あらすじ
「そうだ、死ぬんだ!……死ねば全部が消える」。すべてをなげ捨ててヴロンスキーとの愛だけに生きようとしたアンナは、狂わんばかりの嫉妬と猜疑に悩んだすえ、悲惨な鉄道自殺をとげる。トルストイの魅力を凝縮した代表作であり、愛と理性、虚飾と現実、生と死、そして宗教と社会を壮大なスケールで描いた19世紀文学の最高傑作、ここに完結! 繊細かつスピード感あふれる新訳で。
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若き将校との許されない愛に走るヒロイン・アンナと、神を信じることができない地主貴族リョーヴィンの、交差しない二人の主人公の人生が描かれる。この大部の小説を通じて、トルストイは同時代(1870年ごろ)のロシアという国全体を描き切る野心を持っていたのではないか--そんな風に思える。
首都の貴族社交界の華やぎから田舎の農夫の草の刈り方まで、あらゆるディテールがおよそ想像で書くのは不可能な詳細さで描き込まれ、トルストイの筆致の巧みさに感嘆せざるを得ない。
しかしそれだけで終わってしまっては、この作品は最高の風俗小説であるという結論になってしまう。この作品を傑作ならしめる深みは、登場人物それぞれの苦悩や恐れにこそある。
といっても、その苦悩は観念的思弁的なものでなく、もっと俗っぽいものだ。アンナは愛を貫くために、この時代のロシアでは絶望的であった離婚を願う。やがてその願いが叶わないとなると、今度は愛人の愛が失われることを狂わんばかりに恐れる。リョーヴィンは、信仰を持てないことにひとり悩みながら、出産に苦しむ妻の姿に、思わず神の助けを求める。
こうした、諸生活の悩み苦しみ絶望、そこに同時代ロシア社会の矛盾が見え隠れする。そしてやはりこの作品はロシア全体を描き切ろうとしたのではないか、という思いが再び浮かんでくるのである。
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アンナが汽車に轢かれて自殺するシーンは、表現力が素晴らしく、まるで自分も死んでしまう気がして恐怖心が芽生えてくる。
線路の真ん中まで来て、汽車と衝突する直前、一瞬我に返り、「自分は何をしてしまったんだ!」と思ったのも束の間。すぐに「何か巨大なもの、容赦のないもの」が彼女の頭をドンと突いたのだった。
そのあとはと言うと、ヴロンスキーの喪失感、リョーヴィンの哲学的探究。
アンナの夫カレーニンが妻の浮気にどう対応するかと言うときにもキリスト教が影響を与えていたし、リョーヴィンにもキリスト教が根付いている(というか、後になって自分と宗教的価値観のすり合わせをしている)。
アンナの恋路ではなく、本当は宗教をベースとした哲学的思考実験と歴史について論じたいというトルストイが、最後に畳み掛けるように自由に書いているという印象を受けた。
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善をなそうという、素朴な信仰の大切さを訴えて終わる。理性の限界を悟った上で。人間くささは否定せずに。アンナの物語であり、リョービンの物語であった。その2人で対立されているのは、エゴイズムの解釈だろう。つまり、エゴに振り回されるか、エゴに誠実に向き合い続けるか。リョービんが絶大な人気や好感を誇るわけではないのがミソだ。
アンナの自殺の場面。そこに至るまでの焦り、怒りが延々と綴られ、自殺しか帰結がない描きだ。ヴロンスキーの時もそうだったが、死なないだけの浅さがそこにはあった。
ヴロンスキーが戦争に赴いてしまうのも、それが讃えられるのも、悲しかった。彼は後半、人格の深化が見られたような気がしたから。ここで展開される戦争論も読み応えがあった。
途中に出てくる、狂信的でオカルトな宗教とリョービンの疑いの末に肯定される素朴な宗教の対比も面白い。
最後に解説を読んでハッとしたのが、タイトル。アンナだけでなく、カレーニナという「夫」の苗字まで付けられていたこと。当時の結婚制度を含めた社会の中のアンナの物語とも読める。
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初トルストイ長編
幸せな家族はどれもみな似ているが、
不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。
圧巻の世界観
登場人物がみんな生きている
