あらすじ
本はなぜ必要か。どうすればもっと「伝わる」のか。強靱でしなやかな知性は、どのような読書から生まれるのか――。ブログ「内田樹の研究室」と、各媒体への寄稿記事より、「読書」と「表現」に関するものを厳選、大幅に加筆・改訂。21世紀とその先の生き抜くための、滋味たっぷり、笑って学べる読書エッセイ!
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Posted by ブクログ
この本を読んでいるとあたかも内田樹さんが目の前に座ってらっしゃって自分に語りかけているような、実際に講義を受けているかのような錯覚をしてしまう。著者との距離が近いように感じる。耳元で彼の声が聞こえてくるような、文字列には収まりきらない何かが伝わってくるような本だった。この本をよむにあたって、ある程度の(前のめりになって話を聞くような)知的好奇心やある程度の日本語の運用能力が要されていることは確かだが、それでもこの本は外に開かれた(この表現が適切なのかどうかわからないが)、どんな読者も見下すことのない親切な本だと感じた。今までにも気になった本を手にっとて実際に読んでみるものの、読み始めて直ぐ自分は筆者の想定した読者には含まれていないんだなぁ、という感がする。それがこの本には無かった(筆者自身も文中で言及している)。
ここで幾つか自分がハッとさせられた、もしくは今まで消化できなかった疑問を消化する助けになったものを『街場の読書論』から抜粋する。もし以下の文章を読まれて本書の内容が気になった方は、ブログで該当記事(筆者は文章をブログに投稿されていて、全てタダで読める!!)ので、そちらで探されるか、また本書をお求めになる事をおすすめします。
「私がものを書いているとき、書いているのは半分かた「別人」なのである。この「別人ウチダ」が憑依しているときに書いたものは、ふだんの私には再現できない。」(『街場の読書論』「おでかけの日々」p124より引用)
言語を以って説明できなくても、体験的にこれを知っているかたは多いのではないでしょうか。自分だけではできなかった筈のことがなぜかできてしまった。それを内田さんは「別人ウチダ」と表現されたのかもしれない。以前通っていた中学の国語の教師はそれを「コビトさん」と呼んでいた。その先生は本書の筆者に私淑されていて、課題プリントとして筆者の文章を読むことも多かった(すごく楽しかったです)。まぁとにかく大事なのは「それ」をどう呼ぶかでなく、「それ」(僕は国語の先生に倣い「コビトさん」と読んでいる)に対して敬意を払うことである(と思う)。つまり、自分が成したことの全てを自分の手柄だと考えるのはどうなの?ってことかと。「コビトさん」(以下「コビトさん」)にも休みは必要だし。不調に陥ることもあるだろう。知性が全て自分のコントロール下にあると考え、「コビトさん」への配慮を忘れていると、次第に今までできていた「できなかったことができる」ができなくなり、自分の力量でのみできることに限定されてしまうんじゃないかな(随分とややこしい言い方になってしまいました)。そういう自分の知性に対するリスペクトってのが結局自分の為にも、そして「コビトさん」の為にもいいんじゃないのかな。自分の知性なんてままならないものなんだ、そう認識しておくほうが良いかもしれませんね。
「幾つか抜粋」なんて言っておきながら、結局一つしか引用しませんでした。やっぱり自分が読んだ内容を自分なりに解釈して言語化する、このプロセスって頭使うものなんですね。疲れちゃいましたよ(楽しかったけど)。でもやっぱりこの「楽しい」って感覚がないとこういう風にものを自分なりに深く螺旋状に(直線的に掘れるほど易しくないので)掘り下げていくことはできないんですかね。自分は楽しいからそうしているんですけど(そうしなくては、と感じることもある)。本書『街場の読書論』は色々と得るものが多く、決して読者を「見下す」ような本ではありません(すっごく親切)。読みおえた後、「また読むことになりそうだな」という確かな予感がした(長い付き合いになりそうですね)。ここまで私の拙い文章に付き合ってくれた方に「読んでみようかな」、と思っていただけたら嬉しいです。では。
Posted by ブクログ
