あらすじ
米兵捕虜の生体解剖事件で戦犯となった過去を持つ中年の開業医と、正義の旗印をかかげて彼を追いつめる若い新聞記者。表と裏のまったく違うエセ文化人や、無気力なぐうたら学生。そして、愛することしか知らない無類のお人好しガストン……華やかな大都会、東京新宿で人々は輪舞のようにからみ合う。――人間の弱さと悲しみを見つめ、荒涼とした現代に優しく生きるとは何かを問う。
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Posted by ブクログ
重くて深みが凄く、後々まで考えてしまいそうな小説だった。
春に読んだ「海と毒薬」の続編で、事件の30年後が描かれている。
正義って何だろう?と改めて考えた。
善と悪ってすっぱり二つに割り切れるものではなく、両方つながっていて、当然グレーゾーンというものもあって、人は立たされた立場やその時の世情によって、簡単にその善と悪を行き来するような生き物なのだと思う。
「海と毒薬」は戦時中の物語で、この小説は戦後の物語。米兵捕虜の生体解剖事件の戦犯となった勝呂医師は刑期を終えて新宿で開業医をしているが、彼にはその過去から来る陰鬱な影が常につきまとっている。
戦時中の倫理観の狂いから起きた事件が、戦後の彼を苦しめ続ける。
深い事情や彼の心理を知らない者たちは、その事件の表面だけを見て彼を糾弾する。若い新聞記者である折戸も。
折戸の正義感は、きっとその時代の倫理観からすると正しい見方なのだろうけど、善と悪はすっぱり二つに割り切れると信じている青さが、人生経験の少なさと若さを象徴しているのだと思う。
人の奥深い心理を無視しすぎている直球な言葉は、色んな人を傷つけてしまう刃になりかねない。
私もどちらかというと直球なタイプで、もう少し若い時は今よりも善と悪の感覚が違っていたように思う。それこそ折戸のように、グレーゾーンなんて認めない、悪いものは悪い、というような感じで。
でも人間ってそんな簡単には分けられないし、何かに流されて悪い方に行ってしまうこともある。
そのこと自体は悪だとしても、過ぎ去ったあとその事柄をどんな風に受け止めて生きていくか。
人の悪さを糾弾するのは簡単だけど、そもそも人が人を裁くなんて出来ないのではないか?って。
遠藤周作さんはキリスト教を主題にした作品を多数残されているそうで、この小説にもその要素は垣間見える。
人を裁くことは神にしか出来ない(神が存在するとして)。
この小説のある意味主役とも言えるフランス人のガストンは、無償の愛を他人に注げる嘘みたいにお人好しな人間で、彼の存在はイエス・キリストのメタファーになっていることが分かる。
人のために喜んだり泣いたりすることがガストンにとっての幸せで、針のむしろ状態の勝呂医師の側に常に彼がいたことは、勝呂医師にとって大きな救いになったように思う。
そして、人の死をコントロールするという罪悪についても描かれている。
法律上安楽死は許されないのに、妊娠中絶は許されているという事実を、改めて考えさせられる。
両方とも、その本人が望むのだとしたら?どうして妊娠中絶は良くて安楽死は駄目なのか?
そしてそれに手をかけた医師は、再び深く苦悩することになる。
とても悲しい物語だった。
まさに悲しみの歌が、物語中にずっと流れているような。
倫理的には悪者である勝呂医師と、その対比として登場するたくさんの人物たち。読者にとってどちらがより悪いか、憎々しく映るか。
人の噂や単純すぎる倫理観で人を見てしまうことは現実にも山ほどある。だからこそそういうものだけに惑わされないで、自分の目で見て感じる力を身につけたい。そんなことを思った。
Posted by ブクログ
『海と毒薬』の勝呂医師が登場する、ということで読んだ。彼が主人公の続編というよりは、群像劇の中のもっとも重要な一人というような立ち位置である。
事前に読んだ人たちからの感想を聞いていたので、かなり身構えつつ読んだのだが、本当に悲しい結末だった。しかし、その救いのなさのために、私は遠藤周作に感謝した。
なんて人は悲しくどうしようもないのだろう。なぜ善人が傷つけられ、痛めつけられ、苦しみ悲しむのに、しょうもない人間がのうのうと生きてえらい顔をしているのだろう。
この作品に出てくる勝呂医師やガストンに比べて、若手記者や大学教授、そして学生たちは本当に愚かでしょうもない。彼らは深く考えず自分のために人を踏みつけにする。そして、踏みつけにしても知らん顔ができる。それどころか、彼らは自分が人を踏みつけたことを正当化さえできるだろう。
それに比べて、勝呂医師は苦しむ人を助けてあげながら過去の罪に問われる。ガストンは人を助けるために懸命に働いて、人に馬鹿にされる。
どうしてこの世界では、こんなにひどいことが許されるのだろう。どうして神様は、こんなに優しい善人たちを助けてくださらないのだろう?
