あらすじ
『白い人』は、醜悪な主人公とパリサイ的な神学生との対立を、第二次大戦中のドイツ占領下リヨンでのナチ拷問の場に追いつめ、人間実存の根源に神を求める意志の必然性を見いだそうとした芥川受賞作。『黄色い人』は、友人の許婚者をなんらの良心の呵責も感じずに犯す日本青年と、神父を官憲に売った破戒の白人僧を描いて、汎神論的風土における神の意味を追求する初期作品。
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Posted by ブクログ
西洋(キリスト教)の「永遠」の感覚と日本(仏教)の「無常感」の対比が面白かった。
キリスト教では罪を犯しても神に懺悔して赦しを乞えば救われる、死=永遠の命への入り口っていう考え方。
対して日本では抗えない運命への静観、移ろい衰えていくものへの諦めに近い無常感が根底にある。
根本的な感覚がこんなにも違うのに、日本でクリスマスとか祝われてるのが陳腐に思えてくる。
あと日本人キリスト教徒はこの辺りの感覚の違いをどう対処しながら自分をキリスト教徒たらしめているんだろう。機会があれば当事者に聞いてみたい。
以下、読んでいて感じた疑問とchatGPTの回答
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•なぜキリスト教では罪の意識が強いのに、日本より西洋の方が一般的に犯罪率が高い?
⇨キリスト教における「罪の意識」と法的な犯罪はそもそも別の概念。前者は神に背くこと、欲望を抑えられないこと、心の中で誰かを恨むことなど。
•キリスト教における「地獄」と仏教における「地獄」の言葉の重みが違う気がする
⇨その通り。日本での「地獄」は罪人が死後に罰を受ける場所だけれど、「仕事が辛くて地獄のようだ」など比喩的•感情的に軽く使われる事が多く、現世的な苦しみの延長線上にあるイメージ。対してキリスト教の「地獄」は単なる火に焼かれる場所ではなく、神の光に二度と触れられない「完全な孤独」。地獄に行くとその人が永遠に救われない、魂の破滅そのものを意味する。
•人種を指す「ユダヤ」の語源とキリスト教上の背教者「ユダ」の語源に繋がりがあって、そこからドイツのナチスによる迫害対象をユダヤ人にしようとなった訳ではない?
⇨背教者を意味する「ユダ」は聖書に出てくる個人名で、人種の「ユダヤ」と直接的な繋がりはなく、そこに由来してホロコーストが起きた訳ではない。ただし両者は同じ語源(ヘブライ語のユダ族=Judah)を共有しており、長い歴史の中でそれらが結び付けられ反ユダヤ感情の土台にはなった。ヘブライ語でユダはיְהוּדָה(Yehuda)、ユダヤも同じくיְהוּדָה(Yehuda)。
•教会で行われる罪の告白に対峙する神父の対応がまるでカウンセラーのように感じる(罪を責めるのではなく優しく助言するところ等)が、西洋では神父と別に心理セラピーの利用も流行っている。神父様に話を聞いてもらうだけでは不十分なのか?
⇨神父の告解はあくまでも宗教的•霊的な癒しが目的で魂の次元が中心。対して心理セラピーはより現実的•心理的な問題に焦点があてられており、PTSD、うつ、パニック障害など感情や脳の働きに関するケアを行うという棲み分けになっている。
•キリスト教において自殺も罪の1つだけど、年々西洋での自殺率が増えてるのは神の教えが抑止力になってないの?