読書のモチベーションが少し下がった気がして(気のせいでしたが)、困ったときの内田頼みってことで、本作を手に取りました。これを読みながら、ネガティブ批評はいかんなと思いつつ書くのも憚られるけど、読み始めたものの遅々として進まない「仮往生伝試文」がどうしても受け付けず、何か突破口はないものかと思ったのがきっかけ。同作の個人的感想はそのときに書くとして、肯定的に読んでみようと思う契機づけにはなりました。他は、母語の考え方とか、人に伝える仕方とか、読書論というくくりで語られてはいても、あくまで筆者ならではの論旨に、相変わらず感嘆しきりでした。決して容易な内容ではないのに、リーダビリティの高さを感じさせられる理由、少し分かった気がします。
Posted by ブクログ
本のガイドというよりも、引用した上での思考哲学といったほうが正しい。しかし、いつもの論評よりはテンポが軽めなのでさくさく読める。
ジョルジュ・サンドの『愛の妖精』やケストナーの『飛ぶ教室』ってそんなにおもしろいのか、読んでみたくなった。
読みやすい本のコツとは、コミュケーション・プラットホームの構築。読者に対してゆっくりと理解を得ながら進む文章。目から鱗が落ちる指摘。いい本を書く人は本に対する感性が鋭い。
著作権に関する論評も納得。質を問わずに数だけ捌こうとする出版ビジネスにうんざり。
Posted by ブクログ
街場シリーズは数あれど、「読書論」となればついにウチダさんの本業が主題ということになる。(作家は書くだけじゃなく、読むほうも仕事のうちだろうし)
そういう意味もあってさすがの内容。テーマが幅広くて面白いです。
ウチダさんの本は多くがそうだけど、今回は特に読書欲を掻き立てられた。
とりあえず、ウチダさんの著作何作かと、トーマス・マンとカミュとヘミングウェイを読書リストに追加した。(※p280)
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memo:
54
「一気に読ませるもの」では、一行目でいきなり書き手が耳元にいる。つまり、「一行目から話が始まる」のではなく、「もう話は始まっているのだが、それはたまたま私にとって『一行目』だった」ということである。
78
「学習」は脳への入力である。「テスト」は脳からの出力である。つまり、脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化するのである。平たく言えば「いくら詰め込んでも無意味」であり、「使ったもの勝ち」ということである。
102
「マルクスを読む」
149
私たちに必要なのは、「ダウンサイジングの戦略」である(ギリシャもイタリアもスペインもポルトガルもオランダもイギリスも)版図を世界に拡げた帝国から小国に劇的に「ダウンサイジング」した。そして、長い低迷と退嬰のときをやり過ごして、安定し、成熟した体制を整えることに成功した。
200
統治者の才能や徳性は被統治者と同程度である方がデモクラシーはスムーズに機能する。
228
自分の人生を豊かにしてくれる可能性を潜在させている人と出会うと、生物的に「ぴん」と来る。
242
日本におけるマルクス主義は「大人」を作り出すための知的なイニシエーションとして活用された
313
「本を読む人」の全員はこの「本を購入しない読者」から、その長い読者人生を開始する。
363
情報についての情報とはメタ・メッセージのことである。メタ・メッセージとはメッセージの読み方についてのメッセージのこと。
407
人間は自分宛てのメッセージでないものを理解するために知的資源を投じることについてはきわめて吝嗇である
Posted by ブクログ
1文芸棚
軽快な語りである。本読書が著者との対話であるというなら、慣れてきた、文体、構成、話の進め方など。取り扱いの本は、軽い内容ではないと思うのだが、分かりやすく、扱っている技がある。
2人文棚
じんぶん、ちんぷん、長い文でさっぱり分からず。
3内田棚
自画自賛でも、おもしろい、読んでいない著作が多かった。
4教育棚
歌わざる英雄は何故、教育なのだろう。教えるものなのか?誰かがいわなければ分からないのだろうが、学生向けで分かる教育なのか?
