遠藤周作のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレカトリックの幼稚園に行っていたこともあって、キリスト教には小さな頃から興味があった。
そして『海と毒薬』を書いた遠藤先生が、聖書に登場する女性たちのことをどう描くのか。
それが気になって手に取ってみた。
遠藤先生の文章はするする入ってくる読みやすい文章なので、今回のエッセイもとても親しみが持てた。
聖書の文章は堅苦しいので、ここまで噛み砕いてくれると分かりやすい。
そして、キリストが満たされた女性ではなく、病気の人や娼婦など、苦しみをよく知る人たちにこそ寄り添っていたことに今更ながら驚かされた。
確かに、金持ちや成功者は出てこない。
本当に今更ながらの指摘だったのに目から鱗だった。
あの聖母マリアでさえ、先生の解釈にかかれば「満たされた女性」にはならないのだから。
終盤は聖書に限らず、先生の日記風なエッセイに。
でもそこにも宗教が息づいていたのを感じた。
孤独を感じた時、聖書ではなく、この本を開きたくなる、そんな一冊だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ『海と毒薬』は、人間の醜さをこれでもかというくらい見せつけてくる小説だった。しかも、「こんな残酷な人間がいる」という描き方ではない。登場人物たちは、どこにでもいそうな普通の人間に見える。自分を守りたい、面倒なことには関わりたくない、周りに逆らいたくない。そういう誰にでもありそうな感情が少しずつ積み重なって、禁忌を犯してしまう。
一方で、作中で描かれる解剖そのものには、思っていたほど強い衝撃を受けなかった。
もちろん、当時この作品が書かれた時代を考えれば、生きた人体を切り開き、実際に手を動かしていく描写は、かなり衝撃的で倫理に反する行いだったのではないかと思う。
しかし、現代に生きる自分は、ホラー映画やスプラッター映画などで、もっと直接的で刺激の強い映像に慣れてしまっている。そのせいなのか、解剖の場面を読んでも「思ったよりパンチがない」と感じてしまった。
ただ、その感覚と、解剖を前にして苦悩する登場人物たちとの間にあるギャップが、逆に印象に残った。
読み進めるうちにじわじわと恐怖や嫌悪感を感じさせられる。まさに手に汗握るように。それはやはり、遠藤周作の丁寧な心情描写によるものなのだと思う。
描写として強烈に残ったのが、病院の匂いだった。
病院の描写というと、白い壁やベッド、医療器具など、目に見えるものを想像しがちだけれど、この作品では匂いが妙に記憶に残る。消毒薬のような匂いや、病院特有の、生きている人間と死に近い場所が混ざったような匂い。
匂いという目に見えないものをここまで具体的に感じさせる描写が印象的だった。読者に不快感を抱かせながら、その不快感さえも作品の空気として取り込んでしまうところに、遠藤周作の巧さを感じた。
文章を読んでいるだけなのに、病院の空気が鼻の奥に入ってくるような感覚がある。そして、その匂いが作品全体の不穏さとものすごく合っている。
病院は本来、人を治すための場所なのに、そこには常に死も存在している。その空間の中で、人間の命を扱うはずの人間たちが、少しずつ倫理から外れていく。その対比もかなり不気味だった。
何より怖いのは、この作品が「人間は残酷だ」と単純に描いて終わらないところだと思う。
登場人物たちは、最初から特別に残酷な人間だったわけではない。弱かったり、臆病だったり、周りに流されたり、自分を正当化したりする。そういう、むしろ普通の人間らしい部分が、状況によって恐ろしい方向へ向かってしまう。
そのため読んでいると、「なんでそんなことができるんだ」と思う一方で、「自分だったら絶対に違うと言えるのか」とも考えさせられる。
解剖の描写そのものよりも、むしろその後に残ったこの感覚のほうが、私にはずっと怖かった。人間が自分の弱さによって倫理を手放していく過程とは、実に緩やかで自然な現象なのだ。
心の中にずん、と重いものが残ったような読後感もたまらない。その「嫌な感じ」こそが、この作品のすごさなのだと思う。解剖という題材の刺激よりも、人間の弱さや醜さを生々しく見せつけられることのほうが、ずっと後を引く。
『海と毒薬』は、人間を嫌いになりそうなほど人間そのものを描いた小説だった。素晴らしい作品だった。 -
Posted by ブクログ