熱情や妬みに翻弄されていく貴族たち
確かに昔存在していた時間たちが蘇り、
そこに生きていた人間たちの鼓動が感じられる。
本筋だけを追っていけば、
今日目新しい展開は特にないのだが、
一つ一つの挿話によって、
人物像だけでなく、彼らの生活の香りが浮き彫りになっていく。
アンナとリョーヴィン
アンナは恥辱との戦いであり、
リョーヴィンは自己との戦いであった。
地に足をつけて、自分と対話しながらなんとか生きていく。
それって、いつの時代も通用する教訓なんだと思う。
自分が何者で何のためにこの世に生きているのかを知りもせず、また知る可能性さえも持たず、その自らの無知に苦しむあまり自殺さえも恐れながら、同時に自分独自の、はっきりとした人生の道を、しっかりと切り開いていたのであった。
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長いけど訳が重厚すぎず、何より面白くてどんどん読み進められた。自分が恋愛に依存気味の時期の思考の流れにありがちな視野の狭さがアンナの一人称語りによく出てたりと人物の心理描写も素晴らしい上、リョーヴィンと対になる構成も面白い。タイトルロールなのにアンナは冒頭もなかなか登場しないし、死んでからも物語が結構続くんだよね。
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完結編。第7部と第8部を収録。2つのカップルの圧倒的な結末に魂が震撼する。そこに見出したある一つの答え。
前巻の新婚生活から続いて出産シーンへ。リョーヴィンの慌てっぷりがユーモラス。お互いに何でも話し合い、隠し事をしない理想的な夫婦像ともいえるリョーヴィンとキティも、時々は細かいことでぶつかったり悩んだりするところがリアル。
二人の主人公が一瞬だけ交差する出会いのシーンは胸が熱くなるものがある。ここから物語はクライマックスへ向かっていく。
第7部の終盤にいたる展開は、その不穏さとスピード感に読んでいるほうも追い詰められる感覚になる。男女の愛を理想的な結婚の姿という形で見せてくれたリョーヴィンと対比して、最後まで愛を求め続けたアンナの姿も、ある意味で女性としての究極的な何かを表現しているといえるかもしれない。最後のシーンの文章が本当に上手いというか、映像的でありながら文章でしか表現しえないものがあって、翻訳も含めてすごいと思った。
第8部はエピローグ的な展開と、リョーヴィンの思索がメインになる。一般的には第7部のラストに目が行きがちだし、物語としてはあそこで終わっても不自然ではない。だがこの第8部こそ、本作の結論でありキモとなる部分といえ、本作を単に恋愛小説として読んでいる人には見出だせない、より大きなテーマが提示されている。
リョーヴィンが抱き悩み続けている本源的な問い――
「自分はいったい何者か?自分はどこにいるのか?なぜここにいるのか?」
それは生と死についての疑問であり、リョーヴィンはこれについて明確な答えを見出す。アンナとリョーヴィンという、別々に展開し一見つながらないように見える2つのプロットは、すべてこの一点のテーマに集約されて大きなカタルシスをもたらすのである。
自分の若い頃にこれを読んでもピンとこなかっただろう。百姓ヒョードルの些細な一言で気づきに至る流れ、答えは理性の外にあり、「われわれはすべて知っているのだ」と納得する顛末に、うんうん、そうだそうだとうなずきながら、この何年かで学んできたこと、考えてきたことが微細に書かれていて驚いた。特筆すべきなのは、これらのことが単に思索の結果としてだけではなく、日常生活の細々した雑事と密接にからみながら描かれているところ。リョーヴィンの悟りは、よく言われるふわふわしたスピリチュアルではないのだ。悟りに至ったあとも、あまり変わらない現実の如実な姿にニヤリとするラストの一文が最高だ。また、キリスト教の信仰に立ち返った彼は、他宗教へのスタンスについても、子供たちのいたずらと天文学者のたとえから明確に結論づける。
表向きは恋愛と結婚を題材にしながら、また当時の生活や社会を詳細に描きながら、より深い生命の次元から万事を見つめ、多層的な観点から人間の本質に迫っていく本作は、個人的にも人生でベストといえる作品の一つとなった。これから映画も見てみたいと思う。
Posted by ブクログ
悲しみと驚きの第7部
心に残る第8部
読み終えた瞬間の私の感想…
え?これは?
