遠藤周作のレビュー一覧

  • 反逆(上)

    Posted by ブクログ

    遠藤周作著、「反逆」上・下巻を読む:
    大河ドラマに出演している田中哲司という俳優が、荒木村重役をなかなか、うまく演じていたので、改めて、荒木村重を考察する過程でこの作品を知ったので、読むことにした。戦国大名というものは、全く、主君を選ぶことも命懸けであること、又、その一族郎党ともども、ひとつ間違えば、謂われのない、或いは理不尽な理由で、磔にもなってしまう。まるで、今日のサラリーマンの人事抗争さながら、もっとも、自己破産しようが、今日では、少なくとも、磔にはならずに済むから、まだましなことであろうか?
    小説というものは、ある種、作られたものであるとはいえ、当時の勝者の歴史、敗者の歴史をどれ程、反映しているかは、著者の歴史観にも関わって、おおいに、異なるところである。又、歴史上の古文書やら、後世に作成された伝聞書も、想像力と読み方次第では、不名誉な部分は、余り触れられず、おおいに面目を施した部分のみが、今日、歴史学上は、語られることが、おおいものである。それらの歴史学上の課題を見据えても、尚、今日的にも、なかなか、このタイトルの有する「反逆」なる言葉は、歴史上の人間関係の相関図を改めて、眺めても、面白いものがある。
    物語は、天正6年の荒木村重の叛乱に始まり、本能寺の変、山﨑の戦いを経て、天正11年までを大筋として、北の庄で、柴田勝家が秀吉により滅ぼされるところまでを、様々な人間関係の中で、その各人の心理状態を解きながら進められる。とりわけ、主君、織田信長を中心として、明智光秀・羽柴秀吉・丹羽長秀・柴田勝家・佐久間信盛・松永久秀・滝川一益・細川藤高・徳川家康・荒木村重・中川清秀・高山右近・足利義昭・朝廷、そして、武田信玄・上杉謙信・一向宗徒・顕如・毛利輝元・長曾我部元親・安国寺恵瓊・千利休ら茶人人脈・紀州雑賀衆、等、これらのきら星の如く居並ぶ人物達の中を、その友人関係・縁故関係・政治関係を、細かく、心理描写することで、何故、「反逆」を起こさざるを得なかったのかを小説風に書くものである。
    荒木村重は、何故に、叛乱を起こしたのであろうか?何故に、一族を見殺しにして、自らを、(まるで、道端に転がる犬の糞のような存在であると揶揄し)「道糞」と称して、茶の湯の世界に、埋没し、再三の秀吉からの取りなしを拒否し、息子、村次に、譲り、後に、秀吉のお伽衆として、利休の弟子7人衆の1人としてはやされるようになって「道薫」と、称して、茶の湯の世界、一方で言えば、非政治的な世界という対局であるものの、逆説的には、実は、光と影のような同じ世界で生き抜いていたのであったかも知れない。密室で、二人きりで、茶を立て、密談を凝らすと言うこともまた、当時は、生臭い政治闘争の裏舞台では、当たり前のことだったのであろう。それにしても、崇高な、自分には成し遂げられないようなカリスマ性を有する主人へのコンプレックス、嫉妬、強い執着心、おののきとおびえ・恐れ・不安、そして、未来に対する確信の代わりに芽生える捨て去られるであろうひとつの単なる道具への恐怖、やれどもやれども、報われぬ感情と成功報酬への不安、何よりにも勝るところの政治戦略的な合理性、血も涙も許さない合理的な冷徹さ、闘いの果てにみた人間の心の弱み、悲哀、寂寞感、無常観、それは、この時代を生き抜いた家臣団には、古参であれ、外様であれ、多かれ少なかれ、似たような心理的な葛藤と苦渋が、見られたはずである。