日本にとって外国がいまよりもずっと遠かった時代に、社会に先駈けてヨーロッパへ「留学」した3名の日本人を主人公にした3篇。なかでも個人的に印象に残っている作品が、荒木トマスを主人公とした「留学生」である。わたしはまったく知らなかったのであるが、この荒木は実在の人物で、江戸時代前期にローマに留学してキリスト教の司祭となるも、帰国後「転び」、長崎奉行所に出仕して、幕府の禁教政策に協力するようになったという。もちろんフィクションなので細かい感情などは著者の創作が多分に含まれているのであろうが、大志を抱いてキリスト教を学んだ人物――しかも当時わざわざ留学するというのはエリート中のエリートであろう――が、帰国後みずからの身を守るために、せっかく学んだ信仰をみすみす棄てざるをえなかった心境は、察するに余りある。ただ、この作品が巧いのは、たんに棄教を強いられて残念無念、かわいそうという感情の一辺倒になっていないところである。荒木は最後まで抵抗しつつやむなく棄教したという雰囲気ではなく、むしろ留学中から将来を案じて、胸がつかえるような思いを抱きながら宗教活動を続けている。そのような自分が正しいのであろうかとずいぶん煩悶したに違いない。歴史の教科書では棄教した宣教師がいたとサラッと流されてしまうが、このような複雑な感情の到達点として棄教があったのであろう。この感情の描写の巧みさはさすが遠藤周作といった趣である。
-
Posted by ブクログ
ネタバレこの本は、新約聖書を研究する中で明らかになった実際の出来事と、聖書として語られている内容を分析しながら、ひとつの物語として構成されている。新約聖書についてほとんど知らない私でも、何が実際に起こったと考えられる出来事で、何が後から演出・脚色されたものなのかをたどることができる、わかりやすい構成になっていた。
特に、キリスト教のような西洋から輸入された思想は、日本人にとって心から共感できるものなのかという疑問を、私自身も抱いたことがあった。本作では、それと同じ疑問を抱く人物が主人公として登場し、物語が進んでいく。
私自身も西洋への憧れから留学を考えたことがあったが、文化や宗教の違いを考えると、どうしても心から共感できるものではないのではないかと思い、諦めた経験がある。そのため、主人公が抱えるキリスト教への距離感や疑問には、どこか自分と重なるものを感じた。
本の中では、実際にはみじめな存在だったイエスや、奇跡を起こせなかったこと、周囲から下げすまされていたことなどが描かれている。また、現実に存在していた、わびしく、ずるく、薄汚れた人々の姿とイエスの姿がうっすらと重ねられるような描写も印象的だった。主人公のイエスへの失望と、それでもなおイエスを諦めることができないのはなぜなのかという葛藤が描かれており、そこには学者としての人生の使い方や、小説家としての迷いも重なっている。そのため、物語でありながら非常にリアルな時間の流れを感じることができた。
また、『沈黙』から続く作品としての重要な位置づけも感じられ、遠藤周作がイエスを「永遠の同行者」として捉えていることを知ることができた。キリスト教についてほとんど知らない私でも、遠藤周作がキリスト教をどのように捉えていたのか、その思想の一端を垣間見ることができた。 -
Posted by ブクログ
遠藤周作や三浦綾子はクリスチャン作家として有名であるが、彼等の作品に共通するテーマとして「愛」や「赦し」がある。
この「わたしが・棄てた・女」は森田ミツの「愛」を描いた物語である。
主人公の吉岡努と出会ってから彼女の人生は一変する。
ハンセン病についても書かれており、当時の排他的な差別がミツを苦しめた。
ミツの感情はジェットコースターのように揺さぶられドン底まで落ちてしまう。なぜ自分だけこんなに苦しい思いをしないといけないのか、と神をも恨む。
客観的にみれば森田ミツの人生は不幸で不憫なものであるが、はたして本当にそうなのだろうか。
不幸で不憫な人間が他人に対して愛を与えることができるだろうか。
この物語に希望はあるのか。
愛について考えさせられる作品だ。
-
Posted by ブクログ
ネタバレ読み始めてまず印象に残ったのは、作品全体に漂う独特の不穏な空気だった。ミステリーというわけではないのに、先に何が起こるのかという緊張感がずっとある。読み終わってから振り返ると、冒頭の外国人のマネキンに対する独特な表現や、ガソリンスタンドの人間などが口にする「戦争に行ったのだから、人を殺したことくらいある」というような言葉も、後に起こることをどこかで暗示していたように思えて、何気ない描写の一つ一つにゾッとした。最初からすべてを理解していたわけではなく、読み終えた後だからこそ意味が変わって見えるところが面白かった。
