トルストイのレビュー一覧
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『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』といった大長編で有名なロシアの文豪トルストイだが、もしかすると晩年に書かれた本作こそが彼の最高傑作ではないかと疑いたくなるほどの名作である。
短い作品である。文庫本にして100ページにも満たない。四冊にまたがる『戦争と平和』等の大長編と比較して、見劣りしないと言ったら嘘になるだろう。だがその中身は、トルストイの全キャリアが凝縮されているかのように濃くそして重い。
とはいえ何かドラマチックな事件が起こるわけでもない。主人公イワン・イリイチという一介の役人が死ぬだけの話である。死ぬだけ? なるほど死は、三人称の死は日常茶飯事に過ぎない。しかし一人称の死は? 主人公を三人称にとどめたまま一人称の死を描くトルストイの手腕は秀逸である。
冒頭はイワン・イリイチの葬式から始まる。訃報を聞いた友人たちはみな一様に驚いたような振りをする。驚くわけがない。人が死ぬのは当たり前である。友人たちはみな一様に悲しいような振りをする。悲しいわけがない。死んだのは他人であって自分ではない。喜びの方がむしろ大きい。ハイデッガーの『存在と時間』で明らかにされる頽落が、これほど見事に描かれている場面はほかにない。
死の直前イワン・イリイチの病に関し、医者がさまざまな議論をする。イワン本人は何を言われているのか全く分からない。自分の生死という存在にかかわる問題と、身体の疾患という事物にかかわる問題が同列に扱われていることの矛盾。哲学における死と医学における死の絶対的な断絶は永遠に解決不可能であろう。
最後のシーン、死におけるイワン・イリイチの幸福感は、しかし読者を慰めることはない。そんなものがフィクションに過ぎないことくらい読者には分かっている。しかし私の死はフィクションではない。本書によってそれに気づかされてしまった読者は眠れぬ夜に悩まされることになる。他人に薦めるのもはばかられるほどの恐るべき傑作である。 -
Posted by ブクログ
本巻では、ボロジノの戦いで戦略的撤退を敢行したロシア軍がさらにモスクワの街を捨てた状況が描かれる。
ナポレオン軍がモスクワに侵攻した時、すでにモスクワはほとんど無人の街になっていた。
ナポレオン軍は、そこで烏合の衆に成り果てる。
目の前に無人となった美しい街がそのまま残っているのを目にしたナポレオン軍の兵士達は、略奪の限りを尽くす。
その姿はもう、兵士ではなくただの略奪者だ。
そこには将軍も一兵卒もなく、誰もが馬車を奪い、美しい家具を奪い、金目になる物を残らず強奪していく。人間の浅ましさをまざまざと見せつけられる。
規律を失った組織の脆さ、脆弱さ。人間の弱さがこれでもかと描かれる。リーダーシップがいかに重要かということを改めて思い知らされた。
訳の分からないコンサルが書いたビジネス書なんかより本書の方が100倍勉強になる。
そこへ当時の街の4分3を焼いたと言われる「モスクワの大火」が起こる。
これはナポレオン軍の兵士による火の不始末なのか、ロシア軍側が故意に火を付けたものかは今も分かっていない。ただ、ロシア側がナポレオン軍の妨害をするため秘密裏に火を付けたという説が有力なようだ。
いずれにせよ、当時のモスクワのほとんどの建造物が木製だったため、歴史ある建築物の多くが灰と消えてしまったのだ。
そして本巻でのもう一つのクライマックスがアンドレイ・ボルコンスキー公爵、ナターシャ・ロストフ、ナターシャの兄のニコライ、ソーニャ、アンドレイの妹マリアという男女5人の5角関係だ。
アンドレイ公爵と美少女ナターシャは婚約していたが、ナターシャがアナトールというイケメンだけど女ったらしの馬鹿貴族(こいつは主人公ピエールの妻エレンの実兄だよ。とほほ)に騙され、ナターシャはアンドレイとの婚約を破棄してしまう。
そして、ニコライ公爵は無一文のいとこソーニャとラブラブだったのだが、アンドレイの妹マリアの危機を救ったことで、この二人の間に恋心が芽生える。
そこへアンドレイがボロジノの戦いで瀕死の重傷を負い、ロストフ家に運び込まれる。
ナターシャは献身的に瀕死のアンドレイの看病を行い、自分の過ちについてアンドレイに許しを請う。
また、ソーニャはニコライと結ばれることを望んでいるため、ナターシャとアンドレイが結婚してくれることを望む。なぜなら、ナターシャとアンドレイが結婚すればロストフ家とボルコンスキー家は親戚同士となり、ニコライとマリアは兄弟関係になるので、二人は結婚できなくなるからだ。
そして、その結果は・・・。
一方、主人公であるピエール・ベズーホフ伯爵は、火の海のモスクワを見て、一人、ナポレオンの暗殺を決意し、拳銃とナイフを胸に忍ばせ、普通の町人のような格好をしてナポレオン軍へ近づいていく。
モスクワを失ったロシアの運命は。
ナポレオンの次の一手は。
そして、この5人の男女の運命は。
ピエールのたどり着く先は。
もう、目が離せない。
ここまでくれば次はラストの第6巻。さあ、張り切って読むか! -
Posted by ブクログ
本巻はついに恋愛小説編に突入!
妻を亡くしたアンドレイ・ボルコンスキー公爵(31)とロストフ伯爵家の次女ナターシャ(16)との恋愛、そして同じくナターシャの兄のニコライといとこのソーニャ(18)との恋愛がメインで語られている。
この時代の貴族の結婚というのは、財産目当てというか、いわゆる政略結婚が大きなウエイトを占めている。特に、貴族の男性にとっては持参金をたくさん持ってくる金持ちの貴族の娘と結婚することが一番の幸せだと言われていたんだね。
ロストフ伯爵家は財政が火の車なので、長男のニコライにはぜひ金持ちの貴族の娘と結婚して欲しいと両親は思っているのだけど、当のニコライは無一文(これは言い過ぎか)の娘であるソーニャと両思い。う~ん。どうなるんだろう。
それにしても、本巻で描かれる16歳のナターシャと18歳のソーニャの可愛らしさ、美しさは文章から溢れんばかり。男性読者にとっては眼福ですね。
「文章だから見えるはずないだろ」って突っ込みが来そうだけど(笑)。
見えないけど、頭の中でありありとイメージされるんですよ!凄まじく美しく可憐な美少女が!
このあたりの描写の素晴らしさは、「さすがレフ君やるじゃん!」って感じです(ロシアが誇る大文豪トルストイをレフ君呼ばわりする大馬鹿者がここにいます←)。
という訳で、やっとこの超大作『戦争と平和』も各巻約500ページ(しかも細かい文字がページびっしり)の3冊を読み終え、全体の半分が終わりました・・・。
よし、この調子でサクサク読んでいこう!(白目) -
Posted by ブクログ
この2巻では、主要なキャラクター3名、ピエール、アレドレイ、ニコライにそれぞれ試練が訪れる。
特に本書の後半で行われるアンドレイとピエールとの「人生の意味」ついての議論は本巻のクライマックスだ。
アンドレイは、アウステリッツでのナポレオン軍との戦闘で重傷を負って帰郷、さらに追い打ちをかけるように出産時に最愛の妻リーザを亡くし、軍での出世も人生への希望も失ってしまう。一方、妻エレナとの関係の悪化により、人生に絶望していたピエールは、秘密結社フリーメーソン(!)に入会したことにより再び人生の希望を見いだしていた。
この二人の議論は突き詰めれば「人生とは、善か悪か」ということであり、著者レフ・トルストイが人間の生きる意味をピエールとアンドレイとのやりとりを通して、深く読者に問いかけてくる。
この『戦争と平和』が上梓されたのが1869年(日本で言えば、明治維新の翌年)、今からちょうど150年前だが、「人生とはなにか?」と人生に悩む人々の苦悩は150年前でも今でも全く変わりないのだ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ「ナターシャピエールアンドざグレートコメットオブ1812」っていう、ものすごい長い、しかし戦争と平和のお話ですよーっていうアピールがすごいタイトルのミュージカルを、見るに当たって読まなきゃと思ったのだけど、まあ読み終わらない(T-T)初日が明け、観劇し、千秋楽が終わってようやくよみおわりました。
トニー賞を取った?あれ?とってないか、ノミネートされたやつなんだけど、冒頭に登場人物紹介ソングがあって、その紹介ソングと、ナターシャが生田絵里香ちゃん、ピエールが井上芳雄さんという顔変換があってやっと読み終われたの。ありがとう井上芳雄様。
だいたい、ロシア人、名前がややこしく、愛称が本名からはかけ離れてるという上に、名字にも何種類か呼び方があり、さらに男性と女性で同じ名字を別の呼び方するって言う。あげくに、お父さんと同じ名前を子どもにつけるの。もう、カオス。
おもしろかった!!
ただ、トルストイさんちょっとくどい。〇〇のような。。って、多くてまあ2つまでじゃない。「バラのような、少女のような」がギリなのに、こういう比喩表現を、もんのすごい、10こも11こも並べてくる。もはや何を表したいのかが迷子だわ。あと、クトゥーゾフっていう将軍が大好きすぎる。だれも嫌いとか思ってないのに、すごいかばってくる。しらんおじさんなのに、そんなにかばったらかえって怪しくない?
クトゥーゾフをかばわなかったら4巻の本が3巻ですんだな。
で、全部読んだ結果、そのナターシャピエールアンドザグレーとコメットなんちゃらが、ものすごくトルストイさんが表現したいことを端的にしかも詩的でおもしろく表現していることが分かった。作った人天才だし、このピエールを、こういう風にみんなに好かれるキャラクターとして再現する井上芳雄様天才だった。
トニー賞は取れなったけど、私が、トルストイで賞をあげる!!
