あらすじ
島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問いを投げかける長編。
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神の存在について考えさせられる
読んでみると、神の存在・信仰の盲点というか何が正解なのかわからなくなりました。
非常に考えさせられる内容です。ぜひ興味ある方は読んでください。
Posted by ブクログ
強い者、弱い者とはどういうことか?
自分にとって人生の折々に読み返したい一冊になった。
物語はキリスト教信仰の中で一見強い者ーー信仰を捨てたと言わず心を強くデウスなる神に向け続ける人たちと、一見弱い者ーー脅しや痛みに耐えず神を捨てる態度を示すキチジローや棄教する宣教師たちを対比させながら進む。
物語に登場する強烈なキャラクター、臆病者で卑怯な行動を繰り返し何度も惨めに許しを請うキチジロー。「なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんとに」
その臆病者の愚痴が、司祭ロドリゴの胸をじわじわと刺し、神の沈黙を問いかける。迫害、多くの信徒の呻き、神に捧げられた犠牲に、なぜあなたは黙っておられるのですか。
題の沈黙にひきずられ、どんどん重くなる苦しみへの神の沈黙=神はいないのか、がテーマのように匂ってくる。
ところが、そこで、繰り返すキチジローの再来、強い者と弱い者談がかぶさる。
「モキキば強か。俺(オイ)らが植える強か苗のごと強か。だが、弱か苗はどげん肥しばやっても育ちも悪う実も結ばん。俺のごと生まれつき根性の弱か者は、パードレ、この苗のごたるとです」
ロドリゴは自身に問う。” キチジローの言うように人間はすべて聖者や英雄とは限らない。もしこんな迫害の時代に生まれ合わさなければ、どんなに多くの信徒が転んだり命を投げだしたりする必要もなく、そのまま恵まれた信仰を守りつづけることができたでしょう。彼等はただ平凡な信徒だったから、肉体の恐怖に負けてしまったのだ。” “人間には生まれながらに二種類ある。強い者と弱い者と。ーお前はどちらの人間なのだ。”
しかし最後にロドリゴは「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」とキチジローに言う。
読みながら、
私がとにかくずっと心に浮かんでいたのは、
踏めばいいのに、、、。
私はキリスト教がわからないからそう思うのか、と、人物の心をわかりたいと読み進める。
でもやはり思うことは、
弱くて、命を守るために道を逸れて、仲間を守るために踏んで、何がいけない
それは本当に弱いのか
それは本当に信仰していないことなのか?
そうじゃないと思う。
傍目に弱いと言われ、何を大切にしているかが細かく一人一人違う中で本当に強い何かがあるかないかなんて誰に決められるのだろう。
雑草のように踏まれても踏まれても立ち上がるとは昔の勘違い観念で、踏まれたら逃げエネルギーを種子を残すことに使う
雑草は一度踏まれたら場所をかえる
何が大事か、何が痛く苦しいか、それにすら常に分かち合う存在が心の中の神なのか?
沈黙とは、神がこうせよと言ったり導かれるものではなく、これでいいのかと自分に問い続ける ということ?