それは、息子、元康を切腹に処さねばならなかった家康にも、北陸の陣中で、勝家と口論の挙げ句、戦陣から許可無く帰還した秀吉も、叔母を殺された光秀も、松永久秀も、誰もが、一様に、程度の差こそあれ、同じような複雑な感情を有して、仕えながら、結局、或る者は、謀反という形で、反逆へと収斂していったわけである。
    遠藤周作は、同じキリスト者として、荒木村重との関係の中で、敢えて、片山右近を、その友人関係の中で、詳しく、その心理描写で取り上げている。このキリシタン大名として名高い人物は、心理的な葛藤の中で、如何にして、自分の行為を正当化してゆけたのであろうか?それとも、それが、秀吉によるキリシタン禁教以降、やはり、武士の身分を最終的に棄てて、最後には、国も棄てることで、自己完結したのであろうか?キリスト教による異教徒との闘いへの疑問、この場合には、本願寺一向宗門との闘いであるが、これ即ち、信長側に味方することになったわけであるが、、、、、、、、。その意味からしても、村重同様に、秀吉からも、誘いの手がその後まで、及び、結局、武士を棄てることを決断させたのは、ある種、村重の生き方にも共通するところがあろう。当時、一体、どれ程の武士が、身分を棄て、茶人や商人になったのであろうか?恐らく、主君を理不尽に失い、一所懸命に、守ってきた先祖伝来の土地を失い、やむなく、土地を離れたり、身分を変えた人々は、歴史書の中には、決して、表には、出てくることはなかろう。村重と関係で、妻のだし、さと、(村次に明智より嫁ぎ)、その明智の娘、たま(後の細川ガルシャ)など、当時は、親戚・一族、様々な形で、養子・縁組み・血縁関係による同盟関係が、当たり前だったことを考えると、何とも、歴史の選択、情勢判断、決断の行く末とは、恐ろしいものである。
    それにしても、多かれ少なかれ、当時は、誰もが、ある種、少なからず、主君には、知られずに、ひたすら、忠義を尽くす一方で、心底、己が取って代わるという野望を抱いていたのかも知れない。この物語の中で、主亡き後の時代に際して、実に、秀吉と言う男は、変わり身の早い行動をひたすら、主君家を立てながらも、役に立てられるものは、すべて、理にかなうのであれば、友人関係、ありとあらゆる関係を駆使して、調略してゆく、人垂らしの才能は、やはり、槍一本で名をなした武硬派の行く末と比較しても、余すところなく、示唆している。(後の柴田勝家・佐久間信盛・加藤清正・福島正則等)、とりわけ、後に、加賀100万石となる前田利家などは、勝家との関係性の中で、必ずしも、賤ヶ岳の戦いで、非難されども、その後の歴史の中では、うまく、秀吉・家康の世の流れの中を無事、乗り切り、北陸に、今日、金沢・加賀100万石という国を建てられたのも、単なる「処世術」とは言い切れぬ何ものかがあるのかも知れない。賤ヶ岳の戦いの中で、討ち死にした中川清秀にしても、生き延びていたら、ひょっとしたら、村重・清秀・秀吉・光秀、等と一緒に、時代の頂点に立てた可能性もあったかも知れないと想像すると、なかなか、歴史というものは、面白い。家康は、そんな秀吉の才能と天運を誰よりも、横目で、学習していたのかも知れない。