トルストイさんは、天国の雲の上からめっちゃ感謝した方がいいよ。とおもいました。 -
Posted by ブクログ
●「イワン・イリイチの死」
トルストイが死んだのは1910年。20世紀に入ってからである。
シェイクスピアが活躍したのが1600年代で、日本でいえば江戸時代にあたる。にもかかわらず登場人物の言葉や行動が今のわれわれに強く訴えかけてくるのは驚くべきことで、ハムレットなどは、主人公が現代人であってもちっともおかしくない。それがシェイクスピアのすごさであり、普遍性なのだろう。
ただシェイクスピアの戯曲の登場人物は、王様や王子や女王であることが多くて、これらの人々はわれわれの親類縁者にはあまりいない類の人々であるから普段どんな生活を送っていたかとなると、ほとんど知るところがない。別種の階級、別種の社会層に属する人間たちである。
これがトルストイになると、登場人物はもうわれわれと同じ種類の人間である。本書に収められた2作品のうち、イワン・イリイチは官吏であり、クロイツェル・ソナタの主人公は貴族であるが、その生活感覚はわれわれと変わるところがない。シェイクスピアの作品そのものは現代的ではあるけれども、主人公たちはわれわれの毎日の生活から遠いところにいる神話の英雄やなにかのシンボルに思えるのに対し、トルストイの人物は、この社会で暮らしている一般の社会人となんら変わりがない。血肉を備えた生身の人間として、昇進の噂や世間づきあいに気を病み夫婦げんかに疲れた人間としてそこに描かれている。毎日われわれの隣で働いている人々とちっともかわらない人間として描かれている。
「イワン・イリイチの死」は、ある高級官僚(裁判所の判事)の一生を描いた作品である。
トルストイがこの作品を書いたのは58歳の時。すでに「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」を完成させ、文豪としての名声を確立した後、次第に宗教的傾向を深めつつあった時期の作品である。
この作品は、そうした大作家が、悠々と自分の書きたいことを書きたいように書いたらこういうものができましたといった風の、自然でのびのびとした感じがする作品で、そこにはトルストイの作家としての自信や余裕がうかがえて、読んでいるこちらとしても大家の練達の話術に安心して身を任せておけば、知らず知らずにその先その先へとページをめくらざるをえなくなる、そういった興味深くて面白くてためになる物語である。あちこちにちょっとしたジョークがちりばめられていて、翻訳を通してなのでけらけら笑うというところまではいかないけれども、たぶんあちらの人が読んだらくすぐられる箇所が多いのではないかと思う。すくなくとも中盤までは。
じつは内容は深刻なのである。
官僚としてまっとうな一生を送ったはずの主人公が、死を前にして、自分の人生はなんであったのかという疑問にとらわれ、煩悶に煩悶を重ねたあげく、最後の瞬間にようやく救いを得、そして死ぬ、というのが粗筋である。
彼の一生は、この社会に生きるわれわれとって、至極あたりまえの一生のように思える。あたりまえというよりむしろ模範的といえるかもしれない。彼にはなんのやましいところもないように思える。唯一欠点があるとすれば夫婦仲の悪いところであろうが、それでも彼はこういう心がけで臨んでいるわけであり、これはこれで立派な態度だと思う。
結婚後わずか一年ばかりで、イワン・イリイチは次のことを理解した。つまり結婚生活は人生におけるある種の利便を提供してくれはするが、本質的には極めて複雑で困難な事業であって、そこで自らの義務を果たし、世に認められるような立派な生活を営むためには、ちょうど勤めに一定の姿勢が必要なのと同じように、結婚に対しても一定の姿勢を築きあげる必要があるのだ。(p42)
問題は、彼が採った一定の姿勢というのが、ひたすら「自分一個の陣地である勤務の世界に逃げ込み、そこに快適さを見いだす」(p42)ことであったという点である。だが、これもそんなに責めるわけにはいかないだろう。そうでないような男性がこの世の中にそうたくさんいるとは思えないからだ。普通一般のサラリーマンが「仕事だから」といって家庭の義務から逃れようとするとき、そこで生起している心理現象の多くはトルストイのこの言葉によって説明できるのではないかと思うが、ただし私はそんなことを思ったためしがないので、正直いうとその点はよくわからない。あくまで推測で言っているだけである。
それはともかく、病を得る前のイワン・イリイチに限らず、その妻、その娘たちの生活や感情を、トルストイは身も蓋もなく書いていて、作品の中で読むと、彼らがなんだか悪者のように思えるけれども、その行動は普段のわれわれがやっていることと変わりはない。
たとえば寝たきりになったイワン・イリイチの部屋を、舞台を見に行くために着飾った妻と娘とその婚約者が訪れ、憤怒に駆られた主人公との間に気まずい沈黙がながれ、彼らが立ち去ったあと「嘘は連中とともに去った」(p117)と描かれているが、だからといって妻や娘やその婚約者が悪いわけではあるまい。寝たきりの病人と健康な人間とでは活動に違いがあるのは当然だし、態度が嘘くさいので嫌だと言われたって、では当人の目の前でその人間の死について率直に語り合えるかといったらそんなことできるわけはない。それが偽善に映るなんていうのは単なる病人のわがままである。
あるいは冒頭に出てくるイワン・イリイチの葬式の場面。同僚のピョートル・イワーノビッチは、葬儀に参列しながら、その後のトランプ・ゲームのことを考えているわけだが、こういう態度は不謹慎だという人がひょっとしたらいるかもしれないけれども、会社の関係で葬式に出たことのある人ならだれでも経験しているとおり、なにも葬式だからといって厳粛な気持ちになるなんてことはなくて、考えている内容といったら、次の会議に間に合うかどうかだったり、仕事の締め切りだったり久々に顔を合わせた昔の同僚と葬儀が終わった後でどこかで一杯やろうかということだったりするので、われわれと彼とは五十歩百歩である。登場人物たちの言動が不遠慮で不作法でありえないことだと思えるとしたら、それはたぶん社会的経験が少ない少年少女の読者たちだろうが、世の中というのはそういうものなんです。いい年をした大人でそれはおかしいなんて言う人がいたら、単にカマトトぶっているか、世間知らずの馬鹿である。
つまりここで出てくる人々の姿は、まさにわれわれ自身の姿なのである。
世の中とはそんなものである。そうしてそれが悪いとも思えない。
しかしトルストイは違う。
トルストイが主人公に語らせているのは、そういう生活は、人生は、無意味であり、偽善であり、嘘っぱちだということである。
死を目前にしたイワン・イリイチは、煩悶する。
煩悶して、次第に真相に近づいていく。
結婚……そして思いがけない幻滅、妻の口臭、肉欲、偽善! それからあの死んだような勤め、それからあの金の苦労――こうして一年がたち、二年がたち、十年がたち、二十年がたった。そしていつも同じことの繰り返しだった。時がたてばたつほど、ますます生気が失われていった。(p121-122)
「ひょっとしたら、私は生き方を誤ったのだろうか?」不意にそんな考えが浮かんだ。
「しかし何でもそつなくこなしてきたのに、いったいどうして誤ったのだろう?」(p122)
「だがいまさらそんなことを認めるわけにはいかない」自分の人生が法にかなった、正しい、立派な人生であったことを思い起こしながら、彼はそうつぶやいた。「そんなことは決して認めるわけにはいかないぞ」彼は唇を笑いにゆがめた。(p127)
ふと彼の頭に、もしも本当に自分の全生涯が、物心ついてからの生涯が「過ち」だったとしたら、という考えが浮かんだ。(p130)
彼の仕事も、生活設計も、家族も、社会の利益や職務上の利益も――すべて偽物かもしれない。彼はそう思う自分に対して、それらすべてのことを弁護しようとしてみた。すると不意に、自分の弁護がいかにも根拠薄弱だと感じられてきた。そもそも弁護すべきものが何もないのだった。
「もしもその通りだとしたら」彼は自問した。「私は自分に与えられたものをすべて台無しにしてしまって、もはや取り返しがつかない、ということを自覚しながらこの世を去ることになる。その時はいったいどうなるのだろうか?」彼は仰向けに寝たまま、まったく新しい目で自分の全人生を振り返りはじめた。(p130-131)
そして、ついに、
翌朝、彼は従僕と顔を合わせ、それから妻と、娘と、医者と顔を合わせたが、彼らの一つ一つの動作、一つ一つの言葉が、夜のうちに見出された恐るべき真実を彼に実証してくれるものだった。彼らのうちに彼は自分を見出し、自分が生きがいとしてきたものをすべて見出した。そしてそうしたものがことごとくまやかしであり、生と死を覆い隠す恐るべき巨大な欺瞞であることを、はっきりと見て取ったのだった。(p131)
死ぬ前にこんな心理状態になったらたまったものではない。
イワン・イリイチはこの発見によってさらに苦しむ。
この意識は彼の身体の苦痛を何倍にも強めることになった。彼は呻き、のたうち、自分の着衣をむしりとろうとした。着衣に胸を締め付けられ、押しつぶされるような気がしたのである。そしてそのせいで、彼はさらに周囲の者たちを憎んだ。(p131)
その後の悽愴な描写は、破滅を自覚した精神の叫びである。
では、どうなるのか。
主人公は破滅したまま死んでしまうのか。
絶望のままで終わるのか。
ここで不思議なことが起こる
解決はむこうからやってきた。
彼は暴れていた。そして一瞬ごとに、いかに全力で抗おうとも、自分がどんどん恐怖の源へと近づいていくのを感じていた。
彼は感じていた――自分が苦しむ理由は、この真っ暗な穴に吸い込まれようとしているからだが、しかしもっと大きな理由は、自分がその穴にもぐり込みきれないからだと。穴にもぐりこむのを邪魔しているのは、自分の人生が善きものだったという自覚であった。まさにその自分の人生の正当化の意識がつっかえ棒となって彼の前進を阻み、なによりも彼を苦しめているのだった。(p135)
そして、
不意になにかの力が胸を突き、わき腹を突いて、さらに息苦しさがつのった。と、彼は穴の中を落下していった。そして前方の穴の果てに、なにかが光り出したのだ。汽車に乗っていると、前に向かって走っているつもりでいたところが実は後に向かっていて、突然本当の方向を自覚することがあるが、ちょうどそのようなことが彼の身に起こっていた。
「そう、なにもかも間違っていた」彼は自分に語りかけた。「だがそれだってかまいはしない。」(p135)
これはまさにイワン・イリイチが落下しながら光を見いだし、自分の人生は間違っていたが、まだ取り返しはつくという認識を得た瞬間のことであった。(p136)
