『ロシアの風土は、自分たちの体になじめず、生きる力を奪い取る。そのために出来るかぎりの努力をしてきた』
やはり、一つの山場は三度にわたる帰国願いだろうと思われた、それはこれまでロシアに漂流してきた日本人が誰一人として帰国できなかったという事実が、何よりも「大黒屋光太夫」らの心を重くさせながらも、温暖な伊勢育ちの彼らにしたら、ロシアの寒さは尋常でないことを悉く肌で痛感させられてと、まるで板挟みのような苦行を長いこと味わい続けた末の帰国不許可には、人間としての当然の権利を剥奪するものだと、激しい怒りに駆られるのも肯けるものがあった。
また、そんな状況が死に別れた仲間たちだけでなく、生き別れせざるを得ない仲間たちを生み出すきっかけでもあったことには言葉を失うものがあり、当時の彼らはそれくらいの切羽詰まった状況なのであったことを知るとともに、その選択を責めることなど、いったい誰ができようかと思われた、計り知れない悲しみは別れの場面によく表れており、その非情なまでに突き付けられた現実の容赦のなさには、とてもじゃないが見ていられなくて読むのが辛かった。
そうした様々な葛藤の末に訪れた奇跡的な展開には、改めて「キリロ・ラクスマン」の『諦めということを知らぬ不屈な強靱さ』が大きく貢献していることを実感させられて、その不屈さは光太夫以上に頼もしいものがあった、まさに命の恩人なのだと思う。
そして、上巻で書いたロシアが日本人を帰国させない理由が南進政策によるものなのではないかという懸念が、最後の展開に影響されていることには、その歴史的背景も含めてなるほどと納得できるものがあり、それは当時鎖国政策をしていた幕府が、本来であれば異国に行った者(海難事故によって流れ着いた場合も例外ではなかった)を国法を犯した罪人として扱うことを覆した証明ともなり、それが井上靖さんの『おろしや国酔夢譚』の終盤よりも良かったのではないかと思える展開に繋がっていながら、更に詳細な事柄が記載されていたのは、吉村昭さんが発掘した新たな歴史的事実が大きく影響していたのであった。
川西政明さんの解説によると、『おろしや国酔夢譚』は、蘭学者の「桂川甫周」が幕命によって聴取した公式記録『北槎聞略』に従って書かれたそうだが、それを知った吉村さんは、もう一人の方の陳述を引き出したものもあるに違いないと考え、それが実際に彼らの郷里に現存していることを突き止めたことで、本書のみに書かれた新たなエピソードが吉村さんの完全な創作ではないことを知ることによって、却って人間らしさが滲み出てくる、それは吉村さん自身の作風とも繋がっているような、人間なのだから様々な一面を持っていて当然なのだということや公的と私的の違いからも見えてくる、今当たり前に認識している歴史の出来事が変わる可能性など、いくらでも存在することに加えて、もし鎖国政策ではない時代に二人が生きていたらという感傷的な思いも芽生えたりしながら、それでも充分に時代の流れに抗い、内に仲間たちを連れて来ることができなかった責任感を抱えながら様々な困難にも屈せず、人生を全うした彼らには心からの賛辞を贈りたい。
というわけで、『おろしや国酔夢譚』の終盤の二人に複雑な思いを抱いた方には、是非とも読んでほしい、新たな歴史の発見によって書かれた本書は、大黒屋光太夫たちの漂流譚に於ける完全版といった印象であったが、いずれもそれぞれの作家性が垣間見えることから、両方読むことをお薦めしたいと思う。