運がいい、という表現がとても気に入った。
学ぶ力中学2年生が対象なのか。まさに好対象な時期ともいえる。これが大学に入ると込み入ってしまうのは何故だろう。
6著作権不明
グーグル、クラウドとネットが発達してきた以上、著作権を保護することは難しい。著者の利用可の考えは、とても好きである。また、中国の著作権に対しての指摘も最もである。擬似著作権についての話は知らなかったこと。「戦敗加算」なるものが敗戦国にいたとは驚きである。アメちゃんの考え方はフェアではない。
ブライアン・ウィルソンの気鬱は心を打つものがあった。
Posted by ブクログ
とても示唆にとんだ本だと思う。
ひっかかる言葉がいくつもあって、これからあと数カ月のちにどの言葉がひっかかっているかそれはまだわからない…
というわけで、とりあえず目についた箇所を箇条書きに。
・「おのれの女性性とうまくなじむことができずにいる少女」の魅力
・言語は内側に割れることによって、無限の愉悦と力を生み出す
・『「悪」と戦う』と『晩年』の冒頭部の相似
・「自分の賢さ」をショウオフするよりも、「自分の愚かさ」の成り立ちを公開することの有益性
・映画は「観る」ものではなく、その中を「生きる」もの。映画、音楽は浴びるように。「read」と「scan」というふたつの読み。
・科学的知性は突き詰めれば宗教的になる。私たちは「私たちを超えるもの」を仮定することによってしか成長することができない。
・脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化する。
・「はさみを渡す」というゲームについて。
・知性の切れ味と愛について
・引き受けてのない憎悪より「バカヤロー」のほうがマシ
・境界をひく人間=やせ我慢の人=隣人愛
・「共同体の若いメンバーたちを市民的に成熟させること」
・物書きは「ニッチ・ビジネス」
・「学びたいのです。先生、教えてください」
・ブライアン・ウィルソンの著作権について(泣きそうになった)
・「自分がその言葉を発しなければ、他に言ってくれる人がいない言葉」だけが発信するに値する言葉である
・「私の言葉は果たして他者に届くだろうか?」
・メタ・メッセージについて
・エリクチュールと生き方はセットになっている
・「私が語るこの言葉は『ぜひあなたには理解してもらいたい』という気持ちを込めて語られる
・真に「古典」という名に値する書物とは、「それが書かれるまで、そのようなものを読みたいと思っている読者がいなかった書物」のことである。「まだ存在しないニーズ」を創り出すこと。
ちっとも「まとめ」にはなっていない。
言葉について…エリクチュールやメタ・メッセージ、それから宛名の話はとてもひっかかったのだけれど、これはたぶん「街場の文体論」に引き継がれるのかな。リーダブルな文章というのは「ぜひあなたに理解してもらいたい」と伝わってくる文章というのが、あぁ、まさになあと。
それから知性を刀にたとえたところは勢いにのって書かれた感じがして、きちんとはわからないんだけど、名文だと思うな。
この本を読んだことで、「知識がついた!」というよりは、もっと素朴な効用があったように思います。それは何かというと…
・もっと謙虚を心がけようと思った
・無知を自覚し、「教えてください」と素直に言えるように
・ぐるぐると愛について考える
・文章を書くうえで、「孤立」をいとわないこと。そのうえで、「私の言葉は届くだろうか」という配慮を怠らないこと。
つくづく「当り前のことを当たり前にやる」というのがいかに大事かということを教えてもらったような気がします。
Posted by ブクログ
ここのところわたしの知的欲求のほとんどは内田先生の御本を拝読することによって満たされている。読みながら、満たされたそばからまた新たな知的欲求に駆られるので、もうずっと読みたい本が尽きない。
手元に置いて再読したい本。
あー、早くひとり暮らしして本棚を買ってこの本をそこに並べたい。
Posted by ブクログ
なぜこのように読みやすいと感じるのか。
(実際はどうか、は置いておいて。)
おそらく、充分に推敲が為されている、からではないかと考えた。
コンテンツが特別素晴らしい、ということではないのだろう。
Posted by ブクログ
感想が長くなりすぎないように、最も印象的だった記事をひとつだけ取り上げる。その名も「日本語壊滅」。2007年5月のブログを元にしている。
携帯メールのコミュニケーションでは、早く返信することを重視するため、丁寧な言い回しや配慮表現が絵文字や記号に取って代わられ、語彙力の低下や「短文化」が加速しているという。
ある研究によると、「メール送受信の回数が多い学生ほど日本語テストの点数が低いという結果が出た」そうだ。
このブログから15年。今や、メールは長すぎるツールであり、LINEやTwitterが主流、いや、もはや写真や動画がメインで言葉は「添える」だけのものになっている。いずれ、「複文以上の論理階層をもつ文章を書くことができない」人間だらけになるのではないか。
