あらすじ
愛を求めて、人生の意味を求めてインドへと向かう人々。自らの生きてきた時間をふり仰ぎ、母なる河ガンジスのほとりにたたずむとき、大いなる水の流れは人間たちを次の世に運ぶように包みこむ。人と人のふれ合いの声を力強い沈黙で受けとめ河は流れる。純文書下ろし長篇待望の文庫化、毎日芸術賞受賞作。
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Posted by ブクログ
インド旅行の予習として読破。ほぼキリスト教の話で予習としての意味は殆どゼロだったが、それにしてもいい小説だった。
ホテルの名前を告げてタクシーに乗ったが、結婚式で道が塞がっていて一向に到着しない。焦れて式場の名前を運転手に尋ねると、運転手は悪びれもせずに、目的地のホテルの名前を言った、みたいなエピソードが妙に印象的。
本筋とはぜんぜん関係のないちょっとした話だが、インドらしさ、少なくとも「日本人の思うインド」をこれ以上なくよく表していると思った。
Posted by ブクログ
何度も読み返す。皆、それぞれに背負うものがあり、そのすべてを深い河が包み込んでいく。善と悪が二項対立ではない、生きることを許されると感じる本。
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インドの神様がすごく印象にのこった。純粋な人間そのものの姿がインドでは大切にされているのかな。
大津のような生き方は絶対にできないけど、美しいと思った。ガストンみたいな、自分は道化に徹して他人の吐き出し口になるやり方も、すごく根性がいる事だとだろうけど、いいなぁと思った。
Posted by ブクログ
妻の死後、磯辺の回想に揺さぶられて少し泣けた。
全てを受けいれるガンジス河を前にして、
各登場人物が自分と向き合っていく過程に胸打たれる。
『玉ねぎ』について、実直に、純朴に、不器用に向き合い、イエスの真似事をした大津のラストは衝撃だった...
何度も読み直して自分なりの理解を深めたい一冊です。
Posted by ブクログ
それぞれに苦しみを抱えてインドを訪れた人々が、ガンジス河を前にして自らの過去と向き合う。
生も死も、善も悪も。祈りと共に全てを流してゆく人間の河。
生きること死ぬこと、輪廻、赦し…
現代にも通じる普遍的な問いを扱った何十年も前の小説から何の違和感もなくメッセージを受け取ることができて、時代を超える名著の力を見せつけられた気持ちです。
「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」
Posted by ブクログ
小説ってこういうものだ、と思う。登場人物の抱える人生はそれぞれ重く、尊い。1984年インディラ・ガンディーが暗殺された年のインド。今よりも混沌していたのか、今も変わらず混沌としているのかは分からないが。その混沌としたインドで、キリスト教について考え、愛について考える。ヨーロッパではなく、インドという設定もまた興味深い。
遠藤周作は日本における基督教について考えていた。仏教も日本に入り、日本化され現在の仏教に姿を変え、私たちの生活に馴染んでいる。同じように基督教にも長い年月が必要なのだろう。日本化される基督教になるまでに、仏教において空海や最澄が必要だったように、遠藤周作という作家も必要な存在なのかな、と思う。
大津と美津子の対比は面白い。美津子が病院で、患者に演じるという表現。分からないではない。相手の期待する役柄、人柄を演じる自分。表面上は優しさに溢れる態度や対応も、心の底から湧いてくる優しさなのかと問われれば、即答できない自分もいる。そういう自分を直視する美津子は強い人だ。その強さに大津も惹かれるのだろうか。大津の愚直な基督教との向かい合い方も心打たれる。一つのこと、信じることを心ゆくまで考え抜くことはとても苦しいはず。それをやり抜く大津の素晴らしさよ。これを認めないのがキリスト教であるならば、イエス・キリストとは何なのか、キリスト教の神とは何なのか、と思う。
戦争を知らない世代の方が多い今。木口の経験、沼田の経験は、彼らからしたら生ぬるいと言われても、深く想像するしかない。想像しても現実にはとても行きつかないことを知った上で、想像し苦しまないといけないのかもしれない。そういう意味では、読書という形でその一端を知ることはとても貴重な経験だ。
バーコードを撮るのに裏をしたら、税別780円が目に入る。780円で得られるこの感動。こういうことをコスパがどうこう言うのは好きではないが、なんと贅沢な時間を得られる780円だろう!