⇨その矛盾には現代社会の価値観や孤立の変化が要因となっている。そもそも自殺が罪になるのは神への反逆とみなされるからで、「神から与えられた命を自ら奪った」「希望や信仰を放棄した」等の理由から救いようのない大罪とされていた。昔のヨーロッパでは自殺者は教会の墓地に埋葬されないほどのタブーだった。
しかし近年では信仰が形骸化•個人化していること、社会的孤立や精神疾患の増加、教会の権威の弱体化、科学的•心理学的な知識の広まりなどから、自殺に対するハードルが下がってしまっている。
Posted by ブクログ
自分が日本人だからか、個人的には『黄色い人』の方が好みでした。黄色人種だからというよりも、日本という多神教が緩やかに生活の中に染み渡っている国で育った日本人という種族の、一神教を古来より信じてきた欧州人との遺伝子レベルでの宗教観の違いが、もしかしたら存在するのかもしれないと思いました。基督者である遠藤周作の描くこの本の主人公2人は、キリストや神への不信を抱いているわけですが、その感情や思考への解像度がとても高く驚きました。遠藤周作は基督者でありながら、この物語の主人公たちのような、教義に対するアンチテーゼみたいなものが、心のどこかにあったのではないかな。
Posted by ブクログ
罪に対して、どう向き合うかが人種により違っていた。どちらにしろ、罪を重ねていけば、やがて死にも罪にも無感動になる。
『白い人』の主人公や『黄色い人』デュランは、いつの間にか、悪が心に入り込んできている。
サイコパスだろうと、神父さんだろうと、人間の弱さを利用する悪魔の罠だらけ。
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私は神を信じていないので、日本で日本人がキリスト教(どの宗教でもだけど)を信仰することに興味がある。理解したというより興味が増した。わからないことだらけ。
Posted by ブクログ
2作品共、神を信じない男が主人公で、性質も振る舞いも好ましくないのが印象的だった。裏切り者として「ユダ」のイメージが示唆され重ね合わせていく。
「白い人」は拷問者側の視点が描かれているのが興味深かった。誰も好き好んでやりたがらないと思っていたが、志願する中には加虐心のある者もいたのかもしれない。この役目を担うまでは芸術を愛していたかもしれない。病のため、使い捨てのように配属されたかもしれない。
今の日本人の日常からは想像のできない拷問という行為が、拷問者を描くことで想像できるものに変わり、すぐ近くに浮かび上がってくる。
主人公がこのような性質になった理由として、家庭での抑圧された教育があったこともリアリティがある。
主人公は神を信じていないのに、ジャックを通じて神の話になっていく。ジャックに勝つことは禁欲を強いた母への挑戦でもあり、母が死してなお縛られているのが哀れだった。
驚いたのはジャックの事を「正義に酔っている」と主人公がきっぱり非難していたこと。キリスト教作家がこの意見を書くことってすごい事じゃないかと思った。
でも結果としてジャックは自殺という大罪を選んででも仲間を守り、マリーを守り、正義を守った。
誰一人幸せではない話で苦しかった。
Posted by ブクログ
最初は、これを書いたのが日本人だというのが、なんだか信じられなかった。
今まで何冊か読んできて、海外文学と日本文学の違いを分かったような気でいたのだけれど、実の所、そんなもの、ないのかもしれない。
ただ、「どんな環境で、どう考えてきたか」が、作者の、作品の、根になるだけなのかもしれない。
「どれほど信じても、救われない」ということが、基督教徒にとって、どれほどのことなのか。
基督教徒であるということが、この日本でそれを信じるということが、どれほど困難か。
けれど、だからこそ、これほどまでに、真摯になるものなのか。
もう少し、遠藤先生の作品を、読んでみようと思う。
Posted by ブクログ
〝理想モデル“を持つ人間は、現実と理想の差を悔い改める事ができる。神の存在は、その理想づくりに役立つ。必ずしも神である必要はない。無神論者が、人目さえなければ常に悪事を働くという事もない。自らの道徳観に照らして善行を行おうとするのは教育だけではなく、本能でもあり、他者との関わりも善行の動機にはなるだろう。
「白い人」では、ナチス協力の過去を持つ男が、自らの罪と向き合い続ける姿が描かれ、その姿勢は西洋的な「個人の良心」の象徴として浮かび上がる。一方、「黄色い人」は戦後の日本を舞台に、集団の中で責任を曖昧にして生きる人々を描き、作者はここに日本社会に根差した構造を見たのではないか。
「白い人」は嗜虐的な性質を持ち、また無神論者として描かれた。本来であれば罪の意識や悔恨とは結びつかないような人物が、それでも罪悪感に苛まれ続ける。宗教を持たない者であっても、他者を裏切った記憶は心の中で腐り続け、人はそれに抗えない。こうした「神なき罪悪感」は、現代の宗教を喪失した社会にこそ切実なテーマである。
