トルストイのレビュー一覧
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終わらない上り坂はない。
山登りやヒルクライムでしんどいときにいいきかせる言葉だ。
もしこの坂が永遠につづくとおもうと、のぼりの苦しさの途中で心折れて足をついてしまうだろう。
一方で来年50をむかえる身としては、上り坂のあとに下り坂がある、ということが現実的になってきた。
下り坂のゴールは「死」であろう。
トルストイによる死についての本である。
イワンクロイツはごく平凡な地方官吏。ふとしたことから死にいたる病になり、病床でそのときを迎える。
その死ぬプロセスの間で、自分はほんとに人生をいきてきたのか?人の期待や世間の相場ばかりにあわせてないか?を自問自答し煩悶する。
自分は何もえてない、なんにもやりたいことをやれててない、と薄れいく意識のなかで煩悶する。
しかし最後の最後で、これ以上、家族を、愛息を苦しませないためにも自分は死を、と、考え方を自分の後悔から他人に何かをあたえるというふうにかえたあとで心に平穏がおとずれ幸せのなかで死んでいく。
与えれば与えるほど得るものはおおきくなる、というネイティブインディアンの言葉があるがそれを重い読後感であった。 -
Posted by ブクログ
戦争と平和が交錯する中で自身の信念や想いを揺さぶられ、翻弄される人々の心の変遷を描いたドラマ。その中に著者の考える歴史学と様々な事件や事象についての見解、解説、考察が織り込まれています。
新しい登場人物が次々に現れる物語の序盤は感情移入もままならず、読みにくさに苦戦しました。最初は相関図を片手に読み進めるのもいいかもしれません。やがて物語が大きく動き始めるとそこからは打って変わって読みやすくなり物語に惹きこまれていきました。
登場人物のセリフや、著者自身の言葉で伝えられるメッセージには深く考えさせられるものがあります。
壮大なドラマの中でそれらに出会い読み解いていく面白さ。とても有意義な読書体験でした。 -
Posted by ブクログ
この巻で印象的だったのはペーチャとプラトン・カタラーエフの死。あまりに呆気ない終わり方。人は生まれる前は長い月日を母の胎内で過ごし、期待と希望を浴びながら誕生する。物事も最初はドラマチックに始まるのに終わる時はあっけない。人の一生も同様なのかもしれない。
最後は二組の夫婦がそれぞれいい家庭を築きハッピーエンドに終わってはいるが、個人的にはソーニャがとても不憫に感じる。
伯爵夫人あたりが、いい縁組でも探してあげるべきだと思うが…彼等にとってソーニャは使用人程度の存在だったのだろうか。
何はさておき、長い時間かけて読んできたけど、人の心の動きや変化が大変リアルで興味深い、やはり名作だと思った。 -
Posted by ブクログ
もしも、自分が出版社の編集者で、レフ・トルストイさんが、「戦争と平和」を持ち込んできたら。
読んだ上できっと、ひとつだけダメだしをすると思うんです。
「大変面白いんですが、全体に時折、あなたの歴史観、歴史考察の部分がありますね。特に、第四巻に多いです。この部分は、思い切って全部カットしましょう。それでも全く物語としての面白さは損なわれません」
で、もし抵抗されたら。
「では、少なくとも、第四巻のラスト、物語が終わってから文庫版で80ページもある論文みたいな部分だけでも、全カットしましょう」
と強く訴えると思います。
「どうしてもこだわるのなら、それは別の本として出しませんか?あるいは、小説としては含まず、巻末に、あとがきとして入れましょう」
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読み終えての第一印象は、ほんと、ラストの論文部分が蛇足でした...(笑)。
それに尽きます。
第1巻から、時折、そういうトルストイさんの地の文というか、論考めいた部分はあったんです。
ただ、そんなに長くなかったし、はじめはその主張に「へえ~」という発見もあったから、許せました。
しかし、第4巻に入ると、それが徐々に長く苦しくなってくる。
それに、内容的には、同じようなことがループします。
「歴史学者の考えるような、理路整然とした物語は実際の歴史ではない」
「一人の権力者の意思が末端まで支配した、とデジタルに考えるのは安易だ」
「歴史というのはもっと無数の人の細かい意志や偶然が左右している」
みたいなことが延々と語られるのです。
正直に言って「またか」とも思ってきてしまうし、歴史の要因という考え方については、確かに一理あるし、小説家的な感性だなあ、と思います。
けれど、どこかもやっとした、スッキリしない、批判に終始する気持ち悪さがありますし、マルクス学のような歴史の見方とか、経済や産業と言った、ある種の必然の要因はスッパリ触れられていないのも、なんだか消化不良...。
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と、まずはチョット貶めてしまいましたが。
全四巻通して、もう、素晴らしい面白い小説でした。
ムツカシイ主題やテーマや歴史とは何かみたいなことは、実はどうでも良いんです(笑)。
それは、小説として面白かった上に、トッピングみたいなものですから。
(そういうムツカシイ思考が、小説としての面白さを支えている、とも言えるのですが、それは結果論。だって、何が支えていようと、面白くなかったらそれまでですからね。読む側としては)
つまりは、1805年に恐らく15歳~25歳くらいだった男女数人の、およそ20年に渡る物語。
恋愛があって(なんだかんだ言っても、恋愛、という要素が無かったら、この小説は骨抜きになります)。
両想い、片思い、横恋慕、すれ違い、心変わり、一目ぼれ、強烈な出会い、裏切り、後悔、結婚、不信、エトセトラエトセトラ...
