これはラディカルな主張の本のように見えて,実は当たり前なことが書かれているのかもしれない。ラディカルに見えるのは,例えば,自由貿易,競争力,財政再建といった,メディアを通じて聞き慣れている概念が,主流派経済学の言葉でありながら,実はインフレの時にやるべきものだということに,当の主流派の人が気づいていないということを暴露している点。でも,内容は至極当然。
もう1回読むつもり。
需要不足で供給過剰というデフレから脱却するためには,需要拡大と供給抑制を狙った対策が必要で,緊縮財政や増税などもってのほか。
海外の消費税(正しくは付加価値税)は導入されていても,生活必需品は非課税だったりするのであり,トイレットペーパーもダイヤモンドも同じ税率としているのは日本以外にない。ひどい税制だ。
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したがって,政府は,デフレにはならないように,かといって過度なインフレやバブルは避けるようにして,経済を運営しなければなりません。言い換えれば,インフレ対策とデフレ対策を巧みに使い分けて,ちょうどよい塩梅のインフレを維持することを目指して,経済の舵取りをしなければならないのです。(p.32)
ミクロ(個々の企業や個人)の視点では正しい行動も,その行動を集計したマクロ(経済全体)の世界では,反対の結果をもたらしてしまう。デフレしたで支出を切り詰めて楽になろうとしたら,それがさらなる需要縮小を招き,デフレが続いて,生活がますます苦しくなる。このデフレという現象は「合成の誤謬」の典型であると言えます。(pp.38-39)
企業や個人の個々(ミクロ)の行動が正しいと,全体(マクロ)として間違ってしまうというのが「合成の誤謬」です。だとすると,企業や個人といったミクロのレベルの行動では「合成の誤謬」の問題は解決できません。「合成の誤謬」は,マクロの経済全体を運営をつかさどる「政府」が直すしかないのです。
ここに,政府の存在意義があります。(p.39)
政府が,企業や個人の行動を是正する(つまり経済に介入する)必要がある理由は,企業や個人が馬鹿だからではない。その反対に,企業や個人が合理的だからこそ,政府介入が必要になるのです。
企業や個人の経済合理的な行動の積み重ねが,経済全体に意図せざる結果をもたらすというのが「合成の誤謬」です。そして,この「合成の誤謬」があるから,政府が経済に介入する「経済政策」が必要になるのです。
そして,デフレとは,まさにこの「合成の誤謬」の典型です。したがって,デフレ脱却は,政府の責任でなされるべきです。民間に任せていては,デフレから脱却することは,できません。(pp.41-42)
言い換えると,リスクの高い投資を[デフレなのに]バクチのようにやる人は,経済合理的ではないのです。ところが,一方では「人間は経済合理的だから市場に任せろ」と論じながら,他方では「リスクを恐れず投資をしろ」ばどと経済合理性のない行動を推奨する経済学者や経済評論家が後を絶ちません。困ったことです。(p.43)
公共投資をはじめとする財政支出の削減,消費増税,「小さな政府」を目指した行政改革,規制緩和,自由化,民営化,そしてグローバル化……。
これらは,いずれも①のインフレ対策です。「構造改革」とは「インフレを退治するために,人為的にデフレを引き起こす政策」なのです。
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それにもかかわらず,平成日本は,デフレ対策が求められるタイミングで,「構造改革」と称するインフレ対策を実行しました。しかも,それを20年以上,続けたわけです。(p.55)
平成とは,「新自由主義」が席巻した時代だったと言ってよいでしょう。
この30年間,日本で提案された改革は,ほぼすべて新自由主義をもとにしていました。「小さな政府」「財政再建」「グローバル化」……いずれも,新自由主義の考えです。こうした新自由主義の改革に反対した人々には「抵抗勢力」のレッテルが貼られ,彼らの多くは政治や言論の表舞台から追放されました。
昭和の日本は,一種の社会主義だった。しかし,冷戦は終結し,社会主義は敗れ去った。平成の日本は,新自由主義へと改革しなければならない。おそらく,こんな気分だったのでしょう。
しかし,繰り返しますが,新自由主義は「インフレ対策」のイデオロギーなのです。(pp.57-58)
政府は,まずはデフレ脱却を果たし,経済をインフレにする。その上で,生産性の向上を促し,経済成長を実現する。そういう順番で政策を実行するべきなのです。(p.63)
企業であれば,無駄な部門を廃止したり,企業の外に追い出したりすることができます。また,出来の悪い社員を解雇することもできる。企業は無駄を削ぎ落すことで,確かに「効率的」「筋肉質」になれるでしょう。
