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Posted by ブクログ 2023年01月27日
トルストイ後期の中編2作を収録。普遍的なテーマ「死」「性と愛」をめぐる葛藤を鋭く描き、共感と議論を呼んだ。
【イワン・イリイチの死】
冒頭でいきなり死亡が告げられるイワン・イリイチ。45歳で死んだ彼の生涯は、果たしてどのようなものだったのか、死の間際に何を思ったのか、をたどるのが概要。
外聞をは...続きを読むばかり仕事と家庭生活を切り分ける、つまり建前と本音を常に使い分けるようなイワン・イリイチの生き様の描写には、現代人を風刺するようなところがある。やがて病気により徐々に死に向かっていくなかで、そうした生き方が間違っていたのではないかと人生を振り返ることになる。
嘘に塗りかためられた周囲の反応から、精神的に孤立してしまうが、召使のゲラーシムとだけは心を開いた交流ができる。その理由が非常に鋭い人間心理の描写となっており、この作品の本質を象徴するポイントだといえよう。
「人生がこれほど無意味で、忌まわしいものだったなんて、おかしいじゃないか。……ひょっとしたら、私は生き方を誤ったのだろうか?」
自問自答に果てにイワンが見出した答えとは……。トルストイ後年の精神性をうかがえる作品だったと思う。
【クロイツェル・ソナタ】
結婚観の論争から始まる本作。肉体的な性愛を超えた精神の親和ですらも、生涯続く愛情とはならず、現代の結婚などまやかしに過ぎないと豪語する白髪の紳士。陰のある彼の打ち明け話が本作の物語である。
「性欲は悪です。恐るべき悪です。それは戦うべき相手であって、われわれの社会のように奨励すべきものではありません」
という、性愛に対する徹底した否定的目線から、結婚生活における愛と憎しみを描いて読者に何かを問いかける。
すべての男女にとって関心の尽きない問題について、「告白型」という引き込まれる語り口で提示されるので、読みやすい。既婚、未婚に関わらず、一度は深く思索してほしい作品。
Posted by ブクログ 2021年08月20日
イワン・イリイチの死に際しての内的変動と思考傾向から感じるものは、強迫観念に刈られている人から感じる印象とよく似ている。
一言でいうところの生きたがり、死を避けようとする強い意思、そのくせどこへ向かいたいのかはっきりしない。生きてどうしたいのかが見えてこない。生きてる間に何をなしたいのかの不明瞭さ。...続きを読む
目的もないのに、どうして生という手段にそこまで執着できるのか?そこがよく分からん
Posted by ブクログ 2021年07月04日
文学の凄まじさ。どちらの作品も、強烈激烈な、恐怖にも似た感動に震える。
ある人にとってはとても危険な本である。とにかくトルストイの恐ろしさと素晴らしさに敬服!
ベートーヴェンとトルストイ、2人の天才が生み出した芸術に、人間としての喜びを感じた数日だった。
Posted by ブクログ 2021年04月10日
嫉妬は古今東西普遍的なテーマですよね。
トルストイの結婚制度、愛について描写。
キリスト教的価値観との間に生まれる矛盾の描写は非常に印象に残った。
Posted by ブクログ 2017年12月04日
●「イワン・イリイチの死」
トルストイが死んだのは1910年。20世紀に入ってからである。
シェイクスピアが活躍したのが1600年代で、日本でいえば江戸時代にあたる。にもかかわらず登場人物の言葉や行動が今のわれわれに強く訴えかけてくるのは驚くべきことで、ハムレットなどは、主人公が現代人であっても...続きを読むちっともおかしくない。それがシェイクスピアのすごさであり、普遍性なのだろう。
ただシェイクスピアの戯曲の登場人物は、王様や王子や女王であることが多くて、これらの人々はわれわれの親類縁者にはあまりいない類の人々であるから普段どんな生活を送っていたかとなると、ほとんど知るところがない。別種の階級、別種の社会層に属する人間たちである。
これがトルストイになると、登場人物はもうわれわれと同じ種類の人間である。本書に収められた2作品のうち、イワン・イリイチは官吏であり、クロイツェル・ソナタの主人公は貴族であるが、その生活感覚はわれわれと変わるところがない。シェイクスピアの作品そのものは現代的ではあるけれども、主人公たちはわれわれの毎日の生活から遠いところにいる神話の英雄やなにかのシンボルに思えるのに対し、トルストイの人物は、この社会で暮らしている一般の社会人となんら変わりがない。血肉を備えた生身の人間として、昇進の噂や世間づきあいに気を病み夫婦げんかに疲れた人間としてそこに描かれている。毎日われわれの隣で働いている人々とちっともかわらない人間として描かれている。
「イワン・イリイチの死」は、ある高級官僚(裁判所の判事)の一生を描いた作品である。
トルストイがこの作品を書いたのは58歳の時。すでに「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」を完成させ、文豪としての名声を確立した後、次第に宗教的傾向を深めつつあった時期の作品である。
この作品は、そうした大作家が、悠々と自分の書きたいことを書きたいように書いたらこういうものができましたといった風の、自然でのびのびとした感じがする作品で、そこにはトルストイの作家としての自信や余裕がうかがえて、読んでいるこちらとしても大家の練達の話術に安心して身を任せておけば、知らず知らずにその先その先へとページをめくらざるをえなくなる、そういった興味深くて面白くてためになる物語である。あちこちにちょっとしたジョークがちりばめられていて、翻訳を通してなのでけらけら笑うというところまではいかないけれども、たぶんあちらの人が読んだらくすぐられる箇所が多いのではないかと思う。すくなくとも中盤までは。
じつは内容は深刻なのである。