当初から「踏めばいいのに」と浮かんだ私、「大変な思いをし続ける被災地から、戦地から、去ればいいのに」と浮かぶ私。
なぜ踏まないのか、なぜ去れないのか、それほどまでの信仰とは?自分の信じるもの、目の前の人の根っこで大切にしているものを問い続けることをやめないでいたい。
Posted by ブクログ
名作。
江戸時代、司祭ロドリゴはフェレイラ教父を追って日本へ潜入するが、そこでキリスト教への容赦ない弾圧を目の当たりにする。
信徒たちが苦しみ抜く姿を前にして、ロドリゴは問い続ける。
なぜ神は沈黙したままなのか。
なぜ救いを求める者たちが報われないのか。
祈りは本来讃美のためのものなのに、次第に呪詛のように変わっていき、もし神がいないのだとすれば信徒の死も自分の人生もどれほど滑稽なものかと自問する。
最後にはロドリゴなりの答えにたどり着くものの、その後の人生は決して胸を張れるものではない。
深い葛藤と苦悩が生々しく伝わってきて、神とキリストと人間について深く考えさせられる。
読み終えたあとも強い余韻が残る作品だった。
Posted by ブクログ
これはもう永久本棚です (日本語?、
遠藤周作の沈黙が読みたくて読みたくて仕方なかった
パードレの葛藤、涙が零れ落ちるほど辛く屈辱的だった
一応仏教の宗派こそあるが、ほぼ無宗教レベルに信仰がないので、
信仰とは、命とは、何故ここまで命を捧げられるのか、もう想像をはるかに超えた境地での体験でした
Posted by ブクログ
遠藤周作「沈黙」を読んだ。生前の遠藤が「この作品を書けたら死んでもいい」とこぼしたという、不朽の名作。本作は国内外で高く評価され、キリスト教文学の金字塔との呼び声も高い。また一方では、日本人独特の価値観と、キリスト教の善悪二元論の狭間で苦悩した遠藤の私文学とも表される。まさしく作家・遠藤周作の魂の一冊と言える。
舞台は江戸初期、キリシタン弾圧下の長崎。潜伏したポルトガル人司祭・ロドリゴは、日本人信徒のあまりにも残忍な殉死や拷問に心を痛め、天の神に切実な祈りを捧げる。しかし神は沈黙を貫き、ロドリゴは理想の神を信じたまま信徒を見殺しにするか、踏み絵に足をかけることで彼らを救済するか、決断を迫られる。
「沈黙」は、読者の解釈によって評価が二分する珍しい作品だと思う。作品について、ある人は「迫害された善良な信徒たちの悲しみの物語だ」と言い、別の人は「自ら火中の日本に飛び込んだ哀れな青年の物語だ」と言う。さらに批判的な人の中には「植民地主義者の宣教師らが返り討ちにあった」と誇らしげに語る者もいる。
しかしそれらの解釈は、結局は物語の真相に触れていないのではないか、という気がしてならない。本作の最大のテーマは、題名にもある『神の「沈黙」』に違いない。作中でロドリゴは、幾度となくキリストの教えを想起して、神の沈黙に疑問を投げ掛ける。
「主よ。人々があなたのために死んでいるのに、なぜ黙ったままなのですか」
この問いがロドリゴの悲哀に満ちた眼差しを通して、読者に訴えかけられる。我々はキリスト教の信仰にかかわりなく、神の沈黙と対峙しなければならない。「神など存在しない」と口にすることは簡単だが、死後の楽園を夢見て無惨にも殉死を遂げた農民を見ると、俺はなかなか断言ができずにいる。神は、もしかしたら存在するのではないか。少なくとも、彼らの心の中には。
先ほどの問いと同列に扱われているのは「神の赦し」という点である。踏み絵に足をかけた者は背教徒として侮蔑の対象となり、教会から追放され、死後の楽園を夢見ることすらもできなくなる。しかし当然ながら、絵踏という行為は形式的なものだから、背教徒らが心の底から信仰を棄てたのか、実際のところは分からない。
生き延びるために仕方なく、殉死を遂げる勇気もなく、涙を流して足に痛みを覚えながら、ようやく聖画を踏んだ姿があったのかもしれない。
作家にしてクリスチャンである遠藤は、彼らを自らの作品によって救済できないかと考えた。教会からも、司祭からも、同胞からも見放された彼らを、せめて後世では救えないものか。そうした崇高な使命感が、「沈黙」を偉大な金字塔へと押し上げた所以であろう。
