遠藤周作のレビュー一覧
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前回の聖書読書会でおススメされたので、有名な「沈黙」とあわせてバリューブックスさんでポチった。
実はわたしにとっては初の
遠藤周作作品。
聖書に興味を持つ前からいつか「沈黙」は読みたいと思っていたが、おススメしてくれた方が、
「それなら是非こちらの方から」と教えてくれたので、「深い河」から読み始めた。
小説の時代背景は1984年…なので、
少し古い時代ではあるが、
歴史ものというわけでもなくとっつきやすい。
バブル経済が始まる少し前の、日本の景気が上向きで、かと言って戦争の生々しい記憶も留めている世代がいる頃。
ちょうど今の時代から振り返ると、40年前、アジア太平洋戦争からは40年後の世界が舞台だ。
それぞれの経験を、それぞれに生きてきた人々が、とあるインド旅行で出会い、それぞれの人生に自分なりの意味をつけ、自分なりの物語に昇華していく。
その一人一人の物語も読み応えがあってとても引き込まれるのだが、聖書読書会からの縁ということもあり、読み終えて1番印象に残ったのはやはり、大津の、汎神論にも通じるような、
「彼にとっての神の在り方」についてだった。
汎神論は先日、國分功一郎さんの「はじめてのスピノザ」にも登場した。
この時代でも、スピノザの時代ほどではなくともやはり異端的な考えなのかと改めて驚く。
(ユダヤ人のスピノザ、やはり凄いな)
ただやはり日本で生まれ、知らないうちに東洋的OSにどっぷり浸かっているわたしのような人間にとって、汎神論的な神の在り方は、聖書を読むのに良い補助線になるな、と思った。
クリスチャンでもあった遠藤周作自身の苦悩が表れている箇所でもあり、
まだこの1冊しか読んでいないのでわからないながらも、この大津にもあった一神教の神に対する気持ちの葛藤についてが小説を書く上でテーマのひとつになっているんだろう。
そして、とても印象に残るラスト。
物語から投げ出されてしまうようなあの一文に、一瞬戸惑う。
だからこそのもの凄い余韻がある。
正直、聖書やキリスト教の話なのに、
なぜにインドのガンジス川?
と、おススメされた時疑問に思ったんだが、本当に「沈黙」を読む前にこちらから読んでおいて良かったと思う。
読んだことある人と、じっくり話したくなるような、本当に深みのある良い本でした。
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遠藤周作が四つの福音書を引用し、解釈するイエス像。
人智を超越した・圧倒的な希望の象徴・神の子イエスではなく、人間イエス・同伴者イエス。
人間の苦しみに嘆き悲しみ、「愛」を持って寄り添おうとするイエスの姿が強調されている。
人間が一番辛いのは貧しさや病気ではなく、貧しさや病気による孤独や絶望。
人間に必要なのは「愛」であり、一時的な効果を産む「奇蹟」ではない…とイエスは苦悩する。
奇蹟は起こらず人々に失望され、やがて十字架に向かう、無残なイエス。
しかし、イエスはその死さえも理解していた、人間の苦しみを理解する為の「愛」によるものだった…。
本来の全能の救世主のイメージからかけ離れた、人間イエス像。父性原理的な絶対的な存在を、信仰する事で救われる…という教義からすると、確かに異端的…。
だが、辛い人生に寄り添って下さる母性的なイエス像や、「愛」の理解が辛い人生に於いて重要…という作者の解釈は、私にとって遠い場所にあったキリスト教をぐっと引き寄せてくれた。
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何年か前に買って、棚に眠っていた一冊。つまり、積読本。
ここまで感想が書き辛くて、私にとって共感性も低い本だったとは思いもしなかった。書き出すほどに支離滅裂になりそうで、正直戸惑っている。それでも手探りしながら、書き終わりというゴールを目指そうとは思うけど。
ちょうど、それぞれの目的を果たすため、インド行きを決行した登場人物たちみたいに。
長年連れ添った妻を癌で亡くした磯辺。学生時代に弄んだ男の行方を追う美津子。動物とのふれあいを、唯一の拠り所とする沼田。「旧日本軍 史上最悪の作戦」と称されるインパール作戦で奇跡的に生還した木口。
本書のテーマを一言で述べるとしたら、「信仰」になるだろう。登場人物たちは皆それぞれに孤独を抱え、それぞれ信仰の対象…というよりも、信念のようなものを胸に秘めている。
そんな彼らがインド仏跡ツアーで巡り合い、行動を共にする。やがては全てを包み込む母なるガンジス河に各々の想いを託す…といったところだろうか。美津子だけは未遂に終わった感が強いけど。
私自身「一人」でいることを好む傾向にあるが、ありがたいことに今は大切な人に囲まれていて、「独り」と思うことがない。彼らのように、やがて「独り」を痛感する時が来るのかもしれないが、今はまだその時ではないようだ。
