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[再読]
人は、出会いと別れを繰り返し成長してゆく。
いい出会い、悪い出会い、偶然的な出会い、必然的な出会い。
それらを全て含めて、己の人生ということなのだ。
その出会いが自らの師になっていく。
師を求めなくても、我々の師は、すぐ隣にいるのだ。
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「志賀寺の上人でさえ、同じ血をもっていた。法然の弟子親鸞も、同じ煩みを持っていた。古来、事を成す人間ほど、生きる力の強い人間ほど、同時に、この生まれながら負って来る苦しみも強く大きい。」
「『ああ、富士山か』
武蔵は少年のように驚異の声を放った。絵に見ていた富士、胸に描いていた富士を、眼のあたりに見たのは、今が生れて初めてなのだった。
しかも寝起きの唐突に、それを自分と同じ高さに見出して、対い合ったのであるから、彼はしばらくわれを忘れ、ただ、
『――ああ』
というため息を胸の中に曳いて、瞬ぎもせず眺め入っていた。
何を感じたのであろうか、そのうちに武蔵の面には涙の玉が転びはしっている。拭こうともしないで、その顔は朝の陽に灼かれて涙のすじまで紅く光って見えた。
――人間の小ささ!
武蔵は衝たれたのである。。広大な宇宙の下にある小なる自己が悲しくなったのであった。
(中略)
畢竟、人間は人間の限度にしか生きられない。自然の悠久は真似ようとて真似られない。自己より偉大なるものが厳然と自己の上にある。それ以下のものが人間なのだ。武蔵は、富士と対等に立っていることが恐くなった。
(中略)
――ばか、なぜ人間が小さい。
と、いう声がした。
――人間の眼に映って初めて自然は偉大なのである。人間の心に通じ得て初めて神の存在はあるのだ。だから、人間こそは、最も巨きな顕現と行動をする。――しかも生きたる霊物ではないか。
――おまえという人間と、神、また宇宙というものとは、決して遠くない。お前のさしている三尺の刀を通してすら届きうるほど近くにあるのだ。いや、そんな差別のあるうちはまだだめで、達人、名人の域にも遠い者といわなければなるまい。」
「――剣術。
それではいけないのだ。
――剣道。
飽くまで剣は、道でなければならない。謙信や政宗が唱えた士道には、多分に、軍律的なものがある。自分は、それを、人間的な内容に、深く、高く、突き極めてゆこう。小なる一個の人間というものがどうすれば、その声明を託す自然と融合調和して、天地の宇宙大と共に呼吸し、安心と立命の境地へ達し得るか、得ないか。行ける所まで行ってみよう。その完成を志して行こう。剣を『道』とよぶところまで、この一身に、徹してみることだ。」
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吉岡一門との闘争のはて十代の少年に手をかけたという悪夢を振り払う一方、やっと道連れになったお通女史とまさかの痴話喧嘩の武さん。又八アンドお杉婆や小次郎、朱美に城太に半瓦の親分と、新旧登場人物入り乱れてのチューチュートレイン状態。まだ未開の地という江戸の描写が面白かった第五巻。そして物語は大団円へ。
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『「……自分のしたことを、共々欣んでくれる者があるのは大きな張り合いというものじゃないか。――それのある者には、陳腐な道義の受け売りをしているように聞えるだろうが、こういう漂白の空にある身でも、アアいい景色だなあと感じた時のような場合、側にもどこにもそれを語る者がいないということはその一瞬、実にさびしい心地の身になるものだぞ」』p51
『人中の賑やかな中にいると、彼のたましいはなぜか独り淋しくなる。淋しい暗夜を独り行く時は、その反対に、彼の心は、いつも賑わしい。
なぜならば、そこでは、人中では心の表に現れないさまざまな実相が泛んでくるからであった。世俗のあらゆるものが冷静に考えられると共に、自分の姿までが、自分から離れて、赤の他人を見るように、冷静に観ることができた。』p239
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吉岡一門との死闘の続き
武蔵・お通・城太郎の旅路
江戸での邂逅
が描かれています。
武蔵が出てくるのは前半で、後は朱美・城太郎・お杉婆達の物語です。武蔵とお通の、甘酸っぱい遣り取りはニヤニヤせずにはいられませんでしたw
又八がどうしようもなさすぎて呆れます。何をやっているんだお前は・・・。あと朱美の運命が悲惨すぎて・・・報われて欲しいです。
武蔵、お通、又八達はどうなっているのでしょうか。次巻が楽しみです。
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5巻は武蔵の成長よりも、苦悩や葛藤を乗り越えようともがく人間らしさが印象的。
多感な青年期に、生きる意味を模索し、高い志を立てながらも恋愛に翻弄される姿は時代は違えど多くの人が通る成長過程ではないかと思った。