作中で「日本はキリスト教の実らない沼地だ」という表現が出てくる。あらゆる教えが実らない泥沼だと。その点について長く考えていた。遠藤は日本人でありながら、なぜそうした表現を用いたのか。彼がクリスチャンである事実が、日本にキリスト教が実った証ではないのか。しかし、彼が使用した「沼地」という表現は、さらに奥行きがある気がしている。
日本人は中空的だという意見がある。立派な文化や歴史や国民を有していながら、その実態は空っぽなのだという。だからこそ日本人は明治維新で西洋の文化に適応して、戦前には天皇崇拝に適応して、戦後は民主主義に適応できたのだと。なるほどどうして、興味深い見解である。しかし西洋では、これがなかなかうまくいかないらしい。宗教や文化や国境や、そういった様々な理由によって、必ず余分なものが含まれて、日本のように純粋な吸収ができない。すると、西洋には「自分」というものがあって「他者」と分別をつけるが、日本には「自分」がいないということになってくる。つまり、最後の裁きの日に、裁かれる「自分」がいないのである。もしそうだとすると、なるほどたしかに、日本は沼地なのかもしれない。
信じられないほど哀しく、素晴らしい作品だ。大勢の人に読んでいただきたい。
Posted by ブクログ
## 感想
キリスト教と言うだけで、日本人からひどい目に合わされるロドリゴ司祭や信徒達。
宗教や思想の違いだけで、人間が人間にこれだけひどいことをできるのだと言うことに恐怖を感じる。
『沈黙』はフィクションではあるものの、大方は史実に基づいていて、歴史的にも同じような迫害が行われていた。
今では違う宗教に対しても寛容になったと思うが、そうは言っても差別や迫害はなくなっていない。
沈黙ではひどい迫害に遭いながら、ロドリゴが神はいないのかと自分の中の信仰と戦うことを主軸に描かれている。
私は無宗教なので、この神はいないのかと言う問いが、どれだけキリスト教の信徒の方々にとって恐ろしいものなのかは、本当の意味では理解できない。
しかし、無理矢理に思想をねじ曲げさせようとする差別や迫害のむごさが鮮明に描かれていて、自分でももしかしたら踏み絵を踏んでしまうのかもしれないと思いながら読んでいた。
こうした差別や迫害のない世の中というのはこれからやってくるのだろうか。
人間は「自分とは違う」というだけで、割と無邪気に残酷なことをすることがある、
私は子供の頃転勤族で小学校を4つも通ったが、そのたびに方言の違いで、軽いいじめのような目にあったことがある。
幸い、そういうものに体制があって、不登校にもならずに投稿することができできたけれども、人によってはそれで人生が変わってしまうこともあったと思う
人は、他人の行動や言動で、簡単に人生を動かされてしまうものなのかもしれない
この沈黙と言う作品の暗い恐ろしい雰囲気を味わうと、自分が今、いかに恵まれた時代を生きているか実感する
当たり前と思うことが当たり前では無いのだと言うことを忘れずに生きていたいものだと思う
Posted by ブクログ
天草一揆直後のキリシタン弾圧が激しい時代の空気感も感じ取れる程に、風景や空気感の描写が的確で、まるでその時代を覗いているような感覚になった。迫害から逃げるシーンも緊張感が文字から伝わってくる。「沈黙」というタイトルは様々な意味合いを含んだタイトルかと感じた。迫害から逃れる為に沈黙を守るキリシタン、キリシタンを飲み込んでも沈黙したような海、キリシタンが耐えられない苦しみを受けているのに沈黙する神。この小説を読み終わってもう一度「沈黙」というタイトルについて考えるほど、のめり込んだ物語だった。
Posted by ブクログ
特定の宗教への信仰がないからこそ考えさせられた。
日本にキリスト教が根付かなかったのは、政策のせいなのか、それとも日本人の気質からそうさせたのか。
今まで神がいるならば世界で戦争など起こらないはずだと思っていたが、そのような心の影がいっそう深くなった。
神々は沈黙してばかりなのかもしれない。
Posted by ブクログ
8月の長崎旅行をきっかけに読み始めた。言わずと知れた名作だが、この度が初読。
長崎は「鎖国」の江戸時代にオランダとの通商が行われた港であり、カトリック文化の影響を色濃く受けた地域だ。浦上天主堂、大浦天主堂などの歴史的な教会は、長崎を訪れる際には必ず立ち寄る場所。
