遠藤周作のレビュー一覧
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三章仕立てですが、前半部を工藤と荒木トマスの類似、後半部を田中とサド侯爵の対比として読みました。
作中人物たちの葛藤が解消不可能であるだけに、バッドエンドであろうとわかっていながら、それでも救われてほしいという願いを込め、頁をめくりつづけました。「虚無に祈るような」と形容すれば良いのでしょうか、読者にこうした姿勢をとらせるのは、遠藤周作の作品に特徴的であるように思えます。
さらにいえば、この姿勢に、作中人物、あるいは作者自身が異教ーつまりはキリスト教、あえてここでは「異教」と記しますがーの洗礼を受けながら、自らの信仰と対峙しており、自分自身が祈る先には、偽りを隠せない信仰の前には、何者 -
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物凄く面白かった。キリスト教との関わりの中から、他の作品と同じように、日本人の本質をことごとく見事にあぶりだした作品だったと感じる。
30年近く日本で布教活動をしてきたヴァレンテ神父の「日本人はこの世界の中で最も我々の信仰に向かぬ者達です。彼らにとってもし、人間以上のものがあったとしても、それは人間がいつかなれるようなものです。たとえば彼らの仏とは、人間が迷いを棄てた時になれる存在です。日本人は決して1人では生きていません。彼の背後には村があり、家があり、彼の死んだ父母や祖先がいて、彼らはまるで生きた生命のように彼と強く結びついているのです。一時的にであれ改宗したはずの彼が、棄教してもとに戻 -
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ネタバレこの小説は二つの話が交互に出てくる。
一つは現代(といっても戦後30年後くらいの話だが)においてかつてキリスト教系の大学に通っていたが、信仰を捨てた(あるいは見失った)、同級生だった二人の中年の男がイエス・キリストの足跡を辿る旅をする。
もう一つは過去のイエス・キリストの生涯が書かれている。
過去の話は実際にイエス・キリストと出会った人々が彼に対して何を感じたのか、ということに焦点が当たっているように思える。現代においては聖書やその足跡を辿って見えてくるイエス・キリストに対して何を感じるかということが主題に感じた。ただ、現代においては、後半はネズミと呼ばれる神学校時代の修道士に焦点が当 -
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ネタバレ史実にある部分とフィクションを織り交ぜて、フランス革命前後を実におもしろく描いています。しかしここで言う「フィクション」とは、虚構とはまた違ったものだと思います。
史実にある点と点をつなぐ時に、「どうやったらこの点がつながり得るか」というあたりを実にクールに、そして情熱的に考えてできたのがこの作品なのではないでしょうか。
ハイライトは「首飾り事件」辺りだと思います。史実は史実としてちゃんと記述し、その裏事情をおもしろく、そして緻密に描いています。山師カリオストロを黒幕として登場させたあたりはさすがとしか言いようがありません。
主人公は題名の通りですが、たくさんの登場人物が作者に命を吹き込まれ、 -
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最初は、これを書いたのが日本人だというのが、なんだか信じられなかった。
今まで何冊か読んできて、海外文学と日本文学の違いを分かったような気でいたのだけれど、実の所、そんなもの、ないのかもしれない。
ただ、「どんな環境で、どう考えてきたか」が、作者の、作品の、根になるだけなのかもしれない。
「どれほど信じても、救われない」ということが、基督教徒にとって、どれほどのことなのか。
基督教徒であるということが、この日本でそれを信じるということが、どれほど困難か。
けれど、だからこそ、これほどまでに、真摯になるものなのか。
もう少し、遠藤先生の作品を、読んでみようと思う。 -
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再評価されるべき逸材、遠藤周作
遠藤周作は自身の信仰に疑問を持っていた。作家活動は自己肯定感を得るための試行錯誤である。その活動の一里塚たる作品が「母なるもの」ではなかろうか。隠れキリシタンの信仰は、本家バチカンから見たらはるかに程遠いもの。しかし、遠藤は「これで、いいのではなかろうか」と肯定感を見出した。隠れキリシタン信仰の神秘性と隠匿性をもって地域が結束していたをの確認したから。そこから、遠藤は自身の母親との関係にも思いを馳せる。
目に見える成果や舌先三寸の刹那的芸当ばかり持て囃され、そうでなければバッサリ切り捨てられる昨今。遠藤周作のような、人間の弱さを学識と宗教観で試行錯誤して書きたてる作家はもっと再評価されても良 -
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古今百馬鹿、現代の快人物がお勧
「古今百馬鹿」「現代の快人物」で筆者は一気に肩の力が抜けたのだろう。読んでいる方も登場人物のバカバカしくも愛嬌のあるキャラに笑わざるを得ない。
「現代の快人物」は平成の世における「オタク」の原型たる人物が多数登場する。遠藤周作が愛した「決して世間的に成功しないが、愛嬌がある」人物たちは形を変えて生き延びていくのだろう。 -
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遠藤周作作品を読むと、一気に人間の幅が広がる気がする。
本題はもちろんのこと、聖書と関係ないが「ひよこ」という偏でも、非常に心とらわれた。「秋の日記」でも、著者の心に刻み込まれた、もうすぐ死期を迎える夫とその妻の手を握り合った姿。どんなに愛し合っていても、人は死から救い出すことはできない、という当たり前だけど受け入れるしかないつらい現実。そこから残されたものが救われるためのヒントやなにかが聖書にはあると思った。
誰も人を裁き、軽蔑する権力などもたない。それと同時に、相手の全てを理解するというのもできないのだと、しみじみと痛感させられる。当たり前の事実なのだが、過ぎていく日常の中で、私たちは驕っ -
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死海のほとりでイエスの足跡を辿る現代の旅と、イエスが迫害されゴルゴダの丘で処刑されるまでの過去の物語を交差させながら、奇跡の人ではない新しいキリスト像を提示しています。
弱者のそばに寄り添いともに苦しむことしかできなかったイエス、しかしそのことは常人にはできないことであり、苦しみを抱えた人たちにとって大きな慰めであったのは間違いないと思います。
この小説は、遠藤氏ご自身が一生を掛けて答を求め続けた「信仰とは何か」という問いかけと氏が到達したそれへの答が示されているのだと思います。圧倒的な文章力できわめて構築性の高い物語が形作られています。 -
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[その後の話]イエスの死に際して自らの弱さに苛まれたであろう彼の弟子たちは、何故にその後殉教をも恐れぬ熱心な信徒となったのか......。クリスチャンでもある著者が、回答定まらないその問いに答えようと、イエスの死後の弟子たちの歩みを再構成した作品です。著者は、本書と『イエスの生涯』を著したことで、さらなる思考が求められたと語る遠藤周作。
『イエスの生涯』を事前に読んでいたからでしょうか、遠藤氏の考える弟子像というものがすっと頭に入ってきました。その像がいわゆる正統の教義との関係でどう考えられるかまでコメントできる見識がないのですが、遠藤氏自身の自画像が非常に深く弟子像に投影されているように