トルストイのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
タイトル通り、イワン·イリイチが自らの死を自覚し、死の恐怖と戦いながら自分の人生を見つめ直すが、しかし時は非情にも止まることはない……という苦しみを描いた「イワン·イリイチの死」、妻を殺した男が自らの真の罪を告白し、殺害までの一部始終を語る「クロイツェルソナタ」を収録。イワン·イリイチの死は状況が切迫し狭まった視点で自らの死を思い人生を考えるという苦しさが切々と描かれており主人公の視点に没入することができた。またクロイツェルソナタも現代の価値観に通じるところがあり(全く同一というわけではないが)、筆者の先見の明が窺え、また興味深く感じ、収録作どちらも面白く読めた。
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Posted by ブクログ
ネタバレアンナとリョーヴィンの結末/行く末が非常にリアリスティックで近代的な形で示された
対立し合う人格・思想・習慣を実態に即した記述で描くことのできるトルストイのとてつもなさを感じた
確かに結びとしては、ロシア文学に特有の信仰に目覚める形ではあれど、そのリアリティは他の追随を許さないと思う。結論に至りながらも新たな疑問が開けてそれを考えることを続けるリョーヴィンの知性は、地主貴族という旧来の階級に属していながら、まさに近代人というべきもの
しかし、理性と信仰の対立をどう乗り越えていくかというところにロシア文学らしさも感じた
大長編ながらも、リアリスティックな描写とロマンチックな描写が続き、お互いに影響し合うことで飽きさせない構成となっているため是非読んで欲しい -
Posted by ブクログ
全巻約2,500ページ前後
765P
歴史小説の最高峰
ナポレオンがロシアを侵攻した時の話
サマセット・モームが10冊の中で一番偉大な作品と言っている。
戦争と平和って戦争シーンほぼ全く出てこないんだな
ナポレオン戦争
戦争だけでなく、平和にも葛藤や矛盾がある。
トルストイの戦争と平和、エピローグが論文みたいになるの知らなかった。
「アンドレイ公爵は、見たところ、そういう抽象的な話には興味がなさそうだった。「君、場所柄もわきまえずに、心にあることをなんでも口にするってことはよくないよ。え、どうなんだい、いよいよなにかやる決心でもついたのかね? 近衛騎兵にでもなるのかい、それとも外交官かね?」とアンドレイ公爵はちょっと口をつぐんでから聞いた。 ピエールはソファの上にあぐらをかいた。」
—『戦争と平和(1)』トルストイ著
「ピエールには、みんなが彼を好いてくれるのはきわめて自然なことに思われたし、だれか自分を嫌う者がいたら、きわめて不自然なことに思われたにちがいない、だから彼は自分を取りまいている人たちの誠意を信じないではいられなかった。その上、彼にはそういう人たちが誠実か不誠実かについて自分に問うてみる暇もなかったのである。彼はつねに暇がなく、つねに自分は心おだやかで愉快な酔い心地にあるように感じていた。また彼は自分をなにか重要な全体の運行の中心のように感じ、自分はつねになにかを期待されていて、それをしてやらなかったら、多くの人を悲しませ、彼らの期待するものを奪うことになる、もしもそういったことをしてやれば、なにもかもよくなるというふうに感じていたので、彼は要求されることはなんでもしてやっていた、がしかしそのなにかいいことというのは、いつも将来にのこされたままだった。」
—『戦争と平和(1)』トルストイ著
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Posted by ブクログ
745P
「この頃の娘は自由に恵まれすぎているために、人にちやほやされる喜びに自分のほんとうの感情がかき消されてしまうことが多いんですのよ。」
—『戦争と平和(2)』トルストイ著