官僚としてまっとうな一生を送ったはずの主人公が、死を前にして、自分の人生はなんであったのかという疑問にとらわれ、煩悶に煩悶を重ねたあげく、最後の瞬間にようやく救いを得、そして死ぬ、というのが粗筋である。
彼の一生は、この社会に生きるわれわれとって、至極あたりまえの一生のように思える。あたりまえというよりむしろ模範的といえるかもしれない。彼にはなんのやましいところもないように思える。唯一欠点があるとすれば夫婦仲の悪いところであろうが、それでも彼はこういう心がけで臨んでいるわけであり、これはこれで立派な態度だと思う。
結婚後わずか一年ばかりで、イワン・イリイチは次のことを理解した。つまり結婚生活は人生におけるある種の利便を提供してくれはするが、本質的には極めて複雑で困難な事業であって、そこで自らの義務を果たし、世に認められるような立派な生活を営むためには、ちょうど勤めに一定の姿勢が必要なのと同じように、結婚に対しても一定の姿勢を築きあげる必要があるのだ。(p42)
問題は、彼が採った一定の姿勢というのが、ひたすら「自分一個の陣地である勤務の世界に逃げ込み、そこに快適さを見いだす」(p42)ことであったという点である。だが、これもそんなに責めるわけにはいかないだろう。そうでないような男性がこの世の中にそうたくさんいるとは思えないからだ。普通一般のサラリーマンが「仕事だから」といって家庭の義務から逃れようとするとき、そこで生起している心理現象の多くはトルストイのこの言葉によって説明できるのではないかと思うが、ただし私はそんなことを思ったためしがないので、正直いうとその点はよくわからない。あくまで推測で言っているだけである。
それはともかく、病を得る前のイワン・イリイチに限らず、その妻、その娘たちの生活や感情を、トルストイは身も蓋もなく書いていて、作品の中で読むと、彼らがなんだか悪者のように思えるけれども、その行動は普段のわれわれがやっていることと変わりはない。
たとえば寝たきりになったイワン・イリイチの部屋を、舞台を見に行くために着飾った妻と娘とその婚約者が訪れ、憤怒に駆られた主人公との間に気まずい沈黙がながれ、彼らが立ち去ったあと「嘘は連中とともに去った」(p117)と描かれているが、だからといって妻や娘やその婚約者が悪いわけではあるまい。寝たきりの病人と健康な人間とでは活動に違いがあるのは当然だし、態度が嘘くさいので嫌だと言われたって、では当人の目の前でその人間の死について率直に語り合えるかといったらそんなことできるわけはない。それが偽善に映るなんていうのは単なる病人のわがままである。
あるいは冒頭に出てくるイワン・イリイチの葬式の場面。同僚のピョートル・イワーノビッチは、葬儀に参列しながら、その後のトランプ・ゲームのことを考えているわけだが、こういう態度は不謹慎だという人がひょっとしたらいるかもしれないけれども、会社の関係で葬式に出たことのある人ならだれでも経験しているとおり、なにも葬式だからといって厳粛な気持ちになるなんてことはなくて、考えている内容といったら、次の会議に間に合うかどうかだったり、仕事の締め切りだったり久々に顔を合わせた昔の同僚と葬儀が終わった後でどこかで一杯やろうかということだったりするので、われわれと彼とは五十歩百歩である。登場人物たちの言動が不遠慮で不作法でありえないことだと思えるとしたら、それはたぶん社会的経験が少ない少年少女の読者たちだろうが、世の中というのはそういうものなんです。いい年をした大人でそれはおかしいなんて言う人がいたら、単にカマトトぶっているか、世間知らずの馬鹿である。
つまりここで出てくる人々の姿は、まさにわれわれ自身の姿なのである。
世の中とはそんなものである。そうしてそれが悪いとも思えない。
しかしトルストイは違う。
トルストイが主人公に語らせているのは、そういう生活は、人生は、無意味であり、偽善であり、嘘っぱちだということである。
死を目前にしたイワン・イリイチは、煩悶する。
煩悶して、次第に真相に近づいていく。
結婚……そして思いがけない幻滅、妻の口臭、肉欲、偽善! それからあの死んだような勤め、それからあの金の苦労――こうして一年がたち、二年がたち、十年がたち、二十年がたった。そしていつも同じことの繰り返しだった。時がたてばたつほど、ますます生気が失われていった。(p121-122)
「ひょっとしたら、私は生き方を誤ったのだろうか?」不意にそんな考えが浮かんだ。
「しかし何でもそつなくこなしてきたのに、いったいどうして誤ったのだろう?」(p122)
「だがいまさらそんなことを認めるわけにはいかない」自分の人生が法にかなった、正しい、立派な人生であったことを思い起こしながら、彼はそうつぶやいた。「そんなことは決して認めるわけにはいかないぞ」彼は唇を笑いにゆがめた。(p127)
ふと彼の頭に、もしも本当に自分の全生涯が、物心ついてからの生涯が「過ち」だったとしたら、という考えが浮かんだ。(p130)
彼の仕事も、生活設計も、家族も、社会の利益や職務上の利益も――すべて偽物かもしれない。彼はそう思う自分に対して、それらすべてのことを弁護しようとしてみた。すると不意に、自分の弁護がいかにも根拠薄弱だと感じられてきた。そもそも弁護すべきものが何もないのだった。
「もしもその通りだとしたら」彼は自問した。「私は自分に与えられたものをすべて台無しにしてしまって、もはや取り返しがつかない、ということを自覚しながらこの世を去ることになる。その時はいったいどうなるのだろうか?」彼は仰向けに寝たまま、まったく新しい目で自分の全人生を振り返りはじめた。(p130-131)
そして、ついに、
翌朝、彼は従僕と顔を合わせ、それから妻と、娘と、医者と顔を合わせたが、彼らの一つ一つの動作、一つ一つの言葉が、夜のうちに見出された恐るべき真実を彼に実証してくれるものだった。彼らのうちに彼は自分を見出し、自分が生きがいとしてきたものをすべて見出した。そしてそうしたものがことごとくまやかしであり、生と死を覆い隠す恐るべき巨大な欺瞞であることを、はっきりと見て取ったのだった。(p131)
