司馬遼太郎のレビュー一覧
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ネタバレ京都を出発するとき、京における長州代表の広沢兵助が、
「西郷にはくれぐれも気をつけよ」
と、注意したが、蔵六はいっこうに表情も変えず、返事もせず、ひどく鈍感であった。広沢のいうところでは、西郷の衆望は巨大であり、一人をもって一敵国をなすほどである。西郷自身は稀世の高士であるにしても、そのまわりにあつまっているのは愚かな物知らずばかりで、江戸へゆけばそういう愚物どもに気をつけよ、といったわけであったが、しかし蔵六は鈍感であった。蔵六にいわせれば、
「衆望を得る人物」
という種類の存在が、頭から理解できないところがあり、それどころか、そういう存在は一種のゴマカシです、としかおもっていない。さらにいえば一人の魅力的人物を押しあげているそのまわりの「衆」というものが、この男にはまるで理解できなかった。そういう魅力的人物とそれを押したてる「衆」が大きな政治勢力になり、ときには歴史をもうごかすということは頭で理解しているものの、しかしかれ一個のモラルでは、
――それは世の中の害です。
というぐあいにその門人に言っていた。要するに、感動的な人間集団というものがよくわからないたちの男なのである。こういう傾向は長州人に共通しているともいえる。かつての長州藩の代表的人物だった高杉晋作や、いまの木戸などが、みずからの人間的魅力をもって衆をあつめようとしないのは長州の風であり、蔵六はその点では極端に長州人であった。
村田蔵六などという、どこをどうつかんでいいのか、たとえばときに人間のなま臭さも掻き消え、観念だけの存在になってぎょろぎょろ目だけが光っているという人物をどう書けばよいのか、執筆中、ときどき途方に暮れたこともあった。
「いったい、村田蔵六というのは人間なのか」
と、考えこんだこともある。
しかしひらきなおって考えれば、ある仕事にとりつかれた人間というのは、ナマ身の哀感など結果からみれば無きにひとしく、つまり自分自身を機能化して自分がどこかへ消え失せ、その死後痕跡としてやっと残るのは仕事ばかりということが多い。その仕事というのも芸術家の場合ならまだカタチとして残る可能性が多少あるが、蔵六のように時間的に持続している組織のなかに存在した人間というのは、その仕事を巨細にふりかえってもどこに蔵六が存在したかということの見分けがつきにくい。
つまり男というのは大なり小なり蔵六のようなものだと執筆の途中で思ったりした。ごく一般的に人生における存在感が、男の場合、家庭というこの重い場にいる女よりもはるかに稀薄で、女のほうがむしろより濃厚に人生の中にいて、より人間くさいと思ったりした。その意味ではナマ身としての蔵六の人生はじつに淡い。
要するに蔵六は、どこにでもころがっている平凡な人物であった。 -
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ネタバレ「しかし私は先刻、自分で名乗っております」
「それは間違っている」
と奥山静寂はいった。
「自分で名乗ったからといって、私は信用しない。私の目で人相風体を見、これならたしかに洪庵先生のいわれり村田蔵六にちがいないと推量がついたうえで当人にたしかめてみるのだ。それが物事の窮理(科学)というものである」
「お前さんも頓狂な男だな」
敬作は、蔵六の人柄が、一見したところまったくちがっていることにちかごろ気づきはじめていた。敬作は
「頓狂」
ということばがすきで、ふだんしきりにつかっている。オッチョコチョイというほどの意味だろうが、敬作の妙なところは、親に孝、君に忠という倫理綱目と同列くらいの美徳にそれをあつかっているのである。
「人間は頓狂でなくちゃいけないよ」
これが、口ぐせだった。敬作は、まじめくさった大人くさい、事なかれの常識的慎重さ(それが封建的徳目なのだが)だけで生きている連中が大きらいで、
「人間、ゆかなくちゃならないよ」
と、つねにいう。どこへゆくのか、それはわからない。敬作が、深夜三里の峠をこえて炭焼小屋の急患の元に行ってやったりするのも、頓狂の心であろう。イネのことを想うと不安と悲しみで身も世もなくなるのも頓狂の心かもしれない。常識人はけっしてそうはならないのである。
