あらすじ
いまや、武蔵は吉岡一門の敵である。清十郎の弟・伝七郎が武蔵に叩きつけた果し状! 雪の舞い、血の散る蓮華王院。つづいて吉岡一門あげての第二の遺恨試合。一乗寺下り松に、吉岡門下の精鋭七十余人が、どっと武蔵を襲う。--「一回一回の原稿が出来上がるまでは、主人の気迫が反映して、私どもまで緊張につつまれる毎日」だったと、文子夫人は当時の著者を回想している。
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ストイックなだけでは、駄目であると学んだ武蔵。
張り詰めているだけでは、ピンと張った糸は必ずいつかは、切れてしまう。
そうならない為にも、どこかで弛ませないとならない。
飴と鞭は、使いようである。
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待っていましたの第四巻。
三巻と同様、本阿弥光悦に誘われ、
美しい世界でしばしの休暇を味わった後、
宿敵吉岡一門との死闘に臨む武蔵。
いよいよ宮本武蔵と言えば!のアレが登場する!
そしてついに読者も待ち望んでいたであろう、
すれ違いを続けてきたお通との再開。
強さを追い求めてきた武蔵だったが、
彼女もまた別の道で強さを追っていた。
一方、彼らと比べると光と影のような又八と朱美。
又八は自業自得だが、朱美は気の毒である。
お通と比べて彼女には何が足りなかったのだろう。
運が悪かったのか。それとも弱かったからなのか。
もしも舞台、もしくは執筆時期が現代だったならば、
武蔵と又八、お通と朱美の運命はどう変わっていたのだろうか。
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「そこで吉野が説明していうには、この扇屋の囲いの中にある牡丹畑は、扇屋の建つよりもずっと以前からあるもので、百年以上も経った牡丹の古株がたくさんある。その古株から新しい花を咲かせるには、毎年、冬にかかるころ、虫のついた古株をきって、新芽の育つように剪定してやる。――薪はその時に出来るのであるが、もちろん、雑木のように沢山は出来ない。
これを短く切って炉にくべてみると、炎はやわらかいし眼には美しいし、また、瞼にしみる煙もなく、薫々とよい香りさえする。さすがに花の王者といわれるだけあって、枯れ木となって薪にされても、ただの雑木とは、この通り違うところを見ると、質の真価というものは、植物でも人間でも争えないもので、生きている間の花は咲かせても、死してから後まで、この牡丹の薪ぐらいな真価を持っている人間がどれほどありましょうか?」
「何千年何万年という悠久な日月の流れの中に人間一生の七十年や八十年は、まるで一瞬でしかない。たとえ二十歳を出ずに死んでも、人類の上に悠久な光を持った生命こそ、ほんとの長命というものであろう。またほんとに生命を愛したものというべきである。
人間のすべての事業は、、創業の時が大事で難しいとされているが、生命だけは、終る時、捨てる時が最もむずかしい。――それによって、その全生涯が定まるし、また、泡沫になるか、永久の光芒になるか、生命の長短も決まるからである。」
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何か特に四巻面白かった。
前巻で撃破した吉岡清十郎の弟、伝七郎をも、まさかのキャバクラついでに撃破。何故か京都の寒い冬を思い出しました。
光悦親子が象徴する安穏さとスゲー寒い冬の対比。冷たいようで優しい京都が思い出されるのは何故。
吉岡一門との戦争の一方で人と交わるに血生臭い獣は要らぬと暗喩する。野獣死すべしな一冊。
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吉野太夫が武蔵に話した琵琶の話(p176-77)がよかった。琵琶の中にある一本の横木、骨でもあり、臓でもあり、心でもある横木は、ただ剛直なのではなく、実はわざと抑揚の波が刻みつけられていたり、弛みがあったりする。人間もこれと同じで、美しい音色を奏でようと思えば、ただ張り詰めているのではダメで、少しの遊びが必要ということ。ううむ。
さらに、武蔵の(著者の?)宗教観にも深いものを感じた(p359)。
さむらいのいただく神とは、神を恃(たの)むことではなく、また人間を誇ることでもない。神はないともいえないが、恃(たの)むべきものではなく、さりとて自己という人間も、いとも弱い小さいあわれなもの――と観ずるもののあわれのほかではない。
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宮本武蔵という題名ながら、
当然、武蔵一人、を延々と描いているわけではない。
又八、お通、城太郎、朱美、小次郎、、、
三国志の千人とはいかないまでも、多くの人間達が絡み合う。
関ヶ原の戦いの落ち武者、武蔵が、最も敵としたのは恋心か。
神では無い、人間武蔵の戦いは尽きない。