『アンナの終わりとコンスタンチン・ワンダーランド』じゃないの!
なぜ?なぜトルストイは、この小説のタイトルを『アンナ・カレーニナ』としたの?
トルストイ先生、もっと他のタイトルあっただろうに…と考えつづけていたところ、巻末の、訳者望月先生の解説の中に、ゲイリー・モーソンという人の解釈が紹介されていました。
_題辞は 彼女が自分自身に下した捌きの言葉だとも取れる_
『アンナ・カレーニナ』だからこそ、彼女と相反するその周りの人物や思想、またリョービンの物語に光が差すのです。
悩めるリョービン、悟りを開くリョービン、まるで、青春時代に帰ったかのように、一緒に悩んでしまった!
私はどうしてここにいるの?神とは?生とは?精神、意志、自由、実体?
…と
でも、リョービンは自分の生活の中から(穀物番フョードルから)、答えを見つける。
答えがあるんですね、トルストイ先生✨
光と闇、リョービンの世界と、アンナの生き様。二項対立という言葉も解説にあったけど、、
私にとっては、かなりのリアリズム小説で、好みではないはずなのに、すっかり面白くよまされてしまった!
作家が亡くなって100年以上も経ったいまも、こうして私たちの心を捉えて離さない作品であることが、
これが文学なんだなぁと、よくわかりました
Posted by ブクログ
トーマス・マンが完璧な小説といった意味が分かる。紛れもなく、今まで読んだ本の中でベスト。
カラ兄のように宗教臭くない。難しい小説、ではなく、全てが書いてある小説、と思った。
何より面白い。し、細部が本当にリアル。
心理過程の描写が、プルーストほどには長くない。
Posted by ブクログ
4巻の長編だったけど、読み進めるほどどんどん面白くなった。またいつか読み返すだろう。
生き生きと描かれている。説得力のある心理描写や比喩が面白い。
それぞれの性格からはっきりと人生が分かれ、その人の個性と思考が露呈していく。
リョーヴィンの気持ちがその時あった出来事によってころころ移り、かわいい感じもする。素直と頑固。
義父のクラブの話で、ぶよぶよ卵というのを表現がおかしかった。
リョーヴィンは生きる意味とは何かと哲学的に考えようとしたりする。でも答えが出ない。そしてある時、知る。
リョーヴィンは生きる意味とは何なのかを知る。だからといって生活は今までと同じだ。だけど、知ったことでリョーヴィンは喜びを感じる。
アンナは自分が招いたことだけど、人のせいにして、自分のマイナス思考は被害妄想に近く、自分で自分を追い詰める。だからヴロンスキーなどが何か言っても全部アンナは気に入らないのだ。周囲が間違った考えを正そうとしても嫌がり、フォローしても疑ってかかる。つまり、周囲は全てはアンナのおっしゃる通りですよと否定なしに肯定のみ、愛を捧げなければならないのだ。周囲は間違っているし誤解を解きたいけど、それをするとアンナはまた被害妄想で怒るのだ。早く精神科に行くべき状態。
なぜそんなに追い詰められていくのか、その心理描写の移ろいがうまい。
それにしても、最後、了と文字があった時「あら!ここで終わりなんだ!」ってビックリした。
この小説でリョーヴィンの自分はいったい何なのかの考えを読んでて、私も「あぁ!なるほど!」と思った。そんな話は聞いたことがあるし、そう考えてる人には当たり前のことなんだろうけど、何だか実感したのは初めて。リョーヴィンがぱぁーっと喜んだように自分も同じ気持ちを共有した感じだった。
多分、リョーヴィンに好感がもてるからだと思う。
この小説は私の中でインパクトの強いものになった。
またいつか読み返そう!