Posted by ブクログ
宗教というものは
人を救うためにある
しかし
現在のイスラエル紛争のように
戦争を引き起こすのもまた宗教
人を救うための宗教によって
多くの罪なき人々が死んでいく
これほど理不尽なことはない
日本は世界から
仏教国と認識されているが
自分がそうであるように
熱心な仏教徒はほぼいないだろう
そんな日本人からすると
宗教というものがうさんくさいものに見えてくる
人を救うための宗教が人を殺す
どう考えたっておかしいじゃないか
なぜそんなものを信じるのか
信じてなんの得があるのか
信じたところで神は
手を差し伸べてくれないじゃないか
しかし熱心な信者は
それでも宗教を、神を信じぬく
いつの日か自分を救ってくれる
いつの日かこの残酷な世界から
自分を救ってくれると信じている
では僕たち日本人は
何を信じて生きているんだろう
家族?金?地位?名誉?外見?
youtubeの登録者数?
経済という魔物に飲み込まれ
宗教を軽視し
あまりにも実用的になってしまった日本
信じるものが見当たらない
みじめなこの国で
僕たちは何を信じればいいのだろう
信じるものがないしんどさに
僕たちは耐え続けられるだろうか
みじめでつらくてしんどくて
信じるものもなにひとつ見当たらなくて
どうしようもない無力感に襲われたとき
この「深い河」を手にとってみてほしいです
Posted by ブクログ
某所読書会課題図書:考えさせられるストーリーだが、キリスト教に対する日本人の様々な思いが詰まっていると感じた.磯部、美津子、沼田、木口、大津の主な登場人物の中で大津の生き方が、宗教としてキリスト教を厳しく捉えたものと思った.プロテスタントのクリスチャンである小生が見ても、大津の真面目さは特筆できるものだが、あそこまでは行きつけない.インドに行ったことはないが、蒸し暑さの中で多くの人々が暮らしている状況が文の中から読み取れた.重苦しいストーリーの中で三篠夫人の我儘が唯一笑えるものだった.
Posted by ブクログ
文句なしの星5つ。
ツアー旅行でインドに来た、心に闇を抱えた人々の群像劇。
宗教って役立つ事もあると思うが、残念ながら完璧ではないし絶対でもないと思う。真面目な人ほど深みにハマって傷ついてしまうのかもしれない。
一神教と日本人の親和性の低さが印象的であった。
Posted by ブクログ
オムニバス形式で様々な登場人物がガンジス川を通じて、自身の人生について鑑みるという作品。
清濁併せ呑むガンジス川に、遠藤周作は善悪観念が曖昧模糊な日本を見出したのかもしれません。
ラストはあっけなさが気になりました。え、ここで終わりってなりました。笑でも、それを差し引いても濃密な群像劇を味わえた名作でした。
遠藤周作の晩作ということもあり、キリスト教を超えて宗教そのもののあり方について問いかける深い内容だったと思います。一通り遠藤周作の本を読んだらもう一度読んでみたいですね。
疎外。自分を信じられるか?
美津子は恋愛遊戯から一転
妻の座に就くが、夫と合わない。
看護婦の自分も本心に思えない。
人には善悪両方があるのか。
ヒンズー教の女神の二面性が
それを肯定する。また、
病に苦しみつつ乳を与える神もいる。
弱虫の神学生大津は、誘惑され、
胸だけを許された後、捨てられる。
拠り所のキリスト教からも、
多神教的思考を否定される。
だが、異端でも、その後の彼の
行動は、むしろキリスト的だ。
美津子も大津も、疎外されるが、
自分を信じられたらよいか?