本巻では、「死闘」と言って差し支えないと思うが、
京都は、一乗寺下り松の、その死闘。
その数 - 人間1人 対 70人
若干二十歳、侍とはどう死ぬべきかを考える。
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伝七郎との立ち合い
お通との再会
吉岡一門との死闘
が描かれています。
だんだんと武蔵の人生観や、剣の道に生きるものとしての心構えが形成されていきます。求道者として成長していくのが楽しみです。
お通との再会で、武蔵は自分の心情を吐露します。その姿は宮本武蔵として何か神格化された存在ではなく、ただの弱い人間の姿であり、我々と全く相違ありません。歩む道は違えど、武蔵も我々も同じところへ向かう者同士なのです。それだけでこの物語を読む意義は十二分に感じられます。
吉岡一門との死闘はどうなるか、また皆の運命はどうなっていくのか、次が楽しみです。
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4巻は、さらに武蔵の心と技が磨かれていく。
これまで愚直に、強くなることだけを考えて修行を重ねた武蔵だが本阿弥光悦や吉野太夫との出会いの中で、本当の強さとは、心を張り詰めて自身に厳しくあるだけではなく、適度に緩みを持たせるしなやかさを持つことだと悟る。
「生きている間の花は咲かせても、死してから後まで、この牡丹の薪ぐらいな真価を持っている人間がどれほどありましょうか。」(吉野太夫)
物語は吉岡一門との決闘に向かって、徐々に緊迫感を増していく。武蔵は死を受け入れて戦う決意を固めるが、その中に「生きたい」と願う心を知る。
生命を愛するということは、命の終わり方に意義をもたせることだと戦う覚悟を決める。
武蔵が圧倒的に不利な中、「生きる」ために剣を振る、怒涛の決闘のシーンに息を呑む。武蔵の代名詞である二刀流はこの戦いの中で生まれ、実戦の中で育つ技と心こそ本物なんだなと感じた。
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「いまの肚をすえるまでに、さんざん生死の問題に苦労したり、日常の修練だの、侍としての鍛錬だのを積んできて(中略)・・ 女は、そういう鍛錬も苦悩も経ずに、いきなり何らの惑いもなく『あなたが斬り死にあそばしたら、わたくしも生きていないつもりです。』と、涼やかなに言う。」
第4巻の武蔵の心情を表すもの。この後も武蔵の心情から成長を追っていきたい。
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積ん読チャレンジ(〜'17/06/11) 15/56
’16/08/19 了
一乗寺下り松における武蔵と吉岡一門との一大決闘に向かってジリジリと物語が収縮していく様が、武蔵同様に読者にも緊張感を与えていて凄く良い。
兄清十郎を凌ぐ実力を有するとされる吉岡伝七郎との果たし合い。
どのような壮絶な戦いになるのかと思えば、その日のうちに申し込まれた果たし合いを遊郭の席を中座して、一撃の下に勝利を収めてくる。
本阿弥光悦、吉野太夫との出会いを通じ、生きる上では張り詰めた気持ちばかりではなく適度に気持ちを緩める瞬間も必要だと気づく武蔵。
下り松での決闘を前にしてお通さんと城太郎と会う決心をしたのも、光悦との出会いがあったからこそだろう。
そしてやっと再会を果たしたお通さんに胸中を吐露し、自分の弱さも曝け出した上で決闘に臨む。
そしていざ戦いに挑む直前に神仏に祈ろうとする自身を省みて初めて、死を受け入れて戦う決意を固めて死地に赴いたつもりでいた自分の中に、生きたいと願う気持ちがあったことに気がつく。
様々な道を経て「生きる」為に剣を振るう彼の姿は、今まで以上に格好良く思えるし、また人間的な魅力を増したように思う。
そして、ここで初めて武蔵の代名詞とも言える二刀流がお披露目される点も見逃せない。
「生きる」という強力な意思の下、無意識に生まれた極意たる二刀流。
それまでの戦い、人生を経験してきた彼だからこそ生み出すことの出来た剣の型だと思うと何とも感慨深いものがある。
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気に入った表現、気になった単語
遊廓(くるわ)に向かう武蔵と光悦の母・妙秀とのやりとり
「「いや、拙者には、美服はかえって似合いませぬ。野に伏しても、どこへまいっても、この袷(あわせ)一枚が、やはり自分らしくて気ままですから」
「それはいけません」
妙秀尼は、変なところで、厳格になって、武蔵をこうたしなめた。
「貴方はそれでよいじゃろが、汚(むさ)い身装(みなり)をしていては、綺羅やかな遊廓(さと)の席に、雑巾が置いてあるように見ゆるではないかの。世事の憂いこと酷(むさ)いこと、すべてを忘れて、一刻でも半夜でも、綺麗事につつまれて、さらりと屈託を捨てて来るのがあの遊廓(さと)でござりまするがの。--そう思うてみれば、わが身の化粧や伊達も、廓景色(さとげしき)の一つ、わが身だけの見栄と思うが間違いであろうが。」」