Posted by ブクログ
ロシア文学に早く出会えなかったことに
本当に損をしたな、と感じました。
人生における事柄が網羅されています。
恋、苦悩がそこに。
確かにアンナのとった行動は
世間一般では相容れられない行為です。
だけれどもそれを頭ごなしに批判することは
出来ないと思います。
誰しも、アンナほどではないですが
大きい、小さいに関わらず
道に外れてしまう、というのは
少なからずありますので。
目先の出来事からの逃避も
その1つかと思いますので。
そしてリョーヴィンに関して。
彼の苦悩も本当に分かります。
でも、それに気づいたのは
大きな成功ですね。
Posted by ブクログ
アンナの他人からみた時の美しさの描写、猟の描写、リョーヴィンキティの掛け合い、リョーヴィンの最期の悟りの部分、特に良かった。ありとあらゆるテーマが緻密に書き込まれていていながらわかりやすいダブルプロットでとても読みやすく☆5を付けざるをえない。とても楽しかった。
Posted by ブクログ
非常に恥ずかしながら、21年の生涯初のロシア文学。
心のどこかで、いつかは触れるべきだと思っていながら漸く今回、読み終えることが出来た。
今までの他の作品であれば、読み終えたあとは何らかの気持ちに加えて、読み終えたという達成感のようなものを感じていた。
しかし今回は違う。
達成感も感じてはいたが、それ以上に「もうこの作品の世界を味わうことはできない」といった寂しさを感じた。
本作「アンナ・カレーニナ」を読むにつれ、アンナ、リョーヴィン、オブロンスキー、キティ・・・といった登場人物たちが私の日常生活の一部となっていった。
彼らと共に過ごした時間をもうこれ以上共有できないと考えると、やはり寂しさが表に出てきてしまう。
作品世界に関しての議論は私は専門家でも何でもないので、触れるべきではないが、少なくとも、この作品が人間のあらゆる側面を描き出しているということは断言できる。
本当にこれが、時代も場所も違う1870年代ロシアを舞台にして描かれていたのかと見紛うくらい、人間という生き物の中にある不変な本質を私に伝えてくれたと感じている。
我々は恋をする。
しかし恋敗れれば悲しみもするし、時によっては自分を捨てた相手を憎むこともあるかも知れない。
自分が愛していると思っている人が他の誰かを好きになる。
当然嫉妬も起こるだろう。
時代の流れの中で、以前は順風満帆であった事業に陰りが見られることもあるかもしれない。
自分の子供が出来れば、あれやこれやと自分がしたいと思っていることを子供に託すこともあるかもしれない。
このようなごくありふれた日常の様子・感情が実に細かく描写されている。
内容の充実度も勿論のこと、表現の観点からも、私はこの作品が「Masterpiece」であることを心から感じている。
Posted by ブクログ
ブロンスキーとの愛に生きようとしながらも、苦悩し、葛藤するアンナ――。『アンナ・カレーニナ』完結編。
随分前に読み終わっていたのだけれど、卒論に気を取られていたせいもあって、感想を書くのが遅くなってしまった。
読み終えたときの感慨をすっかり忘れてしまったことに、自分が一番がっかりしているところ・・・。やはり、感想は本を読んだらすぐ書かなくてはいけませんね。
とはいえ、『アンナ・カレーニナ』は凄い小説であった。これは多分、間違いないと思う。
ストーリーだけを見ると、全巻読み終わった今、納得のいかないところも多々ある。
特にアンナのラストには、やりきれない気持ちが残った。こういう終わり方なのか、絶望した人間の行く末としてこれが選ばれたのか、と思うと憤慨にも似た気持ちが湧く。
リョーヴィンの心情も、結局はよくわからなかった。彼は地主貴族という階級も、美しく聡明な妻も持っているのに、なぜそこまで自分の存在意義について悩み続けることができるのだろう?
