遠藤周作のレビュー一覧
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倫理についての捉え方、命の価値や正義は、その時代に応じて大きく変わる。
10年程前のアメリカでは、半数以上の人が、日本への原爆投下は正しかったと言った。だが、今では7割の人が、原爆投下は不必要であったと答えた。
テロは神風と呼ばれ、特攻はテロと同列に語られることもでてきた。
私たちは戦争のない国に生まれ、道徳というものを学んだから、この九大の事件を酷い話だと感じるが、例えば今、自国で戦争が始まったとして、敵国の捕虜が人体実験に使われようとしていると知ったとき、そのことに対し声を上げることは出来るのだろうか。同胞の仇を前にして、倫理を貫けるか。自分が勝呂の立場に立ったとき、恐れることは、人命を軽々しく扱うことではなく、そのことが露見して激しく糾弾されることではないだろうか。
また、時代が変わったときに読みたい一冊である。 -
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ネタバレあなたにとっての「良心」とはなにか。
生体解剖がどれほどいけないことだったのか、私には分からない。
ましてや戦時中で捕虜を生きたまま解剖するとは!という声が出版当時は聞こえてきそうだが、現代のわたしがこの本を読んだとしても、そのような感想は出てこなかった。
現在でも病理解剖と言うのも行われているし。
生きたまま行うのはうわ、っと思ったが麻酔はかけられていたし、描写であったようにどうせ捕虜として戦争で死ぬならば今後の生きる人のためになるならいいんではないか?っという様なことに納得してしまう自分が嫌になった。
なにか、自分が正しいと心を律するために誤魔化すような能力だけ秀でてしまい本当に考えなければいけないことを考えれていないと思った。
誰かに意見を言われたら「確かにそうだね」とすぐに意見を流されてしまい「良心」が変わってしまうような日本は今そんな世の中になっている気がする。
誤ったニュースが報道されたとしても自分で真意を調べずにすぐに自分の意見を主張する。悪いと思ったら徹底的に批判する。
その後、本当のニュースが流れたとしても前回の自分の意見を撤回することなくまた意見を変えて流される。
そういう自分にならないように意識していかなければならない。 -
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慶長遣欧使節の一員としてローマにわたった支倉常長をモデルとした小説です。
宣教師のベラスコは、現世を超越したものへの関心をもたない日本人にキリスト教の信仰にみちびこうとする強い情熱をもっていました。同時に彼は、布教のためには手段をえらばない、策略家でもありました。そんな彼のもくろみが功を奏して、陸前の港からノベスパニア(メキシコ)に向けて、使節が派遣されます。使節の役目を果たすことになったのは、召出衆と呼ばれる不遇の「侍」であった長谷倉六右衛門をはじめとする四人でした。長谷倉たちは、ベラスコに不信感をいだきながらも、海外との通商の窓を開くことを決意した藩主の親書をもって海をわたります。
その後一行は、大西洋を越えてヨーロッパへわたり、さらにローマ法王に謁見することになります。しかしそのころ日本では、幕府が禁教政策の強化に動き出し、主君の命を果たそうとする長谷倉たちの思いはむなしく終わります。そしてベラスコもまた、日本人をキリスト教の信仰にみちびくという望みがついえたことを知ります。
ベラスコに対立するペテロ会のヴァレンテ神父との討論では、キリスト教がけっして根づくことなく、いつのまにかそれを伝統的な信仰に変えていってしまう日本という風土にかんする著者自身の見かたが示されています。野心的な宣教師が経験することになったの挫折と、当初は簡単にわかりあうことがないように思えた「侍」の悲劇的な運命が交わるというストーリーの運びかたが見事な作品だと感じました。 -
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小説家である「私」を中心とする現代の話と、イエスの物語が交互に語られ、著者自身の信仰の核心にあるものがえがき出されている作品です。