女性(お通)に対する抑え難い本能と情熱に困惑し、遠ざけてきた武蔵だったが、自分さえ乱れなければ剣を鈍らせることはないと気づく。流されない自分でさえいれば安心して人を愛することができるのだと。
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『ああ富士山か』(中略)『人間の小ささ!』武蔵はうたれたのである。
(中略)
ばか、なぜ人間が小さい。人間に目に映って初めて自然は偉大なのである。
人間の心を通じ得て、初めて神の存在はあるのだ。
だから、人間こそは最も大きな顕現と行動をする。
上記は本書からの一節。哲学的である。
第5巻の武蔵の心情を表すもの。この後も武蔵の心情から成長を追っていきたい。
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再会してまたすれ違う第五巻。
吉岡一門との決闘に勝利し、
お通と再会し、又八と和解する武蔵。
めでたしめでたし…と思いきや、
お通とは再会してもすれ違い、
又八は相変わらず周囲に流される。
朱美は相変わらず運命に翻弄される。
そして裏で糸を引く佐々木小次郎。
ヒーローヒロインである武蔵とお通よりも
人間らしい又八や朱美に共感を覚えてしまい、
本当の悪である佐々木小次郎には腹が立たず、
流されるだけの又八にイライラしてしまうのは、
悪に惹かれて弱きを憎む人の業なのだろうか。
今更ながら、見事な人間模様が描き方である。
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吉岡一門との死闘という山場を越えたせいか、微妙に一休み的な感じがする巻。
ただ又八のどうしようもない小市民さと小次郎の何処となく子供っぽい描写が続き、特に後者は武蔵の成長の描写との対照性後半への布石含めて活劇ものには必須の要素。
ちなみの「活劇もの」にネガティヴな意味は全くなく、むしろ最高の賛辞と言っても過言ではなく。
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又八のための助言や、剣術でなく剣道を志すことを悟る姿を通して、武蔵の人格に益々惚れ込む。自分のためでなく人のために何故剣を使わないのかー石田母記の言葉がすごく心に響いた巻。誰のために頑張るのか。自分のためだけであれば勿体無い。人のために力をつけるのだ。
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ストーリーを次の展開に移す為の巻だった。この巻から後編始まり、といった内容、前編までごちゃごちゃしていた登場人物(それがまたおもしろったが)が一気に整理されて、舞台は江戸へ。この巻の後半は武蔵は一切出てこなかったが、前フリはもう十分か、次巻が楽しみ。
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~内容(「BOOK」データベースより)~
吉岡一門との決闘を切り抜けたことは、武蔵に多大の自信とそれ以上の自省を与えた。そしてまた、大勝負の後に訪れたゆくりなき邂逅。
―それはお通であり、又八であり、お杉婆であった。その人々が、今後の武蔵の運命を微妙に織りなしてゆく。山ならば三合目を過ぎ、いま武蔵の行く木曾路、遥かな剣聖を思い、お通を案じる道中は風を孕み、四合目の急坂にかかる。
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舞台は江戸へ。
佐々木小次郎がすごい嫌な奴に描かれている。
だけど小次郎本人は嫌がらせとかじゃなくてこうするのが正しい、こうするべきだと思って行動してるわけで。
こういう人って少しかわいそうだと思った。
現実にはこんなに極端な人はそうはいないだろうけど。
20090822
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ささやかな武蔵、お通、そして城太郎の一時は終え、幸せな時は続かないとばかりに再度バラバラになる3人。運命の悪戯か。江戸に向かおうとする各々達。次巻に続く序章にすぎない。
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吉岡一門との戦いに勝利した武蔵は、さらに剣の道をきわめようと新たな旅へと向かいます。彼と再会した又八は、奮起を誓うものの、朱実とかかわってあいかわらず惑いの道をあゆみつづけます。その朱実も、武蔵への思慕を断ち切ることができないまま、みずからの身の不幸を嘆き、江戸へと流れていきます。
ここまではスムーズにストーリーが展開してきましたが、すこし停滞感がただよいはじめてきたような気がします。いつものキャラクターがいつも通りの振る舞いをくり返しているので、さすがに飽きてきてしまいました。
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ますます女性陣の追撃?と小次郎との邂逅が頻繁に起きるし、又八もうっとおしい。
己の道を究めようとする武蔵を次々と煩悩や苦難が襲うのは分かるけど、この広い日本の中で何故そんなに出会う?
