内田樹のレビュー一覧
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文化放送の武田鉄矢今朝の三枚おろしで、取り上げられていたのがきっかけで読んでみた。期待した程に良くなかったけれども、次の引用箇所がとても良い。
p203「そもそも原理的に言えば、「無駄な稽古」というのはないのである。いくらやっても上達しないというのは、ある意味で得がたい経験である。「なぜ、これほど稽古してもうまくならないのか」という問いをまっすぐに受け止めて、稽古に創意工夫を凝らしたものは、出来のいいプログラムを丸呑みして無駄なく上達し、ついに悩んだことがないというものよりも、しばしば深い。」
この部分があったからこの本は良いと言える。 -
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内田:
ユダヤ教、イスラム教、キリスト教は互を相互参照しながら体型を築いていったkという気がしますね。(略)進行の深さを魂の純良さを持って示すのか、学識の豊かさでし召すのかというあたりの力点の置き方がこの3つの宗教では微妙に違う気がします。
キリスト教⇒人間の魂の清らかさ
ユダヤ教⇒知性的な成熟
イスラム教⇒両方
イスラム教はもともと遊牧民の宗教。つまり、国境自体を意識しない。クロスボーダーな集団だった。これは国土、国民を絶対とし、国境を死守する、現在の「国民国家」とは折り合いが悪い。
いま「グローバリズム」が叫ばれているが実態は「汎アメリカ化(アメリカン・グローバリズム)」。だが、その勢力を伸ばし、世界を「フラット化」するにはイスラム教は邪魔。
なぜなら、イスラム教は同一の儀礼、儀礼の言語、同一のコスモロジーを共有しているので「汎アメリカ」の強力な対抗勢力となりうる。
だが、そのイスラム圏を分断するために、欧米の宗主国はそれぞれの支配層へエージェントを残していった。彼らは国家の利権の名のもと、自らの権益を守るため、イスラム圏の分裂を固定化している。
アメリカはダブルスタンダード。
日本や韓国の非イスラム圏は自由貿易によって市場を解放させ、食料自給率を低め、英語公用化か勧め、固有の文化や商習慣を廃絶し、国民国家としての自立性・主体性をなし崩し的に無化していく。
逆にイスラム圏には正当性の乏しい独裁国家を応援して、境界線を厳しく分断し、内部の連帯が取られないようにする。
イスラーム的に正しい政府をつくろうとすると、国を超えてムスリムが選ぶカリフが必要となるが、それは国民国家に縛られたままでは難しい。
だが、イスラム圏の分裂を修正するために著者のひとりである中田氏は「カリフ制復興」を掲げている。そのため、アメリカには目をつけられている。
<感想>
イスラム圏が国民国家と折り合いが悪く、下手をすると『不倶戴天』になってしまう道筋は、内藤 正典著「イスラームから世界を見る」からでもぼんやりとはうかがい知れた。
が、本書では内田氏と中田氏では「国民国家」の是非について対談を通して、その点がもっとはっきりと指摘されている。
特にアメリカのアレルギーとも言うべき激しい拒絶反応の理由がよりはっきりした。
が、いくら「カワユイ」が相手の攻撃衝動を削ぐための戦略だと言われても、「みんなのカワユイ(^◇^)カリフ道」のネーミングセンスはどうかとおもう(笑) -
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ネタバレ軽い語り口ながら深い内容だった。
特に心に響いたことが3つ。
言葉の攻撃性を自覚する。自分の生命力を低める呪詛を吐かない。韻文や美しい言葉で祝福する。
ストーリー=筋立て。物語=物が語る。
ストーリーは人と人だけのもの。物語には運気とか山神、座敷わらしや、そこにたまたまあった机、食べ物、天気なんかが絡んでくる。
自分の中に物語を作ると言う事は、一見自己完結のように見えるけれども、実はそこに人以外のものが介入する、物が語りだすから、自己だけの解決ではないと言う。
執着や怒りを手放すには、感情→ストーリー→物語の昇華が必要。
わかったと思った瞬間に愛は歪む。わからないからわかろうとするのが敬意。
価値観再生道場シリーズらしいので他の巻も読んでみたいです。 -
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まず内容ですが、
第1章 いちばん自分らしい場所
第2章 つながるということの本質
第3章 好き嫌いと価値観の共有
第4章 師匠の存在、家族が自己にもたらすもの
自分の居場所を見つけられない人が増えてきているという時代、それぞれ違う立場で活躍してきた内田樹・平川克美・名越康文の朋友の3人が、自分らしさとは、つながりとは何かについて鼎談。
昔話に花が咲いたと思ったら、話は思わぬ方向に……。
