あらすじ
英雄的でもなく、美しくもなく、人々の誤解と嘲りのなかで死んでいったイエス。裏切られ、見棄てられ、犬の死よりもさらにみじめに斃れたイエス。彼はなぜ十字架の上で殺されなければならなかったのか?――幼くしてカトリックの洗礼を受け、神なき国の信徒として長年苦しんできた著者が、過去に書かれたあらゆる「イエス伝」をふまえて甦らせた、イエスの〈生〉の真実。
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Posted by ブクログ
「人間イエス」の生涯を複数の福音書と筆者の解釈を交えながら描いた作品。
イエス=神様、としか考えてこなかった自分にはとても新鮮で、イエスの背負った苦難をまざまざと見せつけられた。『沈黙』や『深い河』を読んだ後で手に取ると、もう一度2作品を読み返したくなると思う。
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キリスト教の「神」とは、私の思っていた神とは別でした。
「沈黙」を読んだ時のなにか掴みきれない感覚のようなものが
多少ですが、整理されたような気がします。
「キリストの誕生」も読んでみたいと
思います。
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自分の思い描いていたイエスの姿とは全く違った印象を持った。
神の愛を伝えたいイエスと目の前の見える奇跡を求める民衆とのギャップ。
イエスがここまでの孤独を抱えていたことを知らなかった。
イエスの苦しみはまさに人間が抱える様な苦しみで、神の子にも関わらず人間の苦しみも分かち合ってくださる。
自分の中では勝手にイエスは「思い悩むことのない、完璧な存在」と思っていたが実はそうではない。
無力だったからこそ、弟子たちに伝えられたことがあったのだ。
地上に来てくださり、神であり人でもある神の子に感謝する気持ちがより一層強まった。
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私は本書にイエスの天涯孤独を読んだ。
「汝等は徴と奇蹟を見ざれば信ぜず」(ヨハネ、4・48)とあるが、民衆はおろか、弟子たちですらもイエスの真意には寄り添わず、ひたむきに「愛」を説くイエスに、病を治す奇跡や、ユダヤ民族主義のリーダーとして立ち上がることを期待していた。
「裏切り者」ユダに、イエスの意図を理解したうえで、民衆が求める者へと路線を変えてほしいと切に願い、幻滅した「哀しき男」[第8章]としての像を見たのは斬新な指摘であると感じた。
お伽噺のような「物語」を基にして、説得的な「事実」を論理的に追及しているというある種の矛盾がとても面白かった。
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遠藤氏の本を幾つか読んだが、私はその度「神とはなにか?」を考えさせられた。遠藤氏が書く本に現れる神は、所謂神頼みされる神、何かを授けてくれる神、奇跡を与える神ではなく、残酷で、冷酷で、何もしない神だと感じたからである。普段生きていて、神を思う時、それは何かを望む時であったり、なにか幸福に恵まれた時であったりするのが私だった。だからこそ余計に、遠藤氏の作品で現れる神は、どんな信念のもとにその姿をしているのかを知りたかった。この本を読むことで、それがほんの少しわかった気がし、同時にイエスという人に対して遠藤氏がどう考えているのか、イエスの像についてもほんの少し触れられた気がした。この本を読んですぐにはわからなかったが、じっくり自分の中で咀嚼し、反芻する内、ふと、あらゆる苦しさや悲しさや辛さを背負うことを選んだイエスと、そのイエスにずっと無言で付き伴った神の姿とその意味が心に浮かんできた。神は常にどんな時も其処に在る、その救いの意味が少しわかった気がした。私の理解はとてつもなく浅く、議論するに足りないものだろうが、そういうことを少しでも考えられるきっかけができたことは、私にとって大きかったと思う。
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「何もできぬイエス」「無力なイエス」そして「愛を注ぐイエス」を語る本。
遠藤周作さんは根が小説家なので、ときたま聖書の解釈が(私からみると)ぶっ飛んでて面白い。
遠藤さんは基本的に、奇跡は実際起こったことの比喩と解釈している。そしてイエスを、苦しむ人々に寄り添う人、効果がある奇跡より無力な愛を大事にした人として描いている。
愛読書決定!