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映画化・ドラマ化・漫画化など、様々なかたちで紹介されてきた大人気歴史小説の第五巻。この巻では夢想権乃助との決闘など印象深いシーンもあるが、主人公の武蔵不在のエピソードが多くやや中だるみな印象を受けた。
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互いに想い合っている武蔵とお通。ただ、お通は身も許したわけではないようで、武蔵も武蔵でいきなりお通に襲い掛かる体たらく。お通に拒まれ、困り果てているうちにまたもやお通が行方不明に。二人の人生はどこで重なるのやら。あと、佐々木小次郎がだんだんと小物に見えてくる。腕前は凄いのかも知れないが、自分の自慢話をする辺りは武蔵と比べると人間的にどうなのかなあと思ってしまう。又八も然り。そんな人間臭い物語が読んでいくうちに面白くなってきた。続けて読んでいきたいと思う。
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積ん読チャレンジ(〜'17/06/11) 16/56
’16/09/06 了
武蔵と吉岡一門との決着、お通さん・城太郎との再会と不意の別れ、夢想権之助との邂逅とお甲との再会。
又八によるお通さん拐かし事件。
奇妙な資産家・奈良井の太蔵と城太郎の出会い。
江戸表での小次郎とお杉婆の再会。
大きな動きはない巻だが、主要人物の多くが新天地江戸に集いつつある、各々の助走期間ともいえる巻。
一条寺下り松での決闘で、敵方の名目人・源治郎少年を斬ったことが心に残って離れない武蔵。
「われ事において、後悔せず」と心に立てた誓いも、源治郎の事に関しては揺らいでしまう。
また、九死に一生を得、自分を思い慕い続けてくれるお通さんと修行の道程を共にする決意をし、野原でお通さんを組伏したら「いけないッ、いけませんッ、武蔵様ッ」と言われ、拒絶されたことに対して草へ泣き伏す武蔵。
四巻では風流な本阿弥光悦やその母との出会いを通じて武蔵の心の緩やかな成長を描いたが、この巻における武蔵は人間としての弱さが目立つ。
しかしその弱さは、読者を幻滅させるどころか彼を応援する気持ちを起こさせるものだ。
彼は武芸者でありながら、己の弱さすら自らの魅力としてしまう人物。
劇中には敵も多いが、そんな彼の「弱さ」を知る人ほど味方になってくれている気がする。
他方、好敵手たる小次郎は小幡軍学所の面々に講義をふっかけて恨みを買う
両者は「寡黙な武蔵」と「口が達者な小次郎」という比較もできるし、自らを大きく見せ、その「強さ」の一面のみで味方を増やす小次郎と、前述の通り「弱さ」すら魅力に変えてしまう武蔵という比較も出来ると言える。
【石母田外記との出会い】
今巻は伊達政宗の臣下・石母田外記(いしもだげき)との出会いも物語の大きな柱の一つ。
外記には武蔵に対し「男が男に惚れた」と言った。
それに対して武蔵は「男が男に惚れると言うことはあるかも知れないが、自分にはまだそう思える相手と出会ってはいない」と一人思う。
(「惚れるという対象に持つには、沢庵は少し恐すぎるし、光悦とは住む世の中が隔たりすぎ、柳生石舟斎となるともう余りに先が高すぎて、好きな人とも呼びかねる。」(P215))
出会ったことのない武蔵に惚れ込んでその後を追った外記と、一度も邂逅を果たしていないにも関わらず、石舟斎を雲上の存在と崇める武蔵は、実は本質の部分で凄く似通った部分があるといえるのではないだろうか。
【武蔵の正直さ】
城太郎とお通を探すと申し出た人足に先に銭を与えた武蔵。
なかなか現れない人足にヤキモキしていたところ境内で神馬を世話する男から武蔵は騙されたのだと世間知らずなところを笑われる。