叡智が詰まった言葉の数々にハッとさせられる一冊でした。
内田さん平川さんは私とまったく同世代です。
だから余計に発言内容に親近感が持てました。
同世代が時代時代を共有してきた感覚にとっても親しみがもてるのです。
69歳にもなりますと、心和む内容が精神衛生上いいようで(笑)。 -
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40 街場の天皇論
共同体にとって、広く死者を悼み、苦しむ人によりそう人間がいかに、求心力を持っているのかというところから、始まる。なぜ内田樹が天皇主義者になったのかということにも納得できる。内田樹も良く言っているが、動物と人間を隔てたのは、死者をそこにいるかのように扱い、その人を悼む、生物学的奇習であり、その中心人物として、あまたの宗教的な権威は存在してきた。天皇もまたその一人であり、日本という国を保つうえで、必須の存在であるとしている。
宗教というものは原理主義者の排他的な行動によって批判される部分もあるが、人間が共同体として生きる上で必要な倫理的な示唆を多く与えてくれる。各々の宗教にとって何が正しいかであるとか真理とは何かということは一度括弧に入れて、人が宗教を信じていることで得られる礼節や思慕の情は共同体が生き延びる上で明らかにプラスではないかというのが私の立場であるが、天皇というある種の日本的宗教的権威が存在することで保たれている秩序はあると思う。それもまた、失ってからではわからない類のものであると同時に、一度失ってしまうと再構築することが困難なものでもあるだろう。
最後の、海の民と天皇の考察も面白く、日本の歴史を、海民的国家にするのか、陸運的国家にするのかの複数回のせめぎあいと、その中で、全国の無縁の民の頂点として求心力を持ち続けた天皇という考察も面白かった。
いまの改憲案が、天皇に強権を持たせようとしているのは、戦前の統帥権干犯のように、責任を天皇に集中させたまま、その周辺の人物が実権を握ろうとする体制へのステップであるという考え方も、目からうろこだった。一見して、天皇に強権を集めることは、現政権の力を弱めることになるかと思いきや、戦前日本のように、天皇の強権の下で、取り巻きの暴走があったというパラドキシカルな道筋をたどることを志向しているという考え方は面白い。 -
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41 常識的で何か問題でも?
内田樹の新刊。ここ4年ぐらいの内田樹の研究室ブログで書かれたことのトリビュート(いつものスタイル)。情報の鮮度ということで、すぐに積読の最上段へ。
・師を持つということからスタート。源泉から流れ出るものに身を浸すためには、心と体を解放状態にしなければならない。おのれの狭隘な思考の枠組みを打ち破ってまっすぐに受け入れ、次世代に繋げる。それが師を持つということである。毎回読む話であるけど、人は決まった話を何度も繰り返し聞くのが好き(これも内田老師の教えではあるが)なので、いちいちうなずいてしまう。
・レバレッジを探す人たちという話が面白かった。レバレッジを探すことが大切だが、レバレッジに既製品はなく、誰かにプレゼントされるものでもない。目の前にあるありものをまず使ってみることを通じてしか、レバレッジを探すことが出来ない。ブリコロールの話の変種かなと思う。話を聞いて変種であると判断するのは簡単だが、ブリコロールの話からレバレッジの話に持ってくるのは難しくてできそうもない。自分は中高が曹洞宗系の仏教校であったから脚下照顧という言葉になじみが深く、時折思い出す。意味は、まず自分の足元を見つめなおす自己反省を促すということであるが、自己反省を促すことは、同時に自分の身の回りにあるものや人へ感謝することも含まれているのではないかと自分は解釈している。その点、脚下照顧はブリコロールの話にも近いと思った。もう一つ、脚下照顧に近い発想を持つ物語が思い当たる。東京ディズニーランドのスプラッシュマウンテンの話だ。主人公ブレアラビットは、「笑いの国」という桃源郷を求めて旅に出る。その間、悪者のブレアベアとブレアフォックスに狙われ、返り討ちにしながらも最後は捕まってしまう。危機一髪のブレアラビットは機転を利かせ、「あのいばらの茂みにだけは投げ込まないでくれ」と叫ぶ。理由は単純で、いばらの茂みとはブレアラビットの故郷の事であり、いばらの茂みにだけは投げ込まないでくれと懇願すれば、悪者は投げ込むと相場が決まっているからである。晴れて、いばらの茂みに投げ込まれ(ここでアトラクションの最大の山場、フリーフォールが訪れる)、故郷に帰還したブレアラビットは故郷でいきいきと音楽を奏でるかつて友人たちを見て、そこが実は自分にとってのかけがえのない「笑いの国」であったことに気づく。これが、スプラッシュマウンテンの話である。ここから得られる教訓もまた、自分の足元を見つめよ、である。かなり脱線したが、読書感想文の続きを。
