遠藤周作のレビュー一覧
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ネタバレやや性差別的な表現・性的少数者への攻撃ともとられかねない表現があるものの、その時代にあって、倫理的に恋愛を説こうとした誠実な本だと思った。
神話のなかに見られる恋愛の、非常にピュアな「この人にさわってみたい」というやわらかな性欲の描写はなんだかとてもうらやましかった。
男性が感じる性衝動と女性が感じる性衝動の違いについては、「信じるしか無い」部分があり難しいのだが、性行為へのリスクの違いを述べている点は非常にいいと思った。いかに避妊の技術が進化したといえども、妊娠/堕胎/出産による女性の心身への影響が甚大であることは想像に容易い。肉体的には女性に負担が偏った行為なのだ。異性間の性行為において、リスクは不平等であるという前提なしに恋愛は語れないと再確認した。
また、行き過ぎた純愛によって結ばれない物語や醒め切ったまなざしによって結ばれない物語も非常に示唆に富んでいて、よかった。しかし、私は愛にあこがれてばかりいて、恋のことは何も考えようとしていなかったのかもしれないと、すこし途方に暮れている。 -
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ネタバレ2021/6/29
長崎に行くことがあり、再読。
前に読んだ時より、コルベ神父の存在を強く感じた。
ヘンリックに与えた小さな変化は他の誰かにとっての大きな変化。人を少しでも変えるほど影響力を持ったコルベ神父はやっぱりすごい。
結末はわかっているのに後半読み急いでしまった。
今回は修平に寄って読んでしまう。どうにもならない運命に理由をつけて進んでいく。矛盾してることはわかっていても抗えない運命を受け入れる。
キリスト教はつくづく受け止める受動的な宗教だなと思った。
そは求むるところなき愛なり、これに尽きる。
かなり昔に読んだきりだった為、再読。
前より面白かった気がする。
キクの時と比べて話があっちこっちに行くので、サチ子に思い入れがしにくく、前は少し苦手だったところを今回は乗り越えられた。
キクと同じくイエス様もマリア様もいちばん大切なものを助けてくれない。それでもサチ子は最後まで祈る。在るものの中から幸せを見つけて、それに対して感謝する。
人生はこの形でいいのだと耐えていた。という言葉で遠藤周作の作品の全てに通じるものを見た気がします。
それでも修平とコルベ神父に何か救いを見せて欲しかったな。ヘンリック等々で救われるという解釈もできますが。でもこの感じがいいんだよなー… -
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映画の「沈黙-サイレンス」を先日観た。
小説の「イエスの生涯」を先日読んだ。
その流れで、本書を手に取ることに。
映画も小説も遠藤氏は、「神の沈黙」という事をテーマにされているんですね。
ステファノの事件
エルサレムの会合
アンティオケの事件
この流れがキリスト(教になる節目)を誕生させる物語などは、初めて知る内容だけに面白かった中、登場人物のポーロが一番気になった。
ビジネス社会でベンチャー企業だと、ある程度の規模から鈍化することがあっても、熱く猛る信念で、常識を超えて突き進んでいく人が、ある意味無茶苦茶に引っ張る瞬間、異常な壁を軽々と越える時がある。
それも名もなき人達だったりする。
いつの時代も、目立つ人だけが歴史や本道を作るわけじゃない。
イエスの使徒たち皆が、分かっていながらも「何か」に縛られている間に、ポーロという人の持つ、清々しい程の行動力という一点突破で、「ナザレのイエスの物語」だったものを、「イエス・キリストの物語」だけ集約し、昇華させた気がした。
実話と想像と混在しているとは思いますが、実に心躍る一冊でした。 -
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2018.05.29再読しました。
前回この作品を読ませていただいた時は、お借りしていた本にもかかわらず、泪が止まらなくてページをぬらしてしまいました。まさに自分にとって人生の教科書になる作品だったので、今回は泣かないように再読を試みましたが…
ムリでした(TT)
浦上四番崩れ。
今からわずか145年前までこんなにも酷い事が行われてたんですね。
何回読んでもキクの美しい愛と心に感動します!