死ぬ前にこんな心理状態になったらたまったものではない。
イワン・イリイチはこの発見によってさらに苦しむ。
この意識は彼の身体の苦痛を何倍にも強めることになった。彼は呻き、のたうち、自分の着衣をむしりとろうとした。着衣に胸を締め付けられ、押しつぶされるような気がしたのである。そしてそのせいで、彼はさらに周囲の者たちを憎んだ。(p131)
その後の悽愴な描写は、破滅を自覚した精神の叫びである。
では、どうなるのか。
主人公は破滅したまま死んでしまうのか。
絶望のままで終わるのか。
ここで不思議なことが起こる
解決はむこうからやってきた。
彼は暴れていた。そして一瞬ごとに、いかに全力で抗おうとも、自分がどんどん恐怖の源へと近づいていくのを感じていた。
彼は感じていた――自分が苦しむ理由は、この真っ暗な穴に吸い込まれようとしているからだが、しかしもっと大きな理由は、自分がその穴にもぐり込みきれないからだと。穴にもぐりこむのを邪魔しているのは、自分の人生が善きものだったという自覚であった。まさにその自分の人生の正当化の意識がつっかえ棒となって彼の前進を阻み、なによりも彼を苦しめているのだった。(p135)
そして、
不意になにかの力が胸を突き、わき腹を突いて、さらに息苦しさがつのった。と、彼は穴の中を落下していった。そして前方の穴の果てに、なにかが光り出したのだ。汽車に乗っていると、前に向かって走っているつもりでいたところが実は後に向かっていて、突然本当の方向を自覚することがあるが、ちょうどそのようなことが彼の身に起こっていた。
「そう、なにもかも間違っていた」彼は自分に語りかけた。「だがそれだってかまいはしない。」(p135)
これはまさにイワン・イリイチが落下しながら光を見いだし、自分の人生は間違っていたが、まだ取り返しはつくという認識を得た瞬間のことであった。(p136)
いったいなにが起こったのだろうか。
死の代わりにひとつの光があった。
「つまりこれだったのだ!」突然彼は声に出して言った。「なん歓ばしいことか!」
彼にとってこのすべては一瞬の出来事だったが、この一瞬の意味はもはや変わることはなかった。(p138)
そしてイワン・イリイチの死。
やつれ果てた体はときどきびくっと錬磨していた。それからぜいぜいいう音もヒューヒューいう音も、徐々に間遠になっていった。
「終わった!」誰かが彼の頭上で言った。
彼はその言葉を聞き取り、胸の中で繰り返した。
「死は終わった」彼は自分に言った。「もはや死はない」
彼はひとつ息を吸い込み、吐く途中で止まったかと思うと、グッと身を伸ばしてそのまま死んだ。
(p138)
いったいここで作者は何を語っているのだろうか。
われわれに何を呼びかけているのだろうか。
答えは明らかだ。
イワン・イリイチは最後に光を見出し、救いを得た。
ここでそういう言葉は使われていないが、彼は「神」を見出した。そして自己の生があるがままで肯定されていることを、すなわちすでに救われていることを知った。それは自己の思い煩いによってそうであるのではなく、彼の思いに先立ってすでにそうだったのであり、すでにそこにあったのである。彼が自分で自分の人生を正当化している限り、前の方を向いていると思って実は反対方向を向いている限り得ることのできないものであった。彼が自分を完全に捨て去って(則天去私!)初めて発見できるなにかであった。そしてそこには死はなく、永遠の生があった。
とまあ、なんだか分かったふうなことを言っているけれども、それについて私がなにか知っているというわけではない。これまでどっかで読んだ本の受け売りである。「そしてそこには死はなく、永遠の生があった」なんて書いたけれども、具体的な意味が分かって書いているわけではありません。
けれども、この物語の後半部分、煩悶を経て主人公が光りを見出すに至った経緯は、トルストイの実体験に基づくものだろう。そうして、彼がここで描いている人々の暮らしは、何度も繰り返すようだけれども、われわれの暮らしそのものであって、そういったものが虚偽であるという指摘は説得性を持っている。というか、おそらくそれは正しいのだろう。
では、そのことがわれわれにどういう意味をもつのか。
トルストイはわれわれに何を呼びかけているのだろうか。
イワン・イリイチの煩悶と苦悶を、われわれは皆、死ぬ寸前に抱えるだろうということだろうか。われわれも彼と同じように、自己の人生の意義に根本的な疑念を抱き、のたうち回るだろうということだろうか。死の寸前の断末魔の苦しみというのは、人々がこういうことを自覚して苦悶している姿なのだろうか。
そうしてわれわれもまた、死の間際に光を見出すだろうということだろうか。
そんなはずはない。
まず、多くの人々にとって、トルストイの問いは問いにならない。呼びかけにもならない。イワン・イリイチの妻にも、娘にも、息子にとっても、その問いとは関係なく人生は過ぎていくだろう。われわれの多くにとってもそれは同じだろう。
人によってはたしかに、同じような疑念が、死に至る寸前かも知れないし、トルストイ自身のように名声を極めた後かも知れないし、夏目漱石のようにロンドン留学中かも知れないけれども、そのような疑念が襲ってきて徹底的に苦しめられる、そういうことはあるだろう。多くの若い人々のように青年期にそのような疑問に囚われ、それが後々ふとした瞬間に頭をもたげてくるということはあるだろう。
結局その問いは「おまえは何のために生きているのか」ということに尽きる。
それは自分一個にかけられた問いであり、それにどう答えるかはそれぞれの問題である。
はたしてトルストイはそれにうまく答えられたのだろうか。いやそれは僭越な問いだ。問題は一人一人にかけられている。トルストイの問題はトルストイ自身が解決しなければならず、われわれの問題はわれわれが解決しなければならない。そしてトルストイはその問題の彼なりの仕方での解決を、われわれの先達として、ここでわれわれに提示してくれているのだ。それをどうするかはわれわれ自身の問題だ。