しかし,経済全体となると,そうはいきません。企業が潰れたら,従業員は国の中から消えるのではなく,失業者としてとどまり続けるのです。
失業者とは,働く能力があるのに働けない,いわば「有休資産」です。したがって,失業者を抱えた経済とは「有休資産」のある経済,つまり「筋肉質」とは反対の非効率な経済だということになります。
要するに,競争を激しくして,競争に負けた企業の淘汰を進めると,失業者という「有休資産」が増え,国の経済はかえって非効率になるのです。
ですから,企業の経営と国の経済運営とは,性格がまったく違うものと考えてください。停滞する企業を再生させた名経営者が,停滞する日本経済を再生させる方法を知っているとは限らないのです。名プレイヤーが名監督とは限らないという話に近いでしょうかね。
いずれにしても,民間のビジネスセンスで,国の経済運営を考えると間違えてしまうのです。(pp.65-66)
「国民が身を切っているのだから,政府も身を切って財政支出を削減する!」というのは,一見もっともらしく,格好いいですが,これは単なる「合成の誤謬」に基づく愚かで迷惑な政策にすぎません。
政府の歳出削減は,国民受けはしますが,そのせいでデフレが悪化し,それで苦しむのは国民です。「身を切る改革」を断行する「改革派」の政治家は,国民の身を切り刻む迷惑な存在でしかありません。
デフレの時には,「大きな政府」こそ望ましいものとなります。
政府が支出を増やせば,需要が生まれます。公務員など公共部門で働く人の数を増やして,雇用を創出するのもいいでしょう。公務員の給料を上げれば,民間企業も給料を上げざるを得なくなります。従業員の給料が上がれば,所得が増え,消費も増えます。このように,政府を大きくすることは,需要を創出するので,デフレ対策として有効なのです。(pp.68-69)
仮に財政赤字が問題だとしても,デフレである限りは,経済は停滞し,税収は増えないので,財政赤字は減りません。政府が歳出を削減したら,デフレ不況が悪化し,税収はさらに減るので,結局,財政赤字は減りません。
どうしても財政赤字を減らしたいというならば,最低限,デフレを脱却するしかないのです。インフレになれば,無駄な歳出は,気が済むまで削減して結構です。いや,むしろすべきです。
もっとも,インフレ時には,そんなにやっきになって歳出をカットしなくても,経済成長により税収も増えているでしょうから,財政赤字は勝手に減っているでしょう。(p.71)
もっとも,歴史をひもとけば,国家が納税手段として法定していないものでも,貨幣として流通した例があります。確かに,国家が納税手段として法定していないものが,貨幣として使われることは,あり得るかもしれません。しかし,そのことは,「現代貨幣理論」を否定するものではありません。
というのも,「現代貨幣理論」は,国家の徴税権力は貨幣の「必要条件」ではないが,「十分条件」ではあると考えているのですが。「現代貨幣理論」が言いたいのは「国家が納税手段として法定したものは,すべて貨幣として使われる」ということなのです。
そして実際に,現代の通貨は,その価値を国家の徴税権力に裏付けられています。(pp.107-108)
日本がデフレから脱却できないのは,経済政策を動かすエリートたちが貨幣を正しく理解していないからです。しかし,「現代貨幣理論」の貨幣理解をマスターすれば,正しいデフレ脱却の方策も見えてくることでしょう。
日本経済の再生は,貨幣を正しく理解することから始まると言っても過言ではありません。(p.108)
もし,民間に借入れの需要があるならば,金融政策は有効に機能するでしょう。例えば,借り入れの需要が多すぎて,銀行が貸出しをしすぎている場合,つまりインフレの場合には,中央銀行が金利(準備調達の価格)を上げることで,貸出しを抑制できます。そうすると,インフレもまた抑制される。
しかし,デフレの時のように,民間に借入れの需要がない場合には,準備預金を増やしたところで,銀行の貸出しは増えようもありません。預金通貨が増えるから,それに応じてマネタリー・ベースが増やされるのであって,マネタリー・ベースが増えるから預金通貨が増えるのではないのです。
馬が水を飲むのは,水が飲みたいからです。水を飲みたくない馬を無理やり水飲み場に連れていっても,水を飲ませることはできない。それと同じです。
こうしたことから,中央銀行は,インフレ対策は得意ですが,デフレ対策は苦手なのです。このことは「紐では,引けるけれど,押せない」という格言でも知られています。
ところが,経済学の教科書には,中央銀行がマネタリー・ベースを操作することで,貨幣供給量を操作していると書いてあるのです。
