遠藤周作のレビュー一覧
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ジーザスがかっこよすぎる。ジーザスは神の子ではなく、神力的なものを持った超人でもなかった。ただの人だった。ただ、人の優しさを自分のことのように感じることができる人だった。
盲目の人を癒す力もなく、ただ純粋に痛みを分かち合った。
最終的に人々は神の子ではないと見放し十字架に架ける。しかし、ジーザスは最後になっても主に彼ら(ジーザスを十字架に架けた者たち)の罪の赦しを乞うた。ジーザスは、最後まで隣人愛を説き、愛による救済を訴えたのだ。
ジーザスが人間であるということは我々にとって何よりも救いではないだろうか?神の子でも、超人でもなく、ただの人が誰かのために身代わりとなり、最後まで優しさを持っていたということ、それはこの性悪説が真実のようになっている社会に対して何よりも救いとなるのではないだろうか。
一言で言えば、この本を読んで思ったことは、「ジーザス、かっけえ」だった。人を無心に信じる、無償の愛を与える、それができるのは本当の強さだ。 -
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600ページあったけど一気に読んだ。キクの一途な想いも、伊藤の葛藤も、すべて引き込まれた。
自分はキリスト教徒ではないが、ミッション系の学校にいた頃、神父の一人が「神はみんなの心の中にいます」と言っていたことを思い出した。
キク、清吉、プチジャン、そして伊藤。彼らはそれぞれ、心の中にいるマリアやイエス、あるいは名前のつかない何かに問いかけているように感じた。
特に印象に残ったのは、キクがマリアに怒りをぶつける場面だった。信じているからこそ祈るというより、「なぜ助けてくれないのか」と怒っている。その姿がとても生々しい。遠藤周作がこういう信仰の姿を描いていることも意外だ。
人は報われたかどうかを、その瞬間だけで判断できるのだろうかと考えた。
キクは報われたとは言いにくい。だからといって100%報われていなかったとも言えない。
キクがどう生きたか。その生き方そのものまで含めて考えると、報われたかどうかなんて一生かけても判断できないと思う。
今この瞬間には苦しみしかなく、救いがないように見えることでも、人生全体の中に置き直したとき、その意味は変わるのかもしれない。ただし、苦しみには必ず意味がある、という単純な話でもないと思う。苦しみは苦しみのまま残る。それでも、その人生を「無意味だった」と簡単に言い切ることもできない。
「沈黙」もよかったが、こちらは神がなぜ沈黙するのかという問い以上に、愛とは何か、善とは何か、人はどう生きるのかを考えさせられた。
私たちは日々、自分の中の何かに問いかけながら生きているのだと思わされた小説だった。 -
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ネタバレ人は過ちや後悔を抱えながら生きている。誰にも言えないものもある。過ぎ去ったことであり、今更どうしようもないので、心の箱に鍵をかけてしまうのだが、事によってはしまえなかったり、何かの出来事で箱の扉があいて苛まれてしまう。そんなときに救いになるのが信仰なんだと本書を読んで思った。
過ちを犯したときに、どれほど謝罪し、反省し、後悔したところで抱えるものは消えないが、「許し」は抱えるものを消す有効な方法なのだろう。相手がいる事であれば相手の許しが、相手がいない事であれば自分の許しが救いになる。自分で自分を許せないなら神の許しが救いになる。神の形はどのようなものでもよく、キリストでもブッダでも、あるいは圧倒的な大自然の象徴でもよいのだろう。本作では深い河がその許しを与える存在であった。すべてを受け入れてくれる圧倒的なスケールがあり、さらに河は流れて消えるという目に見える現象があるからこそ、抱えるものを手放すための大きな救いになるのだろう。
自分の中で大いなる存在を思い描き、その許しを得て抱えるものを消すことは、客観的な科学ではない。そのため、科学が発展した現代において、信仰を単に非科学的なものとして否定したり侮蔑したりする風潮もある。どんなに祈っても、救われない現実があることは自明の理だ。ただ、信仰には、科学の力ではどうにもならない人間の心の痛みを和らげ、支える一定の力はある。過信や妄信は戒めるべきだが、人間の弱さに寄り添うものとして、信仰のあり方を静かに見つめ直すことは大切だと感じた。 -
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人間の心の中にある毒は、波によって浮き沈みする。海の中に入ってしまえば、その毒は広い海の中に溶け込み、ひどく小さなものに見える。しかし、波によって浜辺へと押し返されたとき、その毒は逃げ場を失い、はっきりと姿を現す。