勝呂医師は誰にも許されずに死んでしまう。彼の名誉は、おそらく死後も回復することはない。彼は社会的に悪人のままなのだ、彼の名誉を取り戻してくれる人はいないのだ……。
しかし、一方で彼は絶対的な許しを与えられる。それがガストン≒キリストの存在である。
ガストンは彼の人間としての尊厳を守ってくれる。先生はいい人、優しい人だと言って、それを理解してくれているのだ。それは全く社会的な許しではない。また、彼の生命をも救ってくれない。
しかし、勝呂医師の人としての尊厳を守ってくれる。ガストンは無力であるが、その許しは神の赦しにも等しい。それが読者にはわかる。私にはわかる。それが悲しくてたまらない。
その赦しがあまりに優しく、そして無力であるゆえに、私はそれを信じることができた。とても悲しいけれど。社会に受け入れられない人間でも、神様には赦してもらえる。泣くしかない。
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海と毒草の続編という形。捕虜の生体実験に加わった勝呂のその後とそれを正義の名の下に取材する折戸、イエスキリストの生まれ変わりのようなガストンらが主な登場人物。結局人が人を裁くなんて無理があるんかな。胃癌末期のお爺さんを苦しみから解放するために安楽死させることにした勝呂だがその行為が本当にダメなことなのか、当人が望むなら正当性があるのか難しい問題。全体的に文章も暗く読んでて陰鬱になりそうになるがテーマとしてはとても大事な気がする。
文化人かつ教授の矢野の描かれた方が面白い。結局こういう人たちは何も生まず偉ぶってるだけなのか。
Posted by ブクログ
遠藤周作さん著「悲しみの歌」
「海と毒薬」の続編に当たる作品。主軸であった勝呂医師の30年後が描かれている物語になる。
研修医として生体解剖に携わってしまった過去のある勝呂は、罪という意識とは少し違う罰を自身に課せているように感じた。
彼はどちらかというと自分自身に失望しているように感じる。
彼自身が凄く人間らしすぎて、医師として人として、局面局面で選択せざるをえないその数多は、どの道を通っても誰もが納得できるものではないものばかり。
その中の一つは生体解剖という間違えでもあった、過ちの中でも最悪のもの。
そんな彼が辿る道は…
勝呂のその後の歩みは常に孤独感で溢れていて、まるで社会から隔絶されているような感じで切なすぎた。
今現在の感覚では、彼が「海と毒薬」での生体解剖を断らなかった行為は「PTSD」による自棄に近いものだと思える。だけど当時その精神状態には誰もが低認識だったろうから、彼の精神を更にもっと追い詰めたに違いない。
度々作中に出てくるが勝呂が町医者になりたかったという描写。人々に声をかけては勇気づけて、声をかけられては笑って談笑し、自転車に乗って各々の家へと診察に周るという小さな町医者としての理想が描かれる度に胸が苦しくなる。
そういう医者になりたかったろうに…
違った医者としての人生があったろうに…
眼で文字を追っているのにも関わらず、悲しみの歌が自分の耳にも聞こえてくるようだった。
勝呂の最期は自死という結末だったが、ある意味ではこれは贖罪のようでもありながら開放のような結末にも感じられた。
人として、医者として、
「何が正解で何が不正解なのだろうか?