精神的危機を乗り越えたトルストイ
は破門されても強かった。
捨てるのが男なのが『復活』か。
恋愛遊戯が、結局治らないのが
『シンセミア』の田宮和歌子だ。
Posted by ブクログ
平和な時代の日本に生まれた私にとってこの物語はあまりにも未知の世界で、自分の未熟さや無知を感じた。
「神」「愛」「転生」。
これらはすべて繋がっているように思えて、ひとりひとりにそれぞれの形があって、その形が誰かの心の中で影響を与えながら受け継がれていくものなのだろうと感じた。
物語の最後の、あっけない終わり方に驚いた。
ひとつの神を信仰することも凄いと感じる一方で、大津の生き方は、宗教が対立や紛争を生むこの世界への問いかけのようだと思う。
Posted by ブクログ
深い河
著者:遠藤周作
発行:2021年5月20日
講談社文庫(新装版)
1996年6月刊行の講談社文庫を改訂
初出:1993年6月、講談社より刊行
あるエッセイが読みたくて、ついでに数冊まとめて買った遠藤周作の古本も、これが最後の1冊。若い頃になんとも思わなかった作家が、妙に心に優しい。書いてあることは結構きびしく、人間の弱さや自己矛盾などをついているが、どうしてかそれが優しく響いてくる。文法的にはあまり正しい日本語とは言いづらいけど、とても読みやすく気持ちがよくなる文章にも惹きつけられる。人柄だろうか、文体だろうか。
解説によると、深い河は、著者が病気を抱えながら必死で書いた小説だとのこと。93年に発表され、96年に没している。
これも宗教的な小説である。代表作の一つ。表の主人公は磯辺樹という男性で、妻を癌で喪うところから始まる。最期を看取るしかないなか、病院ボランティアとして世話になった成瀬美津子と出会う。そして、彼女とはインドへのツアーで偶然再会する。磯辺は、いまわの際の妻に、生まれ変わるから探し出してねと言われた。ある研究所に問い合わせ、日本人の生まれ変わりかもしれない少女を探してもらう。この子かもしれない、という情報を得て、インドのある村へ行くのが目的だった。
一方、成瀬美津子については、第三章でその大学時代が紹介される。彼女は男子学友にけしかけられ、ジュリアン・グリーンの小説「モイラ」よろしく、一人の純真で真面目な学生をもてあそぶ。大津というその男子学生は、神父志望だが、心優しく、宗教的にも原理主義的ではなく柔軟な考えを持つ。それが優柔不断のようにも映る。大津は真面目に結婚まで考えるが、見事にふられる。卒業後、美津子は一度結婚をするが、なぜか新婚旅行先のフランスで夫と別行動をして大津に会いに行く。さらには、離婚後、また大津が気になり、今、(キリスト教の)神父をしているというヒンズー教徒の国であるインドへと向かう。
出だしは磯辺が主人公かと思うが、実は裏主人公が成瀬美津子と大津となり、そこに、磯辺が妻の生まれ変わりかもしれない少女を探しに行ったり、ツアー参加者である童話作家の沼田や、ビルマで兵士として死にかけたところを助けてくれた戦友のことを思う木口など、それぞれに事情を抱える人物たちが、それぞれ思う行動をしたり、といった物語を展開させる。
それぞれの人生には深い河がある、その流れの向こうに何があるかは分からないが、過去の多くの過ちを知ることにより、自分が何を欲しているかがわかったような気になった美津子。彼女はインドで大津に再会するが、優しく真面目な大津は、キリスト教の神父でありながら冷遇され、その中でヒンズー教徒たちの死体を運ぶボランティアなどをして、救いを実践している。そして、ツアー参加者である一人の青年(カメラマン志望)が襲われそうになった際、それを助けようとして自分が大けがをしてしまい、最後には危篤へと陥るのだった。
遠藤周作の小説を、さらに追加で探して買おうと決心した。
*************
<一章 磯辺の場合>
磯辺樹(おさむ):
啓子:妻、癌で余命3ヶ月
田中:主任看護婦
成瀬美津子:病院ボランティア、関西出身、金持ちの娘、学生時代はモイラと呼ばれた
姪:ワシントン在住
夫:ジョージ・タウン大学の医師
マ・ティン・アウン・ミヨ:ビルマに住む日本人が前世?の女子
ジョーン・オシス:ヴァージニア大学医学部
<二章 説明会>
江波:添乗員
沼田:ツアー参加者、野鳥好き
木口:ツアー参加者、寺で法要したい
小久保:ツアー参加者、ヒンズー教の神について質問
*インド旅行の説明会会場で、成瀬美津子と磯辺樹は再会した
<三章 美津子の場合>
大津:大学時代に弄んだ相手、祖父が政界の有力者だった
近藤:大学時代の学友、男子、大津をからかえと提案
田辺:大学時代の学友、男子、
ベル:哲学科の先生、神父だが坐禅を組んでいる
*ジュリアン・グリーンの小説「モイラ」の女主人公がモイラ。自分の家に下宿した清教徒の学生ジョセフを面白半分に誘惑した
矢野:卒業後に結婚した相手
*ノーベル賞作家フランソワ・モウリヤック著「テレーズ・デスケルウ」のテレーズと自分を重ねる美津子。夫ベルナールは悪い夫ではないが、テレーズはそばにいると疲れた
大学時代、近藤や田辺にけしかけられ、真面目な学生大津をからかってやろうと美津子は大津に接近した。そして、自分の部屋に連れ込む。セックスはさせなかったが、体をもてあそばせた。大津はその気になり、結婚を考えるが振られる。
卒業後は、まじめなエリートの矢野と結婚した美津子だが、新婚旅行のパリで2人はそれぞれ好きな行動をすることにした。美津子はリヨンに行き、神父になるべく神学校に通う大津と再会する。神から引き離そうとしたが、失敗に終わり、大津は再び神のもとにいたのであった。
それから4年後、美津子は離婚した(6章で明かされる)。
<四章 沼田の場合>
沼田:童話作家、幼少期は大連
三條夫妻:デリー行きの飛行機の後ろ席、新婚旅行、夫はカメラマン志望、妻は金持ちの娘でヨーロッパ行きを主張していたのでインドは不満
李:沼田家の大連でのボーイ、クビに(石炭盗む?)