それが悪いというのではない。しかし、私は人間というのは、日常生活で満ち足りているのに、その日常と同時に自分の存在意義について考えられるほど、タフな生き物だとは思えないのである。
だから、それだけ素晴らしい環境を手にしているリョーヴィンが、そんな日々の生活をこなしながらも、抽象的なことを考え続けられるだけのそのエネルギーの源が一体何なのか、最後までわからなかったのだ。
では何が素晴らしかったのか。何がこの小説を輝かせ、また人を引き付ける力となっているのか。
私はそれを、「生きることへの確信のなさ」だと思った。
今生きていること、自分が自分だけの人生を歩んでいること。その圧倒的な現実にしかし、誰一人確信を持って生きているわけではないこと。
トルストイがこの物語で描いたのは、この「自分の人生が思い通りにいかないことに戸惑い続ける私」なのではないか、と私は思ったのである。
これは恐ろしいことだ。自分で自分がわからないということ、人生は自分の思い通りには進まないということ、生きていく限り、自分は後悔を重ねるであろうということ。
それはつまり、絶望のことではないか。
しかし違うのである。個人にとってはそれは確かに絶望かもしれない。だが、周りの人間から見れば、それはあまりにも当たり前のことなのだ。
私達は天才というのが滅多にいない、ほとんどいない、ということを知っている。もしかしたら、天才と呼べるような人物を一人も知らないまま、人生を終えるかもしれない。けれどそれで「ああ、私は天才に出会うことなく人生を終えてしまった」と後悔する人はいないだろう。しかし、いつでも自分に何かしらの才能があればいいな、と人は誰しも思っているのだ。
要するに、それと同じことなのである。自分の人生が思い通りにはいかない、ということは当たり前のことで、他人がそんなことで嘆いていたってなんとも思わない。
しかし、どこかで自分の人生は、自分の思い通りにできるという思い込みが、私達にはある。まるで、実は何か自分には隠れた才能があるのではないか、と思うように。しかし、そんなことはほぼない。けれどその不思議な思い込みは消えない。だから、いざ自分の思い通りにことが運ばないとなると、絶望的な気持ちになるのである。
だからこの物語のヒロインであるアンナは、読者からすると「わがままだなぁ」と映るのかもしれない。絶望絶望って、それはあなたがわがまま言ってるからでしょ、となるのかもしれない。
本人にとっては地獄、しかし周囲の人間から見ればただの日常の一部。その極限とも言える状況を、誰の手にもゆだねることなく、登場人物に誰一人として確信を抱かせることもなく、冷酷なまでの寛大さで持って描かれたのが、この『アンナ・カレーニナ』なのかもしれない。
トルストイは恐ろしい人だなぁ。これだけ長い物語で、最後の最後まで「確信」を描かなかった彼の筆力、そして精神は驚嘆に値する。
そう、人生にゴールなんてものはない。どこからでもが始まりで、どこまでもが自由なのだ。
なんと茫漠とした世界。
まるで、広い宇宙に身ひとつで投げ出されたような。
私達はどこまででも赤ん坊で、どこまででも年を取れるのである。
余談なのだが、私がこの『アンナ・カレーニナ』を読み終わったのは、トルストイの没後100年から2日前だったため、読み終わったすぐあとにトルストイの記事をいっぱい見ることができた。タイムリーで、ちょっとうれしかった。
Posted by ブクログ
トルストイの長編小説。非常に文量の長い作品であるが、大変読み応えがあり、さすがは世界の大文豪、と舌を巻いた。
正直、ドストエフスキーやら何やらこの手の世界文学的古典には手も触れたことがなかったが、本作品を読み、その凄みをありありと感じた。これを皮切りに世界文学の世界に足を踏み入れていきたい。
* * *
本長編作品に、登場する二人(男女)の主人公、アンナとリョービン、時に二人は光となり闇となり、同じロシアを舞台としながら、全く別の世界をパラレルに生きていく。
アンナとリョービン、この二人に共通する点は、「自分を偽れない」という点だと思う。ある意味とても純粋素直で、そのため通俗社会から、どうしても逸脱していってしまう二人。それでも本当の生き方や愛や信仰を摸索しながら、闘い、傷つき、心を膨らませる姿は似ている。
アンナは、本当の愛を求めた。リョービンは本当の生き方、といったところだろうか。