とはいえ、かりに人生が虚偽に満ちているとしても、その意義を問うことにどれだけの意味があるのだろうか。もしほんとうに人生が誤っているものだとしても、それをどうしようがあるのだろうか。
この作品では、イワン・イリイチが最後の瞬間に光を見出し、ハッピーエンドの結末が訪れたことになっているが、はたしてほんとうにそうなのか。あそこでは光があった。あのようにトルストイは光を見出したのだろう。しかし答えを求めて得られない場合もあるのではないか。ひょっとしたらそういうことの方が多いのではないか。この問いを問うために出発しながら途中で遭難し、煩悶しながら倒れた人間の方が圧倒的に多いのではないか。だからそういうことはやらないほうがいいのではないか。
いや、このような功利的な設問の仕方自体に実は問題があるのかもしれない。
いや、しかしどうなのか。
最初にこの作品は自然にできあがったふうにみえるといったが、実は巧みに構築されていて、われわれの行動や思考パターンも、すでに作者が予見しているようである。
冒頭に置かれたイワン・イリイチの葬儀、同僚のピョートル・イワーノヴィチが死者の顔を眺める場面で、
その顔は生前よりも美しく、そして肝心なことに、より威厳があった。そこには、なすべきことはなしてきた、しかも過たずなし遂げた、といった表情が浮かんでいた。
おまけにその表情はさらに、生きている者に対する叱責ないし警告も含まれていた。その警告は、ピョートル・イワーノヴィチには場違いなもの、もしくは少なくとも自分には無関係なものと感じられた。
なぜだか不快感を覚えた、ピョートル・イワーノヴィチは、もう一度そそくさと十字を切ると、われながら礼を失していると思われるほどの勢いでくるりと後ろを向き、そのままドアへと向かったのだった。(p17)
われわれもドアから出て行くべきなのかもしれない。
そして歳を取るということは、こうした問いや警告に対して、老獪になれるということでもあるのだが……
●「クロイツェル・ソナタ」
クロイツェル・ソナタといえばべートーヴェンの有名な曲だけれども、どんな曲なのかは知らない。聴いたことがあるかもしれないけれどメロディは浮かんでこない。しかしこういうタイトルだから、きっとロマンチックなストーリーなんだろうなと思って読んでみたら性欲の話なのでびっくりした。こんなに有名で偉大で、しかも道徳的倫理的傾向が強いと思っていた作家の作品が、男女の肉体関係のことばかりだなんてスゴイ。
だからといってセクシーな場面があるわけではないので念のため。トルストイはやっぱり真面目すぎるほど真面目だから、ここでのテーマは、男女の肉体関係および人としての正しい生き方とはどういうものか、ということのようである。
この作品の中で、トルストイは女性が男性の性欲の対象としてしか扱われていないことを強調し、女性がそういうかたちでして生きていけない境遇を憐れむ一方で、そのために生じる女性の振舞いを浅ましいとして徹底的に非難する。
「男が高尚な感情のことを持ち出すのは嘘をついているに過ぎず、男に必要なのはただ肉体だけである。したがって男はあらゆる醜行は許しても、無様であか抜けない悪趣味な服装は、許しはしない……商売女がこのことを意識的に知っているのに対して、穢れなき処女はみな、これを無意識に、つまり動物のような仕方で知っているのです。
ここからメリヤスのセーターでボディ・ラインを露わにしたり、腰当てをつけてヒップをふくらましたり、肩や腰、はては胸までをむき出しにしたりといったファッションが生まれてくるのです。女性は、とりわけ男性経験から学んだ女性は、たいへんよくわきまえています――高尚な話題を巡る会話なぞはしょせんただのおしゃべりに過ぎず、男が必要としているのは肉体、および肉体をもっとも魅力的な光で浮き立たせてくれるものすべてであると。」(p180)
「まったくこれはもう、遊歩道にも路地にもいたるところに罠が仕掛けられているようなものです。いやそれよりひどいくらいですよ! そもそも賭け事が禁止されている一方で、女性がまるで娼婦のような、性欲を刺激する衣装を着るのはどうして野放しにされているのでしょう! 女性のほうが千倍も危険でしょうに!」(p191-192)
では作者にとって、理想的な男女の肉体関係のあり方というのはどういうものであるのか。それはただ、動物がそうであるように、子孫をもうけるためだけにおこなわれるガチンコ試合だけが、それにふさわしいものであるらしい。ところでトルストイが子供を13人ももうけたのは、そういうガチンコ試合がよっぽど好きだったせいではないか、おまけに私生児までもうけているのはいったいどういうことなんだ。トルストイの私生活を知った読者が必ず言ってみたくなりそうなことを私もここで言っておこう。
トルストイはこの時61歳。単に若い者同士がいちゃつくのを許しておけない気難しいジジイと変わらない気もするが、そういう年寄りに限って、むかしは道楽をやり尽くしていたりする。それはともかくトルストイによれば、女性のそういう煽情的な態度や行動は、あくまで男性側に原因があるとする。女性を快楽の道具としか取り扱わないからだ。
だがまあ、そういう考え方も含めて、ここで語られているのはすべて男性側からの理窟だな。トルストイはへりくだって語っているけれども、その謙遜は傲慢さの裏返しでしかない。
しかし、これはこれで面白い理窟だ。
この作品も、読んでいて飽きさせない。
後半は、主人公とその美しい妻とのあいだに起こった事件が物語られる。それも一気呵成に読める。
二つの作品とも、大人向けの作品だと思う。
これをもし20代で読んでいて、そのあと読まないでいるとしたら実にもったいない。30代、40代、あるいはもっと年を経てから読むと、とても面白いと思う。身につまされるところが多い。
トルストイはかなり面白い。そういうことを再認識できた一冊だった。
Posted by ブクログ 2014年01月09日
和訳ですらこれだけの迫力.面白い.