一方で「黄色い人」では、日本的集団主義の空気が批判的に描かれる。個人の倫理を圧殺し、責任を拡散させる構造がある。自分の物差しではなく、社会的な物差しで、自らの〝理想モデル“を形成する。この「黄色い人=集団」の構図は、現代の日本社会における同調圧力や責任転嫁の問題にも通じるものがありそうだ。
白と黄を区別する必要があったのか。もしかすると、それは無神論と信仰者を属性で大別するような、ラベリングの罠を象徴しているような気もした。
Posted by ブクログ
フランス人の主人公がナチのゲシュタポとなって旧友ジャックの拷問やマリー・テレーズの凌辱に絡んでいく。神のためと言いながら自己陶酔することを許さず、ひたすらに悪魔的な思想と行動、その後の疲労に支配される。
斜視・すがめで幼い頃から「一生、女たちにもてないよ。お前は」と顔立ちの醜さを宣言された父の仕打ちも影響している。クリスチャン遠藤周作の芥川賞作品、読み応えあったが、圧倒的な暴力に清々しさはない。
最後のマリー・テレーズの歌は何を伝えたかったのか。
薔薇のはなは、若いうち
つまねば
しぼみ、色、あせる
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遠藤周作は作を重ねる毎どんどん平易で読みやすい文章になっていくが、初期は通読にかなり体力が要る。
イエスとは何か・キリストとは何かという永年の主題に一歩踏み出した意欲作だが、主人公が殊更露悪的なのも本作の特徴かもしれない。
Posted by ブクログ
第一次、第二次戦後派作家に続く『第三の新人』と呼称された新しい世代の文学作家達。
遠藤周作もまた、安岡章太郎や吉行淳之介に並んで『第三の新人』の新人と呼ばれる作家の一人です。
ただ、ミスター第三の新人とでも言うべき吉行淳之介に比較すると、遠藤周作の書く作品群には"キリスト教"という明確なテーマがあり、明確なテーマが傾向が無い『第三の新人』たちとは毛色が異なります。
そのため、遠藤周作については、『第三の新人』からは除外する考え方もあります。
本文庫には、遠藤周作初期の2篇、"白い人"、"黄色い人"の2作品が収録されています。
両作品とも遠藤周作らしいテーマとなっており、元々評論家だった作者の試みが感じられる内容でした。
各作品の感想は以下です。
・白い人...
第33回芥川賞受賞作品。
遠藤周作氏が文壇に認められるきっかけとなった作品です。
"白い人"はそのまま白人を意味していて、第2次世界大戦中のフランスを舞台に、ナチスドイツのゲシュタボの一員となった神学生が、元同級生に恐ろしい仕打ちをする作品となっています。
ただ、それを苦悩する物語ではなく、敬虔な神学生である元友人「ジャック」を苛むことに、むしろ喜びすら感じるような描写があります。
この負の感情、悪魔のような行動原理を、自身の生い立ちと、幼少期に目にした老犬を躾ける女中の白い太ももに見出します。
遠藤周作はこの物語を通じて、人間の根源と、神という倫理の象徴が存在する意味を伝えたかったのだろうかと感じました。
本作を読んで何を思うのかは読み手によって異なると思いますが、ただ、衝撃的な作品です。
・黄色い人...
黄色い人は日本人を意味しています。
収容所にいるブロウ神父に宛てた手紙という形式になっていて、神父だったデュラン氏と、主人公の「千葉」の手記が交互に挟まる展開となります。
千葉には「糸子」という従妹がおり、糸子には婚約者がいるのですが、千葉と不倫関係にあります。
デュラン氏は神父で、私の洗礼もした人物なのですが、ある経緯からキミコという女性と関係をもってしまい、教会から追放されてしまいます。
善良なブロウ神父のはからいで生きながらえていたデュラン氏は、キリスト教の決まりで自死もできず、生きながら屍のようになっていました。
デュラン神父は一丁の拳銃を持っていたのですが、警察にマークされていた彼は、キミコの助言からこれをブロウ神父に押し付けることを考えるという内容です。
作中デュラン氏は、千葉に取引を持ちかけるのですが、罪を犯すことに対し動じるものがない千葉はその誘いに乗りません。
その出来事からデュラン氏は、この国の人々が持つ虚無感、無色感を感じ取り、キリスト教が根付かない理由を感じていたシーンが印象的でした。
日本人とキリスト教の関係性を唱える名著だと思います。
Posted by ブクログ
白と黄色という色をタイトルにした意味が遠藤周作らしいと思う作品。
二作品はどちらも読みやすい分量。
白い人はフランス人なのにナチの手先となり拷問を加える側になる。
黄色い人は、第二次世界大戦に入ろうかと言う頃、日本人クリスチャンが教会や神父を売る、良心とは神とはを日記というものを通して描く。
どちらもキリスト教が下地にあり、キリストの教えを知らないものとしては一つ一つが新鮮であった。
Posted by ブクログ