キリスト教を生涯にわたって文学のテーマとした遠藤周作は、日本にあって稀有な作家。中学生のころから狐狸庵閑話など軽いエッセイには親しんできたが、なかなかこの作品には近づけなかった。
キチジローという「転び」キリシタンにひときわ興味を惹かれる。パードレのロドリゴをわずかな金で売り渡した「弱き者」キチジローが、神の救いを最も必要とする存在なのだろう。それはわれわれ人間の弱さを象徴している。
Posted by ブクログ
過酷な拷問や現実に対する、宣教師の心情の機微を事細かに表現されていて、迫力があった。
物語は終始雨が降り続く、暗澹な雰囲気のなか進んでいくが、派手さを取り除かれたことで、考える葦としての一人の人間の存在をより強く感じることができた気がする。
Posted by ブクログ
キリスト教を布教しにくるも排斥される宣教師たち。その3人の運命。愛とは、信仰とは、慈悲とは、祈りとは、弱者とは、タイトルの沈黙とは。
10代までに読むのは読んでもやはりわからなかっただろうなという思いと、たぶんむごすぎて離脱したと思う。いまだからこそ読めたという感覚。すげ〜
Posted by ブクログ
人間の苦悩、何かを信じ続けようとする強さ、何かに縋ろうとする弱さ、大なり小なり誰しもが持ったことのある感情がありのまま描かれている。
最初はイライラしてたけど、だんだんキチジローの気持ちがわかってくる。キチジローになっていく。
Posted by ブクログ
最初はキチジローのことが嫌いだったのに、最後には彼の登場を待っている自分がいた。
物語として、非常に惹き込まれる作品だったが、それ以上にキリスト教への信念が圧倒的だった…。
私はクリスチャンじゃないので理解が間違ってるかもしれないけど、この話を通して、キリストは信者と共にいるということを深く感じた。私は、「なぜ酷い状況であっても、信者はキリストの存在を信じるのか?(例:戦時下、不慮の事故など、意図せずに巻き込まれたときなど)」と考えていたが、その苦しみもキリストが一緒に受けていたという考えなんだなと感じた。
「踏むがよい。お前の足の痛さを、この足も感じている。」
ここは本当に美しいし、キリストの博愛精神をよく示していると思う。
キリスト教について知ろうと思える作品だった。
Posted by ブクログ
殉教シーンは凄惨だが同時に美しいとも感じた。愛するもののために命をかけられるほどの信念を持てるというのは少し羨ましい気がした。神は外側ではなくそれぞれの内面に存在するものなのかなと思った。
Posted by ブクログ
遠藤周作が描くキリスト教文学の「原典」。「苦しむ者と共に苦しむ」神の姿には、キリスト教の信者ではない読者にも共感を与えます。遠藤文学を知るために、最初に読んでおくべき作品。
興味深い
映画化され話題になっていたので、今更ながら読みました。
宗教を理由に弾圧、迫害した、された日本の過去の姿を、現代的な感覚で読みやすい、興味深い作品であると思います。
現在の社会や国際的な問題とも照らし合わせ、人としての葛藤を捉えているこの作品は、いま、多くの人に触れて欲しいなと思いました。
ただ、最後の文章は、難しいかもしれません。
ここからはごくごく個人的な感想です。
作中、よく「えっと◯◯」という表現がありますが、この使い方に少し違和感を覚えました。方言まで正確に書く訳ではないと思いますが、やはり方言は少し違うなと感じることがありました。(しかし、ほんの少しの違和感です)登場人物達が生きている気がしました。
長崎は受難の地、祈りの地だなと改めて思いました。そして海が本当に美しいとも。
私の曽祖父は隠れキリシタンでした。代々隠れ、懸命に生き、原爆で妻子を失い、それでも祈り、穏やかでした。
一言でいう「歴史」の中でどれだけの人々が葛藤し、道を選び、生き抜いてきたのかと思いをはせる機会になりました。
隠れキリシタン(最近では潜伏キリシタンとも言うようですが)がこのように、作品に残る時代になったんだなと、嬉しくも思いました。
Posted by ブクログ
基督教が弾圧される長崎が舞台。
キリシタンに待っているのは拷問と死。
教科書で読んだ踏み絵の重さを知る。こんなにも苦しくて辛い選択を迫られる緊迫感。