そもそも私が本書の購入に踏み切ったのは、「インド行き」の部分に共感性を感じたからだった。読後の今振り返ると、それが唯一の共感・共通点だったのかもしれない。
かつて私もインドの仏跡ツアーに参加したことがあり、更にはご兄弟をインパール作戦で亡くされた方も、ツアーに参加されていた。
道中での供養の折、肩を震わせて嗚咽を漏らされていた後ろ姿が、今も目に焼きついている。生き残ったことへの申し訳なさを感じていたであろう木口とその方が、読書中も何度か重なった。
ガンジス河が本当に全てを包括してくれるのなら、彼らが背負ってきた孤独も丸ごと受け入れてほしい。
「神とはあなたたちのように人間の外にあって、仰ぎみるものではないと思います。それは人間のなかにあって、しかも人間を包み、樹を包み、草花をも包む、あの大きな命です」(P 199)
「さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集り通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうと構わないではないか」(P 326)
遠藤周作のことはよく存じ上げていないが、彼は大津(美津子が追い求めていた男)を通じて、クリスチャンだった彼自身の宗教観を喋らせている気がした。
自分が強く信じているもの・大切に想うものがある限り、その人は「独り」ではない。磯辺の妻が生前話していた、「(大切なものの)命は決して消えない」というのも、間違っていないのかもしれない。
(随分壮大なロードムービーになったけど)かのインド行きを経て、彼らはそれに気づけたのではないかと思う。
それでも、本格的にこの深い河へ浸かりに行くのは、まだ早かった。
今はただ、ここでぶちまけられた沢山の想いが私のもとに押し寄せている。 -
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適当に手にした小説だったが、名作が過ぎる。そう思って後を見ると2008年第92刷発行て。初版が1972年とあるので、やはり長年人々の心を惹きつけてきたのかしら。
セックスをするためだけにミツに近づき一晩で棄てた男。なんのことはない、どこにでもあるありふれた一幕だと思う。でも読んでて苦しい。それは相手がミツだからだろう。
私は、純朴ゆえ生きるのが下手なミツが愛おしい。そして歯痒い。
ミツのような人間が近くにいたのなら、あるいは私の人生感も変わっていたに違いない。
当時の時代背景などもあるが、フェミニスト系の人には受け入れ難いかもしれない。 -
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ネタバレ本編の主人公・サチ子は第一部の主人公キクの遠い親戚(祖母のいとこがキク)。
舞台は第二次世界大戦ごろの長崎。やはり切支丹が題材。
正直作者が取り込みたいエッセンスを全部一つの小説に入れ込むタイプの小説は好きではない。今回で言うと原爆、学徒出陣、特攻、アウシュビッツという要素がそれに当たり、山崎豊子の二つの祖国を読んだときにも同じような感想を持ったことがある。
一方で作者は人間の弱さ、強さ、汚さ、美しさ等あらゆる側面を捉えているため、惹き込まれる。
色々詰め込み過ぎかなと思う一方、色んな人が色んな立場で現実に向き合ったんだなと思わせる1冊でした。 -
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ネタバレ人は、信仰を持たないと罪の意識も持てないのだろうか。
信仰の有無とは違う、という感覚は覚えるけれど、それならばどうやって裁きを受け入れるのだろう。反省して罪を償おうと思えるのだろう。
“信仰”で捉えるのも二元論的なのかなぁ。
無理…と押し潰されてしまう勝呂も、良心の呵責を期待して果たせなかった戸田も、両方とも読んでいる自分から距離はありませんでした。
上田看護婦すら、わからなくもない…という存在。
特にこの3人の心情がひしひしと生々しく伝わってきます。
そして、終わらない空襲と敗戦の予感の、疲労と諦念があれば、わたしも容易に傾いていきそうという怖さがあります。
加えて、F県在住なので、移転前の九大箱崎キャンパスにあったコールタールで塗られた校舎を見かけ、空襲避け本当にやってたんだ…と思ったり(今は撤去済)、
母方の大叔父がこの時の九大に通っていましたので(文系学部だったので学徒勤労動員で長崎にいたそうです。8/9にも)、
勝呂や戸田が眺めていたあの海も街も身近に感じられます。
生体解剖を「これは正義だ。神もお赦しになる」と言われたら、信仰を持つ人はどうするのだろう、と思いました。
