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Posted by ブクログ
600ページあったけど一気に読んだ。キクの一途な想いも、伊藤の葛藤も、すべて引き込まれた。
自分はキリスト教徒ではないが、ミッション系の学校にいた頃、神父の一人が「神はみんなの心の中にいます」と言っていたことを思い出した。
キク、清吉、プチジャン、そして伊藤。彼らはそれぞれ、心の中にいるマリアやイエス、あるいは名前のつかない何かに問いかけているように感じた。
特に印象に残ったのは、キクがマリアに怒りをぶつける場面だった。信じているからこそ祈るというより、「なぜ助けてくれないのか」と怒っている。その姿がとても生々しい。遠藤周作がこういう信仰の姿を描いていることも意外だ。
人は報われたかどうかを、その瞬間だけで判断できるのだろうかと考えた。
キクは報われたとは言いにくい。だからといって100%報われていなかったとも言えない。
キクがどう生きたか。その生き方そのものまで含めて考えると、報われたかどうかなんて一生かけても判断できないと思う。
今この瞬間には苦しみしかなく、救いがないように見えることでも、人生全体の中に置き直したとき、その意味は変わるのかもしれない。ただし、苦しみには必ず意味がある、という単純な話でもないと思う。苦しみは苦しみのまま残る。それでも、その人生を「無意味だった」と簡単に言い切ることもできない。
「沈黙」もよかったが、こちらは神がなぜ沈黙するのかという問い以上に、愛とは何か、善とは何か、人はどう生きるのかを考えさせられた。
私たちは日々、自分の中の何かに問いかけながら生きているのだと思わされた小説だった。
Posted by ブクログ
感想というか思ったこと
(キクや清吉についても語りたいことは尽きないけど、いったん整理)
『女の一生』第二部では、戦争や日本におけるキリスト教弾圧に対するローマ・カトリック教会の姿勢に疑問を抱く修平の葛藤が描かれていたが、第一部にもまた、キリスト教弾圧の中でローマ法王の沈黙に対する疑問が示されていたのが印象的だった。
それでもなお、人は信じるしかないのはなぜなのか。
考えてみると、信仰とは本来、人の内に宿るものであって、教会はあくまでその信仰を持つ者たちの集まりにすぎないのかもしれない。だからこそ、信仰心において絶対的なのは教会という組織ではなく、むしろ個人の内にある信仰そのものなのだと思う。
もちろん、教会が信仰を強める場になることはある。隠れキリシタンたちが集い、オラショを唱えていたように、人が共に祈る場は確かに支えになる。けれど、ローマ・カトリック教会のように世界的に大きな力を持つ存在になると、信仰の共同体である以上に、外に向けた「キリスト教の象徴」としての性格も強くなっていくのではないかとも感じた。信者にとっては総本山であり、心の支えである一方で、その大きさゆえに、純粋な信仰の場とはまた別の意味を帯びてしまうのだと思う。
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苦しんでいる者にこそ神は寄り添うのではないか、と私は思う。
神は、出世街道を軽やかに上っていく舜太郎ではなく、醜く、不器用で、葛藤の中にいる清左衛門を愛していたとプチジャン神父は言っていた。清左衛門は残忍な行為に加担しながらも、自分の弱さや愚かさに苦しみ続けていた。切支丹たちを拷問するしかない自分に絶望し、その弱さに引き裂かれていた。だからこそ、神はそんな彼を見捨てることができなかったのではないかと思う。
キリスト教における「弱い人」とは、必ずしも社会的に弱い立場に置かれた人だけを指すのではないのかもしれない。むしろ、自分の弱さ、愚かさ、罪深さに苦しみながら、それでもなお何かを求めずにはいられない人のことも含んでいるのではないか。そう考えると、遠藤周作が描こうとした神のまなざしは、正しく清い人に向けられるものというより、弱さを抱えたまま生きる人間に向けられるものだったのではないかと思う。
Posted by ブクログ
潜伏キリシタンたちのはなし。