・成熟の話。成長とは、複雑さを甘受し、重層的になることであると本書で書いてあった。同時にそれは、戦争の未熟性を提唱するものである。戦争とは、全ての者を敵か味方かという2種類の箱に峻別し、敵であれば殺し、味方であれば守る。かなり少ない、単純なオペレーションで済む産物である。戦争は、世界から驚くほど複雑性を縮減する。そして、戦時中、そのさなかで全く戦争に影響を受けず、小説を書き続けた人物がいる。それが太宰治である。太宰は複雑性が縮減していく社会に生きていながら、自らの書き物の個別性と複雑性で対抗していたのである。これが成熟した日本人の像であった。
・言論の自由=好きなことを人々が言う権利ではなく、異論が飛び交う「場」、様々な政治的発言がなされる「場」に対する敬意と信認である。
・属国であるという事実。日本はアメリカの属国である。この言説に反駁できる論拠はないが、証明する事実は多くある。しかし、日本政府は日本が主権国家であることを声高に主張する。その為、日本国民の中で日本が主権国家であることに疑問を感じないこと人は多く、日本がアメリカの属国であるという人は少ない。しかし、そもそも、日本が主権国家ではないことを自覚しなければ、主権国家になる道筋は開かれない。己の欠性に気づくことが、成長のチャンスである。
・政府は、政策の失敗を認めず、現政策の強化でしか苦難を乗り越えられないと努力を訴える。しかし、そろそろプランBに切り替えるべきではないかという文章があった。これは難しい。組織の人間として、それが絶対的真理ではなくても一定の目標を暫定的真理として採用して全員が同じ方向を向く組織と、絶対的真理を各々が求めて様々な方向に向いている組織では、明らかに前者の方が強い。ただ、前者の組織が採用した暫定的真理の賞味期限を見極めるのはとてつもなく難しく、並みのバランス感覚では務まらない。リーダーの宿命としてその困難は降りかかる。プランBに切り替える、つまりプランAの賞味期限を見極めるのは言うは易く行うは難しだと思った。
・無駄にならない思考習慣。リスクヘッジとは、最悪の事態を免れる為に、一定のコストをかけることである。それでいて、最悪の事態が来なかった場合は、そのコストは100%無駄になる。しかし、それはリスクマネジメントを考える上で、当然のことである。それは今の社会において常識ではないのかもしれない。リスクマネジメントにコストをかけて、最悪の事態が起こらなかった時に、そのコストについて無駄ではなかったと認識する思考習慣を社会の共通了解にしなければならない。 -
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古典の代表的な作品の3作品。
これをこのようにならべてみると、日本の古典で
誰もが知る作品。特に冒頭の部分はだれでも
知っているけれど、内容として全部読んだのは
あまりいないのではないかと思われる随筆。
清少納言の枕草子”春はあけぼの・・”
鴨長明の方丈記”行く川のながれは絶えずして・・”
吉田兼好の徒然草”つれづれなるままにひぐらし・・”
現代語訳を酒井順子氏・高橋源一郎氏・内田樹氏が
行っているという非常にわくわくするような内容です。
読みましたが。
枕草子は、ちょっと正直難しくよくわからない部分が多く
ありました。当時の風情や風習がきっちりわかっていないと
くすっと笑えないというか感情移入しずらい部分が多く。
方丈記は、以前に別の現代語訳をよんだことがあるのですが
その時も含めて、おもしろい内容です。
徒然草は、もっと淡々と描かれてある内容かとおもいきや
そういう部分は確かにあるのですが、日本人の心というか
昔から親や先人から教わってきた心的な源泉があった
ような感じがしました。
それを感じられたことも含めて非常に面白く
読めました。 -
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前大阪市長の平松邦夫が立ち上げた「公共政策ラボ」主催のシンポジウムの模様をまとめた一冊。この本を手に取った理由は、ほかでもない内田樹が討論をリードしているから。早くから橋本徹の教育に関する施策に異議を唱えていた内田樹が、その橋本徹に選挙で敗れた平松邦夫とタッグを組んだわけだから、ちょっと見過ごすことができなかった。
内容は、内田樹がかねてから唱えている(かつ、ワタシも賛同している)「贈与経済」という考え方を、国家規模、グローバル規模であてはめていったらどうなるか、という討論が中心になっている。そして、これをあてはめていくとグローバル社会から脱してゆくことになる、というのがこのシンポジウムのコアの部分なんだろう。なるほど名うての論客達の討論からは、思わず唸るような数々の指摘が。でも、この国はそれほどグローバルな社会を持っているんだろうか、という疑問がふとわいてくる。善し悪しはともかく、グローバルな社会を目指そうとしているんだろうが、いま現在はまだそんなレベルには到達していない。この本の指摘するところは十分刺激的だが、後の時代に「早過ぎた指摘」と評される可能性があるような気もする。 -