「彼は手あたり次第なんでも読み、家へ帰って、下男にまだ服をぬがせてもらっているうちから、もう本を取って読み――読書から睡眠に移り、睡眠からサロンやクラブでのおしゃべりに、おしゃべりから酒と女に、酒からまたおしゃべりや読書や酒へと移るというふうだった。彼にとって酒を飲むことはますますもって肉体的、と同時に精神的な欲求になってきていた。医者たちに、あなたのような肥満体には酒は危険だと言われていたにもかかわらず、彼はふんだんに飲んでいた。彼は、自分でも気がつかずに、大きな口に何杯か酒を流しこんで、体に快いぬくもりをおぼえ、自分のどんな隣人にもやさしい気持ちを感じ、頭がどんな思想にも上っ面だけの反応を示してその本質に深入りすまいとするような状態のときになってはじめて、完全に気分がよくなるのだった。ぶどう酒をひとびんか、ふたびんあけた頃になってはじめて彼は、最前まで彼をおびやかしていた、入りくんだ、おそろしい、人生の結ぼれも思っていたほどおそろしくないと、漠然とそう意識するのだった。頭のなかががんがんしながらおしゃべりしたり談話を聞いたり昼食や夜食のあとで読書をしたりしているときには、彼の目に絶えずその結ぼれのどっち側かが見えていた。だが、酒の影響下にあるときばかりは、自分にむかってこんなことが言えた。『こんなものはなんでもないんだ。こんなもつれはいま解いてみせるさ――おれにはこのとおり説明の用意ができているんだもの。だけど、いまは暇がないから、こういうことはあとでとっくり考えることにしよう!』だが、この『あとで』はけっして訪れなかった。」
—『戦争と平和(2)』トルストイ著
「「服装もフランスふうなら、思想もフランスふう、感情までフランスふうじゃありませんか! 現に、あなたは、メチヴィエはフランス人でやくざ者だというんで、首っ玉をつかんで追いだしなすったそうですが、わが国の夫人連は這わんばかりにしてやつのあとを追いまわしているようなありさまじゃありませんか。きのうだって、わたしは夜会に出ましたが、五人の奥さんのうち三人はカトリック信者で、法王の許しを得て、日曜に刺繍などしているような状態ですよ。それでいてご本人たちは、こんなことを言っちゃなんですが、銭湯の看板よろしく、裸も同然のかっこうで坐ってござるんですからな。いやまったく、わが国のわかい連中を見てごらんなさい、公爵、いっそのこと博物館からピョートル大帝の昔の槲の棍棒を持ちだしてきて、ロシア式に横っ腹をなぐりつけてやりたいくらいですよ、そうすりゃばかな考えも抜けるでしょうから!」」
—『戦争と平和(2)』トルストイ著
「彼は賭博好きではなかった、すくなくともけっして賭博に勝って儲けたいとも、負けてすりたいと思ったこともなかった。彼は虚栄心の強い男でもなかった。自分が人にどう思われているかなどということは、彼にはまったくどうでもいいのだった。見栄っ張りなところがいけないなどとはなおさら言えなかった。彼は何回か、自分の出世コースを台なしにして父親を怒らせたこともあり、名誉などはすべて一笑に付していた。彼はけちではなかったから、人から無心されれば、だれにもことわったことはなかった。彼の好きなことといえば、ただひとつ、遊びと女だけだった。そして、彼の考えからいくと、こういった趣味にはなにひとつ下劣なところはないのだし、自分の趣味を満足させればほかの人々にとってどういうことになるかというようなことは反省できない男だったので、心中ひそかに自分は非の打ちどころのない人間だと思い、卑劣な男や悪人を心から軽蔑し、良心も安らかに昂然と頭をあげて歩いていたのである。」
—『戦争と平和(2)』トルストイ著
「 りんごは熟すれば落ちる、――それはなぜ落ちるのか? 地球の引力によるのか、茎が枯れるからか、日光で乾燥するためか、風に揺さぶられるからなのか、下に立つ男の子がそれを食べたいと思うからなのだろうか? どれも原因ではない。それはすべて、あらゆる生命ある、有機的な、自然発生的事件が起きるときの諸条件の一致契合にすぎないのである。だから、りんごが落ちるのは細胞が分解するとか、そういったたぐいのことが起きるせいであると見る植物学者の考えが正しくもあればまちがってもいるその程度は、樹下に立つ子供が、りんごが落ちたのは自分がそれを食べたいと思って、落ちるようにと神に祈ったからだというのとおなじ程度なのである。ナポレオンがモスクワ遠征に出かけたのは彼がそうしたいと思ったからであり、彼が敗北したのはアレクサンドルが彼の敗北を望んだからだという人は、何万トンも掘って崩れかけていた山が崩れおちたのは、最後の人夫がその山裾で最後のつるはしの一撃を加えたからだという人とおなじように当たってもいるし、当たってもいないのだ。歴史的事件においてはいわゆる偉人なるものは、事件に名称を与えるレッテルみたいなもので、レッテルとおなじように事件そのものとはいちばん関係が薄いのである。」