誰がそれを裁けるのだろうか?」
作中あったこの言葉には深い意味合いを感じてしまう。
冷罵、誹謗、嘲笑、みな真相を知らずに…
みなが勝呂を責め立てた。
その責め立てた人達はみな自分に甘く、他人に厳しい人ばかり。
偽善の上に成り立っているだけの正義を振りかざすエゴイズム全開の暴力に感じる。
自分自身を客観視できないだけならまだしも、人を攻撃する事に何の抵抗も持たずによく言えたものだ。
人として未熟すぎる、外見だけで作られている中身の薄い人々に感じられた。
逆に勝呂はそういう意味では自分という人間を客観視できていたのだろう。彼に同情を強く覚えてしまった。
悲しい物語だった。
Posted by ブクログ
勝呂先生のターンはずっと泣きながら読んだ。
人は自分の目を通してしかこの世界を見れないのに、正義をかざして人を裁こうとするのは何故なのだろう。生きることはなんて辛くて悲しいんだろう
Posted by ブクログ
海と毒薬の続編。
生きることの悲しみや苦しみ、正論は人を追い詰め苦しめる。
登場人物は多いけど、とてもわかりやすく描かれており、文章から情景が見える作品。
Posted by ブクログ
生体解剖という医学の暴力と無反省を糾弾する折戸が、記事の暴力により人を殺し、その現実を受け入れようとしていないという構造が、冒頭の「泥棒が泥棒をつかまえ」たことに似て滑稽に思えた。
遠藤が、彼を含めた若い世代の人間に「距離を置いて対している」[427頁]ことも相まって、私は彼らに対して愛着を持って接することができず、正直に言えば「救いようのない」と思えてならなかった。
ただ、幸運なことに、折戸には野口という気づきの種となる人物がいる。勝呂に後日談があったように折戸にも後日談があるならば、野口は「救い主」になれたのだろうかと想像した。
Posted by ブクログ
人が人を裁く資格なんてない。40年経った今も、当然それは変わらない。
追い求める正義は、果たして誰にとっても正義なのか。自分がその立場に立った時、絶対に起こらないと断言できるのか。
生きることに付随する悲しみが、あまりに多すぎる。もう苦しまなくていい、もう辛いことはない。誰もが死に向かう中で、死を求めることが「良くない」ことだと断言ができなくなる。
人間の悲しみを知らないように振る舞う人間は、眩しい。し、暴力的だ。
Posted by ブクログ
大晦日に読破。良かった。もう一度読みたい。
人間はやがて死ぬ。早いか遅いか。今していることは、だからなんなん、と自問するとに戸惑うことばかり。どう生きようか。
Posted by ブクログ
一貫して哀しみの歌がこの小説には流れている。
奉仕の心が大切なのは間違いないが、それが実際に他人への救いとなることがいかに困難かを知らされる。
救われることへの諦念に僕は息を止めたくなった。
Posted by ブクログ
中学生の時に読んだときの衝撃が忘れられない。
悲しさとは違う哀しさを知った本。
やるせなくて、悔しくて、でもその感情をぶつける矛先が無くて、哀しい。
海と毒薬でも沈黙でもなくこの本を教室に置いたあの国語の先生はたくさん本を読む人だったんだなあと思う。
今年の夏に読み返したい。
Posted by ブクログ
新宿を舞台にした群像劇。
「海と毒薬」に登場した医師の勝呂が、あの後どんな人生を過ごしてきたのかが分かる作品となっていた。
それとガストンも。ガストンはここではイエス的な役割を担っていて、かなりの重要人物。彼の言動は突拍子もないように見え、自分も暮らしが立ち行かないのに人助けばかりして、破滅的すぎて時には滑稽ですらある。他人のためになぜここまで出来るのかと不思議でならないのだが、ラストでガストンの他人への気持ちや、心の声が聞こえた瞬間に号泣してしまった。
その前の、勝呂の自殺でもすごく苦しんだ。そんな道を選ばず、最後の最後まで生きてほしかったのだ。
癌の末期患者のケアを無償でやっていたのだって、人間性が表れているなと思う。病人に優しい言葉しかかけなかったところも切なかった。
他人の苦しみは受け止めても、自分の真の苦しみは誰にも共有できなかったのかもしれないなと思うと、涙が止まらない。
Posted by ブクログ