そして、「女の一生」、「沈黙」を読んだ時にも深く考えさせられる神の存在。
神は存在するのか?カタチはあるのか?と言う事。
わたくしの勝手な考えなのですが、神ってその人の人生なのではないか?と思うんです。その人がどうやって生きてきたか、によって神の存在を知る人、知らない人がいて、カタチを創る人創らない人もいて。
たぶん、その存在を信仰できる方たちはとてもステキな人生の持ち主なんだと思います。
キクもきっと人生という神様に出会えたのではないでしょうか。
決して汚れのない美しい人生だったと思います。 -
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三章仕立てですが、前半部を工藤と荒木トマスの類似、後半部を田中とサド侯爵の対比として読みました。
作中人物たちの葛藤が解消不可能であるだけに、バッドエンドであろうとわかっていながら、それでも救われてほしいという願いを込め、頁をめくりつづけました。「虚無に祈るような」と形容すれば良いのでしょうか、読者にこうした姿勢をとらせるのは、遠藤周作の作品に特徴的であるように思えます。
さらにいえば、この姿勢に、作中人物、あるいは作者自身が異教ーつまりはキリスト教、あえてここでは「異教」と記しますがーの洗礼を受けながら、自らの信仰と対峙しており、自分自身が祈る先には、偽りを隠せない信仰の前には、何者も存在しないのだということを半ば悟りながら、それでも何かはわからない、地に足のつかないものに救いを求め、いつまでたっても誰からも「よそ者」となってしまう姿が、オーバーラップしているようにも思えます。
「留学」と聞けば、一般的に華やかなイメージが想起されます。実際、作中人物も「留学」を目の当たりににするまで、それにあらゆる希望を見出していました。しかし、現実はどうでしょうか。作者は実体験を下地に、その偽らざる姿を描き、また問います。留学とは、かくも人を疲労の底へ、ゆっくりと、しかし確実に引きずり落とすのだと。それは一体いかなる理由からでしょうか。
工藤、荒木トマス、田中は、一見するところ、いずれも西洋に留学をしたという共通点以外は無縁といえます。生きる時代も、留学をした年齢も、留学目的も異なる。けれども、彼らは同じ結論に至っています。それはつまり、西洋と彼らの間にはいかなる紐帯もないということ。そこに影を落とすのは、永遠の暗闇であり、救いの光が照らすことはないのです。
彼らが根無し草であるのは、その土地やその文化に対してというだけでなく、彼ら自身の信条に対しても同様であり、意図してか意図せずしてか、ある種宿命的に、異教信仰や外国文学研究が今や彼らの自己同一性を担保する重大要素であるがために、この疎外感は尚一層深刻なのであり、そのために彼らの身は削られていくのです。(「宿命」は、作者の作品を解釈するキーワードとなりそうです。)
この作品は絶対的なバッドエンドのようにも思えますが、田中は大体このようなこともいいます。日本人がサドを研究する必然性はなくとも、サド所縁の地に赴けば、その地を舐めまわしたい衝動に駆られる。これだけは確かであり、またサドの屋敷に残る赤色の塗料をみて、こうも思うのです。
「しかし、俺に、この消すことのできぬ朱色はあるだろうか。決して亡びることのない朱の一点がほしい」。
彼は絶望しながら、やはりこうして希望するのです。
サドの城を前にして、男がひとり。降りしきる真っ白な雪の一点を溶かす、真っ赤な血。トロカデロをまわる向坂の横顔とともに、非常に印象に残った情景です。
(向坂は、「我々は別の血液型の人から血はもらえない」といっています。田中が日本に残した息子を恋しく思っても、妻のことを忘れてしまうように、「血」もまた、作者の中心課題であるようです。)
理解というのは、理解可能なことを理解するという意味ではないはずです。それはもう理解されたものであり、理解の対象とはなりません。まったく異質なもの、理解不可能なものを理解してこそ、理解となるならば、読者もまた、作者とともに祈るでしょう。彼らがどんなに無様であっても、その血が「朱の一点」であったら、と。 -
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ネタバレこの小説は二つの話が交互に出てくる。
一つは現代(といっても戦後30年後くらいの話だが)においてかつてキリスト教系の大学に通っていたが、信仰を捨てた(あるいは見失った)、同級生だった二人の中年の男がイエス・キリストの足跡を辿る旅をする。
もう一つは過去のイエス・キリストの生涯が書かれている。
過去の話は実際にイエス・キリストと出会った人々が彼に対して何を感じたのか、ということに焦点が当たっているように思える。現代においては聖書やその足跡を辿って見えてくるイエス・キリストに対して何を感じるかということが主題に感じた。ただ、現代においては、後半はネズミと呼ばれる神学校時代の修道士に焦点が当たってくる。
ここで過去の話に出て来るイエス・キリストは、奇跡も起こせないただ愛を説くだけの無能な人間として描かれている。そして、それは現代においてもそう見えるように描かれている。
これは従来のキリスト像を持っている人にとってもしかしたら強烈なイメージを植え付けるかもしれないが、単にキリスト教への信仰というものを一度フラットに考えさせるためであると思う。
奇跡を起こせないキリストが何故信仰を得るに至ったか。それを過去に出会った人の心情と現代における棄教者の旅を通じて描かれている。
私はキリスト教徒ではない。しかし、キリスト教徒の気持ちが知りたいとは思う。彼等は奇跡ゆえにイエスを信仰するようになったのか。ただ、それはおかしな話で奇跡を起こすから家族を愛するのか。奇跡を起こすから他人を愛するのか。そんな自己利益のためだけに人を愛するのか。そうではないだろう。人を愛するという行為はそうではなくもっと呪いに近いように語られている