恐ろしいことに,経済学の教科書は,事実とは正反対のことを教えているのです。これは,現代の天文学の教科書が天動説を教えているようなものではないでしょうか。(pp.114-115)
黒田日銀の量的緩和[マネタリー・ベースの増加]がインフレを起こすのに失敗したのは,当然でしょう。
貨幣供給量が増えるとマネタリー・ベースが増えるのであって,マネタリー・ベースが増えるから貨幣供給量が増えるのではないのです。(p.116)
貨幣供給量を増やすということは,単純化して言えば,負債を増やすということです。
しかし,デフレの時には,民間企業は,負債を増やすことが難しい。このため,貨幣供給量は増えず,デフレが続いてしまいます。
ならば,民間企業の代わりに,政府が負債を増やせば,貨幣供給量は増えるでしょう。
財政赤字が拡大すれば,貨幣供給量が増えるというおは,「貨幣は負債」とする信用貨幣論からすれば,当たり前のことなのです。
そして,信用貨幣論によれば,負債(=貨幣)は,返済することで消滅してしまいます。
ということは,政府が財政赤字を減らそうとすると,貨幣供給量が減り,デフレが悪化してしまうということです。
それにもかかわらず,平成の日本は,消費増税や歳出削減による財政健全化を頑張ってきました。デフレから脱却できないのも当然といえるでしょう。(pp.128-129)
当たり前ですが,個人や民間企業は通貨を発行できないので,収入を得て,そこから借金を返済しなければならない。
ところが,通貨を発行できる政府には,その必要はないのです。
したがって,自国通貨建ての国債は,返済不能に陥ることはあり得ません。自国通貨建てで国債を発行している政府が,債務不履行になって財政破綻することはないのです。(p.142)
自国通貨以外の通貨に関して,政府に通貨発行権がないので,外貨建て国債ならば,債務不履行はあり得ます。政府の返済能力の制約があるのは,外貨建ての国債の場合だけです。言い換えれば,外貨建ての国債に関しては,政府と民間主体との違いはなくなります。
2008年の世界金融危機の余波を受けて,ギリシャやイタリアなどが財政危機に陥りました。それは,これらの国々の国債が自国通貨建てではなく,ユーロ建てだからです。
共通通貨ユーロを採用したヨーロッパの国々は,自国通貨というものを放棄しています。ユーロを発行する能力をもつのは欧州中央銀行だけであって,各国政府ではありません。
ユーロを採用した国々は,自国通貨の発行権という特権を放棄したために,国家であるにもかかわらず,民間主体と同じように,破綻する可能性のある存在へとなりさがってしまったのです。(pp.143-144)
永遠に財政破綻しない政府であれば,債務を完全に返済し切る必要もありません。国債の償還の財源は,税金でなければならないなどということもありません。
「国債は,将来世代へのツケ」だという批判が,数多くあります。これは「国債の償還の財源は,将来世代の税金でまかわなければならない」という間違った発想によるものです。
国債の償還の財源は,税である必要はありません。国債の償還期限が来たら,新規に国債を発行して,それで同額の国債の償還を行う「借り換え」を永久に続ければいいのです。
実際,ほとんどの先進国において,国家予算に計上する国債費は利払い費のみで,償還費を含めていません(日本政府は,なぜか償還費も計上していますが)。政府債務は,完済しなくてもいいものだからです。(p.145)
通貨発行権を有する政府は,個人や企業のような民間主体とは決定的に異なる特殊な存在です。国家財政もまた,ビジネス・センスでは語ってはいけない。これは,経済政策の基本です。
ところが,日本の財務省が発行する「日本の財政関係資料」には,「我が国財政を家計にたとえたら」と題するコラムがあります。国家財政を家計にたとえるというのは,素人はともかく,政策担当者であれば決して犯してはならない最も初歩的な誤りです。
政府からしてこの調子では,日本経済が停滞するのも無理はありません。(p.146)
財政のよし悪しの判断基準は,インフレ率です。財政赤字の額とか,対GDP比の政府債務残高の比率だけでは,財政がよいか悪いかは,判断できません。
対GDP比の政府債務残高が230%を超えようが,300%を超えようが,デフレである限り,財政赤字が足りないのであって,自国通貨建てで国債を発行している政府の財政が破綻することはないのです。
ちなみに,歴史をひもとくと,イギリスは1760年から1860年の100年間にわたって,累積政府債務は国民総生産の100%を下回ることがなく,19世紀前半には300%にまで達していました。しかし,当時のイギリスは,ハイパーインフレにも財政破綻にも至っていません。それどころか,この時代は,大英帝国がその繁栄を謳歌した時期と重なっているのです。(pp.150-151)