『海と毒薬』の続編的な位置付け。これを読むことで「海と毒薬』への理解も深まったような気がする。誰しも不安、迷い、弱さ、後悔、孤独を抱えている。一見、交わることのなさそうな登場人物たちが何かしら勝呂医院と繋がりながら交錯し、すれ違っていく。虚栄や欲望に飲み込まれていく中で、頼りなくもピュアで無償の優しさを持ったガストンの存在が微笑ましく救いになっているような気がする。勝呂も彼にだけは心を開こうとしていた。人を救うために医者になったのに、結局人の命を奪ってばかりいると自らを省みる勝呂。罪の意識がありながらも救いや許しを求めている訳ではない。理解されない寂しさ、悲しさ、諦めによる辛い結末。牧師や聖書の言葉に耳を傾けていたら少しは救われていたのだろうか。神を信じることで救われる部分もあれば、やっぱりそれだけで全てが解決する訳ではなくて、心のしこりのような負の感情は簡単には消せないということを表したかったのかな。80年代初頭の作品だけど描かれる人間の内面は今でも変わらない。何でもバッサリと善悪や明暗で切り分けられがちな今こそ、改めて考えされられる作品。
Posted by ブクログ
『海と毒薬』の続編のような小説。
生きることに付き纏う悲しみ。
弱さと強さの境界でもがいてもがいている人々。
正義感をふりかざす自己満足。
無償の愛。
薄闇と霧にまみれた世界で、生きるとは何か?を激しく問われる。
多くの登場人物が少しずつリンクしながら繋がってゆく様は、新宿の雑踏を思わせつつも惑うことなく描き分けられ、その描写や緩やかに流れる時間軸が凄まじい悲壮感を極だたせている。
素晴らしい筆力。
愚直なゆえ力強く生きる若者たちが光なのか?
ガストンだけが光だったのか?
そしてやはりそこに正解を見出せないまま、物語は終わる。
くるしい。
悲しい。
悲しみの歌。
Posted by ブクログ
「正義とは何か?」
この問いにぶち当たる度に、私はこの本を読んでいる。
先日、居眠り運転をして交通事故を起こしてしまった。
その時に正義感に満ちた警察官は「事故を起こした悪人」である私に対して威圧的で、とても苦しかった。そして、この本が無性に読み返したくなった。最近読んだ中で最高に面白い、改めて大好きな本。
同じ遠藤周作の著書『海と毒薬』の続編で、戦時中外国人捕虜の人体実験に関わった勝呂医師のその後の話だ。この小説の中で「正義」という単語が8回でてくる(数えた)。正義という名のもとで悪を糾弾する若手の新聞記者が、勝呂医師を追いつめていく。白か黒か。正義を信じて疑わない人は、自分がそちら側の立場に立つ姿を想像できないのだろう。
世の中には、グレーがたくさん存在する。一見、悪に見えたとしても、その人の事情があることもある。
そのことに気づけただけでも、かつて血気盛んにこの本を読んでいた頃より私は随分と大人になったと思う。
助産師になったからか、昔読んだときとはまた違った味わいがあった。人工妊娠中絶の描写が多く出てくるからだ。
夕暮れ、新宿の裏通りにある医院にそっとやってくる女性たちに、勝呂医師は「それが彼女たちの生活をさし当り救うただ一つの方法だとして、その女たちの体から生れてくる命を、数えきれぬほど殺して」きた。そのことに対する自責の念にも苛まれながら。
私の職場でも、毎日のように行われる子宮内搔爬術。流産の場合もあるが、希望も多い。理由があるにしろ、私たちがしていることは、いのちを殺めることには違いない。
今当たり前に行っていることも、時代が変われば人殺しと呼ばれることもあるのかもしれない。でも、その行為で確かに救われる人もいるのも事実だ。あくまでも、白でも黒でもなく、グレーの行為。そういうもの、で割り切ってはいけないのだなあと思う。
先日、うちで家で飼っているメス猫の避妊の話をしていた時に、「手術自体は1万円で、もしお腹を開けてみて妊娠していたら、さらに1万円かかる」という話をしていたら、職場の先輩助産師さんに「お金の問題じゃないでしょ!妊娠していたら、育てなきゃ!」と怖い顔で言われた。そこで初めて、自分が猫のいのちを軽く扱っていたことに気づいた。ヒトならばだめで、猫ならばいいのか。それは人間のエゴだ。
時代の悪戯だとしても、過去に罪を犯したものは、一生糾弾されなければいけないのか。そもそも、誰が誰を裁いてよいものか。相模原の事件を思い出す。文中で記者が言う「腐った果実は捨てた方がいい」ということばは、背筋がぞくりとした。
前は感じなかったが、最近自分が短歌を始めたことで、遠藤周作氏の描写の豊かさにも改めて感心した。
「手の切れるような一万円札」
