遠藤周作のレビュー一覧
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再読です。ちゃんと感想を記して(2006年9月27日)いるのにすっかり忘れています。感想を読み直してみるとわたしは主題(神の存在)を意識して読んでいません。同じ作家の『イエスの生涯』を読む前と後では理解度が違ってくるということだということです。
「遠藤氏のごく初期の作品であり、・・・」(文庫解説山本健吉)確かに新鮮さと勢いがあります。解説最後に「作者は小説の中で、神の存在を証明するためには、いっそう氏のこと抱懐する主題を掘り下げなければならない、・・・」(昭和35年1960年)と鼓舞するようにお書きになっています。遠藤氏の友人ならではで、ないでしょうか。
処女作『白い人』で芥川賞を受 -
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幕末から明治にかけての長崎において、密かに信仰を保っていたキリスト教徒が弾圧された”浦上四番崩れ”という歴史的史実を、弾圧されたキリスト教徒に思いを寄せる非キリスト教徒の女性キクを主人公に描いた遠藤周作の1982年の作品。
『沈黙』でも描かれるようなキリスト教徒への迫害の様子のおぞましさはさることながら、主人公のキクとの出会いにょり最終的に改修する迫害する側の人間の心の弱さや、明治に入り諸外国との外交関係の観点から弾圧が次第に問題視されていく様子など、様々な主題が交差する。
それにしても、若干ステレオタイプな表現もあるにせよ、遠藤周作はこうした悲劇的な女性を描かせても巧い。通俗小説ではある -
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「侍」は、実在した仙台藩の支倉六衛門常長をモデルとした史実に基づく小説であり、遠藤夫人が夫遠藤作周作の著作中で最も好きな作品として挙げている。
キリスト教に帰依したことを理由に処刑されることとなった「侍」に従者が伝える「ここからは……あの方が、お仕えなされます」という台詞について、遠藤は「この一行のためにこの小説を書いた」と後に語っている。
「あまりにも多くのものを見すぎたために、見なかったのと同じなのだろうか」
「日本人たちはこの海を日本を守る水の要塞にして、自分たちは土の人間として生きてきたのだ。日本人たちはこの世のはかなさを楽しみ享受する能力もあわせ持っている」 -
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先日「遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子」を読んだ。そちらは生前のエッセイや著書からの引用でまかなっていたが、本書は全編を通じて遠藤節が味わえる。
『赤毛のアン』シリーズの中に「求婚する前に、彼女の父親の支持政党と母親の教派を調べておけ」という処世術が出てくる。男性と女性で信仰のありようが違うのは、今も昔も変らない。
思うに、多神教のはびこる未開のヨーロッパへ布教するには、十二使徒や聖母・マグダラ両マリアのタレント性が不可欠であろう。
第9章「かくれ切支丹のマリア」は興味深い。切支丹の教義の中で、イエスの贖罪の対象は人類に非ず、まさかの……。 -
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転落の象徴的逸話である首飾り事件の余波で民衆のアイドル的存在から憎悪の対象へ一変し公開処刑に至るまでを描く。気まぐれで移り気な民衆の怖さ、それでも貴族としての立ち振舞を意識し愛と優雅さに生きるアントワネットの姿が印象的だ。徹底的な悪政のイメージが強いルイ16世だが、王と王妃は囚われ逃亡しながらの何度も救出が試みられることから貴族社会からはそれなりに支持があったことが窺える。
搾取された民衆に同情すべきであるが、万策尽き刑宣告まで幽閉され疲弊しながら衰弱するアントワネットのさまはなんともいたたたまれない。ギロチンによる公開処刑直前、執行人の足を踏み一言「あらごめんあそばせ」、最後まで気品ある態 -
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マリー・アントワネットの壮大な一大歴史叙事詩を遠藤周作氏が描く。アントワネット氏の豪奢で絢爛な面だけでは品性を保ちながらもフランス革命前夜の時代に翻弄される姿が印象的に描かれる。史実を、マルグリットやフェルセンのフィクションで照らすことで、さらに物語的な深みが増している。マルグリットとサド侯爵のやり取りはもちろん架空だがひょっとしたらこういうエピソードもあったのではないかと思わせるのは遠藤氏の極めて高度なレトリックの結果だろう。特にギヨサンとサンソンの話は結果皇妃自らが裁かれることを知る我々にとっては不気味にそしてなにかもの哀しい。
教科書で見る浮世離れしたアントワネット氏の姿ではなく、純粋 -
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聖地エルサレムを訪れる「私」の現代の物語と聖書の挿話を小説として描く過去の物語が相互に進行する。「私」の物語は実話かと思いきや創作であるが遠藤周作氏の実体験に基づくものと考えても差し付けないだろう。
特に印象的なのは小説的手法を用いて等身大のイエスを描いたことだ。「人として」のイエスを描くことで同列の人間たち、現代の物語の冷めながらも何処かで神を捨てきれない戸田や卑屈に神に縋り続けたねずみ、過去の物語での様々な登場人物の目線や感情を通して、筆者自身も見出せてない信仰心の「在り方」を問うことに成功している。信仰と奇蹟を結び付ける人々と寄り添うことに神の愛の本質を説く信仰、その差が落胆や失望を生 -
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果たして基督教の信仰とは何なのか、苦難に対峙してもなお沈黙する神とは何なのか。時代と政に翻弄される「侍」長谷倉と烈しい信仰を持ってベラスコの眼と体験を通して日本人の宗教観が立体的に描かれる。万の神を認めて藩主を絶対的統治者とした当時の侍たちに対し、当初は使命感と意志をもって基督教布教を謀るベラスコの姿は滑稽で狡猾ともみえるが、後半になるに従って長谷倉は藩への疑義に反して信仰を問い、ベラスコは教会への不信に反して信仰を深める姿が印象的だ。
『沈黙』と比べると直接的表現も多く、理解しやすい反面文学性はやや劣るが、『侍』のほうが会社の命令に右往左往する悲哀溢れるサラリーマンに通じるものがあり感情移