遠藤周作のレビュー一覧
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ネタバレ白い人・黄色い人
著者:遠藤周作
発行:1996年4月10日
講談社文庫
初出:
『アデンまで』(三田文学1954年11月)
『学生』(近代文学1955年5月号)
『白い人』(近代文学1955年5月号、6月号)
『黄色い人』(群像1955年11月号)
『白い人・黄色い人』単行本(講談社1955年12月刊行)
*本書は1971年12月刊講談社文庫『白い人・黄色い人 ほか二編』を底本に、1975年6月新潮社刊『遠藤周作文学全集』第1巻を参照。
書名は「白い人・黄色い人」だが、内容は『白い人』『黄色い人』『アデンまで』『学生』の独立した短編小説から成る。『白い人』は、著者が32歳の時(1955年 -
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叙情的ではっきりとした意味はわからないのに、なんか心の奥の方にズシンとくる。
巻末の著者の年譜を見ると大変な人生経験っぽいから、そういう、実際にリヨンに住んでたとか病気で手術したとかの経験が重みとなって文字に乗っかってるのかもしれない。
そして100年前に生まれた人、普通にすげえと思った(笑)
大津の、神様…いや玉ねぎ(笑)への考え方は、無宗教でイベント事は全部祝っちゃう日本人にとってはそんなに珍しいものじゃないような気がして、多分そこがメインの盛り上がりどころなのに、いまいちピンと来ず。
他の作品に同名人物が登場するみたいなので、それらも読んでたらまた受け取り方変わったのかもなあ。
とにかく -
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昭和23年大学生の主人公吉岡努が素朴な女性森田ミツをもて遊び棄てる
吉岡の人生とミツの歩む人生の話
主人公がゲス過ぎて不愉快
自分はミツをいいように利用して弄んどいて「聖女だと思っている」って、お前が言うなよ
⋯とは思ったが、
読んだ後に落ち着いて考えると作者はわざとこう書いてるんだろうと思った
自分本位でゲスな男の主人公と、対する素朴で純粋な女の森田ミツが対照になされていて、それによってミツの「無私の愛」がより強調される形となる
森田ミツという一人の女性の悲哀の物語ともとれるし、キリスト教精神の「愛の実践」をテーマとしたものと捉えることもできる
ミツという人柄は、相手を存在そのもの -
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書かれた時代によって今の感覚では「古い」と思ってしまいそうな記述もそれなりにあるが、それはその当時でも著者本人が自覚している部分もあり、穏やかな語り口で案内される内面世界に不快感は一切無かった。これには、不必要な自虐が無い(自嘲的なユーモアが程良い表現に加工されて面白く示されている)ことも影響していそう。
男女の違いについては昨今のジェンダー観にはそぐわない箇所があるものの、押しつけがましさが無い上に、著者は男女どちらをも尊敬できる友人として見ていることが伝わる。違っていても、それで良いのだと思えた。
仏教の視点や数々の文化人との交流を踏まえ、著者の深い教養の一端を覗くことができる楽しさ -
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遠藤周作の死生観、仏教にもキリスト教にも精通している著者のエッセイであるが、タイトルほど内容は重いものでもなく、著者もあとがきで「読者も寝っ転がって、気楽な気持で読んでください。」と書いてる通り、著者の経験やエピソードなどが綴られる。
私が特に面白いと感じた話は、善魔という悪魔の対義語、これは著者の造語であるが、こちらの善や愛が相手には非常に重荷なっている場合も多く、それに気づかず、自分の愛や善に溺れ、眼がくらんで自己満足している様子。
これは、自分にも多く当てはまるなと。
悪魔は悪意を持って、相手に悪い行いをするのに対して、善魔は悪意は無いのである。その上、自己満足している。
相手に負担や重 -
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ネタバレ遠藤周作の考えるイエスの生涯、群衆や弟子たちの思惑、その考察を書いた本。
「死海のほとり」の感想と被ってしまうのだが、やはり遠藤周作の個人的なイエスのイメージ(何もできないが、永遠の同伴者として愛を示す人)ありきでそれにそぐわない要素は切り捨てに切り捨てまくっているという印象で、読んでいてもいまいち共感できない。
イエスが永遠の同伴者であるためには何もできないみじめな人でなければならないから、奇跡は全くできなかったことにされる。ひたすら愛を説く人でなければならないから、神の国が来たという宣教については無視する。たとえ話やサドカイ派などとの論争の批判的な部分も書かない。宮清めの暴力的エピソードは