    この時代は、江戸時代のような道義的な忠節はなかったのかも知れない。換言すれば、主君が、凡庸と思えば、別の主君に平気で仕え、主君も、主君で、役に立たないと思えば、部下を見限る「飴と鞭」の統治手法だったのかも知れないのである。そして、その中の最たる者が、信長だったのかも知れない。村重や光秀にしても、主君との関係は、征服者と外様家臣の関係ではなく、憎しみと恐れ、コンプレックスと嫉妬複雑な感情を抱かせる、そんな複雑な重層的な関係だったのかもしれない。そうした中でも、せめぎ合いの狭間に当たった地域の地侍、在郷の豪族達は、先祖伝来の土地と墓を守り抜く「一所懸命」と言う地侍の信念を有して、謂わば、「寄らば大樹」という地侍独特の考え方が主要で、武士道や士の忠節の考えは、ずっと、後の世の話である。
    秀吉の生き方というものは、誰よりも、率先して、主君、信長の良い道具になることこそ、何よりの奉公であると考えたのに対して、日本人特有の新参者を見下す古参家臣団による蔑視・嫉妬・悪口・辛酸に、ひたすら、当時は、耐えるという秀吉の性格は、インテリには、真似できないものがありそうである(今太閤と称された田中角栄を懐かしく想い出されるが、、、、、、)。生き抜く知恵が足りない、耐えることを知らない、又、人生を駆ける術を知らないと村重の謀反を聞いたときに、秀吉に作者が言わしめたものは、こういうことだったのであろう。人生での出来(しゅうたい)に失敗する人間、時の熟する迄を待たずに軽挙妄動してしまうそういう人間の性も、村重の中に描かれてしまう。
    光秀も又、朝廷・義昭陰謀説、怨恨説、老齢説、長宗我部元親陰謀説、等、現代でも、未だ、新しい資料が発見されても、実際の動機は、謎の又、謎であるが、少なくとも、秀吉とは異なり、教養が邪魔をしてしまったのか?歯の浮くような世辞が駄目で、お追従もできない。洒脱の振りも出来ない、猥談をすることで自分を売ったり、相手の自尊心を傷つけぬように細心の注意を払い、勘気を被ることを避けるようにした秀吉とは、何処かで、心理的な対応が、限界であったのかも知れない。カリスマの魔神力にとりつかれ、褒められれば、褒められるほどに、喜びが増すタイプ(そう振る舞っていたのかも知れないが、、、、)とは、別人格だったのかも知れない。神才信長・豪才勝家・奇才秀吉・秀才藤孝と、遠藤は、細川藤孝に言わしめる。
    人生というものは、とりわけ、生存権が権利として確立されている現代と、全く確立されていない当時の背景では、万事、一生、筋を通すということは出来ないのかも知れない。その意味で、物語の中で、村重を通じて、中川清秀や片山右近、松永久秀、そして、前田利家なども、その心の矛盾と葛藤の具体例として、茶道を通して、巧みに描こうとしている。右近の決断、とりわけ、天正6年の信長への恭順と屈服、そして、天正15年の最終決断の違い、棄教と遁世、そして、南坊という雅号を有する右近と利休のわび茶の共通意識という挿話、そして、秀吉とのよしみと親爺様と呼ぶ勝家との対立から、利家の困惑と躊躇、壮年という自分の年齢への焦り、家門と所領と家臣達の処遇との相克と決断、前田家の歴史書には、そんな葛藤、大勢に逆らうことは自殺行為、流石に、裏切りとは書いていないのは、もっともである。
    人間の有する心の弱さ、逃げの心、反逆は、怨念・野望にかられたモノではなく、人間の心がひとつではないこと、嫉み、屈辱、猜疑、怖れが複雑に絡み、絶望と希望の狭間で生じる葛藤、そんなものが、有るときに、窮鼠猫を噛むのかも知れない。京での馬そろえでの神の宣言、他よりも異なる存在であることを示唆するような示威行進の実施、等、この物語の中では、信長以外の人物は、すべて弱虫である。本能寺の変、高松城の水攻め、中国大返し、山﨑の戦い、そして、賤ヶ岳の戦い、へと、、、、。
    天正14年村重は、病没する。
    我々は、今日も、一生懸命に家族のために働き、幸せを求めて、ある種の決断を下し、明日も又、生きて行かなければならない。黒田官兵衛というキリシタン軍師のことも、今日、播磨灘物語以外にも、どんな想いで、村重や右近や光秀を見ていたのであろうか、興味深いところである。