小四の5月、母親に連れられ帰国。犬のクロを置いてくる。両親離婚。クロは人との会話を教えてくれた犬だった(人と人、人と犬)。
結婚し、童話作家として活躍。小禽屋が犀鳥というアフリカの珍しい鳥をプレゼントしてくれた。暫くは家族も珍しがったが、途中で飽きられ、面倒は自分で見ろと言われる。
昔、治療した結核が悪化して長期入院。犀鳥は返すことに。寂しい思い、クロを思い出す。妻がその変わり駕籠に入った九官鳥を持ってきてくれた。人のように「は、は、は」と声を出す。肋膜の手術中に屋上に置きっぱなしにして死なせてしまう妻。
<五章 木口の場合>
木口:ビルマで飢えとマラリアの地獄体験
塚田:戦友、餓死寸前の木口を救ってくれた
大橋:軍医
南川:上等兵、手榴弾で自決
牟田口:無謀な作戦を命じたビルマ日本軍の司令官
ガストン:戦後に塚田が入院した病院でボランティア(食事を運ぶなど)、外国語学校で仕事をしている
デリー行きの機上、添乗員江波の隣席には参加者の木口。ビルマのジャングルで壮絶な戦争を経験している。
飢えとマラリアで次々と死ぬ日本兵。木口も「死の街道」で行き倒れとなり、覚悟を決めたが、戦友の塚田が残ってくれて、行き倒れた兵士の飯盒にわずかばかり残された米を与えてくれた。それと、牛が死んでいたが焼いたから大丈夫だと肉を食わせてくれた。肉はあまりに臭くて吐き出したが、食べないと死ぬぞと塚田は怒った。食べられなかった。なんとか隊に連れ戻してくれた。
戦後、木口は子供が食べ物のことで不満を漏らすと異常なまでの怒りで折檻。自営業でなんとか生活する中、地下鉄駅で塚田と偶然再会する。戦後は九州にある妻の実家に行き、国鉄で仕事をし、今日は東京に出張だという。2人でしこたま飲んだ。塚田の飲み方は相当だった。
何年かして、塚田から東京で仕事がないかと言ってきた。マンション管理人の仕事を世話した。塚田夫婦は恐縮した。何年かして、塚田が吐血して入院した。肝臓がやられていた。病院で酒を止めるように説得する木口。やめないと死ぬぞ!と。しかし、どうしても酒を止められない理由があると見た。やがて、誰にも言わないその理由を塚田は明かした。
ビルマにおいて、木口になけなしの食料を与えた塚田は、自分自身もひもじくなり、出会った日本兵に食べ物はないかと聞くと、10円でトカゲ肉があるといわれてお金を渡した。見ると、それはトカゲ肉ではなく、南川上等兵の死体の一部だとわかった。家族宛の便箋に包まれていたから。彼は手榴弾で自決したのだった。しかし、あまりに飢えていたのでそれを食べ、木口にも与えたが食べなかった。
復員し、便箋を渡して家族に謝った。子供が南川そっくりの目で塚田を見ていた。それを忘れるために酒を呷り続けていたのだった。
そのことを聞いたボランティアのガストンは、数年前にアンデス山脈で起きたアルゼンチンの飛行機事故の話をした。一人はいつも酒を飲み、その日も酔っ払っていた。墜落し、生きのびた彼は、残り少ない他の人にこういった。俺が死んだら俺の肉を食べて生きのびてくれ。それで生きのびた2人。しかし、救出後にはその酔っ払いの家族から感謝されたという。迷惑ばかりかけたあの人が、人の役に立てたときっと喜んでいるはず、と。
<六章 河のほとりの町>
ラジニ・プラニル:カムロージ村にいる前世が日本人という少女
三條夫婦は、バスで移動中にも、ヨーロッパに行けば良かったというような発言を繰り返した。夫(青年)はカメラマン志望。
バスはヴィーラーナスィへと到着。ガンジス川で沐浴をする場所は何カ所もあるが、代表的なのはこのまちだった。
磯辺は転生など本気で信じてはいない。しかし、彼の耳の奥の奥には妻の最後の譫言が聞こえていた。「わたくし‥‥必ず‥‥生まれかわるから、この世界の何処かに。探して‥‥わたくしを見つけて‥‥約束よ、約束よ」
江波は三條夫婦に説明する。沐浴は禊ぎ(身の汚れと罪の汚れの浄化)と同時に、輪廻転生からの解脱を願う行為でもある、と。