これまで,税金は,政府の支出に必要な財源を確保するのに不可欠なものだと考えられてきました。
しかし,自国通貨を発行できる政府が,どうして税金によって財源を確保しなければならないのでしょうか? そんな必要はないのです。
とはいえ,無税にするとハイパーインフレになってしまう。税というものは,需要を縮小させて,インフレを抑制するために必要なのです。
インフレを抑えたければ,投資や消費にかかる税を重くする。逆に,デフレから脱却したければ,投資減税や消費減税を行う。
つまり,税金とは,物価調整の手段なのです。財源確保の手段ではありません。
「機能的財政論」は,税も経済全体を調整するための「機能」とみなすのです。
税金が物価調整の手段であるということは,信用貨幣論によって,次のようにも説明できます。
貨幣は負債の一種である。
貨幣は,貸出しによって創造され,返済によって消滅する。
したがって,政府が負債を増やすことで,貨幣供給量は増えて,インフレに向かう。政府が増税によって負債を返済すれば,その分だけ貨幣が消え,貨幣供給量が減るから,デフレへと向かう。
こう考えると,実に単純な話でしょう。(pp.152-153)
消費増税を正当化する理由は,「財源の確保」です。しかし,そもそも,税は,財源を確保するための手段ではない。物価調整の手段です。
デフレ下の日本で必要なのは,投資減税や消費減税といった手段によって,物価を上げることなのです。
「財源赤字をこれ以上,増やすべきではない。政府の借金の返済の財源を確保するために,消費税の増税が不可欠だ」などという通説が,あたかも良識であるかのように,まかり通っています。しかし,これは,信用貨幣論からすれば,「デフレを悪化させて,国民をもっと苦しめたい」と言っているのに等しいのです。(pp.153-154)
実は,所得格差の是正は,需要を生み出し,デフレの克服に一役買うものです。
というのも,高所得者よりも低所得者のほうが,所得に占める消費の割合がより大きいからです。高所得者は所得の2割ほどを貯蓄に回すでしょうが,低所得者はしょとくのほぼすべてを消費に充てざるを得ません。
ということは,低所得者にお金を回すほうが,消費需要が拡大するというわけです。
その意味で,所得格差を是正する「塁審所得税」は,国全体で見れば,消費需要を刺激する効果をもつと言えます。
格差の是正は,需要の拡大を通じて,経済成長を促します。「格差の是正か,経済成長か」という二者択一であるかのように言われることがありますが,それは間違いです。格差が拡大したら,需要が減少し,経済成長は阻害されるのです。(p.155)
しかしながら,同じ減税であっても,需要を刺激せず,デフレ対策にならないようなものもあります。
例えば,法人税の減税。
企業の設備投資額の一定割合を税額控除する「投資減税」であれば,投資をしないと減税にならない。これは,投資需要を刺激する効果があるので,確かにデフレ対策となります。
しかし,単に法人の所得に対する税率を引き下げるような法人税減税の場合は,デフレ下においては,投資を促進するとは限りません。
というのも,デフレとは,投資よりも貯蓄が有利となる経済状態です。したがって,法人税を減税されても,デフレである限り,企業は投資には及び腰ですから,かえって貯蓄(内部留保)を増やしてしまうでしょう。(pp.157-158)
所得税や法人税は,景気が悪い時には税負担が軽減されて不況対策の役割を果たす。逆に,景気がよくなると税負担が重くなり,景気の過熱を抑制する。こうして,景気の好不況の変動をならす。所得税や法人税には,このような巧妙な機能が内蔵されているのです。この機能は「自動安定化装置」と呼ばれています。
これに対して,消費税には,このような自動安定化の機能はありません。失業者であろうが赤字企業であろうが,消費をする以上は,税を課す。それが消費税です。
税収を確保したい財務健全化論者にとっては,不景気になると税収が激減する所得税や法人税よりも,不景気であろうが税を確実に徴収できる消費税のほうがいいのでしょう。だから,消費税は「安定財源」とある程度呼ばれるのです。
しかし,これまで説明してきた通り,日本は財政危機の状況にはないし,そもそも税は財源確保の手段ではない。デフレ下において,税収が減るのは何の問題もないどころか,むしろ税収を減らすべきなのです。(p159)
政府は,企業の巨額の内部留保を問題視しています。
しかし,デフレなのに,消費税を増税して法人税を減税したのは,政府なのです。企業の内部留保の増大は,デフレ下で企業が経済合理的に行動した結果にすぎません。そして,デフレが続いているのは,企業のせいではなく,政府の経済政策のせいです。
内部留保が増えているのは,企業経営者が無能だからではありません。政府が無能だからなのです。(pp.160-161)