クロイツェル・ソナタでの独白もなぜか妙に説得力を感じる.音楽の力をネガティブに書きつつ高く評価しているようなところには,なるほどと思った.
Posted by ブクログ 2013年08月31日
本当にこの人の本は本を読んだという
思いを私たちにさせてくれます。
ロシア文学は難しいなんて
言われますが、そうではないと思います。
どちらも「死」がテーマとなる作品です。
特に後者は妻殺しをした男の
告白となります。
だけれども、そこまで至る経緯は
ここまで極端ではないものの
誰しもが抱いたこと...続きを読むのある
感情ばかり。
結婚前に読むか読まないかでも
だいぶ違いそうな本です。
Posted by ブクログ 2012年11月24日
幸福の虚妄と言う点で文学の優れた業をみせている。裕福に暮らすロシアの中流階級層の人間が、世俗の欲望を追うこと意外に生きる意味を見出せない時、愛欲、嫉妬、憎悪といった利己心の中で、人間の「幸福」の条件を焼き滅ぼしてしまう、という内容。
Posted by ブクログ 2012年02月02日
私の読んだ文庫は『イワン・イリイチの死』と『クロイツェル・ソナタ』の二篇が入っているが、どちらともトルストイ後期の重要な中篇小説。
『イワン・イリノチの死』は、実在の裁判官メーチニコフの死を知って着想を得たもの。
トルストイは、イワン・イリイチが、はっきりした死に向かうために生きている数ヶ月を驚くほ...続きを読むどリアルに描写している。
トルストイはリアリティをもって人間の心の奥の穏然たる汚濁を表出させて小説を書く。
弱って立つことさえもできなくなって威厳もなにもなくなったときでも、妻には頼らず、ゲラーシムという下男だけには素直になり、感謝していた。イワン・イリイチは最悪の孤独をこの健康な下男によって最低限癒されることになる。
この小説の各所に配された隠喩に気付き、奥の奥を読み解くことを、訳者の望月さんがされて解説に書かれている。
『クロイツェル・ソナタ』とは、ヴァイオリニストのルドルフ・クロイツェルに捧げられたベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第9番を指すものであり、トルストイはこの楽曲に感銘を受け、本作品を執筆した。
また、トルストイの『クロイツェル・ソナタ』に大いなる刺激を受け、チェコの作曲家、レオシュ・ヤナーチェクが、弦楽四重奏曲を同名で発表している。
Posted by ブクログ 2012年01月22日
ここに至るまでの葛藤の軌跡をもっと知りたい。
「イワン・イリイチの死」は本当にすごい小説だと思った。
死に至るまっすぐな道のりと感情、死の瞬間、開放。
「クロイツェル・ソナタ」は愛についてと罰について。
およそ小説家が書くべきことがこの2編に収まっているという感じを受けました。
Posted by ブクログ 2011年09月02日
一人の高級官僚が些細な怪我をきっかけに死ぬことになっていくまでの心の描写です。トルストイのスゴイと感じるとこるは、死んでいくまでの間の心の描写を、自分が経験したかのように描いたこと。この作品から感じたが、この世のチープな出世、僅かな金銭、そんなもののために、命を削り家族との触れ合いを犠牲にして生きて...続きを読む行く愚かしさを気付くきっかけになった。世間で成功と持ち上げられているものは、死の前では無力だ。自分が死ぬ時にあの世に持って行けるものは家族との思い出だけだな。
Posted by ブクログ 2011年07月16日
一見すると「死」をテーマにしているようだが、本当のテーマは「心の目覚め」だ。
主人公は病床で肉体的苦痛に苛まれながら、苦痛、死、人生の意味など答えのない自問が次々に湧き起こり、精神的にも苛まれていく。
死の直前になって、ようやく地位、名誉、世間体、経済的な富裕、他者との比較評価など、自分が当たり...続きを読む前のように信じていた人生の価値尺度が全て「間違い」だと気づく。
凡人を主人公にしたのは、この主人公こそわれわれ読者であり、他人事ではないという著者のメッセージだ。
死の間際に、まだ「すべきこと」ができると気づいた主人公は、息子が手にしてくれたキスで心が目覚める。
最後に自分のことを忘れて家族のことを思って、いまその瞬間にできることをして、息を引き取る。
心の目覚めた主人公にとって、「もはや死はない」のだ。
このメッセージは、裏を返せば「心の目覚めない人生は死んでいるのと同じ」ということかもしれない。
数々のベストセラーで知られる心理学者ウェイン・W・ダイアー博士も影響を受けたという示唆に満ちた短編小説だ。
Posted by ブクログ 2011年03月06日
善良な人生は幸福な死へとつながっていく。
「死は終わった」との表現に、時間軸としての生と死の概念を超えて、悟りの境地に至ったと思われる。
イワンは自らの死に臨み、何を見たか。
良書!!
Posted by ブクログ 2024年04月14日
▼えぐいです。トルストイさん。
▼「イワン・イリイチの死」は、俗物の役人(貴族なんだっけな)が結婚して働いて子供もできて出世もするけど中年?初老?で病を得て死ぬ。なんだけどこの人がもう、なんのためにどう生きてきたのか、人生が絶望至極の中で病にもだえ苦しむ姿が、もう圧巻‥‥。実にひやりとじめっと冷た...続きを読むくて絶望的な強烈さと突き放したユーモアに包まれる衝撃。
▼「クロイツェル・ソナタ」要するに「嫉妬の余り妻を殺害しちゃった男の回想物語」なんです。19世紀?20世紀初頭?のロシア社会のなかで、この人は別段死刑にならずに数年して社会復帰している。そして、たまたま列車で乗り合わせた若者が、知識ゼロから彼の回想を聴く、という趣向。
▼嫉妬に心さいなまれ、壊れていく人格の描写がすごくって・・・。ふっと思い出したのは別の本の以下のやりとり。
「私は人を殺すような人間ではありません!」
「たれだってそうだ。最初の殺人を犯すまでは」
(薔薇の名前だったか?)