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2000年から2006年にかけてブログに書かれた
内容を採録したというだけあって、ウチダ節が冴え
わたった一冊。
“学校というのは子どもに「自分が何を知らないか」を
学ばせる場である。一方、受験勉強は「自分が何を
知っているか」を誇示することである。”
“定期的に「頭の中身」を満天下に明かして、批判の
矢玉に身をさらすのは、学者の責務であると私は思う。”
縦横無尽の炸裂ぶりに、いつもの通り胸がすく。
でも、この本を読んでいていつものウチダ本と少し
趣が違うなと感じたのが、母校・日比谷高校と全共闘
について描かれた第8章と第9章。
正直、全共闘と言われてもピンとこないワタシには、
この部分はウチダ本としては珍しくあまり”入って”
こなかった。 -
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「メディア論」とあるけれど、内田センセイの
ことだから、ただの「メディア論」ではない
だろう…と想像はしていたけれど、果たして
その内容は想像以上!
こんな切り口があったのかと驚愕しながらも、
言われてみればその通り!というご指摘の
オンパレード。
例えば、電子書籍で「本棚」について論じられて
いる部分。自分が毎日本棚を眺めている事実に
改めて気づかされ、眺めることを力いっぱい肯定
された。驚愕、納得、歓喜!
そんな中でも圧巻だったのは「第六講 読者は
どこにいるのか」と「第七講 贈与経済と読書」
のニ講。
贈与経済については、最近のネット本やツイッター
本でも頻繁に取り上げられている概念だけれども、
内田センセイの指摘する贈与経済は、もっと根源的
なもの。
ここまで掘り下げられると、一読者としてはもう
降伏するしかない。でも、この降伏はかなり幸福だ。 -
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久しぶりに内田本を。
アレクシス・ド・トクヴィルに献呈するという
記載から始まっているので、いつもの内田節
と違うのかな?と思ったけれど、そんなものは
杞憂に過ぎなかった(笑)。
ページをめくるそばから、いつもの内田節が
さく裂!
のっけから、この本を書くに至った経緯の中で、
こうおっしゃる。
“私はもともと仏文学者であって(今ではその
名乗りもかなり怪しいが)、アメリカ史にも
アメリカ政治にもアメリカ文化にもまったくの
門外漢である。非専門家であるがゆえに、どの
ような法外な仮説をたてて検証しようとも、誰
からも「学者としていかがなものか」という
隠微な(あるいは明確な)圧力をかけられる心配
がない。”
“この立場はアメリカを論じる場合には、単に
「気楽」というのを超えて、積極的に有利な立場
ではないかと思い至ったのである。”
この割り切り(と言うか、開き直り?)ぶりが、
ある一定の読者層をとらえて離さない理由の一つ
なのはまちがいない。
そして、この一冊は、うんうんと頷くことよりは
「うわー、そう来たかぁ!」と思うことが多かった。
そのうちの一つが、アメコミを題材にした第3章で
展開したアメリカン・ヒーローが象徴するものと、
日本のヒーローのそれとの比較。
そんなのアリ?と思いつつ、最後は納得してしまう。
また内田マジックにやられた。
そう言えば、偶然にも昨日(5月29日)の朝日新聞
土曜版beに、内田センセイの凛々しい姿が。 -
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なまじのガイドブック読むより熊野を堪能できる。
熊野って何か大事を果たす前にエネルギーを充填するような土地なんですかね。
大きな困難と向き合う前に行っておくべき地
そこに行くことで生命力が高まる、戦闘力が高まる、そういうことが実感としてあったんだと思うんですよね。
神社仏閣や祭は人間が一定数以上いる場所には絶対に必要。土地にこもっていたり人間が持ち込んでくる邪気を「リリース」「放電」する装置が必要。
子供の頃から自分の死に方のイメージをはっきり持っていて、そこに向かって次第に収斂していくように老いていく、そういう文化があったんじゃないでしょうか。
むしろ、「生と死をつなぐ強烈な通路」を持たない現代人のほうが貧相に見えてきました。
那智大社参道の俗っぽさ、那智の浜は、濃縮した熊野の宗教性を脱臼させる。