遠藤周作のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
映画は見たことがありました。内容はうろ覚えですが。
沈黙とは、神からの沈黙だったのですね。
私は一応カトリックですが敬虔な信者ではありません。
でも、高校生のころアメリカにホームステイしていて、毎朝6時から聖書を家族で読んで、7時くらいから学校のセミナリーに参加していた頃、日々の祈りの中で神様と通じ合った感覚がありました。
これまで生きてきて初めての感覚で、祈りにも努力というか、日々の鍛錬というか、自己研鑽が必要なんだと感じました。
でもそれ以来、日本でまた怠惰な日々を過ごしている訳で、そのような感覚はもう残っていないですが。
神様との祈りを通じての会話って、簡単ではないんですよね。
もちろん、この小説の中で出てくる司祭は、人生をキリスト教に捧げている訳で、私みたいな一般市民とは信仰度合いに天と地の差がありますが。
イエス様が司祭を許して彼が踏み絵を踏んだのか、それとも司祭は本当に転んだのか。それは司祭のみが知る、ということでしょうか。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ九州大学生体解剖事件という実際のテーマをモチーフにしているがあくまでフィクションである。
しかし登場人物を露悪的人物としても時代の被害者としても描かず一人の個人として丁寧に描写することにより、その個人になりうるのだ、という圧力を突きつけられた。
勝呂は患者の死に心を痛める良心的な人物ではあるが、おばはんに親身にするのは本来の優しさだけではなく、どこか自分を良心側だと言い聞かせる盾でもある。
そのおばはんという藁を失った結果、流されるままに解剖に加担する弱さは、良心も嘘ではないが声を上げる正義の味方ではない多くの個人の体現のように感じる。
一方で戸田は他人の死や道徳に対して徹底して冷めており、殺人に加担した後も良心の呵責に苛まれることはない。別の人物として描かれているがこれも人が持つグラデーションのうちの一つであり、
見知らぬ他人の死やニュースを傍観できる、時にはエンタメとして昇華できる、建前の裏にある感情を体現しているように思える。
そして上田は彼らとも違い、ただの嫉みや不満の正当化の行為として、復讐すべき相手への叩き棒として殺人への加担を行う。
そこには人の死に対して焦点すらあっておらず、存在するのは個人的かつ矮小な感情だけである。
これもまた別のベクトルで不気味ではあるが、誰しもが抱える人格である。
戦争という毒薬により人間の死が身近になり、感覚が麻痺して境界線が曖昧となってしまった場合、
人を殺すことに特別な理由はいらず日常の価値観としてそれが溶け込んでしまえば、隣の善人も真向かいの変人も合理的なあなたも絶対的価値観の中にはおらず、流されるままに人を殺すことがあるのだ、と言われた気がした。 -
Posted by ブクログ
歴史書であり、信仰の書であり、大きなドラマであった。日本を収穫の多い、素晴らしい伝道の地と考えて、キリスト教が禁忌とされている江戸時代に渡来したポルトガル人、ローマ人がいたのだ。ポルトガルでも見たこともない、日本の貧しさも伝えている。そしてこの時代の後、踏み絵の歴史も長いが、今に至るまで、その信仰を絶やさずに伝えてきた人々もいたということを私たちは知っている。
けれど、日本人のクリスチャンは1%とか。やはりこの本に書かれているように、日本人の捉えたデウスは、キリスト教の神と違うのか?神はなぜ沈黙しているのか?問い続けることが重要な気がした。 -
Posted by ブクログ
「深い河」と書いて「ディープリバー」と読ませるのは、この河が日本にはない、日本どころか世界を探してもここにしかない、「すべてを受け入れ、流す河」という意味を込めてのことだったのかな
その河の前には皆平等で、すべての苦しみも歓びも飲み込んでいく。その河に受け入れられることを望みたく成るような、そんな過去と向き合うことは人々にとって、生きていく上で避けられないことなのかもしれないと感じた。
「深い河」は実際に目にすることができる「たまねぎ」なのかもしれない。
主な登場人物の磯辺、美津子、沼田、木口、そして大津のそれぞれの目線・エピソードがどれも何ともいえない気持ちになる。
戦時中のエピソードなどは、やはり戦争を経験していない世代には書けない生々しさを感じる。
(遠藤周作は戦地には行ってないみたいだけど。)
美津子の大津への歪んだ関心が、友情ではなく、愛というほど綺麗でもなく、言葉に表せられないというか名前のないような関係性が独特で上手いなと思う。
でもこういう「縁」の人っているし、特別だよねと
もっと感想書きたいのに、うまく整理できないし、言葉にならないの悔しいなあ
また読み返すと思います -
Posted by ブクログ
キリシタンが弾圧されている日本で、ポルトガル司祭がキリスト教を再布教しようとするお話。
キリシタンに対する弾圧が酷く、読んでいてつらい場面も多々あった。
「なぜ神は沈黙している?」
「もし神がいないんだとしたら・・・」
と何度も己の行動に葛藤する場面も苦しい。
現代日本人の私としては「なぜそこまでして?」というのが率直な感想だった。
これについては、物語の中でも元司祭が日本人の信仰の感覚を説明しており、
どれだけ説明しようと分かり合うことの出来ない感覚なのだと思う。
印象的な登場人物はキチジローだ。
物語を読んでいるとどうしても主人公ロドリゴ視点になり感情移入してしまうため、キチジローがとんでもなく卑怯者で弱い奴に見える。
しかし、本来日本人の感覚、現代人の感覚はキチジロー寄りだと思う。
むしろ終盤までの信仰に固執し、視野狭窄となりその思想に行動が制限されることは危険とさえ感じた。
心と体(行動)は必ずしも一致している必要はないと私個人としては思う。
一方で、行動が伴ってないといくら口で言おうとも信仰を示すことは難しい。ちょうどキチジローのように。
キチジローがどう見えるかというと、『裏切者』『卑怯者』が当てはまるだろう。
ただ、その信仰による行動は本当に神に向けてやっているのか?人間へのアピールではないか?神は人間の内面の信仰を感じることはできないのか?行動でしか信仰は示せないのか?
終盤主人公は神は人間が弱い存在なことを知っていたから内面の信仰があれば自分の弱さも受け入れてくれると解釈する。
それで良かったと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ学生の時に、社会の授業で踏み絵と絵踏みという単語が出てきて、ほーん、そうかー。踏むだけで信仰心なんか測れるのかねー?と思っていたけど、それどころの話ではなかった。
転ぶ、棄教とは、それを行なった人のそれまでの生きがいとか、善悪や美醜の基準や、キリスト教を信じた人生、自分そのものを否定するものなのだとわかった。
キチジローは前半から中盤にかけて、卑怯だという描かれ方だったけど、最後まで、ロドリゴを追いかけて、役人に訴えてまで救いを求めるところに、キリスト教への信心深さが伺える。もし安息の時代に産まれていたら、、というとところで、キリスト教と幕府からの被害者でもあると思った。
長崎出身の私としては、知ってる地名がでてきて、生まれ、育った地でこんなことがわずか300?400年前にあったのかと信じられない気持ち。
沈黙というタイトルだから、最後はキリスト教を否定してしまうの!?と思っていたけど、そうではなかった。
ただ、自分がキリスト教徒ではないからやっぱりよくわからないところもあったなぁー