ヴァージニア大学医学部のジョーン・オアシスからの2通目の手紙を持参。以前に知らせたマ・ティン・アウン・ミヨという少女以外にも、2ヶ月前に北インドのカムロージ村(ヴァーラーナスィ近く)で日本人として前世を生きたという少女の話が報告された、という内容。ただし、彼女がこの告白を兄姉にしたのは4歳の時であり、我々が前世記憶者の条件に入れている3歳までの年齢は過ぎている。名前はラジニ・プニラル。
*リヨンに大津を訪ねてから4年後、美津子は離婚
「わたしは人を真に愛することはできぬ。一度も、誰をも愛したことがない。そういう人間がどうしてこの世に事故の存在を主張しうるのだろうか」美津子がボランティアをはじめたのは、そんな彼女の倒錯した気分からだった。愛が燃え尽きたのではなく、愛の火種のない女。男と女の愛欲の真似事だけは何度もやったが、火種に本当の炎がついたためしはなかった。(201P)
美津子は病院のボランティアに参加した。愛の乾いた自分だからこそ、愛のまねごとをやってみる自虐的な気分になったのである。(209P)
美津子はリヨンの大津に出した手紙の返事により、彼がリヨンで一度は神父の道を閉ざされたものの、南仏で職を得て首の皮一枚でつながっていることを知り、その後の手紙ではイスラエルで神父をしていることを知る。さらに、年に一度の大学の同窓会で、彼がインドで神父をしていることを知る。沐浴をやっているまちだという。その代表的な場所がヴィーラーナスィだということも知り、やってきた。
<七章 女神>
磯辺は銀座のイタリア料理店オーナーと火遊びの経験。幼女が中学生で反発していたころ。
江波はいう「ヒンズー教徒は死体を焼いたところに木を植える」。
沼田はいう「吉野の桜はすべてが墓標だった」。
江波「1857年にインド人が英国に反乱を起こした際、アラーハーバードの森の樹々は絞首台の代わりに使われてインド人を吊るした」。
江波は4年間、インドに留学していた。夫に捨てられ苦労して自分を育てた母と、インドの女神チャームンダーとを重ね合わせる。
<八章 失いしものを求めて>
クミコ・ハウス
えくぼのある丸顔の女性:街で出会った結婚式に招待されていた日本人女性
木口が熱を出して寝こむ。看病のため、美津子は一人残る。ガンジス河へ行った人たちによると、死体を火葬場へ運ぶ日本人神父がいたという。神父だけど、ヒンズー教徒の服装をしていたという。きっと大津だと美津子は思った。
翌日、沼田と出かける。ヴィーラーナスィの教会へ行ったが、大津などという人物はいないという。ただし、日本人が経営するクミコ・ハウスの存在を知る。沼田が電話をすると、大津はいかがわしいところに行くと会えるという。
<九章 河>
磯辺は生まれ変わりがいるという村を訪ねたが、本人(少女)には会えなかった。一家はヴィーラーナスィに引っ越したという。しかし、住所が分からない。
翌日の(1984年)10月31日
インディラ・ガンジー首相、暗殺。
磯辺は前日に行った占師のところに行き、生まれ変わり少女の住所を聞いた。そこを訪ねたが、うまく会えない。しかし、老人にラジニという少女はいないかと行くと、ラ・ジ・ニとものあり気に答えた。
沼田と美津子は、売春をしているところに。大津は来るが、いつ来るかは不明という。帰りがけ、声をかけられた。大津だった。ついに再会できた。彼はもう教会にはいない、ヒンズー教徒のアーシュラム(道場のようなところ)に拾われたという。しかし、改宗したわけではく、キリスト教の神父をしていると堪えた。
沼田は九官鳥を買いたいという。
<十章 大津の場合>
大津と美津子はホテルの庭園で話をした。ヒンズー教徒は年をとると家を子にゆずり、放浪主業の旅に出る。サードゥーと呼ぶ。大津はそのサードゥーに拾ってもらえたという。ガンジス河で死のうとした貧しい人たちが行き倒れていると、その死体を運んだりする。