▼比較すれば、当たり前なんですけれど「戦争と平和」にはかないません。「アンナ・カレーニナ」だって相当にレベルが違います。それにしても強烈な中編ではあって、トルストイっていう人も中年期に代表作書いちゃったから、老年期の創作っていうのは一種もどかしさもありながらも、それでもやっぱり力はあるんだなあ…と思い知りました。
Posted by ブクログ 2024年03月30日
『イワン・イリイチの死』が特に好きだった。
私もとある病気で、この苦しみから逃れられるくらいなら死んだっていいって思うくらいのお腹の痛みに苦しんだことがあるので、イワン・イリイチの苦しみの描写はとても共感できた。
病気になると、周りは最初は心配してくれていても、そのうちこの嫁のように疎ましく思ったり...続きを読む病気になったことや苦しんでいることが他人への当て付けなんじゃないかと思われたりすることは本当にあるし、病気のせいで周りを暗い気持ちに引きずり込んでしまうこともよくあることだと思う。
自分の人生は間違いだらけだったんじゃないか、こんな時に甘えることができるのは使用人だけなのかとか、なぜ自分だけがこんなに苦しまなければいけないのかとか…読んでいてすごく苦しかった。
解説にもあるけど、恐れ→拒絶→怒り→戦い→絶望→鬱→受け入れという段階を踏むのも共感できた。
最後に死を目前にして、「なんと歓ばしいことか!」「死は終わった」「もはや死はない」という場面があるけど、本当にそうだと思う。
恐ろしいのは死自体ではなくてその瞬間に辿りつくまでの痛み苦しみを乗り越えるところだと私は思っているので、やっと全てにケリがつくと悟った段階でもうそれは死ではなくて救いや安堵だったのではないかなと思う。
『かつて光があり、今は闇がある』という部分も好き。
『クロイツェル・ソナタ』に関しては、一言で言うとなんだこの男……って話。
汽車の中でたまたま相席になった男が、いや実は自分は妻を殺してましてね……と話し出す、というとサスペンスのようだけど、実際は性愛についてみたいな部分が多くてちょっとうんざりした。
性欲に支配されすぎたおじさんにしかみえなかった。性欲がすべての中心すぎる。
ここまで人間て性欲だけで動いてるの!?って絶望しそうになるほど性欲のことばっか考えてる。
これは禁欲の大事さを訴えたかったのかな……?
女を人間とも思わないような思想をずっと聞かされるのでだいぶしんどいけど、やっぱり小説としてはうまいのかなと思う。
嫌だななんだよこのおじさん……と思いながら一気に読めた。
読後クロイツェル・ソナタを聴いてみた。
主人公が言わんとしてることはなんとなくわかった。
Posted by ブクログ 2023年03月01日
黒沢明監督の現代映画『生きる』がイシグロカズオ氏の脚本でリメイクされたと聞き、改めて生きるを視聴しよう!と思った矢先に出会った一冊です。
黒沢監督はこのトルストイの短編から着想を得て、死を間際にした男が何を考えるか、説こうとしました。
本作品はその原型として読んでみたのですが、似た展開をしつつ、違...続きを読むうものです。
黒沢映画は、作中で主人公の死を突然挟むことで、観るものに驚きを与える効果を狙ったようにみえます。
前半だけ観ていたら『もしかしたら彼は助かるかもしれない』と思うこともできる。
対して、トルストイはそういった驚きよりも、不可避の死を冒頭数ページで描写します。
助かるかどうかという可能性はゼロにして、必然的に起きる死に対して、その過程が書かれます。
最期の数時間の描写は三度読みするほど迫真です。
この原作と『生きる』、そして2023年公開の『living』を一気見して、三者三様の死との向き合い方を比べてみようと思います。
Posted by ブクログ 2022年03月20日
イワン・イリイチの死、病床、介護や会話や苛立ちや自己嫌悪や父の言動やを思い出させた。どういう思いがあってトルストイはこれを書いたのだろう。
クロイツェル・ソナタ、男性に意見を聞いてみたい。
いいとか悪いとかではなく、そういうものなのかどうか知りたい。女性もか。大っぴらに話さない話題だし、女性は女性...続きを読むの、男性は男性の感覚で把握してるだろうからお互いそんなに違うと思っていないだろうから人によって違うくらいに思ってた(少なくとも自分は)。が、これを読んで、一般的な傾向なのか(一般的っておかしいのかもしれないが)、疑問に思った。世の中に性描写がある小説が多いのはそういう背景があるからなのか、、、?入れる意味がある?って思う本も結構あり、意味が理解できないのは何か理解できてないからなのか、、、?