この愛すべき二人の主人公の顛末、明暗を分けたのは、アンナの生き方が自己愛に満たされていったのに対して、リョービンは無私の精神に満たされていった点にある。また作品の解説にもあるように、アンナが一元的に、リョービンが多元的に生きることとなり、結果、アンナの世界が破綻していった、というのにも納得ができる。
トルストイの本作品、19世紀を生きた若者の恋愛をテーマとしながら、社会全体を描いた作品の圧倒的スケール、かつ一人一人のキャラクターの内面世界の繊細な動きを捉えていて、よく一人の作家がここまで人間を描けるものだ、と感嘆した。
人間の心の中の矛盾や葛藤をよく捉えている。そして読者にとってあまり理解できないような難解な比喩表現などに逃げない点も好感が持てた。
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自分はリョーヴィンとキティの筋がメインプロットで、アンナはサブプロットな感覚で読んだ。まあ、アンナの筋の方が心理劇としては鬼気迫るけど、それがメインだと重いから。
いづれにしろ、社会に生きる人々の様々な行為や決定にまつわる心理が細密に書かれていて、素晴らしい名作だと思った。今も昔も社会や人間の大枠は変わらないもんだな。
人はひとりでは生きていけない。それで、社会と折り合いをつけ、社会性を持って生きることへの葛藤と救い。そしてまた疑い。ライフゴーズオンで物語は続いていく。
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まさかアンナが自殺してしまうとは。
そこに至るにあたってのアンナの壊れぶりが凄まじい。ここまで自殺者の心境に迫ったトルストイは、物凄く追い詰められたのではないかと思う。目に映るすべてが「負」としてしか捉えられなくなり、すべてが厭世を引き起こし、自己嫌悪の対象になるアンナ。環境がプロセスを作り上げて結果に至るのではなくて、「自殺」という結果ありきで、そこに至ることを目的にプロセスが意識的にゆがめられていく恐ろしさ。「死が明らかに生き生きと彼女の脳裏に浮かび上がった。死こそ彼の心に自分への愛情をよみがえらせ、彼を罰し、自分の心に住み着いた悪霊との間に行われていた戦いに勝つための、唯一の手段」という文を読んだとき、あぁ…振り切れてしまったな、と思った。私も、こういう心境になったことはある。私が死ぬことで、後悔している人たちを見て思い知らせてやりたい、という自分勝手な願望。自己愛の極地。しかしそれを実行に移すには、死ぬには、自己愛が強すぎてできない、それが「普通」。しかしアンナは違った。「いいえ、おまえなんかに私を苦しめさせてなんかおかないわ」と、自分でもなくヴロンスキーでもない、運命(神ともいえるか)に対して好戦的になってしまう。それほどに、自分の運命を理不尽に思ったのだろう。無理もない。私がもしアンナの立場だったら、自己実現のためにすべてを擲った先に破滅しかなかったとしたら…考えられないほどに恐ろしい状況だ。
対して描かれてきたリョーヴィンが、最後に悟り(?)に至るまでは感動的だった。リョーヴィンは農業の話ばっかりでつまんない男だな、と思ってたけど(笑)、今ではとても好きな人物。彼はいつだって自分に正直なのだ。そこはアンナと同じだとも言える。現に彼は、宗教(キリスト教)と人生というものを考えながら、すべてのしがらみから逃れるには死を選択するしかない、という考えに一度は至ったのだし。それでも彼は生き続けた。それは彼がアンナとは違い、「リアル」を生きていたから。もっといえば、「リアル」からは逃げることができなかったから。アンナは現実を棄て、愛情の物語のなかに没入した結果、理想どおりの結末を得られないことで混乱してしまった。対してリョーヴィンは、どんなに悩んでも、追い詰められても、地主としての仕事を毎日こなし、家族と顔を合わせ、その場その場で生きていかなければならない。大事を成すという理想(アンナでいえば「愛情の物語」のなかに生き続けるという理想)にばかり耽ってはいられなかった。最終的に、リョーヴィンは、宗教と現実の折衝点を「善」に見つけ(性善説?)落ち着いて、この話は幕を閉じる。