Posted by ブクログ
人間イエスの姿が、リアリティを持って迫ってくる一冊。久しぶりに素晴らしい良書に出会った。
従来のユダヤ教主流派の神は、裁き、怒り、罰する神であった。だが、そのような神は、貧しく、弱い民衆を救うことはできない。
一介の大工の巡回労働者として生活してきてイエスは、庶民や、特に弱者や、差別され、虐げられた者たちの姿を、つぶさに見ていた。
人間にとって一番苦しいのは、病や貧しさでは無く、そこからくる孤独と絶望にある。
そしてそれを救うのは、神の罰では無く、愛である。イエスはこう考えた。
「神の愛をどのように証明し、知らせるか。」
イエスは、このテーマに、生涯取り組むことになる。
ただ、これまでの「強い神」が意識の根底にあるユダヤ教徒の中で、イエスの「神の愛」は理解されない。
ローマを打ち破る者、奇跡を起こす者、主流派への反逆者。
民衆、そして弟子までもが、イエスに彼らの欲望を投影していく。そしてその欲望が満たされないとわかるや否や、イエスを次々と裏切っていく。
イエスの本心は、誰にも理解されない。
愛は現実世界では無力であり、人々が求めていたのは現実的な効果ばかりだった。
イエスは、一人、ずっと孤独だった。
「神の愛をどのように証明し、知らせる」ためには、自分の犠牲によって、神の愛を証明するしかないとイエスは考える。
あらゆる人が経験した、筆舌尽くし難い苦難を、身を以て体験する。そして、弟子の、民衆の、全ての人の裏切りを許す。
それが、イエスが愛を証明するためにとった方法であった。
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作者の既存作品の紹介を公演した記録や、文豪達との様々な交流を通して神をテーマとしたエッセイの様に語りかけ。
この書籍からドストエフスキーや吉行淳之介に出会えるとは思っておらず嬉しく楽しい読書でした。
Posted by ブクログ
ヨーロッパなどの先行研究に触れながら、著者自身のイエス像を客観的な筆致で描く。
受難物語では奇跡をみせずに、自らが架けられる十字架を自ら背負い、ゴルゴタの処刑場に向かったイエス。著者は、聖書はイエスの無力を積極的に肯定しながら、無力の意味を我々に問うていると指摘する。また、彼の生涯は愛に生きるだけという単純さをもち、愛だけに生きたゆえに、弟子たちの眼には無力な者とうつった、だがその無力の背後に何がかくされているかを彼らが幕をあげて覗くためにはその死が必要だったのである、とも指摘している。
その答え、残念ながら今の自分には確たるものがない。
Posted by ブクログ
小説というよりは評伝である。
しかし、明確な問いが立てられ、それに明敏な答えを与えている点では学術論文にも等しい。
遠藤周作は小説家だけではなく、なぜ哲学者にならなかったのだろうか。
当世の安っぽい社会学者や思想家とは異なる、ちいさき者への優しさがある。
イエスの名前やその最期を知ってはいても、なぜ磔刑に処せられたか、弟子に裏切られ、また復活の伝説が興されたのか、その詳細は日本ではあまり知られていない。
『侍』でも描かれていた、現世利益をもとめる仏教観と、奇蹟でなく
苦悩と悲哀に寄り添うキリスト教観の違い。
イエスの愛は現代のキリスト教ではゆがめられている気がしないでもないが。
Posted by ブクログ
2001年、911アメリカ同時多発テロの衝撃の後、イスラム教ユダヤ教キリスト教についての本を少しばかり読んだ。読んだけれどもよくわからないというのが本音である。
その当時集めた中で今までなぜか読まず最後に残ったのがこの『イエスの生涯』もうすぐクリスマスだが、この本はイエス様が厩で生まれたとは書き始まっていない。ところがこれがわかりやすかった。遠藤周作氏の人柄と作家の力量だからだろう。
西洋画に書かれた神々しい像は、後の時代の想像力によってなされたので、容貌も平凡な中東人がどうしてイエスキリストなのか?