教会も罪の苦しみも、救済の願望も、私たち白人が人間の条件として考えた悉くに無関心、無感覚にあいまいなままで生きられるのだった。これはどうしたことなのだ。これはどうしたことなのだ。
Posted by ブクログ
遠藤周作氏の「沈黙」や「海と毒薬」、「深い河」等をこれまで読んだが、そこで出てくるテーマの前兆が、この本にも見え隠れしている。
肉欲(サディズム含め)、日本人の良心・罪意識のなさ、異文化で根付かぬキリスト教、そしてだれかにとってのユダ、、、
裏切りの心理描写が絶妙。
うーん。遠藤氏は良心の呵責を(少なくともはっきりとは)感じない日本人をよく描いているけれど、自分は全体的にそこまで無感覚ではないと思うなあ、、、
Posted by ブクログ
再読です。ちゃんと感想を記して(2006年9月27日)いるのにすっかり忘れています。感想を読み直してみるとわたしは主題(神の存在)を意識して読んでいません。同じ作家の『イエスの生涯』を読む前と後では理解度が違ってくるということだということです。
「遠藤氏のごく初期の作品であり、・・・」(文庫解説山本健吉)確かに新鮮さと勢いがあります。解説最後に「作者は小説の中で、神の存在を証明するためには、いっそう氏のこと抱懐する主題を掘り下げなければならない、・・・」(昭和35年1960年)と鼓舞するようにお書きになっています。遠藤氏の友人ならではで、ないでしょうか。
処女作『白い人』で芥川賞を受賞したのが昭和30年(1955年)それから18年後に『イエスの生涯』(昭和48年1973年)を書かれています。つまり作家は年数をかけて主題を掘り下げていって成功しているのです。作家はそういうことができれば幸せでしょうに!
そんなことを確認した再読になりました。
Posted by ブクログ
「白い人」「黄色い人」に描かれるのは後発的な神への信仰心と先天的なプリミティブな本能との相反である。
「白い人」では第二次世界大戦のナチズムという異常下において主人公と弱さを持つ敬虔なカトリックとしてジャックを、「黄色い人」では「転んだ」人デュランとブロウを対比させている。文学作品としては芥川賞受賞「白い人」に軍配が上がると思うが、「黄色い人」における「中庸な」黄色い人である道子の存在がテーマを浮き立たせているように思う。「なむあむだぶつと唱えればよいものをなぜ基督に拘るのか」、遠藤周作氏が描く東洋思想と西洋思想の違い、ひいては「沈黙」のなかで語られた「根が育たない土壌」である日本人気質を言い得た言葉であろう。
「沈黙」や「海と毒薬」と比べて評価の高い作品ではないが、初期の遠藤周作作品ということもあり個人的には非常に面白かった。とにかく暗い内容ではあるが。
Posted by ブクログ
キリスト教をテーマにした初期の作品2作。
作者が伝えたいこと、考えていることが小説から溢れ出ていて、作品自体の雰囲気を超えて瑞々しく、読ませる文章。
Posted by ブクログ
2025.5.31
絶対的で目には見えない神を信じる者とそうでない者の対比
『白い人』では、神を信じる者とそうでない者の両者が「神が存在していること」が普遍的な世界の上に生きていた
『黄色い人』では、その対比が「絶対的で目には見えない神のいる世界に生きる者と神のいない世界に生きる者」
「白人である貴方は、神があるか、ないかとの間を動きまわり、罪悪とたたかい、死に挑む。」「なんまいだといえば許してくれる仏さまの方がどれだけいいか」「私は神を拒みながら、その存在を否むことはできない。」
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拷問に耐えうる人物か、拷問の仕方に情慾を感じるか感じないかを分析しながら眺めているのが面白い。
なぜ神は人種など関係がないのに西洋の姿をしているのか、救いは無く苦しみを与える神とは何か、などなど、考えたくなる事柄が色々と出てきた。
救いのない神ならば、信仰を捨ててしまえば自由になれる。デュランにそんな選択肢など思いつかなかったが、黄色い人たちはそれゆえ自由なのだと悟る。
白い人(フランス人だが父はドイツ人であったため幾らかドイツ語を使えるため、ナチス・ドイツの秘密警察の事務官の求人に応募し、対象者を拷問し、仲間の名前や場所を吐かせる仕事に就く。過去に、病気の老犬が盗みを働いたため平手打ちしていたイボンヌの白い腿、曲芸で男の頭の上で芸をする裸の女など、主人公に歪んだ情慾を育む。神学生のジャックに縛られているマリー。ある時、ジャックが拷問対象となり、口を割らないためマリーを連れてきて、陵辱すると脅すと、舌を噛み切って自殺した。マリーは発狂した。)
黄色い人(戦争で全てを失った女・キミコと関係を持ってしまったデュラン。たちまち噂は流れ、教会を追放される。神を信仰するも、罪の意識で苦しみ続ける。解放されるために、隠し持っていた拳銃を教会に隠して警察に密告し、金銭的援助をしてもらっていたにも関わらずブロウ神父を陥れる。空襲で、デュランもキミコも倒れる。)