磯辺はラジニに会えなかった。そんな名前の人はたくさんいる。やっぱり占い師にだまされた。分かってはいたが。酒を買い、飲んだくれながら歩く。
<十一章 まことに彼は我々の病を負い>
「私はヒンズー教徒として本能的にすべての宗教が多かれ少なかれ真実であると思う。すべての宗教は同じ神から発している。しかしどの宗教も不完全である。なぜならそれらは不完全な人間によって我々に伝えられてきたからだ」
(マハートマ・ガンジー)
<十二章 転生>
沼田と美津子はバスで出かける。アメリカ人30人と乗り合わして会話する。
沼田は小鳥屋で九官鳥を買い、それをサンクチュアリで解き放つ。
2月の雪の日、沼田の三度目の手術が行われた。癒着した肋膜の出血で心電図の線が波うたなくなりかけた時、まるで身代わりのように九官鳥は死んでくれた。
<十三章 彼は醜く威厳もなく>
三條は、相変わらずガンジス河での撮影を狙っている。死体は絶対に撮ってはいけないと江波に言われている。しかし、まだ諦めない。この日も、死体運びをしていた大津に注意されるが、言い方が優しいのでなめてかかる。
大津は、どんな宗教を信仰している人にも、玉ねぎは存在すると主張し、ヨーロッパのキリスト教会からは批判される。暗殺されたマハートマ・ガンジーも似たように宗教的寛容さがあり、それが反発された面があった。
美津子は、結局は自分が大津のことが気になるのは何故だろうと考えた。大学時代に、単にからかうだけの相手だったのに、どうして最後まで存在が気になるのか。
ガンジス河では、三條が襲われそうになっている。ガンジー暗殺で苛立っているヒンズー教徒たちが、彼の撮影行為に怒ったのであろう。そこに、汚い格好をした男がとめに入る。今度は彼が襲われる。大けがをする。救う美津子。救急車へ。
帰国前、美津子は大津が危篤になっていることを知る。病院に入って、1時間後に急変したという。
Posted by ブクログ
前回の聖書読書会でおススメされたので、有名な「沈黙」とあわせてバリューブックスさんでポチった。
実はわたしにとっては初の
遠藤周作作品。
聖書に興味を持つ前からいつか「沈黙」は読みたいと思っていたが、おススメしてくれた方が、
「それなら是非こちらの方から」と教えてくれたので、「深い河」から読み始めた。
小説の時代背景は1984年…なので、
少し古い時代ではあるが、
歴史ものというわけでもなくとっつきやすい。
バブル経済が始まる少し前の、日本の景気が上向きで、かと言って戦争の生々しい記憶も留めている世代がいる頃。
ちょうど今の時代から振り返ると、40年前、アジア太平洋戦争からは40年後の世界が舞台だ。
それぞれの経験を、それぞれに生きてきた人々が、とあるインド旅行で出会い、それぞれの人生に自分なりの意味をつけ、自分なりの物語に昇華していく。
その一人一人の物語も読み応えがあってとても引き込まれるのだが、聖書読書会からの縁ということもあり、読み終えて1番印象に残ったのはやはり、大津の、汎神論にも通じるような、
「彼にとっての神の在り方」についてだった。
汎神論は先日、國分功一郎さんの「はじめてのスピノザ」にも登場した。
この時代でも、スピノザの時代ほどではなくともやはり異端的な考えなのかと改めて驚く。
(ユダヤ人のスピノザ、やはり凄いな)
ただやはり日本で生まれ、知らないうちに東洋的OSにどっぷり浸かっているわたしのような人間にとって、汎神論的な神の在り方は、聖書を読むのに良い補助線になるな、と思った。
クリスチャンでもあった遠藤周作自身の苦悩が表れている箇所でもあり、
まだこの1冊しか読んでいないのでわからないながらも、この大津にもあった一神教の神に対する気持ちの葛藤についてが小説を書く上でテーマのひとつになっているんだろう。
そして、とても印象に残るラスト。
物語から投げ出されてしまうようなあの一文に、一瞬戸惑う。
だからこそのもの凄い余韻がある。
正直、聖書やキリスト教の話なのに、
なぜにインドのガンジス川?