「待合室から奇妙な笛のような音が聞えたからだった。奇妙な笛。いや、そうではなかった。それは二人の会話を聞いたガストンが泣いている声だった…」
何気ない言葉だが、その情景がスッと想像できる描写。最近、若い人の口語体の文章を読むことが多かったが、文豪の迫力と表現力を改めて感じた。遠藤周作作品をもっと読みたい。
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「絶対的な正義なんてこの社会にないということさ。戦争と戦後とのおかげで、ぼくたちは、どんな正しい考えも、限界を越えると悪になることを、たっぷり知らされたじゃないか。君があの記事を書く。それは君にとって正しいかもしれない。しかし、君はそのためにあの医者がこの新宿の人々からどんな眼で今後、見られるか考えたかい」(358)
Posted by ブクログ
昭和32年に発表された海と毒薬からほぼ20年後に書かれた後日談。読んだのは、昭和56年発行の7刷。
読後、涙が。悲しすぎる。おバカさんで読んだガストンがキリストの再来かのような立ち位置で描かれている。勝呂医師の悲しみが若い新聞記者の折戸にはわからない。わかるはずもない。大学教授の矢野の表裏の顔。人間はひとつの偶然に、のればあるいは置かれた状況しだいでどんな悪をもやれる存在だ。それは水が低きにつくようなものでいかんともしがたい。そんなやんわりとした意図が悲哀とともに書かれてる。つらい。
Posted by ブクログ
凄まじい本でした。学生時代に「海と毒薬」を読み、衝撃を受け、勢いでこの本を買いましたが、何となく本棚の奥で眠らせたままでした。今回、何気なく手にとり読んでみましたが、生きることの染み込んでいくような悲しみの存在を感じさせられました。勝呂の罪を背負い、傷ついてきたからこそ発揮できる優しさは世間には認められず、折戸の正論が持ちうる暴力が正当化される世界。よく考えるとこの社会は自分が持ちうる優しさや繊細さを誤魔化せない人が迷い苦しみ、何でも自分に都合がよい正論で白黒をつけて、周囲に構わず突き進むタイプの人間がどんどん地位を築いていく。今も昔も何も変わってない。
勝呂が死を選ぶのは彼の生涯を考えると、至極当然のことなんだけど、その権利はなくても幸せになって欲しかった。ガストンが勝呂が天国に行くと言ってくれたのがせめてもの救い。そして折戸が貴和子に結婚を断られたのも、まだこの世界を信じさせてくれる。ただ、それらのこともこの社会の仕組みの不条理の前では何の意味もなさない気がして、本当に無力感を感じさせられました。最後、ガストンが無償の優しさを与える描写があったり、噴水に当たる光の描写があったり、この世界の希望を匂わせるのですが、自分には何が希望になるのか結局この小説からは掴めなかった。その分、この小説が描く社会にリアリティーを感じました。
作者の遠藤さんはキリスト教信者みたいですが、同じく信者のsunny day real estateの音楽が奏でる世界観にやはり近いです。人間の汚れや穢れを表現し、その裏にある人間の真の美しさや希望に迫ろうとしている気がします。しかし、結局何が美しさ、希望になるのか、自分にはまだ分かりません。
Posted by ブクログ
『海と毒薬』の続編です。
NSFMさんのレビューがきっかけでこの本を知り、ヒボさんに応援されながらこの本を読みました。お二人ともありがとうございました。
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戦後の日本の暗い部分にすっぽりと収まってひっそりと暮らす勝呂。戦犯として罪を償った後も医師を続けている彼は、フランス人のガストンから、ある老人の診察を頼まれます。癌の苦しみから老人を救うために勝呂が選択したことを、新聞記者の折戸は彼の過去と同様に追い詰めます。折戸の正義感は一種の暴力のようなものに感じることがありました。
「断ろうと思えば、断れたんだが······」という勝呂の言葉から、昔のこととして開き直って、今も医師を続けていると受け止めた折戸。「人生を単純に割りきっている青年」に「人が誰かを救う」ことが本当にできるかどうかを伝えることは無理だと思う勝呂。
正義を振りかざすことが、本当の正義なのか。罪を償って、更に罪を背負って生きていくことは赦されないことなのか。考えるうちに、時代と環境が起こしたあの事件が重くのしかかってきました。罪と罰について、熟考させられる読書になりました。