イエスはユダヤ人で大工さんであった。ナザレというところで30~40代まで近親者と働いて暮らしていたが貧しかった。そんな普通の人が思うところあったのか、困る身内の反対を押し切り、捨てて家出してしまう。そして放浪の生活。原始キリスト教に出合のだが、原点は貧困にあえぐ人々への同情。奇跡を起こすでもなく、救済者メシアでもなく、何にもできない無力者のイエスが政治的陰謀にはめられて、ゴルゴタの丘で十字架にかけられてむごたらしく殺される。その処刑されたということにキリスト教の意味があるという、遠藤氏の直観力が開示される。
おおざっぱに言ってしまったが、遠藤氏が思索なさったことに妙に納得してしまった。
この後編に『キリストの誕生』をお書きになったが。
Posted by ブクログ
『沈黙』で描かれたイエス・キリストの生きた姿。かくも優しく無垢な人間が、過去に本当に存在したという事実に胸を打たれます。『沈黙』同様、遠藤文学を知る上でぜひとも読んでおくべき作品です。
Posted by ブクログ
遠藤周作が四つの福音書を引用し、解釈するイエス像。
人智を超越した・圧倒的な希望の象徴・神の子イエスではなく、人間イエス・同伴者イエス。
人間の苦しみに嘆き悲しみ、「愛」を持って寄り添おうとするイエスの姿が強調されている。
人間が一番辛いのは貧しさや病気ではなく、貧しさや病気による孤独や絶望。
人間に必要なのは「愛」であり、一時的な効果を産む「奇蹟」ではない…とイエスは苦悩する。
奇蹟は起こらず人々に失望され、やがて十字架に向かう、無残なイエス。
しかし、イエスはその死さえも理解していた、人間の苦しみを理解する為の「愛」によるものだった…。
本来の全能の救世主のイメージからかけ離れた、人間イエス像。父性原理的な絶対的な存在を、信仰する事で救われる…という教義からすると、確かに異端的…。
だが、辛い人生に寄り添って下さる母性的なイエス像や、「愛」の理解が辛い人生に於いて重要…という作者の解釈は、私にとって遠い場所にあったキリスト教をぐっと引き寄せてくれた。
Posted by ブクログ
この本を読んで安心した。
「超然」。キリスト教に限らず、宗教やスピリチュアル的なものに感じること。理解を阻むもの、受け入れがたい何かがある。理解を超えてしまっている。理解しようと努めるというよりも、そういうものであるというふうに落とし込む方がいいのかもしれない。この本を読む前まではそう思っていた。
遠藤周作の描くイエスを読む。そうしたイメージからは程遠い悩む一人の人間がそこにはいた。人々から期待され、担がれても、自分という存在以上になれないと悩む一人の人間であった。
弟子たちだってそうだ。一枚岩では決してない。今自分が信じているこのイエスを信じなくなることで、自分を自分たらしめている拠り所がなくなるから、くらいの感覚でしかない。イエスに心酔していた敬虔な信者たちでは決してない人々だということ。
イエスも所詮は人の子である。信心深くなき不心得者の言葉としてご容赦を。そうした前提に立つことで、逆にイエスについて、キリスト教について、理解に努めようと思い始めた。
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あとがきにもあるが、神としてのイエスではなく、人間としてのイエスの生涯。
人間は結局、現実的な効果を求める。それをイエスは「汝等は徴と奇蹟を見ざれば信ぜず」と言う。
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聖書ではないイエスの生涯を辿る本。聖書のマタイ伝とかも読んだが本書は小説なので読みやすい。
ユダヤ教の分派から生じた異端児にして革命を期待され果たせずに民衆から見放されるという流れ。大工の息子だし絵画にあるような華奢な人では無かったとは思う。奇跡については怪しいが「皇帝のモノは皇帝に…」とか相手の狙いを見越した上でいなす知力の高さは本書を読んでも頷ける。
ユダの裏切りが有名だが他の弟子達の真の裏切りについても言及されており自分も本書の説明の方が理に適っている気がした。
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人間は神の愛よりも奇跡や効果ばかりを求める。著者の言葉を借りるなら、私たちのほとんどは卑怯で弱虫だ。私にもイエス様の哀しげな顔が見える気がした
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☆☆☆ 2022年7月 ☆☆☆
「彼の容貌を私たちは見たこともない。彼の声を私たちは聞いたこともない」
彼とは、約2000年前に生まれ人々の苦しみを背負って十字架にかけられたイエスの事である。キリシタンである遠藤周作氏が「イエスの生涯」というテーマで、イエスとはどんな人物だったのかに迫る。
この本を読んで感じるのは、イエスとは純粋な優しさを持った人だったのだろうという事。人々から誤解され、弟子たちから裏切られても尚、人を恨まず「彼らをお許しください」と乞うたイエス。
臆病だった弟子たちはなぜ強靭な信仰者となれたのか、それは続編の『キリストの誕生』へと続く。
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謎多きイエスの事実と真実を書いた本。
