということ。遠藤氏の小説の中には、どれだけ百姓たちが不衛生な生活をしているか、どれだけ臭いかってことが事細かに描かれていて、それは映画では感じることができなかったな、ということです。
でも、小説を読んでる時の方が、その不快感を十分に感じることができました。作家は臭いを届けるのに力を入れてたと思います。結構グロい表現が多かったですね。人糞や、吐瀉物の中に埋める顔とか、特にコンフェッションを農民から聞く時、その口臭が酷いこと、尿で濡れた箱のような場所に閉じ込められるとか。乾いた町のどこにも牛糞の匂いが立ち込めているとか、今までの時代劇のどれにもそんなものを感じさせるものがなかったです。
なぜ応えのない神を盲目的にあそこまで信じることができるのか。殺されるという恐怖に勝る信仰の強さを宿すまでに、どうやって宣教師は人々を洗脳することができたのか?単にバイブルを読むだけでそうなるとは考えられない。そんな問いの答えが明らかになったようでした。
拷問に耐えうる時、彼らは自身をキリストの経験に重ねて恍惚を得ていたのかもしれませんね。
-
Posted by ブクログ
ジーザスがかっこよすぎる。ジーザスは神の子ではなく、神力的なものを持った超人でもなかった。ただの人だった。ただ、人の優しさを自分のことのように感じることができる人だった。
盲目の人を癒す力もなく、ただ純粋に痛みを分かち合った。
最終的に人々は神の子ではないと見放し十字架に架ける。しかし、ジーザスは最後になっても主に彼ら(ジーザスを十字架に架けた者たち)の罪の赦しを乞うた。ジーザスは、最後まで隣人愛を説き、愛による救済を訴えたのだ。
ジーザスが人間であるということは我々にとって何よりも救いではないだろうか?神の子でも、超人でもなく、ただの人が誰かのために身代わりとなり、最後まで優しさを持っていたということ、それはこの性悪説が真実のようになっている社会に対して何よりも救いとなるのではないだろうか。
一言で言えば、この本を読んで思ったことは、「ジーザス、かっけえ」だった。人を無心に信じる、無償の愛を与える、それができるのは本当の強さだ。 -
Posted by ブクログ
600ページあったけど一気に読んだ。キクの一途な想いも、伊藤の葛藤も、すべて引き込まれた。
自分はキリスト教徒ではないが、ミッション系の学校にいた頃、神父の一人が「神はみんなの心の中にいます」と言っていたことを思い出した。
キク、清吉、プチジャン、そして伊藤。彼らはそれぞれ、心の中にいるマリアやイエス、あるいは名前のつかない何かに問いかけているように感じた。
特に印象に残ったのは、キクがマリアに怒りをぶつける場面だった。信じているからこそ祈るというより、「なぜ助けてくれないのか」と怒っている。その姿がとても生々しい。遠藤周作がこういう信仰の姿を描いていることも意外だ。
人は報われたかどうかを、その瞬間だけで判断できるのだろうかと考えた。
キクは報われたとは言いにくい。だからといって100%報われていなかったとも言えない。
キクがどう生きたか。その生き方そのものまで含めて考えると、報われたかどうかなんて一生かけても判断できないと思う。
今この瞬間には苦しみしかなく、救いがないように見えることでも、人生全体の中に置き直したとき、その意味は変わるのかもしれない。ただし、苦しみには必ず意味がある、という単純な話でもないと思う。苦しみは苦しみのまま残る。それでも、その人生を「無意味だった」と簡単に言い切ることもできない。
「沈黙」もよかったが、こちらは神がなぜ沈黙するのかという問い以上に、愛とは何か、善とは何か、人はどう生きるのかを考えさせられた。
私たちは日々、自分の中の何かに問いかけながら生きているのだと思わされた小説だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ人は過ちや後悔を抱えながら生きている。誰にも言えないものもある。過ぎ去ったことであり、今更どうしようもないので、心の箱に鍵をかけてしまうのだが、事によってはしまえなかったり、何かの出来事で箱の扉があいて苛まれてしまう。そんなときに救いになるのが信仰なんだと本書を読んで思った。
