吉川英治のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
本巻からはようやく主人公の清盛が再登場。後白河法皇幽閉や源頼政父子反乱鎮圧に対して活躍する。
頼政父子の反乱は、前巻の鹿ケ谷山荘事件、後白河法皇幽閉事件に次ぐ大きな平家へのクーデターであるが、これが義仲京占拠を経て頼朝・義経挙兵へとつながっていく。策に溺れた策士、源行家はドラマや小説ではよく描かれることは少ないが、数々の失敗を経て頼朝の天下取りに繋がったのであるから、その功績は推して知るべしだろう。もちろん、平家に面従腹背していた源頼政もしかり。頼朝はこうした源氏庶流の犠牲なしに鎌倉幕府は開けなかったのだ。歴史には、結果と名を残した人物と、過程において活躍した人物がいる。行家や頼政は後者である。本作品において、こうした後者に充分にスポットが当てられるのは非常に興味深いものである。
頼朝について。平安末期のドラマは弟である義経寄りに描かれることが多い。つまり、信じていた兄:頼朝に裏切られた悲劇のヒーローとしてである。自然、頼朝は酷い兄ということになるのだが、本巻を読んでその素因が理解出来たような気がした。つまり、12、3歳で平治の乱に敗れ、配流の身になったことで、目先の利害で人がよって来たり離れたり、信じていた家臣に裏切られたりと、人心の頼りなさを幼心に深く植え付けられていたのだ。いわば、歪んだ人格形成がなされたことになる。そうなると、たとえ血を分けた兄弟であろうと信じられなくなったのだろう。中央で成果を上げた義経は、嫉妬とともにその犠牲になったのだ。頼朝の酷薄さは前々から不思議であったが、生い立ちを考えると納得が出来た。そうかと思えば、父義朝を騙し打ちした長田忠致が捕虜になって頼朝の前に引き出された際、誰もが打ち首を予想する中、命を助けたばかりか仕官を許すという器の大きさを見せる。もっとも、長田は良いように使われて後でやっぱり捨てられるのであるが…。
さて、源平合戦も本格化。次回はいよいよ頼朝と義経の兄弟初対面。どう描かれるかが楽しみだ。 -
Posted by ブクログ
本巻は、本作品が歴史書ではなく、物語であるということを強く意識した巻であった。吉川英治の遊び心、読者を楽しませようというエンターテイナーの気質がよくあらわれていた。
その特徴の一つが、伏線を張った人物との再会や再登場。
奥州にいるとばっかり思っていた義経が、急に熊野に現れたと思ったら、月尊が鎌田正近だったり、奴婢の媼が弁慶の母親だったり、弁慶の姉が麻鳥の妻である蓬だったり(後々、弟の弁慶や母親と再会させて読者をくすぐるのだろう)、奥州行きに出会った男が伊勢三郎だったり、法勝寺の蓮花騒ぎの曲者で捕らえてみたら源有綱との運命の再会だったり…。こと、義経を取り囲む登場人物に多い。生まれ持った人的魅力により人が自然に集まってくるという義経を描くのにはこうした方法が最適なのだろう。
面白いのが、弁慶との出会い。作品によって弁慶の登場の仕方は多々あれど、本作品では、義経が平時忠邸に出頭し、その帰り道に時忠の命により弁慶に襲わせるという方法で出逢わせている。平家の公達からの刀狩りというアングルは一切登場しない。そして逃げた義経はわざと弁慶に追わせ、母親と20数年ぶりの再会をさせる、といいう話を展開する。弁慶は、義経の強さに惚れたのではなく、母親への再会の橋渡しをしてくれた気持ちに感謝して主従の関係を持つことになる。まあ、弁慶は史実では存在の可否さえも疑われる人物であるため、作者のやり方次第でどうにでも料理できるのだろう。
清盛は相変わらずほとんど登場しない。かわりに、義弟である時忠の方が頻繁に出てくる。時忠は「平家にあらずんば人にあらず」で有名な人物であるが、本作品では第1巻の少年時代から登場し、なかなか味のあるキャラクターとして描かれている。大河ドラマでは森田剛が演ずるが、どう好演してくれるか、楽しみである。 -