善悪の判断の軸を信仰に置くのもなんだか……日本人は無宗教と思ってしまうほど信仰(神道、仏教、アニミズム)が体に染み込んでるだけだと思いますし。
違う形の苦悩を抱える人間ドラマが面白いけれど、信仰がないから罪の意識が〜について色々考えさせられてしまう作品でした。
再読だったけれど、何度でも読めます。
映画も観よう。若い頃はナヨナヨしてた記憶がある(『もう頬杖はつかない』参照)奥田瑛二さんが勝呂、若い頃はたぶん観たことない渡辺謙さんが戸田かぁ。 -
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「革命」という言葉の持つ高揚感や疼きを、じゃあ実際どうなのって史実ベースで語ると常軌を逸している。身体の奥底から湧き上がる、滾ってくる激情が、正義だの平等だの権利だのお題目を無視て破壊衝動のみを連れてくる。理性的な生き物がただの獣に戻る。「民衆」という、数のみが頼みの存在は、しかし一度でもその武器を振るうと、制御が効かなくなり暴徒と化す。
エネルギー。それはしかしもしかすると、今の時代に求められている力なのかもしれない。
マリー・アントワネットが悲しいだとかというよりも、フランス革命がいかにありえないことだったのかが伝わってきた。
「ありえない」なんて事はありえない -
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遠藤周作が語る、宗教とは、神とは、信仰とは、の話し。
いちおう対談形式になってはいるが、質問者の質問はほとんど意味をなしておらず、雑で安易な質問ばかりしている印象でした。(架空の対談かもしれないが)
おそらく初心者や無神論者に対する配慮として、簡単で専門的ではない質問にしているのだと思いますが、もう少し質の高い質問や議論があっても良かったかなと思いました。
ただ、序盤は世俗的で浅めの思想で始まりますが、中盤から終盤にかけて少しずつ深くなっていく思考の流れが良かったです。
本人も言っているとおり、2世信者として、意味もあまりわからずに幼少期に受洗しているので、西洋人に近い、生活に根付いた信仰が逆に新鮮でした。
キリスト教関係者が遠藤周作の著書を非難したり、「遠藤は本物のキリスト者ではない」というのも聞いた事があり、それも分かる気がしますが、現代人には共感しやすいのではないかと思いました。
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この本を読んで安心した。
「超然」。キリスト教に限らず、宗教やスピリチュアル的なものに感じること。理解を阻むもの、受け入れがたい何かがある。理解を超えてしまっている。理解しようと努めるというよりも、そういうものであるというふうに落とし込む方がいいのかもしれない。この本を読む前まではそう思っていた。
遠藤周作の描くイエスを読む。そうしたイメージからは程遠い悩む一人の人間がそこにはいた。人々から期待され、担がれても、自分という存在以上になれないと悩む一人の人間であった。
弟子たちだってそうだ。一枚岩では決してない。今自分が信じているこのイエスを信じなくなることで、自分を自分たらしめている拠り所がなくなるから、くらいの感覚でしかない。イエスに心酔していた敬虔な信者たちでは決してない人々だということ。
イエスも所詮は人の子である。信心深くなき不心得者の言葉としてご容赦を。そうした前提に立つことで、逆にイエスについて、キリスト教について、理解に努めようと思い始めた。 -
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遠藤周作の最晩年の作品らしい。ブックオクで目に留まり購入。情報無しになにげに読み始めたら止まらなかった。こちらは一気読み。
インド観光ツアーに参加する人々の過去や事情から、生きる意味、神を信じるとは?転生などの深いテーマが描かれる。
後半には混沌としたインドの空気が文字から溢れ、目の前に紅茶色の荘厳なガンジス河の風景が広がってくるから圧巻である。
聖なる大河に安らぎを求めて集まるヒンズー教徒達。心と身体を洗い清める者、死して流されるために河を目指して歩み続ける老人。遺体や遺灰を流す横で同時に沐浴が行われる。生と死に境目は無く、祈りが存在するのみ。
キリスト教もヒンズー教も仏教も境目は無い。全ての教徒のために存在している深い河がガンジス河だと著される。クリスチャンの遠藤周作が最終的に至った境地がここにあるのかもしれない。
芥川龍之介の「奉教人の死」に引き続き、手に取った本作は偶然にもまたまたキリスト教小説。意図した訳では無いが、日本人の中のキリスト教観を知る上で良い機会となった。
私自身はお正月には初詣、お彼岸には御先祖様のお墓参りをし、クリスマスにはケーキを食べるという典型的な日本人。何かを心から信じるという信仰心が羨ましく思えて、インドに行きたくなった。