いったいなにが起こったのだろうか。
死の代わりにひとつの光があった。
「つまりこれだったのだ!」突然彼は声に出して言った。「なん歓ばしいことか!」
彼にとってこのすべては一瞬の出来事だったが、この一瞬の意味はもはや変わることはなかった。(p138)
そしてイワン・イリイチの死。
やつれ果てた体はときどきびくっと錬磨していた。それからぜいぜいいう音もヒューヒューいう音も、徐々に間遠になっていった。
「終わった!」誰かが彼の頭上で言った。
彼はその言葉を聞き取り、胸の中で繰り返した。
「死は終わった」彼は自分に言った。「もはや死はない」
彼はひとつ息を吸い込み、吐く途中で止まったかと思うと、グッと身を伸ばしてそのまま死んだ。
(p138)
いったいここで作者は何を語っているのだろうか。
われわれに何を呼びかけているのだろうか。
答えは明らかだ。
イワン・イリイチは最後に光を見出し、救いを得た。
ここでそういう言葉は使われていないが、彼は「神」を見出した。そして自己の生があるがままで肯定されていることを、すなわちすでに救われていることを知った。それは自己の思い煩いによってそうであるのではなく、彼の思いに先立ってすでにそうだったのであり、すでにそこにあったのである。彼が自分で自分の人生を正当化している限り、前の方を向いていると思って実は反対方向を向いている限り得ることのできないものであった。彼が自分を完全に捨て去って(則天去私!)初めて発見できるなにかであった。そしてそこには死はなく、永遠の生があった。
とまあ、なんだか分かったふうなことを言っているけれども、それについて私がなにか知っているというわけではない。これまでどっかで読んだ本の受け売りである。「そしてそこには死はなく、永遠の生があった」なんて書いたけれども、具体的な意味が分かって書いているわけではありません。
けれども、この物語の後半部分、煩悶を経て主人公が光りを見出すに至った経緯は、トルストイの実体験に基づくものだろう。そうして、彼がここで描いている人々の暮らしは、何度も繰り返すようだけれども、われわれの暮らしそのものであって、そういったものが虚偽であるという指摘は説得性を持っている。というか、おそらくそれは正しいのだろう。
では、そのことがわれわれにどういう意味をもつのか。
トルストイはわれわれに何を呼びかけているのだろうか。
イワン・イリイチの煩悶と苦悶を、われわれは皆、死ぬ寸前に抱えるだろうということだろうか。われわれも彼と同じように、自己の人生の意義に根本的な疑念を抱き、のたうち回るだろうということだろうか。死の寸前の断末魔の苦しみというのは、人々がこういうことを自覚して苦悶している姿なのだろうか。
そうしてわれわれもまた、死の間際に光を見出すだろうということだろうか。
そんなはずはない。
まず、多くの人々にとって、トルストイの問いは問いにならない。呼びかけにもならない。イワン・イリイチの妻にも、娘にも、息子にとっても、その問いとは関係なく人生は過ぎていくだろう。われわれの多くにとってもそれは同じだろう。
人によってはたしかに、同じような疑念が、死に至る寸前かも知れないし、トルストイ自身のように名声を極めた後かも知れないし、夏目漱石のようにロンドン留学中かも知れないけれども、そのような疑念が襲ってきて徹底的に苦しめられる、そういうことはあるだろう。多くの若い人々のように青年期にそのような疑問に囚われ、それが後々ふとした瞬間に頭をもたげてくるということはあるだろう。
結局その問いは「おまえは何のために生きているのか」ということに尽きる。
それは自分一個にかけられた問いであり、それにどう答えるかはそれぞれの問題である。
はたしてトルストイはそれにうまく答えられたのだろうか。いやそれは僭越な問いだ。問題は一人一人にかけられている。トルストイの問題はトルストイ自身が解決しなければならず、われわれの問題はわれわれが解決しなければならない。そしてトルストイはその問題の彼なりの仕方での解決を、われわれの先達として、ここでわれわれに提示してくれているのだ。それをどうするかはわれわれ自身の問題だ。
とはいえ、かりに人生が虚偽に満ちているとしても、その意義を問うことにどれだけの意味があるのだろうか。もしほんとうに人生が誤っているものだとしても、それをどうしようがあるのだろうか。
この作品では、イワン・イリイチが最後の瞬間に光を見出し、ハッピーエンドの結末が訪れたことになっているが、はたしてほんとうにそうなのか。あそこでは光があった。あのようにトルストイは光を見出したのだろう。しかし答えを求めて得られない場合もあるのではないか。ひょっとしたらそういうことの方が多いのではないか。この問いを問うために出発しながら途中で遭難し、煩悶しながら倒れた人間の方が圧倒的に多いのではないか。だからそういうことはやらないほうがいいのではないか。
いや、このような功利的な設問の仕方自体に実は問題があるのかもしれない。
いや、しかしどうなのか。
最初にこの作品は自然にできあがったふうにみえるといったが、実は巧みに構築されていて、われわれの行動や思考パターンも、すでに作者が予見しているようである。
冒頭に置かれたイワン・イリイチの葬儀、同僚のピョートル・イワーノヴィチが死者の顔を眺める場面で、
その顔は生前よりも美しく、そして肝心なことに、より威厳があった。そこには、なすべきことはなしてきた、しかも過たずなし遂げた、といった表情が浮かんでいた。
おまけにその表情はさらに、生きている者に対する叱責ないし警告も含まれていた。その警告は、ピョートル・イワーノヴィチには場違いなもの、もしくは少なくとも自分には無関係なものと感じられた。
なぜだか不快感を覚えた、ピョートル・イワーノヴィチは、もう一度そそくさと十字を切ると、われながら礼を失していると思われるほどの勢いでくるりと後ろを向き、そのままドアへと向かったのだった。(p17)
われわれもドアから出て行くべきなのかもしれない。
そして歳を取るということは、こうした問いや警告に対して、老獪になれるということでもあるのだが……
●「クロイツェル・ソナタ」
クロイツェル・ソナタといえばべートーヴェンの有名な曲だけれども、どんな曲なのかは知らない。聴いたことがあるかもしれないけれどメロディは浮かんでこない。しかしこういうタイトルだから、きっとロマンチックなストーリーなんだろうなと思って読んでみたら性欲の話なのでびっくりした。こんなに有名で偉大で、しかも道徳的倫理的傾向が強いと思っていた作家の作品が、男女の肉体関係のことばかりだなんてスゴイ。
だからといってセクシーな場面があるわけではないので念のため。トルストイはやっぱり真面目すぎるほど真面目だから、ここでのテーマは、男女の肉体関係および人としての正しい生き方とはどういうものか、ということのようである。
この作品の中で、トルストイは女性が男性の性欲の対象としてしか扱われていないことを強調し、女性がそういうかたちでして生きていけない境遇を憐れむ一方で、そのために生じる女性の振舞いを浅ましいとして徹底的に非難する。
「男が高尚な感情のことを持ち出すのは嘘をついているに過ぎず、男に必要なのはただ肉体だけである。したがって男はあらゆる醜行は許しても、無様であか抜けない悪趣味な服装は、許しはしない……商売女がこのことを意識的に知っているのに対して、穢れなき処女はみな、これを無意識に、つまり動物のような仕方で知っているのです。
ここからメリヤスのセーターでボディ・ラインを露わにしたり、腰当てをつけてヒップをふくらましたり、肩や腰、はては胸までをむき出しにしたりといったファッションが生まれてくるのです。女性は、とりわけ男性経験から学んだ女性は、たいへんよくわきまえています――高尚な話題を巡る会話なぞはしょせんただのおしゃべりに過ぎず、男が必要としているのは肉体、および肉体をもっとも魅力的な光で浮き立たせてくれるものすべてであると。」(p180)
「まったくこれはもう、遊歩道にも路地にもいたるところに罠が仕掛けられているようなものです。いやそれよりひどいくらいですよ! そもそも賭け事が禁止されている一方で、女性がまるで娼婦のような、性欲を刺激する衣装を着るのはどうして野放しにされているのでしょう! 女性のほうが千倍も危険でしょうに!」(p191-192)
では作者にとって、理想的な男女の肉体関係のあり方というのはどういうものであるのか。それはただ、動物がそうであるように、子孫をもうけるためだけにおこなわれるガチンコ試合だけが、それにふさわしいものであるらしい。ところでトルストイが子供を13人ももうけたのは、そういうガチンコ試合がよっぽど好きだったせいではないか、おまけに私生児までもうけているのはいったいどういうことなんだ。トルストイの私生活を知った読者が必ず言ってみたくなりそうなことを私もここで言っておこう。
トルストイはこの時61歳。単に若い者同士がいちゃつくのを許しておけない気難しいジジイと変わらない気もするが、そういう年寄りに限って、むかしは道楽をやり尽くしていたりする。それはともかくトルストイによれば、女性のそういう煽情的な態度や行動は、あくまで男性側に原因があるとする。女性を快楽の道具としか取り扱わないからだ。
だがまあ、そういう考え方も含めて、ここで語られているのはすべて男性側からの理窟だな。トルストイはへりくだって語っているけれども、その謙遜は傲慢さの裏返しでしかない。
しかし、これはこれで面白い理窟だ。
この作品も、読んでいて飽きさせない。
後半は、主人公とその美しい妻とのあいだに起こった事件が物語られる。それも一気呵成に読める。
二つの作品とも、大人向けの作品だと思う。
これをもし20代で読んでいて、そのあと読まないでいるとしたら実にもったいない。30代、40代、あるいはもっと年を経てから読むと、とても面白いと思う。身につまされるところが多い。
トルストイはかなり面白い。そういうことを再認識できた一冊だった。 -
Posted by ブクログ
ここにはトルストイの幾つものメッセージが込められています。まず自分が他人にした事はいずれ形を変えて自分にも返って来るという事。
凡人が陥り勝ちな自分の欲望を最優先に追い続ける生き方をするといつか後悔する時がくるということ。人間はどんな状況でも生きている限り他人の為に出来ることがあるということ。死にたくないという本来の生存への執着ですら持つ事が本当ではないということ。自分の生活が法にかなって作法に外れてさえいなければ正しいわけではない。
イワンはそれに気付くために病気になって苦しむ必要があったのだと思う。ただ生きるのではなくどう生きるかが大事なんだと思いました。
素晴らしいです。何度も読み返してさらに深く気付いたらまた追記します。