信仰と棄教の狭間で揺れ動く苦悩と葛藤が胸にくる。
Posted by ブクログ
神も悪魔も自分の中に存在する。
キチジローの言動は矛盾しているようで、その根底にあるものは一貫している。それは神を信仰しているということ。信じているから弱くいられる。
キチジローだけが、他の人のような自分で作り上げた神ではなく、本当の神を信仰できていたのかもしれない。彼がしているような、自分の想像を超える存在を信じるということは難しい。なぜなら自分の想像できないものは作り上げることすらできないから。キチジローは司祭を通して神を見ることができていたから、自分の想像に及ばない存在を心から信じられたのかなと思う。信仰は、1人では成り立たない。
Posted by ブクログ
歴史の教科書で知った「踏み絵」の裏に、こんな苦悩のストーリーが刻まれていたとは
江戸時代、キリシタン狩り真っ盛りの九州を舞台に、「神はいるのか」という禁断の問いを文学という形で昇華させた遠藤周作の代表作です。
キリスト教イエズス会の司祭であるロドリゴは、日本での布教に貢献した尊敬する恩師フェレイラが、弾圧により棄教したという伝聞が信じられず、真相をさぐるために同志と鎖国中の日本へ密航するも…というお話。江戸時代のキリスト教弾圧や島原の乱、隠れキリシタンへの糾弾、踏み絵などは学生時代の日本史で習いましたが、実際に司祭や隠れキリシタンたちがどのような仕打ちを受け、どのような心の動きがあったのかを知る機会になりました。
明確な信仰心や、絶対の存在が常にいるというキリスト教的な感覚が私にはありません。そもそも仏壇と神棚がどちらもあるような家で育った身の上です。そんな私にとって、この小説は真摯な信仰とはどれほどのものであるかを想像させるものでした。実際にあったキリシタン狩りをモチーフにしているので、どこまで史実なのかは当然気になりました。今後勉強しようかなと思います。
読んでいる途中まで、単なるいちモブキャラだと思っていたキチジローがまさかのキーマンであり、トリックスターとしてストーリーの盛り上げに大いに貢献しています。
キチジローはとても意志が弱くオドオドしているのに、ときに尊大な態度にでるような、人間のだめな部分を詰め込んだヘタレな存在。金に釣られてロドリゴを裏切ったくせに、バツが悪そうに「ゆるしてくれ」と泣きながら後ろをついてくるという図々しさ。なんとも人を苛立たせるキャラですが、その痛々しさに少なからず人間らしさを感じ、共感する部分もありました。
なによりストーリーが進むにつれ二人の関係性がより深く感じられていくのが面白かったです。ロドリゴがキリスト、キチジローかユダのような構図になり、キチジローというユダの存在のおかげで、ロドリゴはキリストと同じ道を歩んだとも思えるほどです。キリスト教徒としての理想の姿と真逆であるキチジローの存在が、信仰とは何かを浮かび上がらせます。ロドリゴの信仰の道にとってキチジローは不可欠であり、この出会いはある意味財産であったかもしれない、なんて考えました。
奉行に捕まり村から村へ引きまわされる司祭ロドリゴは、ゴルゴタの丘へ向かうキリストと自分を重ねます。激しい弾圧の悪辣さと、一転して寄り添うような慇懃さ。このネチネチとしたアメとムチの波状攻撃がなんとも残酷で、読んでいて胸が痛くなりました。眼の前で殺される信者、命を落とす同胞。ロドリゴの精神は極限まで追いつめられます。彼は敬虔ではあるけれど、盲信的ではありません。だから苦境のなかで彼の信仰心は揺らぎます。なんどもその人(文中のまま。キリストのこと)の顔を思い浮かべ、なぜその人は沈黙をしているのかとロドリゴは苦悩します。悩んで悩んで悩み抜いた末に、真理に一歩だけ近づくような、聖職者としての充実があることが牢中のわずかな救いに感じます。
終盤、恩師フェレイラとロドリゴの対峙の時が来ます。フェレイラのセリフ「デウスと大日を混同した日本人はその時から我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものを作りあげはじめたのだ」は、日本の日本らしさを表していて、後に「ガラパゴス化」と言われる根本的な島国日本の性質はこんなとこにも現れていたんだなと感じ入りました。「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」というセリフも、フェレイラに言われる通りの日本人である私にとっては「むしろクリスチャンがそんな感覚でいることにびっくりなんだけど!」という驚きの種でした。この出会いの後につづくロドリゴの自問自答の場面は、クリスチャンでない私にとってもスリリングです。
