遠藤周作のレビュー一覧
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表現に関して一読してみるとよい本として紹介されていた作品。私にとっては少し昔の作家さんの印象があって、読みにくい文章なのかなぁと構えていたものの、挑戦的なタイトルに興味を惹かれて読んでみた。そしたらびっくり。中の文というか語り表現が、内容以前に単純に楽しかった。まっすぐさっぱりアイロニックで、こんなに吹き出すように読む本だとは思わなかった。
男女の捉え方や、取り上げられているものが手紙、というのが時代を感じさせるものの、伝えたいことを伝える、という観点は現代も変わらない。大切なことは「読み手(相手)の身になって」ということ。
食わず嫌いせずに読んでよかった。 -
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『万葉と沙羅』という作品に登場した本作。
気になって手に取りました。
文章が柔らかく綺麗で読みやすかったです。
高校から短大へ、
青春時代を過ごす泰子を主人公に、
周囲の変化や人間関係を描いています。
個人的に印象に残っているのは、
冒頭の泰子が16最になった際に届いた亡き母からの手紙です。
戦争を経験し、自分の愛しい我が子に思いを伝える文面がとても。
そこから泰子はブレずに成長していくのも個人的には読んでいて安心しました。
恋をしたり思想をもったり、それぞれが変わっていく中、泰子の自分を見失わない姿が協調され、泰子を羨ましく思いました。
(私自身はブレブレの人生のため。苦笑)
そして、物語の途中で登場する星野さんのくず具合にイライラさせられますが笑、いつの時代でもあるあるなのか、このダメな感じは!と思いました。苦笑
それだけではなく、泰子の母が慕っていた恩智と泰子が偶然出会い、話をする場面はとても印象的でした。
美しいもの、善いものをいつまでも信じられるようにしたい、と。
本作は初版が昭和54年ですが、
まったくそれを感じさせず読みやすく
テーマも青春でこの時代にもつながっていると思える作品です。 -
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ネタバレ狐狸庵ものの先駆けなる、手紙の書き方を中心とした軽妙なエッセイ。死後発見された原稿ながら、昭和三十五年ごろの、新婚で幼い長男を抱えた遠藤周作が肺結核を患っていた頃のものらしい。
男性読者を想定したものでもあり、かなり時代は感じさせるし、すごく腑に落ちながら読んだわけではないが、「読み手の身になって」書け、という一貫した主張も時に語られる人間心理も普遍的なものである気がした。恋文書く側は男性編で、断る側は女性編と銘打たれているのが、昭和というより平安時代の古典常識だなと思った。森鴎外は『雁』で、「見られる」女から「見る」女への転換と挫折を描いたけれど、このエッセイでは一貫して女は受け身。その辺が特にこの作品の古さを印象づけていると思う。良い悪いではなくて、そういう時代だったんだね、っていう。古さでいうならモガとかモボとか死語だし。まず候文で手紙を書く発想はそもそもない。
私は手紙を書くのは好きな方だけど、こうして見ると昔はこんなに手紙が身近なものだったのかって驚く。メールやLINEが発達した今、もはや手紙自体が絶滅危惧種だし、そうするとここで筆者が述べていることの半分くらいは絶滅危惧種属性だけれど、メールでもLINEでも対面のコミュニケーションでも、要するに相手の立場に立って相手との関係性を考えながら、紋切り型でなくやりとりをするのが血の通ったコミュニケーションよね、って思う。
あとあたかも当然のように書いてるけど、手紙を送られたら嬉しいものだろう!っていう前提に立っているのが力強い。メールでもLINEでも、迷惑じゃない?って考えがちな私としては、そこそんなに自明視して大丈夫そう?って若干心配になる。 -
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ネタバレまず著者自身が疑問を持って考え尽くしたのだろうと思った。迷い苦しむ弟子たちに対する親密なまなざしが、文面からでも伝わってくる。
キリスト教のことはよくわかっていない立場からの感想だが、取り繕わずに率直に、堅苦しくなく書かれていて非常に興味深く読んだ。
著者による福音書の読み解き方を知るにつれ、使徒たちの死を「書かない」という行為に、ルカの正直さと人間味を感じた。胸に浮かんでくるこの気持ちは何なのだろうか。書物の向こうに人間がいると気づいたような感覚。