「西洋の文明を興したのも、頓狂の心だ」
と、敬作はいう。
天才とは頓狂人だが、西洋人はそういう者を愛し、それをおだて、ときには生活を援助して発明や発見をさせたりする。日本人は頓狂人をきらうから遅れたのだ、という。シーボルト先生も頓狂人だからはるばるヨーロッパにとって、未知の日本にきたのだ、という。なるほどそういえばそのようでもある、と蔵六はおもうのである。
(鳥がいる)
と、おもった。しかしもう一度この啼き声がきこえたとき、それはブリッジから海をのぞきこんでいる殿さまの笑い声だとわかり、貴人というものはああいう声をたてるのかと思った。思いあわせてみると、蔵六は草深い村にそだち、百姓身分からあがって、いまは宇和島候の背後に侍立できる身分にまでになった。この重苦しい封建身分制を突破できるのは「技術」だけであり、それは孫悟空の如意棒にも似ていた。
(妙なものだ)
と、蔵六はそのことを考えた。
船が、うごいている。海が背後に押しやられ、へさきに白波が湧いている。平素心鬱なばかりの家老松根図書までが子供のような燥ぎ声をあげ、
「村田、すすんでいるではないか」
と、ふりかえって叫んだ。が、蔵六は悪いくせが出た。
「進むのは、あたりまえです」
これには、松根もむっとしたらしい。物の言いざまがわからぬのか、といった。蔵六は松根からみればひどくひややかな表情で、
「あたり前のところまで持ってゆくのが技術というものです」
と、いった。この言葉をくわしくいえば、技術とはある目的を達成するための計算のことである。それを堅牢に積み重ねてゆけば、船ならばこのように進む。進むという結果におどろいてもらってはこまるのである。もし進まなければ、はじめて驚嘆すべきであろう。蔵六にいわせればそういうものが技術であった。
(ああ、ひよこの羽毛のようにやわらかそうなまつげだな)
と、蔵六はぼんやりおもった。
蔵六の息が乱れている。蔵六はそれをこの期におよんでも整えようとした。かれは意志力の賛美者であり、自分を自分の意志で統御しきっていることに誇りをもち、快感をすら感じていた。同時に、人間関係における主題主義者であった。ということはたとえば、
「殿さまはえらいものです。学者は学問をすべきです。イネは弟子です。イネは一般論としては女性ではあるかもしれないが、私にとっては女性でも男性でもなく、弟子という存在です。師弟という関係以外の目でイネを考えることは、余計なことです。余計なことは自分はしません」
というような信条をもつ男で、この信条をくずさずにいままで生きてきた。一見平凡なこの男が、ひょっとすると突っ拍子もなく風変わりな男であるかもしれぬ点は、このあたりであった。 -
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司馬遼太郎の長編時代小説の4巻目
竜馬は勝海舟とともに着実に海軍学校の立ち上げを進めていく。一方で、武市半平太は土佐藩を裏で操っていたが、長州藩の京都での失脚を機についに山内容堂に動きを抑え込まれてしまう。4巻の1番の読みどころであろう、武市らの処刑は本当に切なくて、無念だと感じた。
夢が進み続ける者と夢がついえる者、失脚し再起を図る者と色々な人物・組織の変化が読み取れる今作であった。
主人公の竜馬は、天命に全うすべく自分がすべきことを着実にこなしており、その姿は脚色があるといえ立派だなと思う。また、色恋ともいえる、さな子やお田鶴様、おりょうとの関係の深まりも別の緊張を与えてくれる。
明治に向けてどうなるのか気になり続きが読みたくなる1冊でした。 -
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恐らくいずれも初期の(梟の城の頃の)作品でしょうね。当然ながら、再読(何回目でしょうか)です。
名前のように最初の三篇がこの時代に流行った忍者物。いささか古臭さ(荒唐無稽さ)は感じさせますが、なかなかです。「外法仏」は密教の修法を題材にした作品で、ある意味忍者物に通じるものがあります。「天明の絵師」「蘆雪を殺す」「けろりの道頓」はいずれも実在の人物をベースにした歴史物です。
何れにせよ、司馬史観などという物が入らない、純粋な物語としての面白さを目指した作品です。若さゆえの粗さもありますが、後期の長大な作品のような説教臭さがない分、読みやすい作品です。