    0
    2014年07月05日
  • 女の一生 一部・キクの場合

    Posted by ブクログ

    強いことが全てじゃないし、弱いことは悪いことだと思わないけど、自分の弱さのせいで他人に迷惑をかけたり不幸にするならそれは反省すべき改善点でしかないと思うのです。
    伊藤はそのことを知っているのに同じことを繰り返す。それは反省する自分に酔ってるだけ。弱き者はつべこべ言わずに従えばいいのです。それもまた強さだと思うんですけどね。
    でも伊藤はそれも出来ない。
    清吉じゃないけど最後は本当にぶん殴りたくなりました。マリア像と対話するキクが健気で可愛いらしかっただけに余計にボコボコにしてやりたい気分でした。
    あたしは善人でもキリスト教徒でもないので清吉と同じ心情にはなれませんでした。最後の最後まで伊藤という人間が好きになれず、キクの一生は無駄じゃなかったという清吉にもモヤモヤしました。無駄か無駄じゃないかはキクにしか判断できないことだと思います。

    0
    2014年06月30日
  • 留学

    Posted by ブクログ

    自分も留学している身だが、共感することが非常に多い。留学考えている人はネットにある留学体験談じゃなくてこの本を読んだ方が良い。

    0
    2014年05月04日
  • 女の一生 一部・キクの場合

    Posted by ブクログ

    面白かった。江戸~開国の激動の時代における、キリシタンの扱い。その中でも愛を貫いて死んでいくキクの姿に感動。

    0
    2014年03月05日
  • 私にとって神とは

    Posted by ブクログ

    遠藤周作の全著書に貫徹するテーマ、神の存在と働きについてどのように考えるのかを述べた書。日本人が取っ付きにくいとする宗教=ここではキリスト教に対し、いかに日本という土壌に照らして解し、神と向かい合って来たかを述べる。その取っ付きにくさの前提は、日本での教会のあり方に帰せられている。

    キリスト教徒と言えば「敬虔な」という冠が付くような、どこか隔絶された超然としたイメージが形づくられているとする。そうではなくて、自らの弱さに自覚的な「無理をしない」信仰のあり方もあるのだと述べることで、キリスト教および宗教一般に対する誤解を解こうとしている。

    本書において、遠藤は、日本の教会が現世における共同体としての役目、良さを出し切れていないとして、それを批判する。

    本書では神が、形而上で説明し得ないものの総称にまで広げられていることから、あくまで遠藤周作にとっての「神」/「神的なるものの概念」を説いた書であると思う。彼の著作を深く理解するには重要な書に感じる。今後、遠藤の著の読み方が変わるだろうし、『沈黙』を読み返すのが楽しみになる。

    0
    2014年10月02日
  • ひとりを愛し続ける本

    Posted by ブクログ

    嫉妬に関する記述に、とっても納得させられた。
    これから、嫉妬という感情が湧いてきた時には、
    この本を読み返そう。

    0
    2014年01月09日
  • 死海のほとり

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    ■『死海のほとり』 遠藤周作著 新潮文庫

    【全編4 メシヤ降臨とその再臨の目的】
     遠藤周作の力作です。イエスの歴史的実像とは一線を画し、我々においてのイエス、そして救いとは何であるかを問うています。追記にありますが、同著者の『イエスの生涯』と表裏をなす作品であるということです。『イエスの生涯』はイエス自身の歩みとその真実にスポットを当てていますが、こちらの『死海のほとり』はイエスを取り巻く群像の目線からイエスを描き、2000年後のイエスから離れることができない男たちの目線からイエスを語ります。
     原理の理解としては、後編のイエス路程よりも、前編の「メシヤの降臨とその再臨の目的」のほうが、内容的には該当すると思います。イエスによる救いとは何であったのか、がより大きな焦点であると思いますので。