以前に男性と女性は全く違う生き物で、ただ女性は男性を別種と思ってるくらいの違いだけど、男性からみた女性は異星人クラスの違いと読んだことがあったけど、どうなんだろうこの話、と思う。「そうそう」って思うのか、「そういう人もいるよね」なのか、「おはなし」と感じるのか。
それにしてもクロイツェル・ソナタって実在のベートーヴェンの曲だったのか。聴いてみよう。音楽に無知すぎて情けなくなる。
Posted by ブクログ 2020年01月21日
面白い。人の心というものが、現代でもあまり変わっていないのがわかる。トルストイという作家の凄さというのもよく感じられる短編。日本でいうと明治時代ということも加味するとより楽しめる。
Posted by ブクログ 2018年04月07日
イワン・イリイチの死について
判事のイワン・イリイチは、職務として自分に関係する人物には丁寧で慇懃に接する一方、職務上の関係がなくなると同時に、他のあらゆる関係を絶っていた。すなわち、職務上のことをきっぱりと切り離して自分の実人生と混同しない性格であった。その性格ゆえ、家族との関係に優先して、社交的...続きを読むであることを大切にし、体裁を保つことを考えていた。
ある時、わき腹が苦しく、正体不明の病気になった彼は、その性格から同僚には強がり、家族からは相手にされず、孤独感と死との恐怖に怯える日々を過ごしていた。酷く衰弱していた彼の慰めとなったのは、嘘を決してつかない性格で、イワンが虚栄心を張らずに心を許せる台所番のゲラーシムだけとなった。
痛みに苦しむイワンは、死の直前、ひとつの光(自分にとっては、死の恐怖が消えたこと、家族にとっては、自分が死ぬことでつらい目から解放されること?)を見ながら息をひきとるのであった。
人間にとって普遍的な死について、実在の裁判官の死をきっかけに構想した、後期トルストイの代表的な中編小説である。
裁判という形式を重んじる舞台で強者としての権力を行使していた彼が、弱者になった途端、医者(強者)のいつも変わらない形式ばった自己満足のような診断に憤りを感じるという皮肉が描かれている。また、共同体に属する社会的個人として、将来を約束された有望なイワンが、孤独でもう戻ることのできない死という絶望に苦しむという対比が見事に描かれており、そういう点で、主人公はこのような性格・境遇でなければならなかったといえよう。
また、うわべの嘘が憎いこと(116頁)、死ぬ理由を知りたいと願うこと(127頁)は、社会的弱者となったイワンが判事という論理的思考が要求される職務に矜持を持って取り組んで来た彼の性格ゆえに思った本心なのであろう。
全体を通じて、①「人間の死」について、②「社会的強者と弱者の関係」について見事に描いている作品であると考えられる。
Posted by ブクログ 2017年04月10日
終わらない上り坂はない。
山登りやヒルクライムでしんどいときにいいきかせる言葉だ。
もしこの坂が永遠につづくとおもうと、のぼりの苦しさの途中で心折れて足をついてしまうだろう。
一方で来年50をむかえる身としては、上り坂のあとに下り坂がある、ということが現実的になってきた。
下り坂のゴールは「死」であ...続きを読むろう。
トルストイによる死についての本である。
イワンクロイツはごく平凡な地方官吏。ふとしたことから死にいたる病になり、病床でそのときを迎える。
その死ぬプロセスの間で、自分はほんとに人生をいきてきたのか?人の期待や世間の相場ばかりにあわせてないか?を自問自答し煩悶する。
自分は何もえてない、なんにもやりたいことをやれててない、と薄れいく意識のなかで煩悶する。
しかし最後の最後で、これ以上、家族を、愛息を苦しませないためにも自分は死を、と、考え方を自分の後悔から他人に何かをあたえるというふうにかえたあとで心に平穏がおとずれ幸せのなかで死んでいく。
与えれば与えるほど得るものはおおきくなる、というネイティブインディアンの言葉があるがそれを重い読後感であった。
Posted by ブクログ 2015年09月23日
性と死。トルストイってこんな文章も書けるのか……。
イワン・イリイチの死に様に戦慄、ポズヌィシェフの恋愛・結婚観に共感。世間一般から見ると相当僻んでる部類に入るらしいが。
普段あまり考えたくないことについてはっとした時に、ぜひ。
Posted by ブクログ 2013年09月03日
一人の死が周りに与える印象,という側面で非常に興味深く読んだ。死後に残されたイメージの重要性を喚起する作品である。
しかし,ラストで宗教的に勢い良く昇華されてゆく部分は正直よくわからず置いて行かれた。
Posted by ブクログ 2013年03月07日
訳者よりねだり、奪い去るように手に入れました。
先生、ごめんなさい(汗
岩波の米川訳と比べると、丁寧に読みやすく…と腐心された訳者の姿勢が見えて、大変嬉しく読み進められました。
Posted by ブクログ 2012年10月17日
ストーリーはシンプルで、あってないようなもの。「イワン・イリイチの死」はイワン・イリイチが死ぬだけ。しかし、死に至るまでの心の葛藤がなんともリアルですさまじい。死に直面したときの葛藤や絶望を描くだけでここまで読ませる小説が書けるのか。スゴイ。
自己を欺瞞して生きてきた人間と欺瞞にあふれた世間で生きて...続きを読むきた人間の末路がテーマであるということができると思う。多くの文学作品でも描かれているように、本書でも欺瞞は絶望を呼ぶ。普遍的なテーマを描いた作品のなかでも、ストレートなぶん強烈な読後感が残る一冊。
Posted by ブクログ 2012年02月15日
人は普段無意識に死を遠ざけ、自分だけは死ぬはずがないと考えている。
イワン・イリッチもそう考え自らの価値観を保つためだけに生きてきたが、死の間際になり自らの死ぬことを悟り、その生き方が虚構に満ちていたことを悟るに至った。
『人生の短さについて』にもあるように、本当に生きるためには死ぬことを認め、それ...続きを読むを真正面から考えなければならない。問題は、それに気づくのが死の間際になってからだということだ。
Posted by ブクログ 2009年10月07日
決してハッピーな話じゃないので息が詰まる思いでしたが、ぐいぐい読めて「ははぁ」と思わされましたトルストイすごいなぁ。
私がもっと年を取ってからまた読むと良いんだろうな。
Posted by ブクログ 2024年02月12日
昨年夏にみた映画「生きる」カズオ・イシグロ版がとても良くて気に入る→お正月にそのオリジナルである、黒澤明の「生きる」を見る。なんかすごい話だな、志村喬の目の演技すごいな…。これの元になった小説があるんだ、しかもトルストイなのか→この本に辿り着く。
こんな流れで読み始めた。
トルストイは実ははじめて...続きを読む読んだ。
戦争と平和、アンナ・カレーニナ。
ドストエフスキーと並ぶ長大重厚露文作家である。
私は長大も重厚も得意ではなく、読めた露文は、ツルゲーネフ(でももう忘れた)、チェーホフ(同じく)、プーシキン(面白かった)くらい。
本書はトルストイの後期の中編が二本という構成。
◯イワン・イリイチの死
倒叙スタイル。ひどい葬式だなと思うも、イワンの人生パートに入ると面白くて目が離せなくなる。
結婚って、妻に子供が生まれることって、男にはこんなふうに見えるのか、さすがに今どきこんな考えの人はいないだろうけど身勝手150%でいろいろ不快。
でも、死というものを描くもろもろがとても手が込んでいて、面白かった。
死を前にした世界には、有無を言わせぬ迫力がある。
というか、映画と全然違うのね?!