特定の宗教への信仰のない私は、貧困に喘ぎ、社会的排除や壮絶な拷問を受けながらも信仰を守り続ける理由がわからなかった。でもそれが信仰というものなんだろう。
人の信仰を弾圧しようとするのは愚かで非道なことだけれど、それでも、私はキクと同じように、キリスト教や、それを日本に伝えた宣教師、それから数百年後に再びやってきた神父たち、そして彼らが崇めるデウス様というものに対して。苛立ちと憤りを感じた。
「転べ!」と心の中で叫んだ。
同時に、姑息でクズみたいな伊藤に、神父が言った言葉、多分伊藤と同じ気持ちになった。
キリシタンたちの純真さをたたえたい思う。
Posted by ブクログ
遠藤周作『沈黙』の初版本を半世紀前に読んで以来、遠藤周作のテーマにはずっと寄り添ってきたつもりでいたが、数年前、念願かなって、二泊三日ではあったが、長崎を訪れる機会に巡り合った時、私は、彼の地の切支丹の歴史はもちろん、「長崎」というものの本質的な姿、実体などもろもろ何も分かってはいなかったことを思い知らされた。唖然とするばかりだ。
この『女の一生』一部、キクの場合を熟読した後の今も、頭の中の混迷はますます深まるばかり。
とりあえず今、言えるのは、二部の「サチ子の場合」は、これを読んだ戦前戦中を生きた人々が物語の中に「あっ、サチ子は私自身だ」と感銘をもって共感できる典型を創造していったことだ。
そして一部は、二部と真逆で、読者である「私の場合」とは全く別人の「キクの場合」を、物語を通して追体験させてくれた。ただ物語に登場してこない数多の人々の一人ひとりの"場合"が隠されていることを強く強く感じさせてくれる。何も、隠れキリシタンだけが長崎の歴史の悲劇を、ひとり背負っていたわけではない。それはキクがキリスト教徒ではなかったことからも推察できる。
かなり言葉足らずの読後感で、誤解を招かなければと心配だ。
が、私が大好きな戯曲『マリアの首』(田中千禾夫)の終末と、この一部キクの場合の終わりごろ、聖母マリア様がキクに話しかけるシーンが、降りしきる雪のイメージとも重なってとても印象的、詩的だ。
やはり私は、未信者だが、母性的なマリア信仰にどうしても惹かれてしまうのだ。
Posted by ブクログ
2018.05.29再読しました。
前回この作品を読ませていただいた時は、お借りしていた本にもかかわらず、泪が止まらなくてページをぬらしてしまいました。まさに自分にとって人生の教科書になる作品だったので、今回は泣かないように再読を試みましたが…
ムリでした(TT)
浦上四番崩れ。
今からわずか145年前までこんなにも酷い事が行われてたんですね。
何回読んでもキクの美しい愛と心に感動します!
そして、「女の一生」、「沈黙」を読んだ時にも深く考えさせられる神の存在。
神は存在するのか?カタチはあるのか?と言う事。
わたくしの勝手な考えなのですが、神ってその人の人生なのではないか?と思うんです。その人がどうやって生きてきたか、によって神の存在を知る人、知らない人がいて、カタチを創る人創らない人もいて。
たぶん、その存在を信仰できる方たちはとてもステキな人生の持ち主なんだと思います。
キクもきっと人生という神様に出会えたのではないでしょうか。
決して汚れのない美しい人生だったと思います。
Posted by ブクログ
強いことが全てじゃないし、弱いことは悪いことだと思わないけど、自分の弱さのせいで他人に迷惑をかけたり不幸にするならそれは反省すべき改善点でしかないと思うのです。
伊藤はそのことを知っているのに同じことを繰り返す。それは反省する自分に酔ってるだけ。弱き者はつべこべ言わずに従えばいいのです。それもまた強さだと思うんですけどね。
でも伊藤はそれも出来ない。
清吉じゃないけど最後は本当にぶん殴りたくなりました。マリア像と対話するキクが健気で可愛いらしかっただけに余計にボコボコにしてやりたい気分でした。
あたしは善人でもキリスト教徒でもないので清吉と同じ心情にはなれませんでした。最後の最後まで伊藤という人間が好きになれず、キクの一生は無駄じゃなかったという清吉にもモヤモヤしました。無駄か無駄じゃないかはキクにしか判断できないことだと思います。
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