(P64)
「一瞬、なんともいえない寂寞(じゃくまく)の気が漲った。人のいない天地の静かさよりも、人中の空気にふと湧いた寂寞のほうが不気味な霊魂を含んでいた。」(P131)
「めいめいが、一つずつ杯を持って、好む程度に、それを愛し合っていた。」(P157)
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本作の見せ場の一つでもある吉岡一門との決闘。
そこに至るまでの緩やかだが次第に増す緊迫感、怒涛の決闘シーン。
加えて本巻あたりで登場人物に更なる深みと輪郭が与えられる。
それにしてもここまでは小次郎は何処か子供っぽく描かれている、バガボンドのドラスティックな設定も頭の片隅には残っていることもあり、やはりこの男の行方も気になる。
結局のところ、兎に角面白いということですな。
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お通と武蔵がやっと出会う。そこに男の剣の道や生き様、女性の慕う気持ちがよく描写されてると思う。また、武蔵が二刀流を無双に振るうとこは、スピード感がある。
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この巻のサブタイトル「武蔵と女」。
侍としての武蔵と(武蔵のありたい姿)との対比として、女いっぱい登場、そして武蔵を人にする。そして自分が人な事を知ってまた侍として成長する。みたいな。
歴史モノ長編に女が出てくるかどうかは、ひとつ読みやすさの目安だと思う。司馬作品は出てこない。(龍馬が行くでは出てくるが)
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一乗寺下り松における吉岡一門との決戦。相手は多勢、武蔵はただ一人
武蔵が死の境地で挑んだことがひしひしとつたわってくる。
「修羅場」とはこういう情景をいうのか。
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~内容(「BOOK」データベースより)~
今や、武蔵は吉岡一門の敵である。清十郎の弟・伝七郎が武蔵に叩きつけた果し状!雪の舞い、血の散る蓮華王院…。つづいて吉岡一門をあげての第二の遺恨試合。
一乗寺下り松に吉岡門下の精鋭70余人がどっと一人の武蔵を襲う―。
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吉岡一門との最後の闘い?だろうが、長い。
途中から決闘当日の話になりながら、先に進まない。
ストーカー女性陣のドラマが長くてやや退屈。
この小説が書かれた時代はこれで良かったのかもしれないが、この女性キャラを読んで、現代の女性はどう思うのだろう?
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映画化・ドラマ化・漫画化など、様々なかたちで紹介されてきた大人気歴史小説の第四巻。この巻のメインは吉岡一門との戦いで、終盤にあまりにも有名な「一乗寺の決闘」が出てくる。
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この巻は、吉岡一門との対決が話のメイン。吉岡一門との決着の前に中々会うことができなかったお通と出会い、本当の気持ちを吐露する武蔵。一時は元許嫁の又八に切り殺されてしまうような描写もあったので、お通が浮かばれないかなと思ったけどその点は良かったかな。次は佐々木小次郎との対決などがメインになっていきそう。続けて読んでいきたいと思う。
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各キャラクターがより掘り下げられてきたからか、物語もどんどん面白くなってきた気がする。「バガボンド」のストーリーともずいぶん変わってきたなー。
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「あまりにも、覚悟し切ってしまった、その死に対して、彼の知性はもう間に合いもしない−−死の意義、死の苦痛、死後の先などと、百歳まで生きてみても、解決しそうにないそんな問題に、今さら、焦燥する愚をやめてしまったのかも知れない。」(4巻p.287)
雲の抱くおおきな万象の上から見れば、一匹の蝶の死も一個の人間の死も、なんらの変わりもないほどのものでしかない。けれど人類の持つ天地から観れば、一個の死は、人類全体の生に関わってゆくのだ。人類の永遠な生に対して、よい暗示か、悪い暗示かを地上に描いてゆくことになる。
(よく死のう!)と武蔵はここまで来た。
(いかによく死ぬか?)に彼の最大の最後の目的はあるのだった。(p.352)