自分のなかの大事な物をつぎつぎと汚され、取り上げられ、蹂躙され、ほとんどすべてをなくしても諦めなかったロドリゴですが、自分が棄教しない限り責め苦に苦しみ続けている信徒たちのうめき声に心が折れ、眼前に置かれた踏み絵に足をかけます。踏み絵のイエスはこれまでの沈黙を破り「私を踏むがいい」とロドリゴを赦したと後に懐述しますが、それとて極限状態にあった彼の精神が自己防衛のために作り出した幻覚かもしれないとも私は思いました。それに、拷問に耐え信仰を貫いて絶命した教徒たちにとっては、やっぱり神は沈黙し続けたということになるし。ただロドリゴがたどりついた、本当の信仰というのは、他の信者や司祭や教団など、いっさいの他人の存在とはまったく関係のない、自分ただひとりと神の一対一の関係によって紡がれるものだという答えは、苦しみ抜いたロドリゴを癒すものであったろうと思います。「他人に何を言われても、表向きは棄教した恥ずべき存在でも、私自身は今でも胸の奥であの人への信仰を続けている」という思いこそが彼を生かし続けたでしょう。
この本を読んだ人なら、「主人公ロドリゴの迷いは、そのまま著者の迷いではなかったのか」という疑問が当然湧くと思います。いまこそ信徒を救うべきという場面でことごとく神が沈黙してきた物語を書いておいて、遠藤周作は小説家としての自我とキリスト教徒としての自我で引き裂かれなかったのかなあ。
教科書のなかでただただ特異なエピソードとして知った「踏み絵」のうらに、これだけのストーリーがあったかもしれない、いやおそらく事実あったろうことに、歴史の残酷さを感じます。
Posted by ブクログ
主人公をとりめぐる、冒険小説のようなハラハラ感。無惨な世界の中、神はなぜ「沈黙」を保っているのか。
以上のように、エンタメ性(失礼な表現かもしれませんが)と深遠な哲学が両立している文学は、読んでいて楽しい。
一方、個人的に気になった点もいくつかあった。
一貫したテーマである、「神の実在性」の答えは、どこへ行ったのか。
最後の最後で主人公が意味深な事を言っていたが、私の頭ではあまり理解出来なかった。
主人公が転んだ理由についても、明確な思想や哲学がが語られる訳ではない。
また、主人公が少し捉えられてからのテンポが悪い気がした。
ここでの心情描写や思想に本作の魅力があるのは分かるが、もう少し省ける箇所もあったのではと感じた。
内容が重く、正直もう一度読む体力はない。
人生で一度は読んでおくべき本、である。
Posted by ブクログ
友達から勧められた本。
ほんとに辛いけど、遠藤先生の視点の分け方(解説にも載っている)が繊細かつ、計算されていて最後まで読めた。神はいないのかと自問自答しながらも信じ続けようとする葛藤は正直理解し難いけど、だからこそ、信仰心というものの力の大きさを感じた。宣教師が居場所も失い、命の危機も迫るほど、いろいろな景色、匂いなどの描写がすごく丁寧で細かくなっていったから面白かった。
Posted by ブクログ
扱われている事件や人物の大方は史実に基づいているとのこと。日本潜入を敢行した3人の司祭も、モデルがいる。フェレイラ司祭が棄教するはずがないと信じるロドリゴ(主人公)と、棄教して彼らに常について回るキチジロー。やっと会えたフェレイラとの衝撃の結末。すごく勉強になった。
Posted by ブクログ
「幕府はキリスト教の警戒心を強め、絵踏みを行わせて信者を摘発した。」くらいに、社会の授業でサラッとしか触れられないキリシタン弾圧。弾圧の様子の絵を教科書等で目にしたこともあるけど、あまり実感を持ったことはありませんでした。
ですが今回その内容の重大さに触れられました。
私の不勉強さ未熟さが大きい気もしますが(-_-)
さくらももこのエッセイで遠藤周作の人物像が出てきた際に気さくな人という印象を持ったけど、その印象とは180度異なる内容。