というか、もう、そうなっている。新入社員の書く文書は、すでに論理構成が滅茶苦茶で、いつ単文を使い、いつ複文を使うべきかすらわかっていないように感じる。
文章だけの問題なら良い。だけど、文章で論理を構成できないということは、脳内の論理構成力をも示している。だから、話していてもちんぷんかんぷんである。どうでも良いことばかり繰り返し言うが、大事なことは最後まで言ってくれないのだ。
どうしたら良いのだろう。
あんまり説教くさい人だと思われると、もうそこから僕の言葉は届かなくなるしなあ。
メッセージの宛先はあなたです、と、なんとかして届けなきゃ。
Posted by ブクログ
読書本はただ本の紹介か感想が書いてあるだけのことが多いが、内田氏のものは、著書の論考がふんだんに盛り込まれており、色々な刺激がある。いくつか読んでみたいなという本があったので、参考にまたいくつか物色してみよう。
Posted by ブクログ
ワークショップ・デザインなどをやっていると面白い視座からの提言は必要。これからは内田さんの書籍を読み直し、読み直し、そこから発案しようと画策している。
思考停止に陥らず考え抜くとはどういうことかを身をもって示してくれている先達だと思う。これからも是非新しいものを提供いただきたいと思う。
内田さんのマンガの趣味が自分のと結構合うのにビックリ。是非お会いしてお話ししたい。
Posted by ブクログ
実家にいると、家族から話しかけられたりして
どうも没入する読書は難しい。
だもんで、章がぷつぷつ切れているエッセイが
読みたくなる。これもそんな一冊。
個人的には「読書論」の本って大好きで、
ほかにも齋藤孝さんや三谷宏治さん、
佐藤優さんや奥野宣之さん、原尻淳一さんの
「読書論(読書術)」を読んできました。
この手の本の評価基準は、読後にどれだけ
また本が読みたくなるかなんですけど、
そう意味では三谷さんの『戦略読書』と
この本は別格の面白さ。
はじめの方に書いてある、
クリエイティブ・ライティングの話は、
前に読んだときよりも、この正月に読んだときの方が
なんだか胸に来るものがあった。
『街場の文体論』の補助本として読むと、
面白い発見がありそう。
Posted by ブクログ
脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化するのである。
平たく言えば「いくら詰め込んでも無意味」であり、「使ったもの勝ち」ということである。(p78)
これからの自分の読書の仕方ということについて考えさせられた。
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論文とレポートの違い、
聞き手の知性に対する敬意、
何か新しい見解を、相手の聞きたい言葉で語る。
リーダビリティについても、深く考えさせられる。
Posted by ブクログ
【私の本棚】p22
小説を読むというのは(哲学でも同じかもしれないけれど)、別の時代の、別の国の、年齢も性別も宗教も言語も美意識も価値観も違う、別の人間の内側に入り込んで、その人の身体と意識を通じて、未知の世界を経験することだと私は思っている。
私の場合はとくに「未知の人の身体を通じて」世界を経験することに深い愉悦を感じる。
【ジュンク堂と沈黙交易】p81
インターネットでお買い物というのは「沈黙交易」の今日的な甦りであるという仮説。
【非人情三人男】p96
「苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それをし通して、飽々した。余が欲するのはそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である」(夏目漱石『草枕』)
【マルクスを読む】p105
「労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分の向こうがわにつくりだす疎遠な対象的世界がそれだけ強大になり、彼自身つまり彼の内的世界はいっそう貧しくなり、彼に属するものがいっそう乏しくなる」(カール・マルクス『経哲草稿』301頁)というのは単なるレトリックではない。
【歩哨的資質について】p177
私たちの世界は「存在しないもの」に囲繞されている。
宇宙の起源を私たちは知らないし、宇宙の果てに何があるのか(というより「何がないか」)も知らない。時の始まりを知らず、時の終わりを知らない。
【140字の修辞学】p375
長く書いて、かつ飽きさせないためには、螺旋状に「内側に切り込む」ような思考とエクリチュールが必要である。
【補稿 「世界の最後」に読む物語】p401
私たちは文学を通じて、今の自分と違う身体のうちに入り込み、こことは違う世界で、こことは違う空気を吸い、想像を絶した快楽を享受し、想像を絶した苦痛に耐える。今いるこの世界から抜け出し、他者たちのうちに入り込む。その経験がもたらす解放感と快楽ゆえに人類は文学を必要としているのである。
Posted by ブクログ
気になって数えてみたら、内田樹はこれで14冊目みたいです。これだけ読めば僕も「タツラー」を名乗ってもいいでしょうか?