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ネタバレ第二巻。
前半は戦の場面が多くてちょっと食傷気味だけど、秀吉が暴君へと変化する後半は怒涛の展開。
ほんっと日本史全然知らないから秀吉の後継者をめぐってこんな争いがあったとはなーと興味深く読んでいました。
そして家康の狡猾さよ。
秀吉と家康とのやり取りがなかなかの見物。歴史の教科書だとここまで細かくはわからないもんなぁ。
時代小説の真髄を見た気がする。
そんな血生臭い世界での伊右衛門と千代とのやり取りが何ともほっこり。
もちろんほっこりできないシーンもあるんだけど、なんだかんだ言いながら仲良し夫婦だなぁとホッとできる。
時間では豊臣から徳川に政権が変わるのかな? 引き続き歴史の勉強込で楽しく読んでいきたい。 -
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どのようにして大坂の陣に至るのか、という経緯をじっくり描いている。
次巻の冒頭から真田信繁などが大坂から声を掛けられてとなるので、それまでの話になる。
この巻では有名な五人衆などは影も形もない。
前哨戦も前哨戦なので話は静かに進んでいく。家康方の緻密な政治工作や、豊臣方の道理に依った若干現実離れした考え方など、互いのスタンスの違いがよく描かれている。
派手な動きや人物が出ないので、小幡官兵衛が実質主人公として物語らしく動き、家康サイドと豊臣サイドの思惑の間を行き来する。
この官兵衛、どことなく国盗り物語の道三とキャラが被っている(笑)本人の才覚と大胆さと女を使って、情報収集・工作という役割。
有名所の話が見たいと思うのなら中巻からでいいかもしれない。
が、大きな山場などは無いながらも着実に戦に至るまでの空気を感じ取ることが出来るので、余裕があるならば手に取っていいと思う。
有名所の登場を巻跨ぎにしない辺り親切だし、上巻は一貫してそういう役割の巻になっている。 -
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毛利攻めから、信長の死そして秀吉の「中国大返し」、さらに豊臣の天下統一へと続くこの巻。
秀吉を画布として自分の絵を描いてみようと思い、それを成し遂げた黒田官兵衛の一大叙事詩も、ここに終わる。
欲得とか栄達欲とかいうものを持ち合わさない、戦国期には稀有な存在でありながら、晩年、関ヶ原の戦いに乗じて、天下を狙おうとする。その可能性が潰えたら、元の隠居に戻る、その滑稽ともいえるあざやかな進退。秀吉の天下を形作った張本人であるにもかかわらず、時代の点景でしかない官兵衛。
司馬は、あとがきで書いている。
「友人をもつなら、こういう男を持ちたい」
共感できる言葉だと思う。 -
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毛利方についた荒木村重によって幽閉されてしまうという、官兵衛最大の苦難の時期。そして、官兵衛の子を殺害せよとの信長の命令に背き、保護する竹中半兵衛の友情。この物語のクライマックスともいえるこの巻。
司馬は様々な場面で、官兵衛の人となりを著述する。
他の者に対しては利害を説く策士という功利主義者だったが、自分一個に対しては主家を裏切ることができない、倫理主義者になってしまう、と。
また、官兵衛ほどに人間の善悪や心理の機微の洞察に長じた者はいない、とか。
さらに、人を恨むという感覚が欠如しており、彼の一代を見ても、人を恨んでどうこうした言行が見当たらない、と。
そして、人間というものは行動を美しくしなければどうしようもない、と人一倍考えているのが重大な一特徴である、と。
官兵衛に対し、彼は栄達よりも構想を立てることをよろこび、その構想を実現させることで彼の欲望のすべてが充足されてしまう、と述べる一方で、秀吉については、こう酷評している。
「秀吉の身上というのは、その明るさということもあるが、ようするに才智の人であった。才智だけで浮上している人物で、それ以外に何程の思想があるわけででもない。」
官兵衛と秀吉との、対比が面白い小説でもある。