征韓論から西南戦争までを書いたもの。当初「時代小説」だったものが著者の興味が膨らみ方向転換したことで、最終的には「歴史伝」になった不思議な書。
歴史は、歴史学のように資料に残る事実のみで「科学的風」に分析、解釈することが正解とされる。しかしこの著者は、資料を「詩的」と評される歴史人物への共感と、自らが生きる現代社会への経路の想像によって、歴史を紡ぐ。これは小説というジャンルでは許される技法であるが、歴史書としては「違法行為」とされる。しかし本書を読み感じたのは、「歴史の事実など、本当にとらえられるのか」「人間にとって『歴史』とは何か」である。この大長編でありながら夢中で読める本書は、現在「司馬史観」と揶揄されるこの作風の魅力と、今を生きる我々にとって歴史とは何なのかを根本的に問うてくる。
古来、一万人の大軍で、経済のことをほとんど考えなかった軍隊は史上西郷軍だけである。これは革命軍というより壮士気分の集合体か、単に暴動的な一揆勢に過ぎない。金欠した西郷軍は「西郷札(軍票)」をつくったり、南九州の公人を拷問したり、殺害して公金を奪った。そのなか、桐野は楼閣に通いつめ三人もの遊女を落籍させていた(西郷札で払った)47
『西郷隆盛ゃ イワシかジャコか タイに追われて逃げてゆく』西南戦争中、政府軍の警察隊と鎮台兵で流行った戯れ唄。タイは「鯛/隊」。この当時使われ始めた「隊」という言葉は「庶民/百姓の兵」という意味だった。これの最初は「奇兵隊」。武士の兵は「組」だった。警察隊と鎮台兵は百姓など平民出身者が多かった。101
和田越の決戦で初めて西郷は前戦にたった。そこで政府軍の戦いを見て「あの百姓町人の兵隊の強さを見よ」「これで、外国の軍隊が攻めて来ても大丈夫」と言った132
宮崎八郎亡き後を継いだ協同隊の崎村常雄主幹は、和田越で西郷の解散命令が出た時、隊で会議を開いた。切腹などの案が出た中で、崎村は「投降して捕虜になり、裁判を受ける」と決裁した。切腹などは文明の野蛮を象徴しているし、民権を旨にする我が隊の理論に反する。文明・民権を考えれば潔く捕虜になり、その後堂々と裁判で自分たちの立場を主張するべきである。とした。これはこの時期の日本では注目すべき動態と言える。143
突囲するため深夜に登山を始めた西郷軍。西郷も四つん這いになり岩を登った。その時西郷は「夜這いみないだな」と一言言って、敗残兵たちは多いに和んだ157
薩摩帰還の山中行軍での西郷の出で立ち。竹の籠に乗り、浴衣を着、脇差だけを帯び、『言志録』一冊。そして竹筒に焼塩を入れていた。焼塩は陣中で牛を屠って食べる時のため170
桐野利秋。彼は光り物が好きで刀などを金銀こしらえして、また香水も使っていた。かれは痛快なほど無内容な男だっただけに、外観を飾ることに、子供か未開人のように関心があった。西郷は村田新八から送られた海外制の豪華な金時計を持っていて、これを落とした。桐野はこれを異常に欲しがった。西郷は逃走中落として「拾ったものにやる」といった。それを拾った兵士がいたので、桐野はこれを300円(現在の価値で700万)で買った。この期に及んでこんなことをしている桐野には気味悪さをも覚える173
桐野は城山に入った時も、野戦病院を遅い、対処していた政府側役人が残した礼服とシルクハットを盗み、身につけた208
実は西郷は切腹に否定的であった。薩摩武士は戦死こそ崇高と考えていた229
この10巻になる書ては女がほとんど出てこない。芦名千絵が前半出てくるが、いつの間にかドロップアウトした。これは著書が大衆小説⇒歴史小説⇒歴史そのものを描く、と連載中、興味が移っていき、「維新前後の歴史では女子供が端役」であった事実から捨てられたのではないか367(解説)
上野西郷像。西南戦争を起こして征伐された西郷が、それほど時間を置かず東京の中心地に銅像にされ、その除幕式には政府高官も出席した。このことに在日中の外国人たちは驚愕した370(解説)