—『戦争と平和(2)』トルストイ著
「もしも双方の司令官が理屈に合った原因どおりに行動していたとすれば、思うに、二千キロも深入りして、軍隊の四分の一も失う確率の多い戦いをおこなえば、確実な破滅への道を歩むことになることは、ナポレオンにとってこれほど明らかなことはなかったはずだし、クトゥーゾフにしても、戦いに応じて、同様に軍隊の四分の一を失う危険を冒せば、かならずモスクワを失うことになることはおなじくらい明らかだと思ったはずである。クトゥーゾフにとってそれは数学のように明白であって、それはちょうどもしも将棋のときにこちらの手駒がひとつ足りないのに駒の交換をすれば、かならずこちらの負けになるから、駒の交換をしてはならないのとおなじである。 敵が駒を十六持っていて、こちらが十四持っているときはこちらは敵よりも八分の一弱いだけだが、こちらが駒を十三交換すれば、敵はこちらより二倍強いことになる。」
—『戦争と平和(2)』トルストイ著
「「ですけど」と彼は言った。「人は、戦争って将棋に似ているって言うじゃありませんか」「うん」とアンドレイ公爵は言った。「ただちょっとちがうところがあるがね、将棋だとひとつ駒を動かすごとにいくらでも好きなだけ考えていられ、時間的制約を受けずにいられる、それからもうひとつちがうのは、桂馬はいつでも歩よりも強いし、二枚の歩はいつでも一枚の歩より強いが、戦争では一個大隊がどうかすると一個師団よりも強いこともあれば、ときには一個中隊よりも弱いこともあることだ。軍隊の相対的戦力なんてだれにもわかりっこないんだよ。ほんとうの話」と彼は言った。」
—『戦争と平和(2)』トルストイ著
「「戦いは、勝とうとかたく決意した者が勝利をおさめるのだ。なぜわれわれはアウステルリッツで戦いに敗れたか? わがほうの損害はフランス軍とほとんどおなじくらいだったのに、われわれはあまりにも早く自分に、戦いはわがほうの敗けだと言い聞かせてしまったから、負けてしまったのだ。どうしてそんなことを言い聞かせたかと言えば、それは、われわれにはあそこで戦う理由がなかったからなのだ。一刻も早く戦場から逃げだしたかったからなんだよ。」
—『戦争と平和(2)』トルストイ著
「君に言わせると、わが軍の陣地は、左翼が弱くて、右翼が延びきっているということだが」と彼は話しつづけた。「そんなことは下らんことだよ、そんなことはちっともないんだ。じゃ、あすわれわれを待ち受けているのはなんだと思う? 何億というじつに多種多様な偶然の寄り集まりさ。そしてそれらの偶然は、逃げだしたのが、またこれから逃げだすのが敵かわが軍か、どっちが殺されるのか等によって一瞬のうちにきまってしまうのだ。だから、いまおこなわれていることなんか、みんな遊びさ。要するに、君がいっしょに陣地をまわって歩いた連中は、全体の戦局に資するところがないどころか、その邪魔をしているわけだよ。あの連中は自分たちのちっぽけな利害だけにとらわれているんだからな」」
—『戦争と平和(2)』トルストイ著
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Posted by ブクログ
上中下と長編であったし、春休みでほかの予定もあったりして、読むのに3/3から3/24までかかった。こんな長編は久しぶりに読んだな。素晴らしい作品で、本当に読んでよかったと思う!このような古典作品も、今後色々読んでいきたい!また、本は筆者への対話という側面もあるので、自分の人生との絡まり合いで面白さが決まるね。勉強で忙しい時期にも読書ができるとより良いんじゃないかな。
トルストイの作品の中でも最高傑作と言われており、トルストイが5年の歳月をかけて、何度も修正を重ねて書き上げた作品。
全体を通して、さまざまなテーマが複合的に表現されていて、その重層感が私は好きだなと感じた。
上
キチイが、キチイを弄んでいるだけのヴロンスキーに恋をしていて、そのためにリョーヴィンからの結婚の申し込みを断ってしまった。その後の舞踏会で、ヴロンスキーはキチイではなく、その日に恋に落ちたアンナカレリーナとダンスをしていて、その2人の燃え上がった様子を見て自分の立場に絶望し、病に臥せてしまった。その絶望の様子が非常に印象的だった。