死はきっとどんな人間にも呆気ない。たとえ神に一生を捧げた者でも、死には劇的なものなんてないのではないかと思う。
強い信仰を持ったことがないわたしには計り知れないが、殉教に際して周囲も言い表せないほどの苦悩や絶望があったのかもしれない。
あとがきで“だが書きながら私はこれらの弟子たちの人間臭さを愛した。”とあって、それが伝わってくる文章だったと思った。 -
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教養なく見た目もよくない森田ミツは、修道女に「一番好きなのはミッちゃんみたいな人。どういう人になりたいかと問われればミッちゃんのような人」と言わしめ、自分を棄てた吉岡に「聖女」と言わしめる。
他者に強く強く共感し、自分ごとのように他者の苦しみを受け止め、他者の苦しみを見過ごせないミツ子は、それが美しい行為であることに本人は全く気づいていない。だからこそ、その心の清らかさに周囲が圧倒される。
社会の角で生きて早逝したミツ子は、確かに「消すことのできぬ痕跡」を吉岡に残した。私自身もまた本書を通してミツ子と出会い、その痕跡を残されたような気がする。
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納得出来る部分多々、ぶっ飛んでる部分もたまに 女性の分析や男性目線の女性とは、だったり、恋、愛について、闇のような感情、死、教育、子供などについて書かれており、、、小説家であるからか、一般的な社会倫理から外れていてもびくともしない、むしろそうゆう人たちの感情、考えをもっと知りたい、という面が強く、一般的には怖くて避けたくなる対象を探していて、スゴイな、受け入れ対象が広いんだな、と驚いた。
書かれているどこかの部分は、よく言葉にしてくれた、ほんとにそうだな、と強く共感する部分もあるだろうから、一回読んでみてはいかがか。ただ40歳過ぎじゃないと分からない部分が多いだろうから、ある程度人生を経験した後で。 -
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遠藤周作先生の初期のエッセイ。
冒頭はこの本が書かれた当時の
プレイ・ボーイとはどういう者か、
それとドン・ファンそしてカサノバの違いについて。
どれも、女性を誘惑する者であるが、
遠藤先生はどれも情熱はあるかもしれないが
愛を知らなかったと。
私も結婚して10年以上たつので
多くの人と同様に倦怠である。
既に情熱はない。
しかし、遠藤先生の言葉を借りるなら
《二人が忍耐して、倦怠期や病気や失業や子供の入学、子供の卒業、その他もろもろの日常と人生の悲しみと悦びとを一緒にしながら(どこの他人が君とこれほど君の人生を共にしてくれるかね)二人の連帯を努力して続けていこうとするのが「愛」というのだ。》
ならば、わが夫婦生活も愛をはぐくんでいる
最中に他ならない。どんなドン・ファンにも
負けぬ愛の世界を知ったものとして
夫婦生活を貫くべきなのだろう、
私の人生はやはり素晴らしいのである、というために。
後半の”病床交友記”では、先日読んだ庄野潤三氏
が見舞いに訪れた際のことが書かれていた。
作風と変わらず、穏やかな人物を思わせた。
さすがの遠藤先生、お見舞いに来られる
作家先生方が豪華で驚いた。 -
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私と戸田の巡礼の記録と、2000年前のイエスを取り巻く群像の一人ひとりの物語が交互に語られ、一度その人の人生を横切ったからには「永遠の同伴者」として共にいる惨めで貧しいイエス像を描き出す。
神は清らかで威厳があり高く尊いもの、という一般的なイメージに対して、今回も遠藤周作が描くのは、無力で惨めで汚らしく、ぼろ切れのように棄てられるイエス。戸田が語るように、奇跡を期待する民衆に対して何もできず、その無力さに愛想を尽かされて皆に棄てられるのだが、一度関わった人は誰も彼を忘れられない=イエスは誰も見棄てない。
弱くてずるい修道士のねずみはナチスの収容所で最後まで弱いまま、ただ最も歳若だった少年に自分の最後のパンをやって追い立てられていく、その後ろ姿に付き添って歩くイエスの姿を少年は見る。石鹸にされたねずみと、人々の罪や汚れを落とすイエスは重なって、最も弱い者の中にも(だからこそ?)イエスは存在している。