この二人の他にも、ろくでもない学生達の考え方や、裏表の激しい大学教授の外面の良さ、その大学教授の娘のなげやりな行動などが多くのページで書かれていました。罰せられない正義ではない行動と、罰せられた正義ではない行動についての違いは、人の死を操ったことだと思いますが、何か釈然としないものを感じました。それと共に、正義を振りかざすだけの人は、他人からいつのまにか壁が作られていることにも気づかないということに、哀れみを感じました。
この本のなかで唯一の救いのような人物は、フランス人のガストンでした。不自由な日本語で懸命に純粋な気持ちで人を助けようとします。誰かの笑顔が見られればそれでいいという生き方。最後まで勝呂にも寄り添った彼の「ふぁーい」という返事が、頭のなかに響きました。
勝呂があの事件の後にやってきた医師としての行動は、正しいことではないこともありますが、患者にとっては救いになった部分もあったはずだと思いました。そんな彼の最後の行動は、彼自身の救いになったのかもしれませんが、悲しんでくれる人がいたことに気づいて踏みとどまってほしかったと思いました。(この考え方は読者の私の独りよがりな考え方ですが···。)
読後、人を救うことと人を裁くことについては、どんな時代になっても考えていくべき問題だと思いました。遠藤周作が伝えたかったことは、考えて欲しいということだったのかもしれません。
Posted by ブクログ
「海と毒薬」の30年後を描いた後日談
以下、公式のあらすじ
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生きることの悲しみ。我々の生に内在する本質的な悲しみに向けられる眼差し。
『海と毒薬』から二十年後に書かれた「後日譚」。
米兵捕虜の生体解剖事件で戦犯となった過去を持つ中年の開業医と、正義の旗印をかかげて彼を追いつめる若い新聞記者。表と裏のまったく違うエセ文化人や、無気力なぐうたら学生。そして、愛することしか知らない無類のお人好しガストン……華やかな大都会、東京新宿で人々は輪舞のようにからみ合う。
――人間の弱さと悲しみを見つめ、荒涼とした現代に優しく生きるとは何かを問う。
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勝呂の他に様々な登場人物の群像劇になっている
戦犯のその後を追っている「正義」を掲げる新聞記者
他人を助けるのに躊躇いのないガストン
権威的な大学教授と、その娘
単位を貰おうとする幼稚な学生
新宿で狡猾に生きる少女
結局、この人達は物語に登場してから最後まで本質は変わらない
どうして人体実験を行ったのかという新聞記者 折戸の追求に対して、勝呂の返答は「疲れてたからとしか、言いようがない」
他の戦犯達の「上司の命令」や「軍部に逆らえなかった」という言い訳とは違っているが
むしろ、だからこそそんな答えに納得できない
折戸は戦犯達が政治家になったり社長になってたりと、過去の行いに世間も目をつぶっているのが許せない
そんな正義感の持ち主
自らの正当性を疑わず、四角四面な正義は時として危うい
過去に実験に参加して人を殺めた勝呂
過去の行為を悔いているようにも思えるが、人の命に対してどんな思いがあるのか
困り果てて訪れる妊婦の堕胎手術を行っているときには何を思うのか
医師の役目は人を救う事なのだとしたら
自分の行いは一体何なのかという問い
読者からしてみれば、勝呂こそが高潔な人間に思えるが
世間としては、過去に人体実験に参加した医師としか思われない
他の登場人物達は如何にも俗物で、自己の事しか考えていないように見える
そんな中で際立つガストンの善良さ
そして、そんなガストンとイエス・キリストを重ね合わせて
ガストンから善性を認められる勝呂という構図
キリスト教の人達、怒るんじゃないかなぁ……
前にも書いたけど、善と悪の基準や倫理なんて社会の変化に伴って変わってくるもの
今は一部の国と地域でしか認められていない安楽死にしても
いずれ世界中で認められる時代が来る予感がする
勝呂が過去に行った事、患者の望みのまま堕胎し続けた事、末期の患者を楽にしてあげたこと
これらのいずれの行為も、時代の価値観により批難されるだけで、絶対的な悪ではないんだよなぁ
勝呂の最後の選択に関しては納得感もあるけど
今までそれを選ばなかったのは、そのギリギリに立っていたからなのだろうか?