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Posted by ブクログ
歴史に残る名作、大作の1つ。本当にそう。
名作を読んだ時、今まで読んだ本の大部分がへぼく見えてしまう。
読みこなすには一度ではすんなり入ってこない部分もあるけれど、登場人物の人間ドラマは生き生きと、戦争などはシーンが浮かぶように描写。
死がたくさんあるけれど、最初は思いもかけなかった人たちが結びつく。
『アンナ・カレーニナ』を読んだ時もそうだったけど、先が見えない大きな何かに包まれて生き、私たちはとても小さな存在でありながら今生きているという気持ちになる。
エピローグ2では、権力の定義、必然性と自由について、トルストイの哲学的な歴史の考察が書かれていた。 -
Posted by ブクログ
何不自由無く遊んで暮らす大富豪の青年がいて。優しく純粋な大富豪は、パーティ三昧な無為の中で人生に悩んでいます。
大富豪の心の友、大親友の青年は、親の代からの誇り高き軍人、高潔で有能な高級士官。ナポレオンと祖国との戦争に巻き込まれながら、天真爛漫な美少女と運命の恋に落ち、婚約。
美少女の兄も軍人。士官。
悩み無く軍隊勤務を楽しみながらも、実家が経済的に没落していく気苦労。家の経済の為には、愛し合う貧しい幼馴染との結婚が許されない。
天真爛漫な美少女は、不良の嘘と誘惑によろめいてしまい、婚約は破棄される。騙された愚かさに気づいた美少女は、絶望して自殺を図る。そんな彼女を慰めた大富豪の青年。親友の元婚約者の美少女と、運命の恋に落ちてしまった自分に、気づいた…。
そして全てを飲み込むように、戦争が足音を立てて近づいていました。
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怒涛の大河ロマン、第三巻。
ここからちょこっとだけ、「歴史小説」の色合いも増してきます。
書き手のトルストイさんの顔がチラチラ見えて、フィクションの人物たちの運命を一旦棚に上げて、歴史としてのナポレオンとロシアの死闘を俯瞰的に眺め、分析したり考察したりする章が時折現れます。
そのあたりは、地理的な固有名詞とか、若干わかりにくいですが、詳細すぎる政治軍事評論ではなくて、「戦争」をヒーローの物語として捉えることを頑なに拒否して、即物的な集団の運動だったり、混乱の中の偶然だったりという、極めて冷徹な細部の積み重ねとして受け入れることを熱弁します。
それは、時代を超えて、国を超えて、たしかに説得力があります。
(このあたり、「坂の上の雲」をはじめ、司馬遼太郎さんに影響を与えているのではないでしょうか)
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では小説として面白くなくなったのかと言うと、全くそんなことはなく。ちゃんとダレてきた頃には、俯瞰の目線から主人公達の姿へと、物語は急降下していきます。
優しい大富豪ピエールは、ナターシャへの愛に気づく。
そして、既婚者のピエールは、その気持ちの危険に気づいて、自分から離れていく。
ナポレオン軍がモスクワに迫る。
モスクワの手前、ボロジノでの大会戦。
義勇軍の士官となって(でも実際上はただの見物人として)戦場におりたった大富豪ピエール。
激戦の前日、戦地での親友アンドレイとの再会。
美少女ナターシャとの婚約が破れたアンドレイ。その冷たい気持ちになすすべのないピエール。
大会戦。
トルストイは混乱のリアリズムの戦場に、ピエールとアンドレイとともに読者をものすごい力で引きずり込む。文庫本のページから硝煙と血しぶきが吹き上がるような筆力。圧巻。
そしてモスクワでは。
落ち込み、立ち上がれない美少女ナターシャ。ピエールの支えで、ようやく微かな笑顔を取り戻しつつあった。
一方で、そのナターシャが裏切ってしまったアンドレイの妹マリアは。長年自分を虐げてきた父が、痴呆になった末に亡くなるのを看取る。
そのモスクワに、とうとうナポレオン軍がなだれ込む。
避難。混乱。暴徒。狂気。無政府状態。
逃げ遅れたアンドレイの妹マリアは、農奴たちに背かれ危機一髪のところを、青年士官に救われる。それは、ナターシャの兄、ニコライだった。
劇的な出会い。二人の間に芽生える、恋愛感情。
だが、ニコライには、幼馴染の許嫁である、ソーニャがいる。どうするどうなる。
ナポレオン軍の砲弾が、アンドレイの体をえぐる。瀕死の重傷。
ロシア軍は、大いに傷ついてモスクワを放棄する。
ナポレオン軍も、大いに傷ついて、飢えた狼のようになってモスクワを略奪する。
貴族であるナターシャの一族は、荷馬車の列を組んでモスクワから逃走。葛藤の末に、前線からの負傷兵たちを載せるために家財を投げ打って。
その、負傷兵の中に、重傷に喘ぐかつての婚約者・アンドレイがいることを知らずに…。
ニコライも、自分の部隊とともにモスクワから撤退。アンドレイの妹マリアを守りながら…。
そして、悩める優しき大富豪ピエールは、全てを投げ打って失踪。
混乱の廃墟となったモスクワ市内に姿をくらませてしまった。
彼を突き動かすのは。
「僕は、ナポレオンを暗殺する」。
だが、火災で地獄と化した街で、見知らぬ少女を助けてしまったことから、フランス軍に逮捕されてしまう…。
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ひとりの英雄もいない。
誰もが勇敢であり、卑怯でもあり。
戦場は歴史家が英雄の功績とするような分かりやすいゲームではなく。混乱と狂気の中で砲弾に突然肉弾を抉られる。自分が放つ砲弾も、敵陣で同じことをする。
貴族も、平民も、農奴も、自分たちの生活の、日常の全てを一方的に破壊される。
どうして戦争が起こるのか。
戦争は無くならないかもしれない。
戦争を絶対悪として棚にあげることも、リアリズムではない。
でも、これを読んで戦争を美化できるヒトがいるんだろうか。
誰かが理不尽に殺されて、誰かを理不尽に殺すことを、誰が望むんだろうか。
…そんなレクイエムの一方で、大映ドラマもハーレクインロマンも泣いて吹っ飛ぶ疾風怒濤の恋愛物語、冒険のジェットコースター。
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戦場の男たち、銃後の女たち。
硝煙を知らぬペテルブルクの貴族たち。もはや痛烈な喜劇である政治と支配者のエゴと錯誤。
ままならぬ混乱の波に翻弄される、ナポレオン、皇帝たち。
極大から極小へ。ロマンスから生死へ。
魅力的な脇役たち。一場面だけの人物たちもキラキラとギトギトと、人間臭さを放つ。
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章が終わるたびに、巻が変わるたびに痛感するのは。
ひっぱりが上手い。
極上のエンターテイメント。
重傷のアンドレイは、生き残れるのか?
裏切られた美少女ナターシャと、再会するのか。許せるのか。
アンドレイの妹アンナと、ニコライの運命の出会いはどうなる?
ニコライは、幼馴染のソーニャを捨てるのか?捨てられるのか?
ナターシャへの愛を秘めて、銃を懐にして無法都市モスクワに残ったピエールの運命は?フランス軍に逮捕?どうなるの?
避難民の狂奔の流れの中で、モスクワに残るピエールの姿を、馬車の中からナターシャが見つける。一瞬の交錯。別れ。震えるほどの名場面。
いよいよ、完結編の第4巻へ。 -
Posted by ブクログ
「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」
「ハチミツとクローバー」「3月のライオン」
「天然コケッコー」「まんが道」
「リアリティ・バイツ」「卒業」
「北の国から」「ふぞろいの林檎たち」
そんな名作たちを、ぎゅっと濃縮したような味わい。
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あれから、たったの数年…10年も経っていない。
若く、世間を知らず、獏とした不安と、根拠のない傲慢に包まれて。
家族や友人を中心とした狭い人間関係が、世界の全てだと思っていて。
傷つきやすく、すぐに無邪気な幸せと笑顔に戻れた、軽やかに危なっかしく踊りながら、てぶらで疾走する。そんな若者たちが。
社会に出る。社交をする。新しい人間関係。変わっていく仲間。変わっていく自分。老いていく親。
人を愛して、愛されて、愛されず、孤独と金銭と地位とに悩まされ。居場所を見つけたり、居場所を探したり。享楽に溺れ、自堕落に目をつぶり、「わたしはまだ、本気出してないだけ」。取り返しのつかない失敗と、消えない傷を負って。
「こうありたい」と思った自分が、「そうなれない」ことにぶつかって。あがいて、受け入れて、いじけて、立ち直り。
親と、上司と、ぶつかり、あるいは離別して。
永遠の友情と思ったものが、ただの甘えた馴れ合いだったことを思い知らされて。
そして、深い闇を、ヒトの悪意を知らされて。自分の悪意も見つけてしまって。
裏切り、裏切られ、比べられ、順位をつけられ、金や地位や美貌という暴力に侵されて。
つるつるしていた輝きを失い。手で触れる全ての醜さと無秩序さと不条理さを思い知り。
その代わりに、目に映る全ての愛おしさと美しさを再発見して。
そうして重く苦しく、おずおずと怯えながら、それでも立ち上がって前を向いて歩き出します。若かったあの日には、知ることも無かった大きな勇気を、ポケットに入れて。
そしてもう、あの日のように、だらだらと毎日のように会うことはなくなった、数少ない本当の友人との想いを胸にして。
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うーん。なんて豊穣な「戦争と平和」。第2巻。
もうこれで全編の半分が終わってしまっただなんて、寂しい限り。
ずーっと読んでいたいような小説。
かつて「戦争と平和、世界最高の小説」と簡潔に評したのが、確か井上ひさしさんだったか。
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以下、長々と、完全に自分のためだけの備忘録。
当然ネタバレです。
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第1巻の終わりは、アウステルリッツの戦いでした。
主人公は大まか、3人の若い男たち。
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ピエール・ベズウーホフは、庶子からまさかの財産相続を経て、夢見がちで不器用で女にもてない青年だったのが、一夜にしてロシア有数の資産家になった。