     作中は二つの視点が対位法のように独立ながらストーリーを組み立てていきます。時代的に2000年の隔たりがある二つの視点ですが、内的にはイエスを軸として、外的にはイスラエルを軸としながら最終的にはイエスによる救いの真実を実存的に問いかける地点で着地します。
     一つ目の視点は<巡礼>というタイトルで括られたもので、現代に生きる男がイスラエルの旧友を尋ねるところから始まります。男はカトリックの家に生まれ、親に連れられるまま教会に通い洗礼を受けた過去があります。戦時中、キリスト教系の大学寮に入っていたため、ノサックという神父とコバルスキという修道士との関係が生まれました。様々な同僚と共に厳しい環境を学生という身分で過ごしていきますが、自覚的な信仰など持ち合わせていない男はぼんやりとその神父や修道士の姿を見つめていました。ここで同僚として過ごしていたのが、のちにイスラエルにおいて訪ねる友人、戸田です。生まれながらのクリスチャンとしてぼんやりと自覚もないままに信仰を持っていた男に対し、ここで信仰に目覚めた戸田は、皮肉屋でもありますがバリッとした信仰を持ち、潔い姿で毎朝の祈りもささげていました。
     この話で肝になるのがここで登場するコバルスキという修道士です。ユダヤ系のポーランド人のこの修道士は、手足は細く子供みたいで、異常なほど臆病で、修道士かと疑うほどに狡く姑息な性格でした。非力で何をやらせてもぎこちなく、寮生からは「ねずみ」とあだ名されていました。戦時中なので信教の自由も拘束され、神父や修道士もひっそりとしかいることが難しい時代でした。そんな中でねずみは自分を守ることに必死で、最後には修道士の立場も追われ祖国に帰されるようになります。その後の噂では、ナチスにつかまり収容所に送られ、そこで殺された、ということでした。
     時代がすぎ、現代。作家になった男は、いろいろな夢も破れ信仰も捨て、諦めの中で人生を過ごしています。仕事の関係でヨーロッパに来ていましたが、その帰りにふと、イスラエルにおいて聖書研究をしている旧友の戸田を思いだし、その元を訪れることにしました。再開してみると、戸田も信仰を捨てていました。しかし二人に共通することは、信仰は捨てていてもイエスから離れることができない。何時までも心に付きまとうイエスの影に心とらわれながら、二人はイスラエルの巡礼をします。ほとんど観光地と化したイエス所縁の地を巡り、歴史を講釈し現実を鼻で笑う戸田と、そんな乾いた説明を聞きながら一々心に刺さるイエスに、「ねずみ」を思いだす男。巡りながらそんなイエス像とねずみが分かちがたく結びつけられることを、男は不思議に思います。

     もう一つの視点は<群像>というタイトルのもとにまとめられた、2000年前のイエスと関係した6人の男の記憶です。奇跡を待つ男、アルパヨ、大祭司アナス、知事、蓬売りの男、百卒長の6人です。それぞれが何らかの形でイエスと関係をします。ある者は救われ、ある者は裏切られ、ある者は政治的に利用し、ある者はストレスのはけ口として、ある者は仕事の患いとして、ある者は同情するものとして。しかし全てに共通するのは、イエスを捨てるということです。この中のイエスは、本当に力がない姿で描かれます。人々に奇跡を求められても「私にはできない」と悲しき顔を浮かべ、病気の人がいればただそばで手を取って祈ることしかできない。「愛」ということがたびたび使われますが、愛とはこんなに非力なのかと、打ちのめされるほど、弱き姿で描かれます。
     描き方として巧みなのは、既成のイメージでイエスを見ることを極力避けるようにではないかと思うんですが、福音書に登場する主要人物の名前をあまり登場させません。特にアルパヨの視点からは、12弟子たちが直接描かれますが、そのままの名前をほとんど使っていません。アルパヨというのもアルパヨの子ヤコブ(小ヤコブ)を指していると思いますし、最後まで共にいるシメオンはシモン=ペテロのことでしょう。ちょっと本が手元にないので、確認が難しいんですが、あと二三そんな弟子たちが出てきます。全部がそういうわけではないんですが、ある程度抽象化させながら、イエスの事実ではなく真実を伝える努力がうかがえます。そういう描写に導かれて、イエスの姿が浮き彫りにされていきます。

     最後の章で二つの視点が交わります。2000年前のイエスの真実。奇跡を起こした超人的なメシヤではなく、愛を尽くすことしかできなかった力ないイエス。そして二人の信仰を捨てた男が、それでも捨て切れることができずに心をつかまれたイエス。それは「同伴者イエス」という姿で結ばれます。
     収容所に送られたねずみの最後を知っている人物から手紙がきました。収容所でもどこまでもあざとく、自分を守ることしかできなかったねずみでしたが、年下の男(手紙の送り主)には多少優しさを見せることがありました。収容所なので労働力にならない人間はすぐに処分されてしまいます。そしてその死体に残る脂肪を集めて石鹸にされるそうです。非力なねずみは立場のある人間に阿りながら、なんとか死をまぬかれようとしますが、最終的には同じ受刑者たちからも捨てられ、獄卒からも労働力外の烙印を押され、死を突き付けられます。小便をたらし、涙を流し、動けないねずみですが、最後にひかれていく前、その男に一日一度の食事であるコッペパンを渡すのです。
     ひかれていくねずみのとなりにある幻が見えました。それは同じく足を引きずり、襤褸をまとい涙を流しながらよろよろと歩く男の姿でした。それは紛れもない、同伴者イエスでありました。
     