むしろ、そんな選択をした状況が「疲れてたからとしか、言いようがない」ようにも思える
その前の、患者を楽にした行為にしてもそう
本当に、色々な意味で「疲れていた」んだろうな……
Posted by ブクログ
この小説に描かれているレベルの悲しみを、噛み締めることができるほどの経験が、まだできていない。
矢野教授のように、自分が偽善的だと反省することもなく、周りに偉そうにして生きている人間もいるし、折戸新聞記者のように、正義を振り回して人を不幸にする人もいて、世の中は正しいとか正しくないとかで決めつけられないのに、自分は同じような振る舞いをしていないか、考える。
今の時代は、新聞記事だけではなく、SNSで、正義感たっぷりに誹謗中傷している人がたくさんいる。
人が人を裁くということが、無くなればいいのだけれど、やっぱりそれが完全に無くなると社会が成り立たないのかな。
人生は悲しみに満ちているけど、最後まで生き抜かないといけないし、それには隣にいてくれる伴走者の存在が大きな助けになる。遠藤作品自体が、救いの役目も果たしているように感じる。
Posted by ブクログ
名作『海と毒薬』と『お馬鹿さん』を絡めた続編と言ってもいい作品。
私はそのどちらの作品も感銘を受けたけど、絡めているからこそ更に響くものがあり。
正義は時に人を苦しめるし、素直さが自分を苦しめる。
悲しい歌だ。
Posted by ブクログ
やるせない哀しみに満ちた作品。
後期の遠藤周作はとにかく読み易い。が、だからこそ簡易な表現や作中の一節に引力がある。
本作のイエス的人物であるガストン・ボナパルトの優しさ、暖かさから来る発言は特に印象的。
読まなくても通読に支障は無いと感じたが、やはり『海と毒薬』は通った方が、主題の理解に深みを与えると思う。
Posted by ブクログ
「海と毒薬」から20年の時間を経た1977年の
「悲しみの歌」新人医師だった勝呂医師はそれと同様に年齢を重ねている。
戦時中 米兵捕虜の生体解剖事件に関与し、戦犯となり罪を償った後、新宿でひっそりと開業していた。彼は過去の罪に縛られて虚無の中生きていた。
一人の若き新聞記者が彼の過去を掘り下げ、正義の記事として発表する。
そのような時、貧困の末期癌患者を受け入れ手当を続け、患者の安楽死の希望を受け入れる。
勝呂医師の背負い続ける罪の意識に対して、当時の自堕落な若者、社会的地位に固執する男、それに反発する娘、平然と生きている様子がおりこまれる。
そして、作者のイエスのイメージと思われるフランス人の青年が献身的で無条件な優しさで、登場する。彼は、悲しみに寄り添う。
ストーリーはわかりやすいですが、罪とは、悪意とは、贖罪とは、答えを得られるものではない。
勝呂医師の罪意識の持ち方や葛藤、あるいは無意識の行動は、日本人の典型に近いかもしれない。
Posted by ブクログ
"正義"とはなんだろう・・・?