テンポがほどよいしページ数も多くないので中高生でも読みやすいとも思います。
Posted by ブクログ
信仰の在り方というテーマ。形の上だけ信仰を捨てるということがあり得るのかどうか。信仰は心の救いはもたらしても物理的な救いはもたらさないことを明確にした上で、形にこだわらずに神を信じる道は示されていると思う。
Posted by ブクログ
新潮文庫夏の100冊からチョイス。書き出しが好みでした。
テーマは信仰心とエゴイズム。信仰を巡っての"強きもの"と"弱きもの"の対比。400年前に本当にこんな事があったなんて信じられないです。歴史の教科書を読むだけじゃ伝わって来ない迫力が有りました。
同時にキリストとユダの関係性を巡る逡巡は、俗世間に塗れた自分には到底たどり着けない境地なんだろうな、とも思いました。
圧倒的なのは9章。信仰を巡る問答が求道的に過ぎて言葉にならなかった。主が回答を与えず沈黙を貫き通すのは、自己内省を促す為であったのだ。そうゆう意味じゃ基督教ってなんて残酷な宗教なんだろう。
因みに、司祭の行動は僕の目には棄教には写りませんでした。
Posted by ブクログ
神はいるのかいないのか。罪のない者が苦しめられている状況で答えはこない。 カラマーゾフの大審問官を思わせるような、理不尽な現実に対する信仰と神の沈黙に対する既視感があった。 八百万の神様の国に住む自身としては、一神教の教義は理解は難しい。 一方、沈黙する神の前でなお返事がなくとも自分が正しいと信じたことを貫く姿には心をうたれた。苦しく思い物語だったが、不屈の信念に触れることで感慨を覚えた。
Posted by ブクログ
登場人物の感情が文章からすごく伝わってくる作品だった。信仰というと自分にはスケールは大きいが、信じているものやこと、人に沈黙し続けられた時自分はどの登場人物にもなり得るような気がした。それはたぶん信じてる対象と信じてる深さ、信じ方からくるかもしれないなぁと。
歴史を学ぶという意味でも良い本だった。
Posted by ブクログ
なんとも重厚な読み物であったか。
基督への信仰心を持った若き司祭が暖かな部屋から飛び出して、吹きすさぶ嵐の中を寒々とした荒野を突き進む。
体を引き摺るようにして進んで行った先で、新たな信仰の形を獲得した男の話だった。
キリストがとにかく迫害されたかつての日本が舞台で、徹底的な拷問を受ける人々は痩せてゴミの様に捨てられ、衝撃的な出来事に心が動かなくなっていく有様はフランクル著の「夜と霧」にそっくり。
穴吊り場面では戦場のメリークリスマスが思い出されましたね。
本書にある通り、宗教は豊かで強い者のために存在しているのてわなく、孤独で貧しく弱い人こそ必要な存在なのでしょう。
今日の日本において、コミュニティから弾かれた人は本書の司祭の様に膝を抱えて蹲って孤独に泣いている。そんな時に宗教の持つ神の絶対感が必要なのかなと。
結局の所、神の姿や想像は人によって違えても同じ方向を向いて、同じ慣習を生活に取り入れた集団に属するという、その一体感から充実感を大いに得てしまう。
一度手に入れた安息のコミュニティから爪弾きにされないために信仰にしがみついているだけなんだ。
神は何故、この様な苦しみを与えるのか。
何故救ってくれないのかと司祭は考えますが、フランクル哲学を引用すると、運命は突きつけられるものでなく、運命が我々に問いかけを行っているのだと。我々は運命に対して常にアンサーしなければならないのだと言っていて、この考えは私のお気に入りです。
神と言う普遍的で抽象的な概念を信仰すると言うよりは、自らの置かれている生活や立場、コミュニティに属する安心感を信仰している。
司祭は最後の最後まで、本国の教会関連者に軽蔑される事に気を取られていた感じがする。
やはり、どんなに生活力が向上して文明が進むとも人の天敵は孤独から来る無気力感なのだと改めて感じた作品だった。
キリストの言葉は全く学んでこなかった私だけど、やはりと言うべきか、世界中の人々に支持されているだけあって、素晴らしい教えは幾つもありました。宗教はその土地に住まう人々の生活の知恵が集合したものであると思っているため、学んで行きたいジャンルだなあ。