と、おススメされた時疑問に思ったんだが、本当に「沈黙」を読む前にこちらから読んでおいて良かったと思う。
読んだことある人と、じっくり話したくなるような、本当に深みのある良い本でした。
Posted by ブクログ
何年か前に買って、棚に眠っていた一冊。つまり、積読本。
ここまで感想が書き辛くて、私にとって共感性も低い本だったとは思いもしなかった。書き出すほどに支離滅裂になりそうで、正直戸惑っている。それでも手探りしながら、書き終わりというゴールを目指そうとは思うけど。
ちょうど、それぞれの目的を果たすため、インド行きを決行した登場人物たちみたいに。
長年連れ添った妻を癌で亡くした磯辺。学生時代に弄んだ男の行方を追う美津子。動物とのふれあいを、唯一の拠り所とする沼田。「旧日本軍 史上最悪の作戦」と称されるインパール作戦で奇跡的に生還した木口。
本書のテーマを一言で述べるとしたら、「信仰」になるだろう。登場人物たちは皆それぞれに孤独を抱え、それぞれ信仰の対象…というよりも、信念のようなものを胸に秘めている。
そんな彼らがインド仏跡ツアーで巡り合い、行動を共にする。やがては全てを包み込む母なるガンジス河に各々の想いを託す…といったところだろうか。美津子だけは未遂に終わった感が強いけど。
私自身「一人」でいることを好む傾向にあるが、ありがたいことに今は大切な人に囲まれていて、「独り」と思うことがない。彼らのように、やがて「独り」を痛感する時が来るのかもしれないが、今はまだその時ではないようだ。
そもそも私が本書の購入に踏み切ったのは、「インド行き」の部分に共感性を感じたからだった。読後の今振り返ると、それが唯一の共感・共通点だったのかもしれない。
かつて私もインドの仏跡ツアーに参加したことがあり、更にはご兄弟をインパール作戦で亡くされた方も、ツアーに参加されていた。
道中での供養の折、肩を震わせて嗚咽を漏らされていた後ろ姿が、今も目に焼きついている。生き残ったことへの申し訳なさを感じていたであろう木口とその方が、読書中も何度か重なった。
ガンジス河が本当に全てを包括してくれるのなら、彼らが背負ってきた孤独も丸ごと受け入れてほしい。
「神とはあなたたちのように人間の外にあって、仰ぎみるものではないと思います。それは人間のなかにあって、しかも人間を包み、樹を包み、草花をも包む、あの大きな命です」(P 199)
「さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集り通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうと構わないではないか」(P 326)
遠藤周作のことはよく存じ上げていないが、彼は大津(美津子が追い求めていた男)を通じて、クリスチャンだった彼自身の宗教観を喋らせている気がした。
自分が強く信じているもの・大切に想うものがある限り、その人は「独り」ではない。磯辺の妻が生前話していた、「(大切なものの)命は決して消えない」というのも、間違っていないのかもしれない。
(随分壮大なロードムービーになったけど)かのインド行きを経て、彼らはそれに気づけたのではないかと思う。
それでも、本格的にこの深い河へ浸かりに行くのは、まだ早かった。
今はただ、ここでぶちまけられた沢山の想いが私のもとに押し寄せている。
Posted by ブクログ
理路整然としている戦後の資本主義社会と、混沌としていて陰を残したインド社会との対比。
そんなインドにおいて来るもの全てを拒まないガンジス川だからこそ、そこには神の力が宿る。
Posted by ブクログ
善の中に悪があり、悪の中に善がある。
東洋思想と西洋思想の違い。
一神教と多神教の違い。
普段、自発的に考えることのないテーマに目を向けさせてくれた作品。
私は、シンプルに楽しく生きることを理想としてきたが、この本には、「深い河」に魂の救いを求める人々や、神に人生を捧げて「僕の人生は...これでいい」という大津が登場する。自分には無い価値観に触れて、心が揺さぶられた。
Posted by ブクログ
遠藤周作の最晩年の作品らしい。ブックオクで目に留まり購入。情報無しになにげに読み始めたら止まらなかった。こちらは一気読み。
インド観光ツアーに参加する人々の過去や事情から、生きる意味、神を信じるとは?転生などの深いテーマが描かれる。
後半には混沌としたインドの空気が文字から溢れ、目の前に紅茶色の荘厳なガンジス河の風景が広がってくるから圧巻である。
聖なる大河に安らぎを求めて集まるヒンズー教徒達。心と身体を洗い清める者、死して流されるために河を目指して歩み続ける老人。遺体や遺灰を流す横で同時に沐浴が行われる。生と死に境目は無く、祈りが存在するのみ。
キリスト教もヒンズー教も仏教も境目は無い。全ての教徒のために存在している深い河がガンジス河だと著される。クリスチャンの遠藤周作が最終的に至った境地がここにあるのかもしれない。
芥川龍之介の「奉教人の死」に引き続き、手に取った本作は偶然にもまたまたキリスト教小説。意図した訳では無いが、日本人の中のキリスト教観を知る上で良い機会となった。
私自身はお正月には初詣、お彼岸には御先祖様のお墓参りをし、クリスマスにはケーキを食べるという典型的な日本人。何かを心から信じるという信仰心が羨ましく思えて、インドに行きたくなった。