過ちを犯したときに、どれほど謝罪し、反省し、後悔したところで抱えるものは消えないが、「許し」は抱えるものを消す有効な方法なのだろう。相手がいる事であれば相手の許しが、相手がいない事であれば自分の許しが救いになる。自分で自分を許せないなら神の許しが救いになる。神の形はどのようなものでもよく、キリストでもブッダでも、あるいは圧倒的な大自然の象徴でもよいのだろう。本作では深い河がその許しを与える存在であった。すべてを受け入れてくれる圧倒的なスケールがあり、さらに河は流れて消えるという目に見える現象があるからこそ、抱えるものを手放すための大きな救いになるのだろう。
自分の中で大いなる存在を思い描き、その許しを得て抱えるものを消すことは、客観的な科学ではない。そのため、科学が発展した現代において、信仰を単に非科学的なものとして否定したり侮蔑したりする風潮もある。どんなに祈っても、救われない現実があることは自明の理だ。ただ、信仰には、科学の力ではどうにもならない人間の心の痛みを和らげ、支える一定の力はある。過信や妄信は戒めるべきだが、人間の弱さに寄り添うものとして、信仰のあり方を静かに見つめ直すことは大切だと感じた。 -
Posted by ブクログ
人間の心の中にある毒は、波によって浮き沈みする。海の中に入ってしまえば、その毒は広い海の中に溶け込み、ひどく小さなものに見える。しかし、波によって浜辺へと押し返されたとき、その毒は逃げ場を失い、はっきりと姿を現す。
作中の人間は、それぞれ異なる「波」を持っているように思えた。何度も波に押し返され、そのたびに自分の中の毒と向き合う者もいれば、波がほとんどなく、常に心の中が毒に侵されているような者もいる。また、たった一度の大きな波によって、心の中に毒が生まれたりする者もいる。
そして、その人間たちの心にある毒をさらに濃くしていたのが、作品の時代背景だったのではないかと思う。戦争という大きな「毒」の中で生きることで、人間は自分自身の中にある毒にも気づかないまま、それを吐き出してしまう。
さまざまな人間が、それぞれの「波」と、時代という「毒」の中で生きながら、最後には自分の心の中にある毒を吐き出していく。その姿を描いた作品なのではないかと思った。 -
Posted by ブクログ
メモ
・母なるもの
・小さな町にて
ジラル親父の日記?で描かれる長崎と、今の長崎
「正しい」形式で信仰しないといけないのか?「まことの」信仰とは
父的な厳格さと母的な寛容さ マリアは後者
・学生
終戦から5年経った昭和25年 フランスへの留学
敗戦国の日本人であるということ
対比: 天正の少年使節団 ヴァリニャーノ神父
「人生とは決して心底まで憎むものではないが、また我々の心をすべて惹きつけるものでもない」
信仰の深さのグラデーション 同じ年頃、同じ性別、同じ国籍、同じ宗教でもひとそれぞれ
・ガラリヤの春
エルサレムへの聖地巡礼と母親の記憶
信仰は母親への愛着とつながっている
信仰への揺らぎ
・巡礼
聖地巡礼
「最もアーメンに縁のないような人間に、なぜアーメンはとり憑いたのだろう」
捨てたら楽になるのに、捨てられない信仰
確かなもの
・召使たち
シドッティ、長助、はる
・犀鳥
「人間はには一人になるとなぜか動物だけを友だちにしたい心が起きるんでしょうねえ」
廃教司祭(転び)が飼っていたという犀鳥
・指
美しくなく、逞しくない人間にも赦しは与えられるのだろう -
Posted by ブクログ
講談社文庫から出版されたもの。
文庫本は、1984年12月15日 印刷。
私が読んだのは、昭和1992年8月25日 第2刷。
会社勤めを始めて7,8年ぐらいに読んだと記憶しています。
江戸末期の浦上四番崩れを題材とした「最後の殉教者」を始め10の短篇集となっています。読んでから25年以上経っています。内容は全く記憶にないですが、、浦上四番崩れの話は、何かのTV番組で知っています。しかし、その時、この小説とは直ぐに結びつかなかったです。再読して見たくなったので、廃棄せず取り置くことにしました。
ただ、現在とは文字の大きさが違い、老眼には厳しい。退職記念に貰ったハズキルーペを使ってみようと思います。
それでも無理なら再購入することにします。
定価400円でした。
古い本を整理・処分するために記録を残した。
2026年8月29日 記録。