でも、この後にドイツの温泉街で同世代の女の子と出会い影響されて、元気になることができた。この時代の貴族たちの人間関係は、非常に閉鎖的なので、失恋などをきっかけにして世界が閉ざされたように感じるのだろうと思った。
また、アンナカレリーナがヴロンスキーの子を妊娠しているという所を読んだ時、最近読んだノルウェイの森や存在の耐えられない軽さとは違い性描写が省かれていたため、急だなと驚いた笑
中
リョーヴィンとキチイの物語と、アンナとヴロンスキーの物語が交互に語られている形式が面白い。それぞれ結婚生活の始まりと、不倫という重く複雑な愛であるから、その対比が面白いのだが、決して一方が幸福で一方が不幸というわけではなく、状況が色々変わっていくのである。
リョーヴィンは、キチイとの結婚の際に、本当に自分でいいのかが恐ろしくなって、それをキチイに確認したり、自分が童貞ではないことを打ち明けたり(これは、ノートを読ませて打ち明けた、もっと軽く伝えることも出来ただろうに)するところが、女ごころを分かっていないという感じだった。でも、これらすべてをキチイは受け入れたのがすごい。さらに、リョーヴィンの兄が病気で死の床に伏しているということで、リョーヴィンが兄のところに訪れるというとき、あまりにも状態が悪い兄や、質の悪い宿をキチイに見せたくない、体験させたくない、気を遣いたくないということで、リョーヴィンはキチイを連れていきたくなかった。でもキチイは、リョーヴィンが行く場所には私もお供して、感情も共有したいということを主張して、喧嘩の末一緒に行くことに。結局、リョーヴィンは兄のひどい状況に関して嫌悪感を感じて何も手を差し伸べられなったのに対し、キチイは病人を励ましたり、薬を飲ませたりと熱心に世話を焼いており、キチイの人を助けるその心に感心した。女性のすごさがここにあるのかもしれない。
下
最後にアンナが鉄道に轢かれて自殺をしてしまった。決してヴロンスキーが何か決定的にアンナを傷つけたとかそういうことではなくて、ヴロンスキーの細かい行動にアンナが勝手に解釈を加えたことによる、喧嘩がきっかけだった。アンナは不倫相手なので、ヴロンスキーの母親が他に結婚相手を紹介してきていてその相手に嫉妬して、ヴロンスキーの愛情がないのではないかと疑った(でもヴロンスキーは全くその人には愛情を持っていない)。
結局恋愛関係は特に、自分の感情をうまく処理することが大事なように思う。相手を信じて疑わないこと。アンナに関しては、不倫相手のヴロンスキーが生活の唯一の柱となっているので、相手を縛りつけようとしてしまっていた。
家で生活の大半を過ごしていて、ヴロンスキーの愛を繋ぎ止めるための美しさを維持することに最大限の努力を払っている。彼のために化粧をしたり、おしゃれな服に着替えをしたりするのだ。この努力をヴロンスキーとしても嬉しく思いつつ、重くも感じている。(アンナは家で本を読むことも多く、それによる知識はいつもヴロンスキーを驚かせていた)
ヴロンスキーは「男の独立」のため、社交界へ出かける予定が多くあり、家の外で過ごす時間が大半。それに対して、アンナは愛情が足りないからそのように外に行くのだ、と詰って口論に発展する。ヴロンスキーは自分が悪いということで言い争いを終了するしかなくて、アンナが最終的に「相手の誤りを証明する」形になることが多いね。予定通り帰ってこないと不安になって、きつい言い方の手紙を送ることもある。
こういう重さや束縛、感情の押し付けが積み重なるとなかなか辛いよね。
でも、たとえ不倫じゃなくても、お互い社会生活を営んでいても、恋愛において相手を縛り付けたくなるのは女性が多く、男性は自分の自由気ままな時間も欲しいと考える人が多いように思う。アンナの気持ちにも私は共感できたし、だからこそ私は「男の独立」を尊重したいと思った。それに、自分の柱は一つじゃ足りないね。
アンナカレリーナと子供の関係性についても考えた。アンナは、ヴロンスキーとの間にできた子供に対しては愛情を注ぐことができなかったんだよね。
ドリイとの会話では、アンナはこれ以上ヴロンスキーとの間に決して子供は作りたくないと言っていた。
あとは、男性の独立について。貴族の話なので、
キチイとリョーヴィンの関係性がどんどん素晴らしくなっている。リョーヴィンの心の動きにも共感した。リョーヴィンが打ち明ける、不安や嫉妬、決してポジティブではない感情を、キチイは自分が何かそれに対して働きかけようとか、自分のせいでその気持ちを誘発してしまったとかを考えずに、受け入れており、それが素敵だなと思った。物語の最後の最後では、リョーヴィンが -