(『「あなたは忘れないでしょう。わたしが一度、その人生を横切ったならば、その人はわたしを忘れないでしょう」
「なぜ」
「わたしが、その人をいつまでも愛するからです」』
250ページ)
小説内に明示されている謎は以下の二つだ。
・「なぜキリストは死ななくてはならなかったのか」
・過去と現代において「なぜキリストを信仰し、一度捨て、再度信仰するのに至るのか」
「なぜキリストは死ななくてはならなかったのか」については、作中でキリスト自身が発言している
『(すべての死の苦痛を、われにあたえたまえ
もし、それによりて
病める者、幼き者、老いたるたちのくるしみが
とり除かるるならば)』
『「もっとも、みじめな、もっとも苦しい死を……」』
(359ページ)
というのが全てなのかもしれない。彼は愛のために生きた。だから、最後は愛ゆえに、全ての人類の罪を背負って死ななくてはならない。仮にそれが無意味な行為だとしても。
だが、結局のところ「愛」とは何なのだろうか。自己犠牲の利他的な行動、共に苦しみ、共に悲しむことが単なる「愛」なのだろうか。神の愛は無償の愛だとして、人間の及ぶところではないとしたら。所謂神の救いや奇跡の類は愛ではないとして、我々は何を信じればいいのか。正義とは、正しさとは。もしかしたら、それを知っているのはイエスだけなのかもしれない。どことなく終末思想にすら感じた。イエスは神の怒りや律法に耐えかねて愛を求めた(150ページ)。そこに必要だったのは「愛」。経済でも子孫でも科学でもパンでも人類の永遠の発展でもなく「愛」。
過去と現代において「なぜキリストを信仰し、一度捨て、再度信仰するのに至るのか」について。
まずなぜ信仰を得るのかについては、過去においては単純にキリストの優しさや人となりに触れたからだろう。現代において、「私」は親がそうさせたからというのが分かる(ちなみに、これは遠藤周作本人もそうらしい)。戸田については分からない。何か強烈な体験があったのだろうか。
なぜ信仰を捨てるのかについては、過去においては、その惨めな奇跡も起こせないキリストの姿に失望したからであると書かれている。現代において、「私」については具体的には書かれなかったが、戦争体験やその後の小説家人生を経て、徐々にキリスト像を見失っていたのかもしれない(ただ、「私」は学生時代からそこまで深く信仰していたわけではない)。戸田については、聖書の研究をしていくうちに、従来イメージしていたキリスト像とかけ離れた現実のキリストが見えてきて、失望したのかもしれない。この二人は信仰の大きさに違いがあれども、ともにキリストを見失うというのが面白い。「私」は奇跡も起こせないキリストに失望するが、戸田については仮に理想像と現実がかけ離れていたとしても、そこまで失望してしまったのだろうか。
そして、過去においても現代においても、再度信仰を得ることになる。ここでいう信仰は一度所持していた、ある意味で盲目的な信仰とは異なる。キリストが愛ゆえにその人の人生を横切ったために、キリストに付きまとわれ、囚われ、忘れることができなくなる。そして、人によっては、愛ある行動を他の人にも行っていくのかもしれない。
やっぱり難しいと思うのが、キリストが言う「愛」の意味が自分でもよく分かっていないからかもしれない。また、その「愛」に殉じて生きることの意味、正しさ、正義、ひいては人生の意味。それがうまく自分の中でも答えが出てこない。そして、これからも戦い続け、消耗していくのかも。
この作品は「イエスの生涯」と表裏一体と作者が仰っているので、引き続き読んでいきたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ史実にある部分とフィクションを織り交ぜて、フランス革命前後を実におもしろく描いています。しかしここで言う「フィクション」とは、虚構とはまた違ったものだと思います。
史実にある点と点をつなぐ時に、「どうやったらこの点がつながり得るか」というあたりを実にクールに、そして情熱的に考えてできたのがこの作品なのではないでしょうか。
ハイライトは「首飾り事件」辺りだと思います。史実は史実としてちゃんと記述し、その裏事情をおもしろく、そして緻密に描いています。山師カリオストロを黒幕として登場させたあたりはさすがとしか言いようがありません。
主人公は題名の通りですが、たくさんの登場人物が作者に命を吹き込まれ、生き生きと動いています。実によく作られた群像劇だと言っていいと思います。 -
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再評価されるべき逸材、遠藤周作
遠藤周作は自身の信仰に疑問を持っていた。作家活動は自己肯定感を得るための試行錯誤である。その活動の一里塚たる作品が「母なるもの」ではなかろうか。隠れキリシタンの信仰は、本家バチカンから見たらはるかに程遠いもの。しかし、遠藤は「これで、いいのではなかろうか」と肯定感を見出した。隠れキリシタン信仰の神秘性と隠匿性をもって地域が結束していたをの確認したから。そこから、遠藤は自身の母親との関係にも思いを馳せる。
目に見える成果や舌先三寸の刹那的芸当ばかり持て囃され、そうでなければバッサリ切り捨てられる昨今。遠藤周作のような、人間の弱さを学識と宗教観で試行錯誤して書きたてる作家はもっと再評価されても良い。
その実、彼の代表作「沈黙」が映画化され、封切間近である。洋画のためか、遠藤の関係者との見識に違いもあり、埋まることはなかったそうだ。それでも、遠藤周作の再評価の前途が明るくなったことに相違ない。