無駄を削いだ文から、人間性やあらゆる感情を推察し見出した、想像力に富んだ内容だった。行間を読み、想いを巡らせ、聖書の中の人々に血を通わせ生き生きとした肉の叫びが聞こえてくるのはさすが小説家らしいと感じる。
特に、イエスが今から訪れる自分の死をどのように考え受け入れたか、著者の深く慮る心が私の胸を打つ。
「剣をとる者はみな剣で亡びる」
今、この言葉が痛切に響く。
聖書を読む決心がついた。
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遠藤周作による聖書の解釈、キリスト教観がわかりやすく書かれた1冊。遠藤周作作品を読むためのバイブル。この作品を読んでから別の作品を読むとより一層楽しめると思う。
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イエスは他人から憎まれても他人を愛した、そんなイエスが何故十字架の上で殺されなければならなかったのか、いまだに良く分からない。不条理はこの世でよくあるということの典型だと思う。キリスト教の愛、無力、復活という考え方は初めてよく理解できた。重荷を負うているすべての人を休ませてあげる、敵を愛し恵むこと、苦しみを分かち合う、神の愛、イエスの再来等”沈黙”で書かれていたキリスト教的考えもよく分かった。日々の生活でも参考にしていきたい。
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遠藤周作が実際に中東へ赴き、イエスの生涯について自身の考察を記載した内容。著者本人がカトリックなのでキリスト教の理解も解像度が高く、調査内容も詳細がしっかりしているので新たに知られることが多かった。
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遠藤周作の考えるイエスの生涯、群衆や弟子たちの思惑、その考察を書いた本。
「死海のほとり」の感想と被ってしまうのだが、やはり遠藤周作の個人的なイエスのイメージ(何もできないが、永遠の同伴者として愛を示す人)ありきでそれにそぐわない要素は切り捨てに切り捨てまくっているという印象で、読んでいてもいまいち共感できない。
イエスが永遠の同伴者であるためには何もできないみじめな人でなければならないから、奇跡は全くできなかったことにされる。ひたすら愛を説く人でなければならないから、神の国が来たという宣教については無視する。たとえ話やサドカイ派などとの論争の批判的な部分も書かない。宮清めの暴力的エピソードは、自らが逮捕され死に渡されるためにやったことにする…という具合である。遠藤周作のエッセイで知人たちが彼について語る部分があり、「遠藤さんは三のことを十ぐらいにいう癖がある」と書かれていたが、確かに、と思ってしまう。
しかし、最後の弟子たちがなぜイエスを死後神格化し、強い信仰を得たのかという謎のところは引き込まれた。弟子たちは大祭司と取引をしてイエスを否定することで自分たちの身柄を見逃してもらっており、まさにイエスは彼らの身代わりとして十字架についていたという想像。そして、裏切りの強い自責と彼らを呪わずに逝ったイエスの最期が弟子たちをイエスの愛の教えへと導いたと遠藤は考える。さらに、イエスの復活に対する初期キリスト教会の強すぎる確信を鑑みても、復活という強烈な衝撃が神格化と信仰のかかせないピースとして必要だったという見方を示すのである。
あんなに奇跡を否定していた遠藤が復活は認めるのがまず面白い。しかし、イエスが弟子たちの代わりに十字架についたのは比喩でなく事実であったのだ、だからこそその死が弟子たちの感動、驚愕、思慕の感情を揺さぶり、信仰を生んだのだ、というのは説得力を感じてしまう。根拠はなく、全部想像なんだけども。小説を読んでいても思うが、遠藤周作はひとの感情に関する想像力がすごすぎる。そのすごみで納得させられてしまい、恐ろしいぐらいだ。
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イエスの生涯を描いた遠藤周作の著作は神の子でありながら人間として苦悩し続けたイエスの姿を浮き彫りにする。イエスは弱き者や罪人に寄り添い愛と赦しを説き続けた。
その教えは当時の権力者に疎まれ裏切りと十字架の死を迎える。だが遠藤はイエスの苦しみこそが人間への深い愛の証と捉える。人間的な弱さを抱えつつ他者を救おうとしたイエスの姿は現代に生きる私たちに他者を思いやる心の大切さを静かに語りかける。
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キリスト教について知りたいと思っていたところ義父母文庫にあったので読みました。
なぜ弟子や信者はキリストが酷い目にあっているのに助けなかったのか、弟子はなぜキリストが亡くなってからキリスト教を布教する人となったのか、謎が深まった。疑問多く読むのに時間がかかってしまった。
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永遠の同伴者イエスという視座からイエスの全生涯を捉えた本。
イエスの内面の苦悩は弟子達も理解できなかった。孤独とはこの事。
【関連書籍】
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神