街場シリーズ『読書論』ですが、読書にとどまらず教育・文体・母語・情報・エネルギー・ネット社会・死など、さまざまな分野について語ってくださっています。
情報システムがIBMモデルからアップルモデルに変わる過程で「情報」は「商品」ではなくなったという話には目からうろこでした。そこからエネルギー問題まで持って行っちゃっうんだからタツラーはやめられない。
例によってブログコンピ本なので読んだことのある文章は少なからずあるのですが、なかでも『学ぶ力』という文章は大のお気に入りになりました。いつか中学2年生の担任になったら、生徒に読ませようと思います。
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内田樹の読書に関するブログエッセイ集。前半部分は書評、後半は読書環境をめぐる時評、言語論など。
子供の英語熱に関する著者の意見に共感した。最近、幼い子供に英語を習わせることが流行っているが、言葉はあくまで自分の考えを発信する手段である。自国語も満足に話せない子供に、外国語を先に覚えさせることがあってはいけない。自然にネイティブとして自国語を自由に操れるようにしておかないと、自分の考えを発信するのに苦労することになる。実際、バイリンガルの中には、どちらが自国語なのか判らなくなる人もいるらしい。まず自国語を学ぶことが必須で、外国語はその後でも良いという。
でもこういう意見を書くと、英語にコンプレックスがある人の考え方と取られるかも。
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最近、内田さんのブログを知りました。今から過去の膨大なブログを編年体で読んでいくのは大変なので、分野別になっているこの本はとても助かります。
頭のいい人の物の考え方が、少し分かったような気がします。他のも読んでいきたいです。
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街場の読書論
内田さん独特の書き口で読んできた(読んでいる)本の解説を加えている著書。時に著者の思い以上の何かを汲み取り、展開していく様はさすが内田先生、非常に読みやすく、頭がよくなった気になってしまう。頭がオーバドライブする感覚、一度味わってみたい。
下記、備忘録のため章を記載。
(何かしら記憶の糸口があると、思い出しやすいから)
1章 文芸棚
シャーロックホームズの溯及的推理
ある出来事の前段を推理する力
2章 人文棚
平川克美
3章 ウチダ棚
4章 教育棚
5章 著作権棚
6章 文章とリテラシー
Posted by ブクログ
あぁ‥かっこいい。
『街場の文体論』も読みたい。
私には難しいかなと探るように読み始めだけれど、とても読みやすかった。(理解したかどうかはともかく)
知らない書名、知らない人のオンパレードだった「文芸棚」「人文棚」「ウチダ本棚」の章からとにかく楽しかった。
そして「教育棚」「著作権棚」「表現とリテラシー」には比較的身近に感じる話題について、目から鱗な話がハッキリキッパリ書かれていた。格好良かった。
「卒論の書き方」なんて、学生の時に読んでいたら‥!と、どうしようもないことを考えてしまう。
一番興味深かったのは著作権についての考え方。
そして人とともに「死ぬ」言葉のこと。
人通りの多い場所で読んでいたのに、しばらく周りの音が聞こえなかった。
止まった時間の中で読んだようだった。
Posted by ブクログ
「死ぬ言葉」が印象的だった。
「人とともに生き死にする言葉」だけが語るに値し、聴くに値する言葉だということである、というのが印象的。
個人の身体が担保するというのがいかに大切なのか、ということが心に残った。
また「学ぶこと」も印象的。
おのれの無知についての自覚があり、自分の師を直感でき、師を教える気にさせるというのが興味深い。
私がフラメンコを習いたい!思ったのも、いつか読んだ内田樹さんや養老孟司さんの身体に関するエピソードの本がきっかけのような気がしている。
Posted by ブクログ
056
•遡及的に推理する
•「あなたに言葉を伝えたい」という親たちの抑制することのできない激しい欲望
•受信者が「あ、これオレ宛のじゃないわ」と思えば、メッセージは虚しく空中に消え去るしかない
Posted by ブクログ
ブログのコンピ本。
話の内容はいつもと一緒だし、ブログでも読んだことがあるものが多い。
けど読みたくなる。
しかも紙の本で。
先生曰く、繰り返される主題は、
「言葉が伝わるというのは、どういうことか」
ということだそうです。
これは僕のライフワークでもあります。
伝わる伝わらないを決定しているのは、コンテンツの可否によるとついつい考えてしまします。
が、そうではなく、やはりマナーだと。
メタメッセージの形でまず伝えるべきは、
「このメッセージは他でもない、あなたに宛てて発せられているんですよ」ってこと。
Posted by ブクログ
普通。別段面白くもなかった。ブログの文章を編集してるだけなので、素直にブログから読んだ方が読みやすい気がする。まぁブログの文章を集めて本にしてる時点で多少の読み辛さは避けられないか。
Posted by ブクログ
ブログやその他の既出の文書を集めたものなので、この本でなにか一つの読書についての論を展開しているわけではないです。
ただ書かれていることのいくつかについてはなるほどと思いました。
・学力について
学力とはテストの点のように測定できるものではなく、学ぶ力のこと。すなわち、①無知の自覚、②師を見つけるアンテナ、③師から学びとる開放性
・母語運用能力について
母語運用能力の高さとは、口から出る文章の分岐点の多さであるという話。
・著作権について
著作権によって著作料を得ることと、作品を読者に届けること、どちらが大事なのか?という話。
・論文について
論文の序文は二回、すなわち書く前後に書く。その二つが乖離しているほど、書くことにより自分が変化したことになる。その変化がなければ、書く意味はない。という話。
・メタメッセージ
メタメッセージ、すなわちメッセージに関する説明をつけ加えることで、メッセージが伝わりやすくなる、という話。
などなど。