翌朝から彼の周りには手のひら返しのチヤホヤモード。
全ロシアが、全ヨーロッパが彼に敬意を払い、彼を賞賛し、彼との婚姻を望んだと言っても過言ではなく。
その中で、ひときわ名門で美貌なエレンと結婚。それも、周囲に状況を作られて押し切られたような。
本人は、彼女を愛しているつもりだったけれど、遊び好きでパーティ好きでイケメン好きでプライドの高いエレン。結婚は上手く行くはずもなかろう…という感じで1巻終了。
アンドレイ・ポルコンスキイは、貴族の長男で軍人で、知的でイケメンで実務家で、ピエールの親友。
ありきたりな妻との結婚生活と、社交界に倦み、戦場のリアリズムを求めて司令官付きの優秀な副官として従軍。
アウステルリッツの戦場で勇戦、だが敵弾に倒れて捕虜となる。
信じていたロシア軍の大壊滅とともに倒れた彼が見つめたアウステルリッツの青空は、アンドレイに全てが虚しく儚いという幻滅を味合わせてしまう。
ニコライ・ロストフは、同じく貴族の長男。より若くより活動的で、より知的ではない。お坊っちゃん。素朴な憧れとプライドで従軍すると、初陣で何もせぬまま馬を撃たれ落馬負傷。だが、「奮戦した名誉の負傷」と他の多くの将校と同じように嘘をついて去勢を張っている。
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1805年のアウステルリッツの敗戦後、欧州の国際政治状況は混迷の末に、大まかに言えばロシアは敵だったフランス・ナポレオンと同盟することに。
そして、かつて同盟してナポレオンと戦ったイギリスを敵に回す。
ナポレオンが宿敵イギリスに向けた経済戦争、「大陸封鎖」に加わります。
それから5〜6年の間に、トルコなど各地でロシアは戦争を続けながら、皇帝アレクサンドルは、今風に言うと「民主化政策」を選択します。
ルソーは1700年代に既に言論界に共和制、民主化の1石を投じています。フランスは1789年〜ナポレオンの治世に至るまで、共和制、封建制の打破を進めています。イギリスはいち早く産業革命を成し遂げ、植民地を効率的に搾取する経済政策優先の為に、自主的に王権制を形骸化させています。その植民地の中でアメリカは1776年に独立宣言、「王のいない国」を披露しています。
物語の1805年〜1810年は、欧州の大勢はまだ王様がいる封建制、ロシアは農奴で溢れていましたが、知的な進歩派、特に若者たちの精神は共和制を眩しく見上げていたんですね。
と、言う1805年〜1811年くらいかな、が、第2巻の時代背景です。
若者たちは、それぞれに傷ついて。
愛情。恋愛。暮らし。結婚。家計。仕事。家族。
などなどのリアリズムの茨に絡め取られもがいて。
血を流しながら、否応なく大人になっていきます。
200年後の、日本という国でも、全く変わらない若者たちの物語。
そして、どうやら第3巻から、1812年のロシア戦役。
70万の兵を率いた軍事天才ナポレオンを迎え撃ったロシア軍が、100万を超える死者を出し、モスクワを燃やし尽くした果てに、冬将軍と共に、不敗神話を誇るナポレオン軍を壊滅させた、悲惨な戦争に突入していくようです…。
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ピエールは、兵役からも仕事からも貧乏からも、自由な身の上。
社交界の女王に君臨する美しき驕慢な妻とともに、連日のパーティに社交に馬鹿騒ぎに明け暮れます。
ですが、根が真面目なピエールは、そこに染まりきれず。
常日頃、人生とロシアと人間の真実について右往左往して悩み明け暮れています。
今風に言えば、「飲み会でノリが悪い面倒な生真面目男」なのです。
更に若くして巨万の金持ちになってしまったので、なんでも周りがやってくれます。彼には、何もやることがないのです。そして、現実的な政治や外交の泥水に身を投じるつもりもさらさらないんです。
なんて純粋で、なんて心優しい、そしてなんて面倒くさい実務能力がゼロの青年なんです。
そして、あっというまに妻と心はバラバラになります。
妻エレンは、難しいことを考えるのは好まず、社交界に君臨し、悪ノリと虚栄と華美と色恋と肉欲に、あくなき飢餓を持てる人なんです。
エレンはどうやら、色男と浮名を流し、ピエールは俗悪な社交界では、ひそひそと、「知らぬは亭主ばかりなり、あの変わり者の大金持ち」と蔑まれるポジションに。
ピエールがまだ財産を持たない青年だったころの、バカ遊び仲間であるドーロホフが、どうやらエレンと乳繰り合って、彼のことを笑いものにしている。
ピエールは、頭に血が上ると止まらない激情家。とあるパーティで勝手に激怒してドーロホフに決闘を申し込む。
決闘の日。ピエールはもう、自分も含めて全てが愚かに感じ、虚しくなっています。それでも、決闘は行う。
ドーロホフは、ピエールとは逆タイプ。ちょいワルで、クールで、危険な女遊びも朝飯前。決闘も何度もしたことがあります。
どう考えてもピエールが死ぬだろう。
ところが偶然、ピエールが遠距離から適当に打った1弾がドーロホフに命中。重傷のドーロホフが至近距離から打った一撃は、当たりませんでした。
(この場面では、ドーロホフ側の立会人としてニコライ・ロストフがいます。瀕死の手傷を負ったドーロホフがニコライに、母と妹のことを話す場面が、泣けます。ピエール側から感情移入して読んでいた読者は、ドーロホフが憎くてたまらないのですが、ドーロホフにはドーロホフの人生とドラマがあるんだ、と意外な背負投をかけられた気分。小説家トルストイ、半端ないです。圧巻です)
ピエールは、財産の半分を放り出して、妻の下を去ります。
そして、人生の真実と生きがいを求めて、「自分探し」の放浪の末に…。新興宗教に走ってしまうのと同じように(笑)、フリーメーソンに入会します。
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フリーメーソンというのは、発祥は色んな説がありますが、中世から存在した「キリスト教に縛られない秘密っぽい友愛組織」なんですね。巨大な陰謀組織みたいな説もありますが、恐らくそれは面白おかしいワイドショー的な誤解です。何より、基本はその町や村の地域単位でしかありません。
教義はご立派です。そして、ある種の秘密結社であることが謳われます。ですが、実態はまあ、今で言うとロータリークラブとかライオンズクラブとか、商工会議所とか青年会と似たようなものですね。
ジョージ・ワシントンとかアメリカの独立の騎士たちがほぼ全員フリーメーソンだったそうですね。
江戸時代、西郷隆盛さんの時代から鹿児島にあった青年会組織とか。そういうのは日本でも各地に必ずあります。
それから、例えば海外ドラマの名作「アボンリーへの道」では、近代初期のカナダの田舎町でも、青年男子限定の秘密結社というのが出てきますが、秘密の儀式があっても要は大人のお遊びで、一種の自治組織、同好会みたいなものです。
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ピエールはフリーメーソンの活動に熱中して、綺麗事の教義に基づいて、自分の農地の農奴を解放しようとしたり、色んな制度改善や慈善事業に熱中します。
この興奮と理想を高らかに謳い描きながら、やがて彼はそれに飽きていきます(笑)。そして、取り巻きがバキバキとそれを有名無実化して適当に誤魔化していきます。でもお坊っちゃんピエールはそれに気づきません。「ああ、自分は素晴らしいことをした」と思いながら、自分で何も手がけないのですぐに飽きてしまいます。
やがてまた、俗物な妻エレンも合流して、振り出しに戻ったような無為で虚しい酒と馬鹿騒ぎとパーティ三昧。ちやほや取り巻きに囲まれ、「俺はまだ本気出してないだけさ」と独りごちる明け暮れ。
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ニコライ・ロストフは、「軍」という社会に自分の居場所を見つけます。そこでは、あまり難しいことを考えることもない。苦しいことも辛いことも怖いことも、仲間とわいわいと楽しめます。金を使う暇も無く、社交に疲れるわけでもなく。戦闘以外の時間(実はこの方がずっと長い)は、マッチョな男子校的な悪ノリの遊び、ゲーム、ギャンブルの馬鹿騒ぎ。軍の規律は団体心理の美学に酔わせてくれます。
これはもう、完全に職場グループに居場所を見いだせた、ある種、幸せな若手マッチョ男性会社員の生活なんですね。
なんですが、いくつかの問題が、幸せなニコライにも訪れます。
大好きだったマッチョ上司は、組織の細かい規則に揚げ足を取られ、失脚します。
たまに休暇で実家に帰ると、従姉妹のソーニャが彼を愛して、ラブラブ光線で永遠の愛を求めます。だけど、モラトリアムを楽しんでいるニコライは煮えきらず結論を先延ばしにします。
(ソーニャはどうやら両親を亡くして財産も後ろ盾も持っていません。ニコライの実家に寄生しているんですね)
そして、ニコライの実家、ロストフ家は、商品経済の緩やかに波に対応できず、昔からの杜撰な経営で、資産が先細りなんです。なんですが、ニコライの父はもう老いて、贅沢できらびやかな生活を何も変えることができずに、頭を抱えるばかり。
そう、両親は、金と財産のために、息子のニコライに、資産家のお嬢さんと結婚してほしいのです。寄生している一文なしの従姉妹ソーニャとの結婚に反対です。
(ここのところで、人の良い両親は、「自分たちの金のために」とははっきり言いたくなくて、言えないんですね。まず自分自身を騙して、色んな理由を言います。その卑劣さ、惨めさ、ずるさが、すごく人間くさい…痛い…)
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そして、ピエールと決闘して負傷した、ドーロホフ。
ドーロホフは恐らくそこそこの財産のあるそこそこの貴族で、軍人。ニコライ・ロストフの軍人仲間なんです。
負傷の癒えたドーロホフは、ニコライの実家、ロストフ家に出入りしているうちに、なんと。
ニコライに一途な愛を貫く、資産の無い従姉妹ソーニャに、惚れしまうんですね。結婚を申し込みます。
ドーロホフは遊び人のイケメンだけど、悪人ではないし、社交界の、貴族会の、れっきとして一員。資産の無い孤児ソーニャには、「良い縁談」なんです。
ところが。
ニコライへの愛を貫くソーニャは、断ってしまいます。
そして、ニコライとドーロホフの友情も終わります。ドーロホフは得意のトランプ賭博で、復讐のようにニコライを大負けさせます。
ここの場面、ニコライが意地とプライドからずぶずぶと、足元が崩れ落ちるようにギャンブルに飲み込まれていくありさま、これも圧巻です。レフ・トルストイさん、絶対、ギャンブルで破滅寸前までいったことがあるんだろうなあ…。