     救いとは何であるか、考えさせられます。奇跡では人間は変わりません。私たちの心が真実の愛を持たなければ、環境は変わっていかないのです。イエスができた事、それは共に悲しみ、共に苦しみ、共に泣く、それだけだったというのが遠藤のイエス像です。イエスは語ります。「それでもあなたのそばにいる」と。どこまでもいぎたなく生きたねずみでありましたが、最後にコッペパンをあげます。ねずみは救われたなと、私は感じました。同伴者イエスの愛が最後にしてねずみの心に現れます。痛ましさの中にも、意味のある者が生まれてくることを感じるのです。

     あくまでも遠藤のイエス像です。聖書を拡大解釈している部分はもちろんありますが、イエスの愛の姿に大きく迫る名作であります。

    0
    2015年07月17日
  • 死海のほとり

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

     遠藤の作品で五指には入る名著。しかし今までなぜか読む機会を失していた。私も33になり、イエスの昇天の歳であるから、特別な何もないけれど、思いだけは引き締まる中でこの書を読み始めた。過去に遠藤の著作にはどれだけ触れただろうか、20~30だろうと思われるが、その文体に触れるとなぜだか安心する。鮮烈な刺激とは違う、どこかこなれた、気を使わない暖かさを遠藤は与えてくれる。いつでも懐かしいのだ。早くに触れて、もう読み終わったというだけで意識から外れてしまわなくてよかったと思う。今だからこそ深い感慨があった。

     二つの視点が対位法のように独立した旋律を奏で信仰する。一つのイエスという内的軸とパレスチナという外的軸を中心として。その視点には<巡礼><群像>というテーマが与えられ、現代のイエスを捨てきれない男の記憶と、2000年前のイエスを捨てた人々の記憶が、最終的には一点において交わる。
     <巡礼>においては、キリスト教の信仰を捨てた男がイスラエルを訪れ、大学時代の同僚に案内をしてもらいながら、イエスの足跡をたどる。同僚は大学時代に回心し、聖書研究の為にイスラエルに定住し、しかし信仰的情熱はすでにさめてしまっている男である。観光地になっているイエスにまつわる聖地を、でたらめとばかりに鼻で笑いながら案内する同僚。信仰は当の昔に失ってしまっているはずなのに、そんな同僚のもの言いに何か腹を立てる主人公。二人ともイエスを忘れることができない。キリスト教系の大学の寮で共同生活をしていた二人。その記憶をたどりながら、会話をぽつりと続ける。主人公の男がどうしても忘れることができない修道士の男がいた。コバルスキというユダヤ系ポーランド人で、ねずみと呼ばれていた。身体が子供のように細く、いつも泣きはらしたような眼をしている。人が怪我をすると貧血を起こし、自分が病気にかかると死にたくないと喘ぎ、人のおこぼれにはなんとかあずかろうとする、狡いねずみ。男はなぜかこのねずみが記憶から離れないのであった。
     <群像>の視点には様々な男が立つ。2000年前のパレスチナ。イエスの短い生涯に関わった6人の男がイエスを捨てる話である。病に倒れた子の回復を、イエスの奇跡にすがった男。イエスの弟子アルパヨ。大祭司カヤパの叔父である大祭司アナス、ユダヤ知事ピラト、ヨモギ売りの男、イエスの十字架をみとった百卒長である。全員がイエスに関わり、イエスを捨てる。個人的に、政治的に、信仰的に、義務的に、扇動的に、イエスを捨てるのである。全ての視点に通じる情念は、力なき男。愛だけを語った男。犬のように死んだ男、イエスである。