Posted by ブクログ
先週日曜から大河ドラマ「平清盛」が始まったので並行して読み始めてみた。細部は異なるものの、大河は本書を根本としており、平安末期の良い勉強になるはずだということで。私にとって、吉川英治作品は昨年読破した「三国志」に続き2作品目。氏の作品は文章が非常に格式高い。また、昭和の第二次世界大戦前後に描かれたという時代背景もあり、皇室を表現する際の言葉が非常に丁寧であるという特徴もある。
さて、本巻では主人公:清盛の10代後半の苦悩(出自や武士という身分など)からスタートする。僧兵に一人で立ち向かって行ったりする大胆不敵な態度は躍動感を生み、家族や家来を大切に思うような人間味は温かさを感じられる。いわばヒーローである。多くの人が描いている清盛像は、源氏を主人公としたドラマでの、頭を剃り上げた居丈高な権力者中年、というイメージが多いが、それとはまったく異なるもの。
たとえば、清盛を評した以下の記述などは最たるものである。
「清盛は、武者所の全員から、いつとはなく敬愛を集めていた。といって、別に彼に何の武勇も交友上の技巧もあるわけではないが、ただ彼はよく人の貧乏(カネがないという意味ではなく、不遇という意味なのだろうと私は受け取った)に気が付いて、人の貧乏の片棒をかついだ。また、殿上に対して彼ほどずけずけ物の言える武者は他にいなかった。正直である一面、大ずぼらの抜けているところがあった。さらにもう一つの特徴は、かれの姿のあるところ、たちまち、彼の色、彼の雰囲気、彼の陽気にくるまれてしまうという現象がある」
全16巻と長い旅路になりそうだが、当分の間、このヒーローにはまってみようと思う。 -
Posted by ブクログ
ひとこと。無茶苦茶面白い。元々、平安末期は戦国時代と並んで好きな時代である。小学校5年生頃にハマった時代。本書を読むことで、当時の記憶がありありと蘇ってきた。
本巻は保元の乱から平治の乱まで。この二つの戦いも相当面白い。軍事的な面白さではない。人間同士のせめぎ合い、機微が絶妙なのだ。改めて、現在の大河ドラマでのキャストは誰もがハマり役であると感じる。信西の高慢ちきなキャラは阿部サダヲがぴったりだし(おそらく、あのキャラのまま疎まれて平治の乱に突入していくだろう)、清盛の叔父:忠正は嫌味な演技抜群の豊原功補において他はない。
ここ最近は歴史小説と言えば司馬遼太郎作品ばかり読み漁っていたが、司馬氏の一世代上の吉川英治氏もまた素晴らしい。
しかし、本作品は全16巻ある中でまだ2巻である。1/8が終了しただけであり、まだあと14巻もある。こんなに早く、保元の乱が終わり、平治の乱が始まっても大丈夫なのだろうかと一読者の私が心配になってしまう。清盛誕生(1118年)から平治の乱勃発(1159年)までの41年を2巻で費やしてしまい、清盛逝去(1181年)まであと22年しかない。残り14巻をどうやって展開させていくのだろうか。おそらく、源義経が活躍する源平合戦にページを割くのだろうが…。
そんな杞憂を抱きながら、次巻も読み進めていこう。 -
Posted by ブクログ
完全に平清盛にハマっている今日この頃の私。
本巻では、平治の乱後の戦後処理、清盛と常盤御前とのやり取り、日宋貿易への着眼など、清盛が一大政治家として飛躍していく様が描かれている。本作品の清盛は非常に包容力が大きく魅力的に描かれている。今まで私が書やドラマなどで読んできた作品の清盛像と言えば、一般的に悪役として描かれることが多い。しかし吉川氏いはく、これは平家滅亡後に源頼朝の治下において鎌倉期の筆者が歪めて書かれたものに起因するという。なるほど、歴史関係の書を読む際は、こうした事情も踏まえなければならないのだ。そうしないと、作られたイメージのみで人物を判断してしまうことになる。