実家の窮状を見てみぬふりをして、軍での暮らしを謳歌してきたニコライ。
ですが、両親から「このままでは破滅だから、家計、領地の経営をみておくれよ」という泣きが入って。長期休暇で実家に帰ります。
ここでは、傾きゆく実家の中で、ニコライ、妹のナターシャ、従姉妹のソーニャの3人を中心に、家族の温かい時間が描かれます。
偶然のノリで盛り上がってしまう仮装パーティー。無邪気で温かい時間。そんな中で、ニコライははっきりと、「ソーニャを愛している」ことに気づきます。そして、プロポーズ、婚約。
この場面も、執拗な描写の積み重ねで、「大人になりたくない青年ニコライが、なにげない時間の中で、大人への階段を一歩上る」という穏やかな感動が、物凄く鮮烈でした。
しかし。ニコライがソーニャと結婚するということは。
ロストフ家の家計としては、唯一破滅から救われる可能性、「長男坊の立派な軍人ニコライが、資産家の娘と結婚する」という手段を失うことを意味します。老いた両親は、狂乱のように反対します…。
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アンドレイ・ポルコンスキイ。
アウステルリッツの悲惨な敗戦で行方不明になったアンドレイ。
長男坊の帰還を待つ、実家。名門貴族。
老いた厳格な元軍人の父。容貌が醜く生涯独身を覚悟して、キリスト教の信仰に生きる妹マリア。そして、妊娠中のアンドレイの妻。
皆、「ああ、どうやらアンドレイは戦死だ」という、言葉に出来ない絶望の中で、アンドレイの妻の出産を迎えます。
そして、赤ん坊が、男の子が生まれ落ちた夜に。
長く捕虜生活を送ったアンドレイは、実家に帰還します。
喜びもつかの間。その同じ夜に、長男を産み落として、妻は死んでしまいます…。
アウステルリッツで地獄を見て、全てに虚しくなったアンドレイ。
領地に引っ込んで、公務を最低限に拒否。
戦場で負った傷を癒やしながら、赤ん坊の世話と領地経営に淡々と暮らします。それまで、ロシアを背負って立つような、スーパーエリートだったのに。
そんなアンドレイの下を、「永遠の自分探し」にさまよう、親友ピエールが訪れます。数年ぶりに抱擁しあうふたり。人生について、愛について語り合い、議論します。夢想家のピエールを鼻で笑いながら、ピエールの無垢な心と、温かい友情に打たれたアンドレイ。
アンドレイは徐々に人生に前向きさを取り戻します。
笑っちゃうのは。
ピエールが大騒ぎして立ち上げながら、竜頭蛇尾の尻すぼみに挫折した、「自分の領地内の農奴を解放し、福祉を充実させ、それでも収穫を落とさず、むしろ経営を上向きにする」という、先進的な共和主義風の大事業。
これを、ピエールに触発されたアンドレイが、自分の領地内で、サックリアッサリと成し遂げてしまいます。イケメンさんな上に、実務的な処理能力、政治感覚、禁欲さ、自律心、リアリズム、全てにおいて、「デキる男」なんですね。
徐々に、人生に前向きになっていくアンドレイ・ポルコンスキイ。
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ここから、3人の主人公、3つの一族。ベズウーホフ家、ロストフ家、ポルコンスキイ家。3つの世界が絡み合って。
第2巻の怒涛の終盤戦が始まります。
アンドレイ・ポルコンスキイは。たまたまロストフ家を訪問した際に、(このとき、ニコライは不在でした) ニコライの妹のナターシャと出会います。
第1巻ではまだ12歳くらいだったやんちゃな娘っ子は、美しい思春期の女性になっています。活発で無邪気で明るくて美しい。みんなに愛されて育ち、聡明で、大胆で、ダンスが上手くて、歌が上手くて、世間知らずで、すれていない。
そんなキラキラしたレモンジュースみたいな(笑)、ナターシャと出会い、アンドレイは恋に落ちます。愛し合います。
プロポーズします。
(多分ですが、ナターシャが17歳、アンドレイが30歳とか、そんな感じだと思います)
アンドレイは、立派な一門の長男で、出世を約束された秀才で、クールでイケメンで、妻を亡くしたちょっと影のある男やもめ。社交もトークもダンスも礼儀も、全て一流の男なんです。(ピエールとは違って)。全ロシア社交界でも、「娘を嫁にやりたい立派な男リスト」の上位に入るんです。
ロストフ家はOK。ナターシャ本人もOK。
ですが、アンドレイのポルコンスキイ家は、ナターシャのロストフ家より、名門らしく。老いた頑迷なアンドレイの父が、「一年待って、戦場の傷を外国の保養所でちゃんと治して来い。一年後でもお互い気持ちが変わらなければ、認めよう」と…。
(脇筋ですが、アンドレイの妹のマリア。不美人で生涯独身を覚悟して信仰に生きる、そして家族への愛に生きる人です。アンドレイの息子の面倒も見ています。このマリアが、「自分と正反対の個性を持つナターシャのことが、生理的に好きになれない」という、どろどろした内面と戦います…。この辺りの描写も、唸ってしまうくらい、深い…)
言いつけ通り、海外に去るアンドレイ。
あみん、ぢゃないですが「わたし、待つわ」と健気なナターシャ。
ところが。この1年が、悪魔の歳月でした。
酸いも甘いも味わい尽くし、戦場の死の恐怖、結婚の幻滅、虚無からの再生、妻の死、孤独な捕虜生活… 色んな状況を生き抜いて、騙し騙され、人の世の美醜を知ったアンドレイは、良いんです。
10代のナターシャには、この1年が不毛で辛い。
無為で悲しい。
手紙だけでは満足できない。
疑心暗鬼になる。躁鬱になる。
そして、たまたまなことで、社交界デビューもしてしまう。
若い、美しい、自信家で、恋に恋するお嬢様は、悪い狼たちの甘い餌だったわけです。
ピエールのベズウーホフ家。その妻の驕慢享楽家、エレン。
その兄のアナトーリというのが、この兄にしてこの妹あり、という、身を持ち崩したヤクザな遊び人なんですね。
高級貴族の出身で、一応軍務にもついていましたが、不良。ドンファン気取りで女遊び、火遊び。社交界では崩れた爛れた若者として有名なんです。父親からは名家の令嬢との結婚を強要されていますが、のらりくらり。そして隠していますが、かつてポーランドで地元娘と遊んで、結婚したことがあるという、脛に傷持つ身。教会的な、正式な離婚はしていないんです。無論、妻のことは投げ捨てて、独身として悪い仲間と日々遊んでいます。金がありますから。
現代風に言うと、勝ち組の息子で、名門の大学生で、サークルの悪友とレイプ寸前というか、実質レイプのような女遊びとかしてゲラゲラ笑っているような不良くんです。
この不良くんのアナトーリが、「あのナターシャっていうの、俺が絶対、騙して落として妻にして弄んでやるぜ」みたいな計画を立てます。
この悪党の心理も、トルストイさん、ぞっとするほど克明に描くんです。恐らく、きちんと家族から愛されたことがない。自分のことも愛していない。どこか刹那で破滅的。女遊びの冒険が、マッチョさが、自分のプライドなんです。それについて、周りがどれくらい傷ついて不幸になろうが、「知ったことか」と悪魔的に高笑い。
どこか、破滅願望なのか。長い歳月の先行きなんか、計算していない。気にしていない。最後には親に頼ればなんとかなる。
二枚目で美しく優雅な不良くん、アナトーリ。純情な恋に落ちた青年を演じて、ナターシャに言い寄ります。
「許嫁?知りません。あなたが美しすぎます。返事を下さい。イエスか、ノーならば、哀れな僕は死ぬしかありません。僕は今まで不良でした。今はあなたの愛の奴隷です」
心打たれるナターシャ。のりで、キスまで許してしまいます。アンドレイとも、キスまでしかしていないナターシャ。おぼこです。ウブです。スキンシップにすぐ動揺します。
「ああ、なんて素敵なアナトーリ」。
影で悪友とせせら笑っている、アナトーリ。
もうこの辺、心配で心配でたまりません。
周囲に知れます。
ナターシャの親友ソーニャ(ニコライ・ロストフの許嫁)、親戚などが、大反対します。「あいつは名うての不良、遊び人だよ。騙されているんだよ」。
ところが、このあたりが、なんだか異様にリアルっていうか凄いなあと思うのが。
ナターシャは、ブチ切れで意地になるんですね。
「みんなあの人のことを誤解しているのよ。あの人は心のきれいな人よ。あたしは知っているわ。あたしだけが」
(実際は、三回くらいしか会ってないんです)
暴走して意固地になる、10代後半の若者の愚かさ。
ざらざらした不吉な手触り。
すごい、リアル。
さあ、不良のアナトーリ、ここまでは思い通り。
悪友たちと、ナターシャを拉致して(本人の協力の下に)、田舎か海外に逃亡してそこで弄んで、場末の教会で結婚して、一生をめちゃくちゃにしてやろう、と駆け落ち計画を立てます。
そして暴走するナターシャはそれに同調し、アンドレイに宛てて「アナトーリを愛しているから、あなたとの婚約は破棄します」という決定的な手紙を出しちゃいます。
駆け落ちの夜。もうドキドキです。
ところがこれは、察した親戚の叔母さんの堅実なブロックで、未遂失敗に終わります。
でも、ナターシャは愛に盲目、家出寸前です。
ここで登場するのが、社交界の異端児、心のきれいな無用者、我らがピエールです。
ピエールは、ふらふらしていますから。アナトーリは義理の兄弟に当たるし、アナトーリの不良具合はよく知っているんです。若い頃は一緒にバカをやっていた間柄。
ピエールは以前から、純粋なナターシャのことが可愛くて、大好きで。ナターシャも変わり者のピエール、許嫁アンドレイの親友ピエールのことは好きなんです。事態を知ったピエールが登場。アナトーリの悪行を明かします。他ならぬピエールの言葉。ようやくナターシャは自分が遊ばれていた、笑われていたことを悟ります。そして、アンドレイに物凄く侮辱的なことをしてしまったことに気づきます。
ピエールは不良アナトーリに激怒して、街から出ていけと宣言。
金持ちの義理の兄弟の言葉に、アナトーリは従って、街から去っていきます。
危機は回避されましたが、汚名は残ります。
社交界では、駆け落ち未遂の話は広まります。
健全で美しい美少女ナターシャの名前は地に落ちて、笑い者。
婚約者を奪われてフラレた、アンドレイも屈辱的な評判になります。
そして、その頃に、外地での保養を終えて、アンドレイがロシアに戻ってくる…。
激怒。憤怒。
当然、婚約破棄を受け入れて、ナターシャと絶交。
ナターシャは、取り返しのつかない愚行を悔い。アンドレイの顔に泥を塗った罪悪感に苛まれ。自殺未遂…。
そんなげっそりしたナターシャの手を握って、ピエールが言います。
「僕がこんな僕ぢゃなかったら、今すぐあなたにプロポーズしたいくらい、あなたは素敵な人です。人生はこれからです」
※ピエールは、破綻しているとは言え、立派な妻帯者。