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肉の愛がなにか特に高尚なものででもあるように考えることをやめなければならぬということと、人間に値いする目的は、人類に対する奉仕にしろ、祖国に対し、科学に対し、芸術に対する奉仕にしろ(神に対する奉仕は言うにおよばず)、すべてわれわれが人間に値いするものと考えるほどのものである以上、いかなるものであろうとも、結婚ないし未婚における恋愛の対象物との結合によって達せられるものではなく、反対に、恋愛とか愛の対象との結合などは(詩や散文の中でいかにその反対を証明しようとつとめようとも)、けっして人間に値いする目的の達成を容易にするものでないばかりか、むしろ常にそれを困難にするものである
トルストイ『クロイツェル・ソナタ』後語 -
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ネタバレトルストイ56歳の作品だ、しばらく休筆した後でもう死を見つめたのか。彼は壮絶なイリイチの死を内側から見ている。気力のあった頃に大作の後で読んだのだが、その頃はあまり記憶に残らなかったが、再読してみた。
まず、イリイチの死が知らされ、裁判所の同僚の噂話から始まる。彼らの関心は空いた椅子に座る人物についてだった。イワン・イリイチはまだ45歳の判事だった。
イリイチがどんなに俗人であったか、トルストイは容赦なく述べる。
彼は秀才で礼儀正しく順調に地位を登っていった。しかしそれには用心して人と付き合い、尊敬され好ましい人物と思われるように、要領よく仕事をした。そのための努力を惜しまずに、方法を自然に身に着けた。
家庭を持ち、妻と子供に恵まれ新しい家を買った。見栄えのよい部屋をあつらえたが、どんなに品よく飾り立てても所詮自分が満足するありふれた範囲から出ることはなかった。それでも十分快適で、俗人であることには気が付かなかった。
気に入っていた妻と、子育ての煩雑さで溝が深まるまでは。
彼の不運は、カーテンを吊るために上がった梯子が倒れ脇腹を打ってから始まった。重苦しい鈍い痛みが次第に強まり舌に変な味がし始めた。
医者は命に別状はないと診断した、不安に駆られ医者を変えて様々に検査をしたが、はっきりとした病名はなく、薬を処方されるだけだった。
だが痛みは増し、死におびえイライラと落ち着かず、すべては周りのせいにした。
気難しい夫を妻も持て余し気味で、家庭も荒れて来た。
動けるうちは見栄もあり生活のためもあって苦痛にさいなまれながら働いていたが、回りの人々の気配も変わってきた。発病して三か月たって、彼は自分の病気を自覚した。
彼の慰めは下男のゲラーシムの変わらない献身だった。痛みの苦痛は増してきたが医者の絶望的ではないという言葉にある、一抹の希望にすがっていた。だがもう耐えられなくなってきた。
心の声と対話を始めた。彼は人生を遡って思う、自分は坂を上っていたつもりが下っているのではないか。次第に命が離れていく。
苦しみながら死ぬのは何か間違ったのだろうか。
二週間後に長女の結婚が決まった。
妻の眼に憎悪を見た。「お願いだ静かに死なしてくれ」
のたうちながらアヘンをのみ束の間の平安の後にまた苦しみ、希望と絶望が交互に襲って来た。
三日間苦痛にうなり続けて彼はやっと気が付いた。
死んだらみんな楽になるのだ。
許してくれというつもりが伝わらなかった。そして今まで苦しめられて来た死という思いが体から離れていき代わりに光が訪れた。
なんてむごい死にざまを書いたものだろう。トルストイという人にとっても、平凡な俗人が死ぬ間際になって初めて光を見出すという、彼の信仰の一つの形が書かれている。
我々は今の人口と同じ数の死の上に生きているという記事を読んだことがある。歴史上に名を遺した人々も、名を遺したという時にはすでに肉体を持っていない。イワン・イリイチの死は誰にでも訪れる普遍的な避けられないものであると同時に一つの典型でもある。
再読にもかかわらず、深い感銘を受けた。
余談だが、夫人が観劇に行くシーンがある。サラ・ベルナールを見に行くという。
そういう時代だったのか、ならその舞台のポスターはミュシャだっただろう、と何か現実味を感じた。