「私」は、大学時代からの知人であり現在は聖書学者である戸田の案内で、イェルサレムの街をめぐります。戸田はイエスについての史実を説明し、イェルサレムで語られるさまざまな伝承が歴史的な裏づけをもたないことを「私」に話します。「私」は戸田に反論できないものの、彼自身の求めつづけてきたイエスのすがたを手放すことはありません。
一方で「私」は、やはり昔の知人である「ねずみ」と呼ばれていたコバルスキの最期のようすを知ろうとします。戦争のさなか、ナチスの収容所に閉じ込められたコバルスキは、英雄とはほど遠い、苦しみのなかを生きた人間でした。
これに対して、イエスのすがたをえがいた章では、奇跡を求める人びとの要求にこたえることができず、なにもできなかった男としてその生涯を閉じたイエスがえがかれています。みすぼらしく死んでいったイエスの人生は、苦しみのなかにいる人びととともに苦しむことをえらびつづけた道だったのであり、そのようなイエスが死後に人びとの信仰を集め、逆説的にも現代にまでその教えが伝えられることになったということを、著者は語ろうとしているように思えます。 -
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パリの民衆たちの王政に対する不満の声は日増しに高まり、ついに革命が勃発します。マリー・アントワネットは、頼りにならない王の背中を押して、暴徒と化した民衆を押さえつけようとしますが、彼女たちはしだいに後退を余儀なくされ、幽閉されてしまいます。
一方、革命軍もジロンド派とジャコバン派の対立をかかえており、マリーはどちらに転ぶともわからない不安のなかで、けっしてあきらめることなく、彼女を慕うスウェーデン人伯爵のフェルセンに協力を求めて再起の道をさぐります。しかし、革命を実現した民衆たちの高揚は鎮まることなく、やがてルイ16世は死刑台に引き出されることになります。以前は頼りにならなかった夫でしたが、彼はフランス国民の前で国王としての威厳を守り、そんな彼のすがたにマリーも彼とともに暮らした日々の幸福を認識します。
そしてついにマリー自身も、断頭台による処刑を受けることになります。民衆の好奇のまなざしにさらされながらも、彼女は最後まで優雅な振る舞いを保ちつづけようと心を奮い立たせます。
上巻では、過酷な運命に翻弄されながらも生き生きと活動するマルグリットのすがたと、味方のいない宮廷で心の闇を打ち消すように奔放に振る舞うマリーの二人が対照的でしたが、下巻では、革命の高揚に飲み込まれて暗い情念に支配されるマルグリットと、最後まで誇りをうしなうことのないマリーという、それぞれ立ち位置を変えての対照的な役割を演じています。 -
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フランスに留学した人物を主人公とした作品三編で構成されています。
第一章は、キリスト教文学について学ぶためにフランスにやってきた工藤という青年が主人公の短編です。彼は、日本でのキリスト教布教の希望を疑うことがなく、日本についての想像力を欠いた善意を示すフランスの敬虔な信者たちに、理解されることのない徒労を感じます。
第二章は、17世紀にヨーロッパにわたり、日本での布教活動を託された荒木トマスという人物をめぐる短編です。著者は、信仰を捨て去ったことでキリスト教の立場においては顧みられることのなかったこの人物にスポット・ライトをあてて、日本に帰国した彼がいったいどのような悩みに直面したのかということについて想像力を働かせています。
第三章は、サドの研究のためにパリにやってきた、大学講師の田中が主人公の長編小説です。彼は、サドの研究者であるルビイから、「なぜ東洋人のあんたが、サドを勉強するのかわからん」という問いを投げかけられ、研究者にとって外国文学がいったいどのような意味をもつのだろうかという悩みにとりつかれます。さらに、後輩の研究者である菅沼が彼を追ってフランスにやってきたことで、みずからの出世の道が閉ざされたことを知り、パリの日本人仲間たちとのかかわりを避けつづけたことで、彼の運命はますます暗い方向へと向かっていくことになります。
キリスト教を中心とするヨーロッパ文化を学ぶ日本人が、彼我の文化のちがいに直面して思い悩むようすが一貫してえがかれており、このテーマについての著者の持続的な関心のありかがうかがえるように思います。