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人間の醜さや愚かさを否定して押さえつけるだけの宗教は日本にはなじみにくいだろう。
人間なんて、そんなに美しいものではない。
善に偏るのも、悪に偏るのも、結局は見たくないものを見ないという姿勢のように思う。
どちらも欺瞞だ。
歪んだ心は醜い。
汚い。臭い。
しかし、それも人間。
自分の正義に固執して貫くのも、人間。
人間とは、愚かな生き物だ、と思う。
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短編二編を収録しています。
「白い人」は、第二次世界大戦中に、フランス人でありながら、ナチス・ドイツに協力してレジスタンスの取り締まりをおこなった青年の手記というかたちの作品です。斜視だった彼は、自分以上に醜い容貌であった神学生のジャック・モンジュが、みずからの不遇な運命を、神に対する信仰にすり替えていることに反発をいだきます。そして、ジャックがたいせつに思っているマリー・テレーズをもてあそぶことで、サディスティックな歓びをあじわいます。
「黄色い人」は、宝塚の仁川の教会で牧師を務めていながら、キミコという女性を愛するという、信仰の道にはずれた行為によって教会を離れることになったピエール・デュランと、彼のもとをおとずれた千葉という青年の物語です。罪の意識に囚われながらも、自分の身に万が一のことがあればキミコが苦しむにちがいないという思いから、憶病な振る舞いにおよんでしまうデュランと、日本という地に生まれたことで、そうした過酷な罪の意識をもつことのない千葉の心境が対比的にえがかれています。
その後の著者がくり返し取り組むことになる、キリスト教の信仰にまつわる問題が、やや武骨なスタイルではありながらも明瞭なかたちで示されています。
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日本人とキリスト教とは。
西洋人(白い人)は、神を信じて犠牲になるか裏切るか、逃れられないのと対象に、罪を重ねて無関心に無感動になる平面的な黄色い人(日本人)。
犬を打つ白い腿。黒い汚れた考え。フランス人の父とドイツ人の母。醜い顔と贖罪。ナチスの通訳。
汚れ犯す、蛙の鳴き声。食糧難の戦時の日本。柱の陰で乞食のようにあずかるミサ。疑いと拳銃。
そのなかで神はいるのかいないのか、宗教観よりも人としての生き方、罪悪の在り方みたいな話でした。デュランの話に焦点があたり、糸子が惰性で立ち位置がいまいち最後もよくわからない。
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洗礼を受けた筆者がこれ程までに悪を追求する物語を書くのはsensationalな感じがして逆に魅力的にさえ思わせるところがあります。
何故ここまで書けるのかは、彼が戦時中の善悪、政治と絡めて、どこまでも人間の闇や強欲さを描こうとしていだからだと思います。
白い人だけ読みました。日本人作家なのにフランス文学を読んでいるかの様な錯覚に陥ります。
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カトリック作家として若い頃の作品。宗教、人種差別など作者が作品を通して伝えたいことが解説を見てようやく分かった。
表現や深みある文章はさすがで、エッセイを見た時との印象の違いもすごいものがある。
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読み終えて解説を読んでみると、この作品は遠藤さんのごく初期の作品であることを知りました。内容がキリストの教えの部分が多く、後々の作品のように読者を惹きつけながらというよりも氏の考え方や伝えたいことが先にある作品だと思います。
遠藤さんの作品がそのどれもに神が隠れていて神々しい感じがします。良い作品でしたが、面白いという様子ではありません。
Posted by ブクログ
白い人の舞台は第二次大戦中のフランス。
生まれつきの容姿に対するコンプレックスを持った主人公は敬虔なプロテスタントである母に清くあることを強いられるが、それに反する精神が芽生えていく。
黄色い人のテーマは信仰心を持たないが故の幸せ。
女性と関係を持ってしまい破門となった神父は神を裏切ってしまったことに悩むが、それに対し日本人はキリスト教徒ではないが故にそのような悩みを持つことがない。それを肯定も否定もしないが、それに気づいたという話。
Posted by ブクログ
絶望を知る「白い人」に対し、「黄色い人」はただ疲労するだけなど、日本人はキリスト教を理解し得ないのではないか、という信仰に基づく懐疑を、感情から掘り下げている。解説の通り、初期作品であり後に遠藤文学で大きく展開されていくテーマが既にはっきり現れている。