復活を読んで一番印象的だったのは、ネフリュードフがあまりにも達観しているところ。
もちろんカチューシャにはじめに出会ったときのような、若気の至りがあふれていた頃も彼にはあった。しかしカチューシャとの再会後は、どんなことが起ころうとも、世事にも他人にも自分自身にも、自分の判断に照らして、まっすぐ前を見
...続きを読むるかのように右顧左眄なく対処し続けている。
そして特筆すべきは、若き頃にカチューシャに対して行った“過ち”と対比するかごとくに、彼女と再会後のネフリュードフは、「恥ずかしさと罪の意識」をいかに避けて自分にとって“正しい”と思われる道を進んで行くのかについて意識が集中していくこと。
時には同じところを何回も周回するかのように迷い、あるいは時にはオリンピック級のハードラーのように軽く飛び越していくネフリュードフ。本作に戦争と平和のような大事件が見当たらなくても、また、アンナ・カレーニナのように劇的な形の愛憎劇がなくても、そんなネフリュードフの足取りを自分事のように追うことで、十分な読み応えを得られる。
それは、作者が70歳近くの老境に達してから書かれた作品だからだろう。つまりトルストイは、自分が「七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」の境地に達したものの、自分としてはあまりにも遅すぎたと感じ、もっと若い頃にこの境地に達していればという強い後悔の念が、30歳代と思われるネフリュードフの年齢不相応な達観に結実したのだ。
もちろんそれだけの単調な話では終わらない。
老齢のトルストイは、自分が最良と考える正義、幸福、愛、信仰というものが、いかに世間一般では通用しない、いやそれどころか排除されるのかを、筆を尽くして書き連ねる。一見愚直、言い方を変えれば馬鹿正直にも見える、老境にして理想だと思い至った生き方を、ネフリュードフにいわば押し付けた形。
そして本作が抜きん出ているのは、ネフリュードフの実直さに感化されてカチューシャや政治犯たちがまるで伝染するかのように実直になる様子を緻密に描き、他方で、多くの大衆や官憲などがどうやっても自分の現状の地位や思考から一歩たりとも出ていこうとしない意固地な姿も徹底して描いているところ。
つまり多くの理想が現実とは一致せず、高止まりのまま理想が多くの人から顧みられない非情な現状がありのままの姿で眼前に突きつけられる。しかしそれがドラマチックさの欠如につながり、本作の評価が戦争と平和やアンナ・カレーニナのレベルに及ばない理由になっているのかもしれない。
だが私は「ドラマチックでない」とは思わず、現実により接近したがゆえ、と考えている。したがってこの作品は、他のトルストイ作品よりも、今の日本の現実により近づけられる。
例えば「いいね」を求めるあまり、自分の感性によって評価するという本来のあり方を忘れて自分の判断のほとんどを他人の評価に委ねてしまっている本末転倒な現代人にとって、ネフリュードフが自分の価値基準のみによって行動し、一方で他人の評価を自然体で避けているような一連の描写を読むと、何かきまり悪さを感じるはずだ。
また、神への信仰に関しても、お祈りなどの儀式や儀礼的なものとは正反対なところにこそ本分があるということも本書から学べるだろう。
最近、スポーツでの応援やコンテストの結果待ちなどのときに、両手を組み合わせて目を伏せて祈る姿をテレビなどでよく目にするが、あれなんか、普段はキリスト教徒が食前にするように日常的に神様へ祈ることなんか一切していないくせに、いざというときだけ神様にすがろうとするということだから、真の信仰者の所作を猿真似しただけの本当にマヌケな姿だと思っている。
だから、信仰とその結果としての現実とが必ずしも軌を一にしない現実社会において、それでも神を信仰し、心の持ちようを手に入れたいと思っている人は、安直に手を組んで祈る暇があったら本作を読み解くことだ。そして、ネフリュードフの“愛”が自己から利他へと広がり、それが自己へと還元されていく本作の一連の過程から、精神的満足は無意味なパフォーマンスなんかではなく、相手を信じるという一念によってこそ、もたらされるということが本作から理解できた。