作中の人間は、それぞれ異なる「波」を持っているように思えた。何度も波に押し返され、そのたびに自分の中の毒と向き合う者もいれば、波がほとんどなく、常に心の中が毒に侵されているような者もいる。また、たった一度の大きな波によって、心の中に毒が生まれたりする者もいる。
そして、その人間たちの心にある毒をさらに濃くしていたのが、作品の時代背景だったのではないかと思う。戦争という大きな「毒」の中で生きることで、人間は自分自身の中にある毒にも気づかないまま、それを吐き出してしまう。
さまざまな人間が、それぞれの「波」と、時代という「毒」の中で生きながら、最後には自分の心の中にある毒を吐き出していく。その姿を描いた作品なのではないかと思った。 -
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メモ
・母なるもの
・小さな町にて
ジラル親父の日記?で描かれる長崎と、今の長崎
「正しい」形式で信仰しないといけないのか?「まことの」信仰とは
父的な厳格さと母的な寛容さ マリアは後者
・学生
終戦から5年経った昭和25年 フランスへの留学
敗戦国の日本人であるということ
対比: 天正の少年使節団 ヴァリニャーノ神父
「人生とは決して心底まで憎むものではないが、また我々の心をすべて惹きつけるものでもない」
信仰の深さのグラデーション 同じ年頃、同じ性別、同じ国籍、同じ宗教でもひとそれぞれ
・ガラリヤの春
エルサレムへの聖地巡礼と母親の記憶
信仰は母親への愛着とつながっている
信仰への揺らぎ
・巡礼
聖地巡礼
「最もアーメンに縁のないような人間に、なぜアーメンはとり憑いたのだろう」
捨てたら楽になるのに、捨てられない信仰
確かなもの
・召使たち
シドッティ、長助、はる
・犀鳥
「人間はには一人になるとなぜか動物だけを友だちにしたい心が起きるんでしょうねえ」
廃教司祭(転び)が飼っていたという犀鳥
・指
美しくなく、逞しくない人間にも赦しは与えられるのだろう -
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講談社文庫から出版されたもの。
文庫本は、1984年12月15日 印刷。
私が読んだのは、昭和1992年8月25日 第2刷。
会社勤めを始めて7,8年ぐらいに読んだと記憶しています。
江戸末期の浦上四番崩れを題材とした「最後の殉教者」を始め10の短篇集となっています。読んでから25年以上経っています。内容は全く記憶にないですが、、浦上四番崩れの話は、何かのTV番組で知っています。しかし、その時、この小説とは直ぐに結びつかなかったです。再読して見たくなったので、廃棄せず取り置くことにしました。
ただ、現在とは文字の大きさが違い、老眼には厳しい。退職記念に貰ったハズキルーペを使ってみようと思います。
それでも無理なら再購入することにします。
定価400円でした。
古い本を整理・処分するために記録を残した。
2026年8月29日 記録。 -
Posted by ブクログ
オーディブルで聞く読書。平易な文体で、すっと頭に入ってくる。眼の前に絵が描かれるかのような語り口ですばらしい。そもそもの教義が、別の土地で土着信仰と融合して、そもそもの宗教とは異なるものに変容する、ということはおそらく南米でもアフリカでもどうようなのではなかろうか。ただ、日本のキリシタン対策が、なんとも日本人らしい対応であるなあと後半になればなるほどじんわりと納得される。メディアが違うこと、自分の成熟度に応じて、この本は味わいは大きく深まっていくようだ。クワトロラガッツィと合わせて、切支丹を理解し、人間の弱さを理解し、宗教とは、を問い直す物語としてはおすすめだ。じっくり読みたい。
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ネタバレ「信仰を曲げれば、目の前の苦しんでいる人が助かる」とか、残酷すぎる。
日本って一昔前はとんでもない時代だったんだなあと思った。
信徒のために身を捧げる気で来たのに、自分のせいで信徒たちが死んでいくの苦しいだろうなあ。
どんな拷問であろうと貫いてみせると覚悟して上陸したのに最終的に踏んでしまうのが見てて辛かった。
司祭なのに思わず神を疑ってしまうところも本当に鳥肌立った。
司祭は奉仕したい・人に頼られたいというのが本質であることを感じた。
「彼等が警で、罠をかけたとしても、かまわぬと思いました。もし徒だったら、お前はどうするのだと言う声のほうが心の中で強くひびいたからです。」
この使命感はすごくかっこよかった。