以下に、清盛の台詞で印象的であった部分を引用したい。
「俺はいくさが上手でもなし、好きでもない。武芸の業ならば俺は義朝の敵でないし、六波羅武者は坂東武者の馬馴れや弓勢に到底及ぶものではない。義朝の亡んだのは、武魂というだけで世間に疎く、人を見ること単純で、しかも政治に欠けていたからだ。もし信西入道が生きていたら、おそらく義朝ごときは弓矢も用いず自滅を余儀なくさせていただろう。地の利、人の利、天の利を待ち切れず、あえてまずい合戦をしでかしてしまったものと見える。敵ながら哀れやの」
→平治の乱後、清盛が義弟の時忠に語った言葉。腕力ではなく天地人の利を悟れとは参考になる発言である。
「菩提の輪廻のと、そんな文句で埒のあく世の中かよ。奈良や三井寺の腐敗を見ろ。人間は生き物だぞ。この世は生き物同士が喰うか喰われるかをやっている巣だ。寸土も余さず、勝敗を営みとしている地上だ。でも、たって仏いじりがしたいなら、そして慈悲だの善根だのといって安っぽい涙をこぼしていたいなら、伽藍の中か池ノ尼御前の住居へ行って、一緒にやれ。俺の前になど持ち出すな。清盛は世の政治(まつりごと)にあずかる身だ。」
→清盛が長男の重盛に対して毒づいた言葉。私がこの作品の清盛に惹かれる理由は、彼もまた私と同じく唯物論者(=無神論者)である点だろう。 -
Posted by ブクログ
『「……自分のしたことを、共々欣んでくれる者があるのは大きな張り合いというものじゃないか。――それのある者には、陳腐な道義の受け売りをしているように聞えるだろうが、こういう漂白の空にある身でも、アアいい景色だなあと感じた時のような場合、側にもどこにもそれを語る者がいないということはその一瞬、実にさびしい心地の身になるものだぞ」』p51
『人中の賑やかな中にいると、彼のたましいはなぜか独り淋しくなる。淋しい暗夜を独り行く時は、その反対に、彼の心は、いつも賑わしい。
なぜならば、そこでは、人中では心の表に現れないさまざまな実相が泛んでくるからであった。世俗のあらゆるものが冷静に考えられると共に、自分の姿までが、自分から離れて、赤の他人を見るように、冷静に観ることができた。』p239 -
Posted by ブクログ
吉野太夫が武蔵に話した琵琶の話(p176-77)がよかった。琵琶の中にある一本の横木、骨でもあり、臓でもあり、心でもある横木は、ただ剛直なのではなく、実はわざと抑揚の波が刻みつけられていたり、弛みがあったりする。人間もこれと同じで、美しい音色を奏でようと思えば、ただ張り詰めているのではダメで、少しの遊びが必要ということ。ううむ。
さらに、武蔵の(著者の?)宗教観にも深いものを感じた(p359)。
さむらいのいただく神とは、神を恃(たの)むことではなく、また人間を誇ることでもない。神はないともいえないが、恃(たの)むべきものではなく、さりとて自己という人間も、いとも弱い小さいあわれなもの――と観ずるもののあわれのほかではない。 -
Posted by ブクログ
現代(当時)の若者へのメッセージを込めたと本書のはじめで著者が述べている。
”怒らないことを美徳だと考えられているが、怒りから発せられるエネルギーを重んじなければならない”、だとか、”恥の文化によって自治が守られていた”だとか、そういう部分がメッセージなのだろうか。
後者の言葉は特に印象的だった。
武蔵は関ヶ原の戦に破れ、友人と別れても義務感に駆られて故郷に帰る。友人を巻き添えにしてしまった責任感がある。物語には、武蔵の他にも名誉のために苦しむ人々が登場する。「恥を知れ」という言葉があるけれど、日本人の中には名誉や恥を重んじる血が流れている。
ところで、武蔵の姉が幽閉されてから一度も登場していないが、どうしているのだろう…。