そんなピエールの言葉に、微かに微笑んだようなナターシャ…。
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と、これで、第2巻終了。 -
Posted by ブクログ
オシャレやファッションが好きな人は「オシャレis我慢」と言うそうです。寒かったり、ちょっとキツかったりするのを、我慢しないとね、ということなんでしょうね。
ホントのところで言うと、読書でも何でも、色んな趣味も、やっぱり我慢が大事です(笑)。ほんとにヨロコビを得るためには。
(ってまあ、半分冗談ですけど、そういうと人間関係も仕事も家族関係も、恋愛も、なんでもそうなのかも知れませんねえ…)
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やっぱり19世紀の小説ですから。
うーん。冒頭は若干入りにくいかもですね。
僕の個人的な方法論としては「もう、4割くらいはなんだか分かんないけど、分かんないまま読み飛ばしていく」というのが常です。
1巻だけで文庫本670ページくらいなんですが、400ページくらい過ぎると、俄然面白くなってきました。
そこまでは、我慢。
我慢があるから、大きな喜びがありますね。
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実に面白い小説。
トルストイさん、凄い。凄いです。
以前「アンナ・カレーニナ」も面白かったのですが、コッチのほうが面白い。
おそろしい小説家ですね。トルストイさん。
この人とドストエフスキーさんがいたんだから、19世紀ロシア文学っていうのは、奇跡のような輝きですね。
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お話は、1804年くらいから始まります。
アウステルリッツの戦いの年です。
アウステルリッツの戦いというのは、ナポレオンと、「反ナポレオン同盟」との、関ヶ原さながらの野戦、一大決戦。ナポレオンの圧勝に終わっています。
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1789年が、フランス革命が始まった年です。簡単に言うと、それまではヨーロッパ中で、
「王様とか皇帝を頭にして、貴族が居て、貴族が貴族だからという理由で巨大な土地や財産を所有して、世襲していて、その他はほとんど貧しい農民でした」
というのが当たり前の時代だったんですね。
戦争っていうのも、貴族たちが大まかやっている訳です。その銃卒とか下僕とかはまあ、庶民ですが、「徴兵制度」って言うのは無いんですね。
そして極端に言うと、戦争するのも、「まあ春からだよね」みたいな暗黙の了解があったり。今から考えると牧歌的だったわけです。
これが、1500年代〜1700年代にかけて、色々変わってくるわけです。
例えば、銃が出来る。大砲が出来る。印刷技術。そういう科学の側からの変革もあります。
蒸気機関が出来る。工業が栄える。
イギリスでまずそれが発達して、植民地を持っている、ということの旨味が飛躍的に変化してきます。略奪して奴隷を奪うだけぢゃなくて、「自国の製品を売りつける。巨万の富を得る」という国家経営です。産業革命です。
そうなると、「商人」「都市生活者」が発生します。都会で知的活動をして、文字を読む人々です。同時に都市の時間労働者も発生します。貧民、治安の悪化、などなど。
富裕層、貴族階級を相手に、活版印刷が出来る。プロテスタントが台頭する。ジャーナリズムが出来る。
そして、そんな流れの中でとうとうフランス革命が起こります。太陽王ルイ14世以来、文化や品格の面では欧州の勝ち組であり、あこがれであったフランス。そのフランスで共和制が産声を上げます。「自由、平等、博愛」という流れが出てきます。
※一方で、アメリカ。僻地であったゆえに、王侯貴族の既得権という歴史の積み重ねの重みから自由だったんでしょう。言ってみれば商人たちの都合から、いち早く「世襲の王権が無い国家」と実現しています。アメリカ独立宣言1776年ですね。共和制国家誕生。この影響も少なくなかったと思います。
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フランス革命に、ヨーロッパ全土がびっくりします。
ここで興味深いのは、ドイツもロシアも「共和制っていうのは困るよ」という、切れば血が出る感情がある訳です。これは、一時期の「とにかく共産主義とか社会主義とかっていうの考え方自体が困るんだよ。思想自体を悪として弾圧しなきゃ」という考え方と似ていますね。あるいは、今でも、というべきか。。。
ところが、この頃に産業革命をいち早く進行していて、いちばん金持ちで、いちばん強い海軍、軍事力を持っていた、イギリス。このイギリスは、おそらく産業革命という、国家自体のヤクザ商法的な経営を滑らかに行うために、ドイツやロシアや革命前のフランスとは違って、「王様の絶対君主制」みたいなものを、内部で緩やかに解体していました。
言ってみれば、王様はいるんだけど、実態は、今の日本みたいに王様はほぼお飾りで。国家の経営自体は議会や政治家が、世襲ではなく行っていたんですね。
*ただ一方で、市民革命をハードに行わずに移行しちゃったので。巨万の富は一部の事実上世襲の貴族(あるいはかつて貴族だった人々)が独占し続ける、という流れが21世紀現在まで強く残ってしまっているんだと思います。日本の「勝ち組負け組の緩やかな世襲状態」よりも、シビアで強烈な「階級」が現在でも事実上、ありますね。
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それはさておき閑話休題。
小説「戦争と平和」。
1789年にフランス革命がはじまります。
大まかに言うと、その後、ドイツ、イギリス、オーストリア、ロシアなどが、続々と革命を潰すためにフランスと戦争状態になります。
混乱の10年の後、フランスは、ナポレオンが戦力を握ります。皇帝に即位します。ここンところが僕らにはわかりにくいんですが、ナポレオンは皇帝に即位したんだけど、行政改革、国家の仕組みのガラガラポンについては、「フランス革命」を遂行したんですね。ただ、そのために強力な独裁権力がないと、革命を進行できない。なので、皇帝になっちゃった。
というわけで、「自由平等博愛を掲げる革命皇帝ナポレオン」なんです。
だから、欧州各国との敵対は続くんです。
いちばんお金持ちの、ナポレオンの宿敵、イギリス。
ナポレオンはイギリスに進行したかったんですが、なにぶん、とにかくイギリスの海軍が強すぎて、ドーバー海峡を渡れない。
その代わり、陸戦では、天才軍事リーダーであるナポレオンは、大まかに言うと百戦百勝、負け知らず。
イタリアもオーストリアもプロイセンも押し返し跳ね返し、どんどん征服していきます。そして征服地では、「王権絶対封建制」から「共和制」へと行政転換していきます。だから、各地で貴族階級はともかく、商人階級市民階級、それからインテリ貴族の間では、「ナポレオンってやっぱ、かっこいいよね」という意見もあったわけです。
ナポレオンが皇帝になった翌年。1804年。オーストリア、プロイセン、ロシアの「反ナポレオン同盟」は、イギリスを仲間にして、ナポレオンと一大決戦を迎えようとしています。決戦の場所は、プロイセンかオーストリアか。
という状況でのロシアで始まるのが、物語「戦争と平和」。
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ピエール・ベズウーホフ。
ロシア有数の金持ち貴族の、庶子。大柄で肥満でがさつで、女にもてません。
生きるには困らないくらいのささやかな財産を与えられて、無軌道な青春、自分探しの放蕩を繰り返していた、インテリ青年。
だがしかし運命は一転。まさかまさか、父が死んだときに、並居る相続権利者の中で、ピエールに全てを残したのです。
一夜にして、ロシア有数の資産家になります。
周りの扱いがころっと変わります。美女が群がってきます。みんなお世辞を言います。
理知的で悩める青年だったのが、一気にスポイルされて、有頂天の思い上がりになっていきます…。
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アンドレイ・ポルコンスキー。
恐らくロシアで20人には入るんでしょう、という名門貴族の息子。嫡子。エリート。
その上、頭が良くて度胸があって、男っぽくって割りと寡黙で勇気があって。イケメンです。そして軍人です。
そしてこの人は、知性派なんですね。ピエールとも仲良し。ピエールよりよほど、人としては、弱くない。自分を律する男。
当然、結婚(あるレベル、政略結婚=当時の当たり前)しています。
さてこのアンドレイは、ロシア貴族社会の社交などの俗物具合、嘘にまみれた不薄生活がもう、たまらなく嫌で。若いし、むしろ戦場のリアリズム、潔さに惹かれています。
そして、若き将校としてメキメキ頭角を表しながら、決戦の戦場へ赴きます。血筋も良いですしね。素直な愛国心もあります。でも一方でナポレオンに憧れ評価している理性もある。そしてナポレオンのように、「祖国の英雄となる」ことに憧れる気持ちも強い。
このアンドレイは、混乱混沌の戦場、アウステルリッツの大壊滅の中で銃弾を浴びて倒れ…。
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ニコライ・ロストフ。
これまた大貴族の御曹司。蝶よ花よで坊っちゃん育ち。そんなに秀才でもなく、マッチョでもなく、高潔でもない、人間臭い二十歳です。
なんとなく周囲に流されて生きてきて、かっこいいなで軍に参加して、初陣。戦場のリアリズムに大翻弄されながらアウステルリッツの前哨戦で、何も活躍せぬままに落馬負傷して収容されます。
それでも、傷が癒えたら、大嘘の武勇伝を酒を飲んで自慢するような、ごくごくありきたりな、愛すべき弱い若者です。
可愛い利発な妹ナターシャがいて、その妹の大親友の従姉妹ソーニャと、恋愛中です。かわいいもんです(笑)。
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ものすごい量の登場人物が、雪崩を打つように続々と登場します。
もう、確実に覚えきれません(笑)。
そこンところは、放棄するしかないですね。もう、一晩寝ただけで、「あれ。この人はなんだっけ」みたいになります。
なんだけど、どうやら上記の三人がわかっていれば、なんとか物語にくらいついていけます。
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そして、面白い。