     二つの視点が交わる点は「同伴者イエス」としてである。修道士を追われポーランドに戻ったねずみはナチスの収容所に収監される。非力で何もできないが、自分のことにだけは執着するねずみは、収容所でも狡く出来るだけ楽をして、生き延びようと努める。しかし、労働力外とされてしまったねずみは小便をたらし、いやだいやだと泣く。待っているのは死のみである。最後にねずみは、自分の命のパンを年少の男に渡し、ひかれていく。そのコバルスキ・ねずみのとなりに、幻を見たという。同じように足を引きずりながら襤褸をまとい引きずられる男、イエスである。
     イエスは奇跡を起こさない。ただ、悲しきものの、苦しむものの、泣くもののそばにいて、共に悲しみ、共に苦しみ、共に泣いただけだった。イエスに人を救う力はなかった。しかし、どんな者のそばにいて、その重荷を共に負う、それだけをなしたのだ。「同伴者イエス」それが、二人の信仰を捨てた男をつかんでいる。

    J.S.バッハ『マタイ受難曲』を聞きながら

    13/12/30

    0
    2013年12月30日
  • 愛情セミナー

    Posted by ブクログ

    私は愛は修行だと思っている(笑)
    優しくて楽しい修行ね。
    愛はいつでも蜜月ではない。
    恋に落ちるだけならサルにでもできる(笑)

    性にタブーは必要で、やっぱり秘密は隠しながらジリジリ近づいていく感がないと喜びは少ない。

    信じることができないものづくしの世界で信じるものを持つことの美しさ。

    0
    2013年11月03日
  • キリストの誕生

    Posted by ブクログ

    イエスの十字架の死後、12弟子を中心とする原始キリスト教団の使徒たちの心の中に再臨し、神秘的な救いを与えたイエスの復活、そしてキリストの誕生は、弱虫だった弟子たちを殉教をもいとわない強い信仰者に生まれ変わらせた。「汝の敵を愛せよ」、愛の人だったキリスト、2000年前のエルサレム、そして2000年の時空を越えて、今もなお現代世界に生き続けるキリスト教の教えに想いを馳せる。

    キリスト教がこれら敬虔なユダヤ教徒の中から生まれ、キリスト教が何故、ユダヤ人を越え、多く異邦人たちの世界的な宗教になったのか?その理由がよくわかる。

    イエスが死んでしまったために、原始キリスト教団はその神学的解釈を巡り、その当時から多くの悩みを突きつけられていた。「神は何故、沈黙し給うのか?」「主イエスは何故、十字架で死ななければならなかったのか?」

    0
    2013年09月15日
  • 人生には何ひとつ無駄なものはない

    Posted by ブクログ

    ドッグイヤーつけすぎてどこから書いていいのやら。
    それくらい大事なセンテンスと言葉の宝庫でした。
    遠藤周作は少し難しめに表現するけど現代の選書を五冊くらい読むに値する内容かと思う。

    帯では阿川佐和子さんも推薦してた。

    0
    2015年11月12日
  • 母なるもの

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    キリスト教徒だった母親の影響を受けたながら反発した少年時代、フランス留学、背教者と隠れキリシタン等々を描いた自伝的短編小説。特に印象に残ったのは開国後に日本に来た神父による「信徒再発見」後に多くの隠れキリシタンがカトリックに改宗(?)する中、昭和になっても隠れキリシタンの教えを守る人々が残っていたという事(周りの地区と交流を避け、就職・結婚で差別もあったらしい)。もう一つは鎖国後に日本へ潜入した宣教師シドッティーの話。20年以上前に屋久島に行ったときに「シドッティー(シドッチ)上陸地」という場所があり、当時は「シドッティーwho?」だったのですが、初めてシドッティーの行く末を知ることがで来ました。これは何とも言えない哀れな話。気になる方は読んでみてください。

    0
    2013年07月07日
  • 愛情セミナー

    Posted by ブクログ

    改めて読んだけどやっぱいいなぁこれ。すごくためになるし、心に刺さる言葉がいくつもある。
    この人と結婚したいなと思える人がいたら是非とも読んで欲しいと思う本。
    結構毒が強くて、ネットのブログなんかだと炎上しかねないようなテンションなので、著者の偏見と冗談を笑ってスルーできる女性には勧められるけど、いらっとくる人には激おこぷんぷん丸程度じゃ済まないかもしれないので、注意して読んで頂きたい。

