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羽生 善治
将棋棋士。1970年生まれ。1996年、史上初めて七大タイトルを独占。2017年、永世七冠の資格獲得。2018年、国民栄誉賞。
梅原 猛
哲学者。1925年生まれ。京都市立芸術大学、国際日本文化研究センター名誉教授。ものつくり大学総長、日本ペンクラブ会長などを歴任。1999年
...続きを読む、文化勲章。
尾本 恵市
1933年生まれ。分子人類学者。東京大学、国際日本文化研究センター名誉教授。2015年、瑞宝中綬章。
将棋にはこのように、理系と文系といった学問領域の枠を超え、さらには芸術から文明論に至るまで、実に多彩な「見どころ」「考えどころ」がある。あらゆる人の知的好奇心に訴えかけるだけのポテンシャルを秘めているのである。
一時間以上も長考することがありますが、それだけ考えて次の手を指 しても、相手にまったく予想していなかった手を返されると、考えた時間がすべてむだになってしまうんです。五時間ほどの持ち時間のうち一時間がむだになると、正直 いえば精神的にかなりがっくりくることもあります(笑) でも、じつはそれはむだではないんですね。そのときにいろいろな手を考えたことの蓄積が、いつか別の対局で生きてきて、思いもしなかったひらめきが生まれることがあるんです。
有名な話がありますね。日本の敗戦直後に、将棋は戦争につながるものだから禁止しようと考えたG日Q(連合国総司令部)が升田を呼び出し、「日本の将棋は相手の駒を取ったら自分の持ち駒として使うが、これは捕虜の虐待ではないのか」と難癖をつけた。すると升田が「虐待とはなんだ。捕虜でも差別せず仕事をさせているんだ。 おまえらのやっとる西洋将棋(チェス)こそ、捕虜は使わずに殺すし、キングを守るためには女(クイーン)まで犠牲にするじゃないか」などとまくしたて、G日Qの面々を「こんなによく喋る日本人は初めて見た」と妙に感心させて、そのおかげで将棋 は禁止にならずにすんだという。
羽生さんは数学が得意だったとのことですが、じつは学問の世界でもっとも早熟なのが数学者です。そのかわり、学者としての寿命がとても短いですね。創造的な仕事ができるのは、だいたい二十代までです。
羽生
じつは、将棋には不思議なところがありまして、必ずしも正解をめざせばいい というものではないんです。極端にいえば、悪い手を指したほうが勝てるということ もあるんですよ。
梅原
えっ、どういうことですか。
羽生
私がそう思うようになったのは、大山先生と戦ってからです。私は幸いにも、 生前の大山先生と対戦する機会にわりと恵まれたんですが(9戦して羽生の6勝3 敗)、実際に盤をはさんで対局してみて、ひとつ気がついたことがありました。なん と、大山先生は対局中、将棋盤をほとんど見ていないんですよ。
梅原
なんだって! 羽生何を見ているかというと、日の前の相手なんです。おそらく大山先生は相手の くせを見抜いていて、その気配や表情を観察しながら、いま何を考えているか、どん な心理状態にあるかを読みとっていたんでしょう。 梅原ほー、それは面白いね。
羽生
大山先生ほどの人になると、いま相手がどの手を嫌がっているかが、観察して いるだけでわかるらしいんですね。将棋には、理論的には正解ではない、むしろ悪い 手であっても、心理的に相手が嫌がり、ミスを犯しやすくなる手というのがあるんで す。かりにAとBという二つの選択肢があって、Aは正解の手、Bは悪い手だけど相 手が嫌がる手だとすれば、大山先生は迷わずBを選びます。理屈では悪い手でも、相 手が問違ってくれさえすればいいというわけです。
これは私自身が最近、感じていることですが、将棋に勝つためには「他力」が必要なんです。自分ひとりで勝とうとしても、無理なんですね。よく、理想的な将棋の勝ち方として、自分の構想どおりに一手一手、プラスになる手を積み重ねていき、 一本の線のようなストーリーを描いて勝つというのが理想であるように思われがちで、実際にそう考えている棋士は多いんですが、実は将棋の手で「プラスになる手」というのはほとんどないんです。
さきほど理系は直観、文系は熟練という話をしましたが、じつは文系の学問でも、理系的な直観は大切なんです。というより必要不可欠なものです。 直観は、学問に対する火のような情熱から生まれてくるものです。それは文系、 系を問わず同じです。しかし直観を得たならば、今度はそれを水のように冷静になって徹底的に疑い、検証することが必要になります。そして場合によっては、せっかくの直観を捨てなくてはなりません。
スマホや電子機器を通じてやたらと仲間どうしでつながりたがるのも、形を変えた村社会だと思います。結局、個人として生きることができないから、つるむのです。いま、しっかりと自分の足で立っている人は誌だ少ないですね。
1975年、13歳のときに山形県から上京して奨励会に入り、プロ棋士をめざして修業を始めた私は、一方ではプロの四段になる前に上智大学に入学し、数学を専攻した。奨励会員が大学に進むことはいまでこそ珍しくなくなったが、当時はまだ高校に 行く者さえ少ない時代だった。