遺産相続、財産、立身出世をめぐる、どろどろした人間模様。
年配の男性の目論見。
年配の女性の欲望。
若者の都合。カッコつけ。身勝手。自尊心。無理解。残酷さ。理想。
女性のプライド、エゴ、優しさ。
美醜を巡る物凄い自意識、劣等感、優越感。
男性の野心、わがまま、傲慢。嫉妬。嫉妬と悪意を抱いての友情。成り上がり。没落。冒険への憧れ。ヒーローへの執着。英雄への心酔。
夫婦のすれ違い。
親子の確執。父権の高圧。母の愛という名のエゴ。支配が子供を歪める。
恋愛。恋に恋する恋愛。親子の妄執の愛。無垢な友情、しかし移り変わる情愛。兄弟姉妹の親愛。
打算とエゴの結婚、愛情。地位と名声と財産に裏ごしされた愛情。浮気。ロマンス。不倫。肉欲。
大きな視野を持つ者。冷笑的なもの。世論に流される人々。熱狂。集団心理。政治家の傲慢、金持ちのエゴ、指揮官の無能。
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そして「戦争」。
従軍経験、戦闘経験のあるらしいトルストイさん。
戦場の混乱。残酷。悲惨。熱狂。泥酔。荒廃。不合理。暴虐。友情。打算。
その中での良心。命令遂行の純粋。
殺し、殺される虚無。痛み。
そして、強烈な恐怖。
すごい。
司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」と比較すると、俯瞰的な部分があるのは似ていますが、それに加えて物凄い勢いと粘着質な執拗さで、読者を汚れと疲弊感と血の匂いと恐怖がびっしりと埋め尽くされた「戦争」の体温にまで貼り付けます。
「戦争」って、怖い。
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ものすごい小説だと思いました。
なんだかこう、比喩的に言うと「ここに全てがある!」ブラボー!。
人間模様の大舞踏会なんです。なんですが、ナポレオンという、小説上はあまり出てこない歴史を回転させる大英雄とその時代を描く大河ドラマでもあるんです。
なんだけど、言ってみれば複数のカップル、親子、兄弟の、怒涛の恋愛物語なんです。
読書の快楽。面白い。
新潮文庫で読んでいて全四巻なんですが、1巻読み終わっただけで、なんだか「読み終わりたくないなあ、ずっと読んでいたいなあ」と思ってしまいました。
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それにしても呆然とするのは、トルストイさんは40歳くらいでこの小説を書いているんですね。
どれだけ色んな高慢や絶望や恐怖や思考や観察を体験すると、こンなのが40歳で書けるんだか…。
この小説のピエールさんが、トルストイ自身の姿が投影されているそうです。こういう人、友人や家族として存在したら、面倒くさいだろうなあ(笑)。
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ちなみにトルストイさんは1828年生まれ。40歳くらいで「戦争と平和」書いていたそうなので、言ってみれば、「自分が生まれる25年くらい前の話を40歳で書いてる」訳です。65年くらい前の話。
微妙に、そのときの大人たちはみんな死んでいて、書きやすかったんですかね。
2016年現在に、40歳の人が、1950年くらいの話を書くようなものです。「小説 朝鮮戦争」とか「小説 毛沢東・蒋介石」とか。そういう感じですかね。
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岩波文庫の新訳で読むか、新潮で読むか悩みましたが、なんとなく新潮文庫で。
いまのところ、日本語の文章としてもさほど苦痛でもなく、なかなか名訳なんぢゃないかなあ、と楽しめています。 -
Posted by ブクログ
トルストイによる戦争論から始まる第三巻。
三巻は戦争とそれに伴う政治思考が多いです。
ロシア人名についてのメモ。
❖名前に男性形と女性形がある。
⇒名字の場合、(ボルコンスキィ家の場合)父と兄「ボルコンスキィ」、妹と妻「ボルコンスカヤ」
名前の場合、男性「アレキサンダー」、女性「アレキサンドラ」。男性「イリア」、女性「イリナ」など。
❖名前の中に父称(父親の名前)を入れる。
⇒(ボルコンスキィ家の場合)
父「ニコライ・アンドレーヴィチ・ボルコンスキィ」
息子「アンドレイ・ニコラーエヴィチ(ニコライの息子)・ボルコンスキィ」、
娘「マリヤ・ニオコラーエヴナ(ニコライの娘)・ボルコンスカヤ」
❖名前(洗礼名)には、愛称、省略形がある。
⇒リザヴェータは「リーザ」、ニコライは「ニコレンカ、ニコールシカ、コーリャ」、エフゲニーは「ジーニャ」など。
❖呼びかける場合。
「ニコライ・アンドレーヴィチ」と名前と父称で呼ぶのは、非常に丁寧な呼びかけ。
「ニコーレンカ、ニコールシカ、コーリャ」と愛称、名前の略で呼ぶのは、親しい間柄。
以外備忘録のためネタバレしています。
【ベズウーホフ伯爵家】
❖ピエール・キリーロヴィチ・ベズウーホフ伯爵(本名はピョートル):
二巻でアンドレイ公爵を裏切ったナターシャの献身的な友として支える。ナターシャが生きられたのはピエールの存在が大きいだろう。
ピエールはナターシャへの愛を自覚するが、そのためにロストフ公爵家からは距離を置くことにする。
その頃ナポレオン軍の攻撃は激しさを増す。ピエールも戦場を見る。
ついにモスクワ市民はモスクワを放棄して地方へ散らばる。
そんななかピエールはある決意を持ち、自分の家から出てモスクワ市に潜伏する…。
❖エレン公爵夫人:
二巻まではまあ普通のふしだらな上流夫人だったんだが、三巻では「むしろここまで行くとご立派(^。^;)」と言うくらいの不道徳っぷりを示してきた。
ピエールという夫がいるにも係らず、どこぞの王子とロシア高官にプロポーズさせ、離婚を禁じているカトリックにおいて自分が完全に正しい離婚と再婚をするにはどうするか、を画策したのだ。
道徳的にも宗教的にも恥じるべき行為をエレン本人はまっすぐな信念として自分が正しいと振る舞い、そのため社交界や宗教界まで彼女の味方に。
カトリック法王に真のカトリック教会への入会を許されるが、寄付金目当てと見抜いたエレンからは軽くあしらわれる。
道徳的には相当愚かな人間のはずなんだが、自分の損得を見極め自分を有利にさせる手腕は天性のものか。(~_~;)
さて、キリスト教の教派はよく分からないので、エレンの扱いがどのくらい名誉で特殊で腐敗なのか?
正教会の一つであるロシア正教会に属しているエレンの事をローマ・カトリックの法皇が認めますよ、ただしお金いっぱい寄付してくれればね、ということか?法皇(教皇)を抱かない政教派が法皇に認められるのは名誉なんだろうか、よく分からん。
【ボルコンスキィ公爵家】
❖アンドレイ・ニコラーエヴィチ・ボルコンスキィ公爵:
名誉を傷つけたアナトーリ公爵を追うためと、社交界から離れるために再度軍隊へ入る。アナトーリへの決闘の理由、自分の名誉、ナターシャへの思い、いちいち理屈が先に来るところがアンドレイの面倒くさいところ。
軍隊生活では一般兵士や農民たちからは「おれたちの大将」と慕われるが、貴族たちにはとことんイヤな態度で接する。
政治も軍事も農地改革もセンスはあると思うんだが、出世昇格とは真逆の理由で軍隊入りしたため、それらの機会を永久に失う。
激しさを増す戦闘でついに大怪我を負う。
怪我の痛みの中、アンドレイ公爵の心は深く内面を見つめ、神の愛を悟る。
そして瀕死の床でのナターシャとの再会…
三巻は戦闘や錯綜描写が非常に多いのだが、
そんななかでのアンドレイの漂う意識と彼の行き着いた想い、激しく愛し憎んだナターシャとの再会場面の美しさと言ったらない。
❖マリヤ・ニコラーエヴナ・ボルコンスカヤ:
父のニコライ・アンドレーエヴィチ・ボルコンスキイ老公爵の死を看取る。
死を迎える父の寝室で、父が死んだら自由になるのか?などと考えが浮かんでは懺悔する。
その後戦火に巻き込まれそうになったところをニコライ・ロストフ伯爵に助けられ、互いに好意を持つ。
えーっとこのときマリヤは27,8歳か?公爵令嬢にしては縁談がまとまらなかったですね。
【ロストフ伯爵家】
❖ニコライ・イリーイチ・ロストフ伯爵:
進軍途中で、マリヤ・ボルコンスカヤ公爵令嬢を助ける。
この「二人が出会った」という事実は社交界を駈け廻り、「さっさと婚しちゃえ!」な雰囲気に。
自分には婚約者同然のソーニャがいるんだよなあ…とちょっと思いつつ、経営破綻している我が家を考えるとボルコンスキイ公爵家と縁を結ぶのは魅力的だとも考えてみたり。
さて、アンドレイ・ボルコンスキイ公爵と、ナターシャ・ロストワ伯爵令嬢との婚約は両方の家から歓迎されていなかった。
しかし同じ家同士の縁組でも、ニコライ・ロストフ伯爵と、マリア・ボルコンスカヤ公爵令嬢なら歓迎、というのは、持参金の問題なのか??
❖ナターシャ・ロストワ(ナターリア・イリイニーシナ・ロストワ公爵令嬢):
二巻ラストは狂乱のナターシャだが、弟のペーチャと、ピエールの存在が助けとなり徐々に明るさを取り戻す。
以前よりも神に祈る。クリスチャンにおける謝罪と言うのは、相手に謝るのではなく神に許しを請うのですね。「神よ、アンドレイ公爵への裏切りをお許しください。そしてアンドレイ公爵とアナトーリ伯爵の心に安らぎが訪れますように」人間が自ら相手に侘びて安らぎをもたらせるのではなく、それができるのは神、というキリスト教の考え方です。
さて、ナターシャは三巻終盤で、瀕死のアンドレイ公爵の前に現れ、その足元で手を取り許しを請う。
❖ペーチャ(ピョートル・イリーイチ・ロストフ)
ナターシャの弟。ナターシャの生きる希望となっていた。
同じ名前のピエール(ピョートル同士)に憧れ軍隊に入ることを望む。
❖ソーニャ:
ニコライの事実上の婚約者だが、破産寸前のロストフ伯爵家ではその結婚は歓迎されていない。
【クラーギン公爵家】
❖アナトーリ・ワシリーエフ・クラーギン公爵:
アンドレイ公爵から逃げていたが、思わぬ場所で思わぬ姿で彼らは再開する。これぞ神のおぼしめしか。
【他の人たち】
❖クトゥーゾフ:
ロシア軍総司令官。
歴史家の評価は分かれているらしいが、トルストイはかなり評価している様子。
遠征先で作戦本部とした農家で、小さな娘さんから見たクトゥーゾフの姿が面白かった。軍人同士で「モスクワ放棄か?」を論じてる時に娘さんは「おじいちゃん(クトゥーゾフのこと)がんばれ」と思ってしまう。一見好々爺の面もあるのだろう。
❖ラストプチン伯爵
モスクワ総督。民衆を支配していると思い込んでいる施政者。
モスクワ放棄直前にナポレオン賛美者を勇壮な見せ場を作るための生贄として処刑する。