    0
    2013年06月27日
  • 王妃マリー・アントワネット(上)

    Posted by ブクログ

    高校生の頃、世界史の授業でフランス革命について学び、もっと詳しく知りたいと思って手にとった本。これを読んでいたおかげで、テストではバカ暗記をせずに済んだ。教科書に書いてあることだけを読んで「フーン」と暗記に時間を取られるよりも、本を読んだり、映画観たりして理解するのが断然効率が良い。…と、実感した次第でございます。テストに出てくるような人物も必ず物語に登場するしね。

    0
    2013年05月17日
  • 王国への道―山田長政―

    Posted by ブクログ

    めちゃおもしろかった。地上の王国と天上の王国、2人の対比が実にオモシロい。沈黙やディープリバーももちろんオモシロかったんだけど、あちらは宗教色、神とは、みたいなのが強いのにたいし、王国への道ではあくまでメインでないあたりが読みやすい。
    過去、世界的にみても優れた兵士だった日本の侍。外国で戦った山田長政はすごかった。

    0
    2012年12月12日
  • 女の一生 二部・サチ子の場合

    Posted by ブクログ

    1部ほどの衝撃はないけれど、やっぱり、これも傑作だと思う。修平を想うサチ子の話とコルベ神父のアウシュビッツでの話が交互に出てくる前半はもう苦しくて。アウシュビッツでの話が、これからどんどん激しくなる戦争やその波に飲み込まれていくであろう2人の未来を暗示してるようで。想い合っても自由にならない戦時中の2人が悲しかった。後半、終戦に向かうあたり、あああ長崎は原爆が落とされたんだと気づき愕然とした。本当に読んでて苦しかった。キクの時もサチ子の時も苦しい時に2人のそばにいた、大浦天主堂のマリア像に会いに行きたくなりました。

    0
    2012年12月04日
  • 女の一生 一部・キクの場合

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    すごい衝撃受けた作品。一心にキリスト教を信じる清吉と、そんな清吉を一途に想うキク。どちらも真っ直ぐで純真で、どちらも幸せになってほしいとずっと思いながら読みました。すごく引き込まれた。幕末(江戸時代も)のキリシタンのこともあまり知らなかったので驚いた。2人以外に、伊藤のことがすごく気になって。自分の心に向き合えずコントロールできない伊藤が、歳を重ねて、清吉に会ったところがすごく印象的だった。

    0
    2012年12月04日
  • 眠れぬ夜に読む本

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    読んでて思わずにやりとする。

    自分の視点を変えるためにも、たまにはこういうエッセイを読むのもいいかもしれない。

    0
    2014年02月14日
  • キリストの誕生

    Posted by ブクログ

    イエスの生涯に続いて刊行されました。
    イエスからキリストという存在へ変わっていく弟子たちの心理などを本当に質の高い内容で描かれています。「僕は大説家ではなく小説家なんですよ」とエッセイで何度も著者は口にしていました。
    それを決して忘れずに読んでいたものの、遠藤氏の文章はどうしても僕に夢をみさせてしまう。読者も多く、たくさんのレビューがあり、十人十色に評価をなさっていることでしょう。宗教と歴史と信仰の危ういバランスを絶妙にとりながら見事な結びまで持っていくその技量を楽しむ一冊として読んでもいいと思います。
    キリスト教に関わっている方なら、是非そこに自分の思いも加えてみてください。

    0
    2012年10月26日
  • ただいま浪人

    Posted by ブクログ

    長い小説だが、一気に読み進めた。時代は戦後、今の価値観とは違う部分も多々あるが、それでも共感することができる。若い頃の疑問と苦悩、そして大人たちのすでに固まった既成概念と、それとはまったく無関係な愛情の行きどころ。人は間違いを犯す。しかしそれが果たして本当に間違いかどうかは、誰も判断できない。では生きるとは? 今さらながらそんなことを改めて考えさせられる。生きることと生活することの葛藤を、私たちの視点にまで落とし込んで伝えうる遠藤周作はさすがだと思う。

    0
    2012年09月30日