言論の自由が保障されていて、何を考えていても、誰かに処罰されることなどない世界。一方で、世間の考えに反する意見を持つ者は、暴力をふるわれ、白い目を向けられる世界。
両者は同じ世界でも、そこで発言することの重みは違うと思う。殴られたり、家族に危害を加えられたり、職を失う可能性があったりすることがある場所で、その一線を踏み越えてはいけないと抵抗できる人はどれだけいるのだろう・・・。
「そんなこと、普通だったらしない。」口で言うのは簡単。ましてや、その状況にいなかった人ならなおさら。
同じ命を奪うことに対して、葛藤し、背負った重さを胸に秘め続けて生きていく人もいれば、自分の地位が脅かされることを恐れ、命の芽を潰し、その事を忘れて、同じ過ちを繰り返して生きている人もいる。
他者の心の中なんて、誰にも分からない。自分の中の"正義"を振りかざして、苦しみ、もがいている誰かを追いつめることだけはしたくないし、してはいけない。そんなことを感じた。
Posted by ブクログ
もう一回読み直したら、また違う感覚を覚えそう。すごく深い作品でした。
最後までガストンか助けてくれることを祈っていましたが、良くも悪くもキリストの思想。助けるというよりは寄り添う姿勢でした。
読後悲しい気持ちが残りました。
正しいだけでは生きていけない。それぞれの事情もわからないまま自分の正しさを相手に押し付けてはいけない。
どこかで勝呂とガストンとキミちゃん、そしておじいちゃんが救われることを祈っています。
Posted by ブクログ
ぐうたら学生、正義感にあふれた記者、仮装趣味の大学教授、毎日違う男に食事をたかる女などなど新宿の人々の群像劇。その中で「海と毒薬」の勝呂医師、「おバカさん」のガストンが出会うことになる。題名の通り全体的に悲しいやるせなさが漂っており、「おバカさん」よりは「海と毒薬」の続編ということなのだろう。
「海と毒薬」は誰でも状況さえ用意されれば人を殺すだろう、ということを書いていたが、「悲しみの歌」は人を殺すのにメスさえいらない、とさらに踏み込んでいるように思える。結局あの勝呂は人を殺してばかりの病院稼業と新聞記者折戸の厳しい追及に疲れ果てて自殺してしまうのだが、まるで現代のSNS私刑みたいでちょっと驚いた。勝呂にもガストンの愛は確かにそそがれていたのだが、それでもなお一人のお爺ちゃんと無数の胎児たち、戦争捕虜の殺人を背負って自殺する。これを仕方がないと取るか、やりきれないと取るかは意見の分かれるところだろうか。あのお爺ちゃんとのやり取りを読んでいるとどうしてもやりきれないと思ってしまうが…。
Posted by ブクログ
1958年の『海と毒薬』の続編=後日譚。新宿で小さな医院を経営するようになった勝呂が、さまざまな事情を抱えた患者たちと応対しているうちに、戦犯たちの「その後」を取材しようとする「正義派」の新聞記者によって追い詰められていく。『海と毒薬』の冒頭で記された事件以後の勝呂の生が、謎めいた外国人・ガストンとのかかわりを通じて読者の前に明らかにされていく部分が読みどころ。
週刊誌連載作ということもあって、とてもリーダブルで読みやすい。しかし、その分小説としては薄味になってしまっている。勝呂とガストンとキミ子以外の人物はあからさまに薄っぺらい人物として描かれていて——遊び呆ける大学生たち、メディアで言っていることとやっていることとが違うインテリ、「社会正義」というイメージに酔う新聞記者など——、それぞれの人物について、いかにも週刊誌的なスキャンダル・ジャーナリズムに通じる通俗的な挿話が展開されていく。また、勝呂の苦悩を浮上させるのが、ガストンとキミ子という穢れを知らない天使?的な存在というのも類型的。「俗情と結託した物語」と言うと酷だろうか。
Posted by ブクログ
どうしようもなく暗いテーマで、憂鬱のきわみになった。
『海と毒薬』の後日談。『おバカさん』のガストン・ボナパルト再登場。ストーリーはさほど変化に富んではいない、だけど読まずにおれず、最後まで引っぱっていかれるすごさ。
人間、生きていくのにどうしょうもない矛盾をかかえているというのは、夏目漱石の作品を読み継いで来ても強く思うことだけど、そこに文学の楽しみもあるからなんだかおかしい。
しみじみしたり、癒されたり、「わっははは」と愉快になったり、スリルとサスペンスもいいけど、深く深く考える動作も必要なのだ。
時には暗く憂鬱になって、考えに考え、闇の中の燭光のようなもが仄見えはしないかと、いつも期待しているのも読書である。