解説でも何度も触れられていたが、この小説は、タイトルは「アンナ・カレーニナ」だが、「リアル」な社会に生きるリョーヴィンとの対比をもってこそアンナの物語が活きてくることを考えれば、リョーヴィンの存在意義がとても大きい。ヴロンスキーが社会で泳ぎ始めて男性=「社会人」として活躍し始めたことでアンナとの関係が崩れていったのからもわかるように、男女の思想の差異も引き立てられている。ここでは語りつくせないほど壮大な大河小説だった。
ひとつ、学んだのは、「勘違いの符合」の面白さと恐ろしさ、かな。お互い違う思考体系でもって考えているのに、リアクションが同じであることでなにかピタっとはまるようなある種の幸福な関係になるのだけれども、あくまで思考体系は違うので、そのプロセスの違いが別の事象を前にしたときに浮き彫りになっていく、というのか…うまく言えないんだけれど。同じポイントで笑っても、そのポイントを獲得した背景には違いがある。いかにうまく勘違いし続けられる同士かが、関係を持続させるコツなのかしらん。とか、思った。アンナとヴロンスキーしかり、リョーヴィンとキティしかり、ね。
古典新訳じゃなかったら、この時期に読んでなかったかも。愛・男女について考えることの多いこの半年間に読めたことに感謝。ますますこのレーベルが好きになった。
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19世紀当時の帝政ロシアの貴族社会を背景とした物語としての歴史的荘厳さを保ちながら、アンナとリョーヴィンという愛に悩む等身大の人間像を絡めることで、不変的な一大叙情詩かつ一大叙事詩に昇華させたトルストイの古典的名作。光文社の翻訳・編著の妙もあるだろうが、いま読んでも全く古さを感じず面白い。
ヴロンスキーの愛を猜疑しアンナの鉄道自殺で衝撃的に幕を閉じる第7章。これにて終焉としても良かったであろうが第8章のヴロンスキーの自棄的行動やリョーヴィンの啓示的開眼が単なる「不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」人間模様から数歩抜きん出た深みある印象を与える。
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モスクワへ移ったリョーヴィン夫妻。臨月を迎えたキティはみんなからあたたかく見守られながら幸せな気分で妊婦生活を満喫している。
一方のリョーヴィンはいよいよ自分が父親になるのだという重圧で押しつぶされそうになっており、いざ出産という段での慌てっぷり、狼狽ぶりはもはや喜劇のようでおかしかった。
キティの分娩がなかなか進まず何度もしつこく医者に進捗を確認しては、「もう終わります(もう産まれます)」という返事を「ご臨終です」という意味に勘違いする始末。
出産という偉業を成し遂げたキティを見て、歓喜の慟哭と滂沱の涙を流しキスをするリョーヴィンの姿はまさに愛そのもので、でもその後に息子と対峙して「子供は何かしら無駄なもの、過剰なものと思われ、長いこと子供の存在に慣れることができなかった」という感想を抱いているのは矛盾のように思えるけれど、父親になったばかりの男性とはこういうものなんだろうか。
ただここらへんのエピソードは、リョーヴィンという個人がアンナ・カレーニナという大作の中で、多元的で複雑な日常世界の思考の代表であることをいかにも象徴しているようだった。
生きるとは、死ぬとは、信仰心とは、愛とは、幸福とは。出来合いの解答のない人生の問題にぶつかっては悩み、考え抜く等身大の存在。
それに比べてアンナとヴロンスキーの不倫関係は破滅への一途をたどる。嫉妬心と猜疑心のかたまりになってしまったアンナはヴロンスキーの行動すべてに言いがかりをつけ、もちろん彼もそれに忌々しさを覚えあからさまに鬱陶しがる。決定的に心の通わなくなった二人の間には喧嘩が絶えず、あれほど燃え上がっていたはずの愛はいとも容易く憎しみに変わる。
彼は私のつらさを理解してくれない、私は寂しくて、私はただ愛されたいだけなのに、と嘆き続けるアンナの自己愛と被害者意識には読んでるこっちも辟易しちゃって、メンヘラ!と一刀両断したくなるね。アンナは別にヴロンスキーじゃなくたって、自分を愛してくれる誰かなら誰でも良かったんじゃないかな。
これまでずっと優雅で快活で聡明な美貌の女性としてみんなの憧れだった彼女が、こうやって激しく取り乱す様子が書かれて初めて、なんだかようやくアンナという一人の女性の人生に理解の及ぶ距離まで近づけたな、と思った。