路銀を全て人足たちの駄賃に与えてしまっていた武蔵は、自身の未熟さを味わいながら待ち合わせ場所を後にする。
そこへ正直者の人足が現れ、城太郎の消息が知れたと武蔵に伝える。
世間の全てが悪い人間でないと知った武蔵は、彼の労に酬いたいと一食分だけ残しておいたわずかな路銀を与えてしまう。
「あの銭が、あの正直者に持ち帰られれば、自分の空腹をみたす以上、何かよいことに費(つか)われるにちがいない。それからあの男は、正直に酬われることを知って、明日もまた、街道へ出て、ほかの旅人へも正直に働くだろう。(P238)
自分が食べるに困っても人の労に酬いろうとする気質。
武蔵の心は未熟でありながらもとても温かく、それが読者の心をつかむのだと思う。
「たとい剣において、望むがごとき大豪となったところで、それがどれほど偉大か、どれほどこの地上で持ち得る生命(いのち)か。
武蔵は、悲しくなる。いや富士の悠久と優美を見ていると、それが口惜しくなってくる。
畢竟、人間は人間の限度にしか生きられない。自然の悠久は真似ようとて真似られない。自己より偉大なるものが厳然と自己の上にある。それ以下の者が人間なのだ。武蔵は、富士と対等に立っていることが恐くなった。彼はいつのまにか地上にひざまずいていた。」(P186)
「なお、彼は掌を合わせていた。
すると
--ばか、なぜ人間が小さい。
と、いう声がした。
--人間の眼に映って初めて自然は偉大なのである。人間の心に通じ得て初めて神の存在はあるのだ。だから、人間こそは、最も巨(おお)きな顕現と行動をする--しかも生きたる霊物ではないか。」(P186)
霊峰富士を臨み、その山の雄大さに畏敬の念を抱いて両の掌を合わせた武蔵。
直後、自然物はそれのみで偉大な存在として完結するのではなく、その存在を認識する人間がいて初めて偉大な存在たり得るのだと考え方を改める。
そんな武蔵を追いかけてきた権之助の母親が、彼に対し拝むように地に手をついて伏し、再戦をお願いする。
吉岡一門との果たし合いに勝利し、自己の強さに自信を持った武蔵は、偉大なる富士山を目にしたことで自己の矮小さを悠久の自然との比較の中で自覚する。
次の瞬間には悠久の自然よりも人間の方が上だと思った。
他方の権の母親はそんな人間である武蔵を神仏のように拝み伏す。
この比較が何とも面白い。
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気に入った表現、気になった単語
「なるほど、江(こう)の水はいぬのまにか鉛色に見え、そよ風は雨気を囁きはじめて、藤の花の紫は、まさに死なんとする楊貴妃の保とうのように、遽(にわか)に咽ぶ(むせぶ)ような薫(にお)いを散らして顫(おのの)いている。」(P94)
「(正義を骨に、民衆を肉に、義と侠の男らしさを皮にして--)」(P334)
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長編も半分も過ぎると、登場人物もだんだんと役どころが固まりすぎて、筆者も動かしどころが難しくなってくるのか段々と扱いが雑になってきているような… 又八はただのろくでなしだし、城太郎と伊織がかぶるし、いろいろとツッコミどころがある。ただ武蔵が野武士から農民を率いて村を守る戦闘描写は、7人の侍の殺陣を思い起こして身震いがした。いろいろ物語のなかに緩急をつけてリズムを作っているのはさすが。
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相変わらず又八にはイライラするけど、一番人間味があって、気持ちが分かるのも又八なんだよなー。小次郎のキャラクターがあまり掴めない。この巻の最初の方はちょっとホッとするところもあり、良かった。