公園もブランコも出てこないぞ。
◯クロイツェル・ソナタ
これも倒叙。列車という舞台装置が楽しい。
男女のもつれ、恋愛、結婚とは。謎のじいさんの告白。
みんなをドン引きさせたその発言の真意は。
というところから始まる、やはり現代とは倫理観の違いすぎる結婚すれからし物語。
幼稚で身勝手な男の論理にムカムカと腹が立つし、情けなくてなんだか泣けてくる。
でもやはり話はすごく上手い。こまかなボタンの掛け違い、ちょっとした関係改善と、またケンカ。
あー、あるある、と読者を納得させる力がある。
印象的だったのは、
p294
《妻ですか?そう、妻はいったい何者だったのでしょう?彼女は神秘です。昔も今もね。私には彼女が分かりません。私が知っているのは、動物としての彼女だけです。でも動物を押さえつけるなんてことはどうしたって不可能だし、またそれで当たり前なのですから。》
女をこんなに他者だと思ってるんだな。
その感覚が怖すぎる。
クロイツェル・ソナタはタイトルのとおり、音楽とその作用が物語のキイ。
いったいどんな曲だろうと思っていると、この本を読み終えた翌朝、ラジオ音楽の泉でベートーヴェンのクロイツェル・ソナタが掛かってびっくり。
こんな曲かあ、たしかに狂おしい。
Posted by ブクログ 2021年01月05日
イワン・イリイチという男の葬儀から始まるこの物語は、はじめから不愉快です。死者を弔うために集まった会葬者たちは、まるっきりイワン・イリイチの人として生き様には頓着もなく、妻は恩給を、同僚はその空いたポストを、友人は式の後の賭け事をと、イワン・イリイチのかつて所有していた社会的機能にしか着目しません。...続きを読むときは19世紀のロシア、一判事が些細な事故から三か月の闘病生活を経て死んでいく物語です。苦痛と死の恐怖の中で、破滅し、後戻りできない完全な終わりに、イワン・イリイチは何を見出すのか。
Posted by ブクログ 2013年03月17日
「イワン・イリイチの死」では、
重篤な病に倒れたイワン・イリイチが
自らの「死」を確信してから鬼籍に入るまでの様々な葛藤が描かれる。
病に冒されるまで、
イワン・イリイチの人生は法に則り、
そつなく順調に歩まれてきたものだった。
しかし、「死」は自身も周囲も呑みこみ、
あらゆる状況を一変させる。...続きを読む
恐怖、孤独、嘘、軋み、無力、神の不在、生への渇望――。
本作は、自身の死を前にしたトルストイが、
その恐怖を描き出したものだという。
確かな生を送る者には、
死の定めを背負った人間の苦悩を窺い知ることはできない。
死にゆく者と同期することの不可能性。
それを強く認識しながら遡行的に彼らと接すること。
そこにこそ、「虚偽性」からの逸脱が生じうるのかもしれない。
トルストイからの教訓に学び、
多くの死に対して誠実な目を向けたい。
Posted by ブクログ 2009年10月07日
『イワン・イリイチの死』
ロシアにおける一裁判官の死が題材となっている。
一般人としての起伏がありながらも、淡々と日々を過ごすイワンが死を意識したときの恐怖、そして後悔。
彼の今までの人生は塵芥と化し、彼の属している世界は劇的に変化してしまう。
死を抱いて生きる者の世界に対するある意味での誠実さ。
...続きを読むそこでは、ゲラーシムのような溢れんばかりの生命力と誠実さのみが許され、他のものは排斥される。
まさにニーチェの世界観。わかるものにはわかるという世界。
おそらく一般の人にはこれが特別なものとして映るのであろう。
そして一週間もすれば忘れてしまう。
最後に、イワンは「死の代わりに光」を受容する。これは一体何であろうか。
おそらく宗教的なものであるであろうが、そうであるならば今までのイワンの世界に対する誠実さは何であったのだろうか。もしくはそこまで考えさせる(わざと台無しにする)物語なのか。
『クロイツェル・ソナタ』
人間の言う「愛」というものの欺瞞さを描いている。または「愛」というものを信じている人間に対するアイロニー。
老人の起こした事件(これが違法性を帯びないというところに一般社会に対するトルストイの侮蔑を感じる)を通して、結婚生活における嫉妬(憎しみ)の苦しさを緻密に語る。
しかし、このような嫉妬という概念を有しない私にとっては、老人の行動は理解不能(私は恋人がいわゆる浮気をしてもなんとも思わないので)。
ちなみ、あえて言及すると、もし前述イワンの物語があえて台無しにする物語であるならば、同じ一冊の本の中にこの二つを入れるのはそぐわないのでは―編集者(もしくは一冊の中にこの二編を入れようと提案した者)の無能さを感じる。