結局カレーニンと離婚もできず、息子とも会えず、ヴロンスキーからは愛想をつかされ、苦しみに耐えられなくなったアンナが復讐の自殺を決意してからはあっという間で、鉄道車両が轟音とともに容赦なくやってきて彼女を暗闇へと永遠に消し去る。
田舎で堅実に農業をしてあたたかな家庭を築き、悩みつつも平凡な日常に幸福を見出して暮らすリョーヴィン。
華やかな社交界で劇的な出会いをして激しい不倫に走り、すべてを投げ捨てドラマチックに死んだアンナ。
とても対照的な人生、いったいどちらが幸せなんだろう?と頬杖ついて考えずにはいられない。
や、どう考えてもリョーヴィンなのは分かるけど、私は自分の中におそらくアンナが住み着いてることも認めざるを得ない。ドラマチックに生きたい、そしてドラマチックに死にたいという願望はどうしたって無視できないし、貫いて成し遂げたアンナを羨ましくさえ思う。このまま生きてたら鉄道自殺まっしぐらなので、ちょっとこれからの人生考え直さないといけないかもしれないなぁ。
あるいはリョーヴィンとアンナがくっついたら、という可能性もそれはそれで想像できなくて面白いかもね。
『家庭生活で何か新しいことを始めるためには、夫婦が完全に反目しあっているか、それともぴったりと和合しているか、いずれかの状況が必須である。夫婦の間がはっきりせず、反目とも和合ともつかない状態のときには、何事も始められない。』
という地の文では爆笑した。いや本当にその通り。
なんにせよ読み終えた…長かった…。これから先も続いていく読書人生の山場をまた一つ超えたような気がする。
Posted by ブクログ
ここまで不幸な終わり方の「恋愛小説」は初めて。(そういうジャンルはそもそもあまり読んでないけど。)
20世紀以降を生きるものとしては、人間の行動パターンをどうしても「進化的に安定な戦略」かどうかとして見てしまう。嫉妬に狂うくらい優秀な遺伝子を持つブロンスキーのタネを何としても手に入れるぞ、というプログラムが発動すると、アンナのような奇怪な人格になるのかしら。。
キティのようなわかりやすい人格の方がホッとする。
Posted by ブクログ
真実の愛とは何かという普遍的なテーマを、不倫の恋という側面から切り取る、純文学的な物語でした。アンナはどうすれば良かったのでしょう? 愛してもいない夫の元に留まるのが真実の愛に即した行動だったのか…否。では夫には隠したまま不倫を続け、愛人の子を夫の元で育てるのが正しかったのか…否。では、やはり筋書き通り夫を捨てて愛人と逃げるしかなかったのか…そうかもしれない。確かに、アンナはヴロンスキーの愛さえあれば幸せであり続けられたのかもしれません。けれどそうはいかなかった。普通の人間は、彼女ほど愛に対して純粋ではありません。だから恋人に飽きられたって次の恋を探すなり、冷えた関係のまま共に暮らすなり、ともあれ「愛がないなら生きてはいけない」とばかりに自ら死を選ぶなんてことはまずありえません。彼女の何が、このような破滅を導いたのでしょう? なにが罪でなにが罰だったのか? いえ、愛に理屈など通用しないのだから、可哀相ではありますが、愛に純粋である彼女は、こうなるしかなかったのでしょう。
中心テーマがアンナにあることは題名からも明白ですが、正直私はもう一人の主人公、リョーヴィンの物語の方が好きです。ハッピーエンドが好みなので…。『戦争と平和』のピエール・ナターシャ夫妻や、ニコライ・マリア夫妻でも思いましたが、トルストイの描く理想的な夫婦の描写が私は好きです。思想は違えど、互いに尊敬しあえる夫婦…。現実にはまず滅多にいないけれど、だからこそロマンがあって、微笑ましくて良いと思います。
Posted by ブクログ
面白かった。当時のロシアの社会情勢(多分)と登場人物の恋愛物語がうまくからみあった,いろんな物がたっぷり詰まった話でした。アンナの心情の分析は,すごくリアルなところも興味深かったです。それにしても,やっぱり,アンナの話の結末はあーなってしまうのね。
Posted by ブクログ
2008.11
やはりアンナとヴロンスキーには好感を持てない。幸福→不幸への転落も、あの壮絶なラストも、自業自得としか思えない。特にヴロンスキーは、最初どれだけキティを苦しませたことか。
Posted by ブクログ
アンナは悲劇的な最期に。リョーヴィンは幸福な最期になった。
しかし100以上も前の作品なのに、全然現代にも通用する内容に驚愕した。
人間は根本的には大きくは変わっていない。