もっとも、この作品を読んで一番考えさせられたのは、やはり「良心とは何なのか」ということである。人体解剖という題材だけを見ると、人間を解剖することの倫理性を問う作品のようにも思えるが、実際に描かれているのはもっと複雑なものだと思う。なぜ人は、自分では間違っていると思っていることに加担してしまうのか。何をもって「これはやってはいけない」と判断するのか。その判断を支えているものは何なのか。そこまで掘り下げている作品だと感じた。
そのことを考えるうえで、勝呂の存在が非常に興味深かった。勝呂は最初から人命を軽視していたわけではなく、むしろ患者を救いたいという思いを持っている。だからこそ、人体解剖を拒むこともできたはずなのに、なぜ拒まなかったのかが気になった。
私は、勝呂は単純に「悪に染まった」のではなく、自分が信じていた正義や良心を、現実の中で維持できなくなったのではないかと思った。目の前の患者を救いたいという思いがあり、そのために努力していた。それでも救えない現実に直面し、自分の善意だけではどうにもならないことを知ってしまう。そのとき、「それでも自分は正しくあり続ける」というより、「もうどうにでもなれ」という方向に傾いてしまったのではないか。良心を捨てようと決意したというより、良心を信じること自体を諦めてしまった、と考えると勝呂の行動が少し違って見えてくる。
そこから、作中の「神」の扱いも興味深く感じた。日本人の多くは、宗教的な意味で絶対的な神を信じて生きているわけではない。そうだとすると、自分が何を守るべきなのか、何が正しいのかを判断する最後の拠り所は、自分自身の良心になる。勝呂にとって、目の前で救いたいと思っていた患者は、一時的にその「神」のような存在だったのではないかと思う。抽象的な神を信じるのではなく、目の前の現実の中から「自分はこの人を救うべきだ」という精神的な支柱を作っていた。しかし、その支柱を失ったことで、何を信じていいのかわからなくなった。カトリックを信仰する人物との対比も含め、絶対的なものを外部に持つ人間と、自分自身の良心を拠り所にするしかない人間の違いが描かれているように感じた。
上田看護師についても、過去の出来事が現在の人格にどう影響しているのかを考えさせられた。もしあのとき死産をしていなければ、彼女は違う人間になっていたのではないか。そう考えると、良心や倫理観というものは、最初から人間の中に完成された形で存在するものではなく、経験や喪失によって形を変えていくものなのだと思う。
そして、個人的にこの作品の怖さを最も感じたのは、登場人物たちが人体解剖に「いきいきと」積極的に参加しているわけではないことだった。むしろ、どこかおかしいと思いながらも、はっきりと拒絶するほどの強い信念がなく、なんとなくその場に流されていく。その「なんとなく」が積み重なって、最終的には人を殺すことにまでつながってしまう。ここは今の社会にも通じるところだと思う。人間は、必ずしも「悪いことをしよう」と思って悪いことをするわけではない。「おかしいとは思うけれど」「自分だけ逆らうわけにはいかない」「みんなやっているから」と判断を少しずつ他人や状況に預けていく。その結果、自分の中では一度も明確に「人を傷つけよう」と決意していないのに、取り返しのつかないところまで行ってしまう。
だから、『海と毒薬』を読んで最後に残ったのは、人体実験の是非そのものより、「自分ならどこで拒むことができただろうか」という問いだった。良心を持っていることと、良心に従い続けられることは同じではない。自分の中にある「これは間違っている」という感覚を、周囲や状況に流されずに最後まで守れるのか。
この作品は、人間の残酷さを描いているというより、むしろ人間が良心を失っていく、その過程の怖さを描いているのだと思う。だからこそ、戦時中の特殊な事件を扱った作品でありながら、読み終えたあとに残るのは「彼らは異常だった」という感想ではなく、「自分も同じ状況に置かれたらどうなるのだろう」という、少し嫌な問いなのだと思った。 -
Posted by ブクログ
「深い河」のような群像劇みたいな作品だった。
勝呂、ガストンとその他の人々の生き方の対比、他人を思う生き方と自分のことばかりの生き方の対比をみているようだった。
勝呂の生き方がつらい。命を助けたい、人を助けたいと思っているのに命を奪ってしまうこともつらいし、戦時中という異常時に人体実験に携わることになってしまったことで、こんなに後ろ指さされて生きて行かなきゃいけないこともつらい。
同じ状況に立たされたら誰でもも携わることになったのではないかと思うだけに、そんなにみんなから追われなければならないのかとつらい。
そしてガストンと勝呂の関わりをみてると、人を救うことは難しいと思う。すっきりと解決してあげられることはほとんどないと言っていい。少しだけその人の心を温められばいい、というくらい。みんな非力。