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人は死を前にしたとき何を思い、どう行動するか。本書は常に死の雰囲気をまといながら生きる人たちを描いている。彼らが行き着いたのはインドのガンジス川。生と死、聖なるものと汚れたもの、貧富、全てが混ざり合って存在するガンジス川。今まさに死に絶えようとしている人が目指す川。その光景をみた人たちは生きる意味を見つける。
ガンジス川の情景を読み、人は無力だなと感じた。死に絶えようとしている人にできることは寄り添うことだけ。飢えをしのごうと必死で手を伸ばしてくる子供達にしてあげられることはない。その無力感を思うと、人の神なるものへの信仰心が生まれるのかもしれない。
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印度に行ったこともないけれど、ガンジス河に思いを馳せながら、もしくは思いを馳せる教徒の心境を想像せずにはいられません。登場人物それぞれの“深い河”にもグッと引き込まれます。息苦しいですし重さもあります。それでも読んでよかった。…私の“玉ねぎ”って何なんだろうか。
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亡き妻の最後の言葉に応えるように、妻の生まれ変わりを探し求める磯辺。学生時代にからかったクリスチャンの大津という男がヴァーラーナシーにいると聞いて会いに行く成瀬美津子。病気で死にかけた自分の身代わりになってくれたと考えている九官鳥を思い、インドの保護区に九官鳥を放しに行く童話作家の沼田。インパール作戦に参加した木口。
それぞれ異なるものを抱えた人々がインド仏跡ツアーに参加する群像劇。
ツアー参加者ではないが、神学校に通いながらも善悪をはっきりと分ける考え方に馴染めず悩んでいる大津の人生が特に印象的だった。
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学生時代に友人から「是非読んでみろ、インドに行きたくなるから」と言われていた本。先日インド出身の方と飲む機会があり、故郷の話で盛り上がったので、勢いに任せて読んでみた。
もっと魂が揺さぶられるのかと思っていたが、そうでもなく、ただ普通に読み物として面白かった。
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闘病中の遠藤さんが渾身の力を絞って書き上げた作品。だからというわけではないが、一つ一つの言葉に重みを感じる。
登場人物はそれぞれに痕跡を残したものを探すために日本から印度のガンジス河まで旅に出かける。
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アジアの母は
醜く、それでも懸命に生きた姿を生々しく表現している
過酷な環境においても子どもに愛情を注ぐ
これこそ人間そのものなのではないか
それぞれに心の劇がある 悲しみを背負っている
そのすべてを飲み込み、受け入れ、流れてゆくのがガンジス河
人は愛する人を亡くすと心の中に転生させるという表現が私は好きだ
人生ってなんだろうな
生きるってなんだろうな
生活と人生は違う
生活する上でたくさんの人と関わってきたが、人生で関わったのは母と妻のみという磯辺の言葉
私が人生で関わった人は、誰なんだろう
三条のような人間にはなりたくない
だからと言って大津の生き方はあまりに不器用すぎる
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終節「危篤だそうです。」のあっけなさ。死に臨じた遠藤が描いた人間の終わり方と残され方。映像や情報が発展した現在より鮮明に貧困や格差が描かれる1997年の情勢。
印度に関心があり本書を手に取ったが、この国に貧困や格差を学ぶ時代は終わったと世界中を見て考えている。救いが人々に差し出されていない時、何かを信じたり今世に無い何かに想いを託すしかないとただ現実を突きつけられただけだった。
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あらゆる人の想いを収束させ、静かに揺蕩うガンジス川。
「すべての人のための深い河」を求めた人々を描いた作品。
河に来る者の一人一人がそれぞれ蠍に刺され、
コブラに噛まれた女神チャームンダーの過去を持っている。
感想を書くにはあまりに深く、期間も空いてしまったため、
いつかまた再読した際に改めて書こうと思う。
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とっても良かった。
テーマとしては"転生"
様々な宗教、言語が混じり合う印度に、それぞれ目的を持って旅行に向かう人たちの話。宗教観についてすごく考えさせられた。
日本は厳格な宗教がある方ではないから、あんまり宗教の対立が身近ではない(私が無知なだけでそんなことないのかも)ので、宗教の対立について考える非常に良い機会になったと思います。
大津さんの考えはすごくいいなと思ったし、私も同じ考えですが、机上の空論なのだろうなと思いました。対立を無くすのは難しいよね。。。
転生って理想にすぎないかなと思うけれど、思いが繋がっていくって意味での転生というとらえ方はめちゃくちゃ好きでした。素敵。
遠藤周作ってなんとなく難しそうなのかなと思っていたけど全然そんなこと無かったです。
読みやすいし展開が面白くてページを進める手が止まらなかった!
難しい考えさせられる内容でしたが、こんなに惹きつけられるのすごい。
超良かったです。他も読みたいな。