これだけでも、およそ現今のあらゆる恋愛物語を数百倍上回る、えげつなさと格調を見せつけます。
そこに、親子の葛藤、兄弟の確執、金の執着、出世の欲望、世間体のこだわり。
さらに、ナポレオンやアレクサンドル1世という人物を配した英雄歴史小説の醍醐味があり。
その上で、戦争、戦場のリアルな混乱や恐怖、躁状態の生々しい小説体験。
そして、恐ろしい数の脇役たちが皆、ぎらぎらと人間臭い...。
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第四巻を読み終えて。
主要登場人物が、ピエール、アンドレイ、ニコライ(以上男性)、ナターシャ、マリア(以上女性)。
まあ、だいたい5人います。
なんだかんだ、最終的にはその5人に感情移入して読ませるんです。
そして、5人とも、あわや死ぬのではないか。死ななくても、みじめな不幸のどん底に落ちるのではないか。と、いう危機をいっぱい迎えます。
なんだけど、最終的にトルストイさんは、1人だけ戦争で死んでしまうのですが、残りの4人には、なんとかハッピーエンドを準備してくれていました。
(死んでしまう1人も、なんていうか、精神的に最悪の状態は避けての死、になります)
(まあ、ハッピーエンドといっても、フィクションとは言え彼ら彼女らの人生は終わっていないし、ロシアの歴史と同じようにまだまだ色んな幸福と不幸があざなえる縄のようにこれからも続くだろう、というレベルではありますが)
そこンところ、凄く読み手としてはほっとしました。あーよかったって(笑)。
やっぱり、長々と人物に感情移入して読んできて、いくら歴史というもの、戦争というものが残酷で無情だったとしても、
「それはそれとして、頼むからこの人たちを不幸にしないでえええ」
惚れ込みながら読んできたわけですからねえ。
そこらへん、トルストイ、分かっているなあ(笑)
あるいは、当時の編集者が、
「この論文部分、どうしても残したいの?...アンドレイも殺したいの?...ぢゃ、アンドレイ以外は、一応ハッピーエンドにしましょうよ」
と、ダメだししたのかも知れませんが...。
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以下、個人的な備忘メモ。ネタばれ、あらすじ。
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●アンドレイは、ナポレオン軍との戦闘で重傷。虫の息だけど、富豪の荷馬車に拾われて逃げていく。
●その富豪は、偶然ながら、ナターシャの一家だった。ナターシャというのは、かつてのアンドレイの許嫁。いろいろあって婚約解消していた。
●アンドレイとナターシャは再会。死を意識して心境が変わっていたアンドレイは、素直に彼女を許します。彼女も謝ります。ふたりは再び、愛し合う感じになります。だけど、アンドレイは、幼い一人息子を残して死んでしまいます。
(この息子は前妻との子。前妻はお産で死んでしまっています)
●ナポレオン軍が占拠したモスクワ。ピエールは、ナポレオンを暗殺しようとモスクワに残ります。でも、火事場から人助けをしたことから、フランス軍に逮捕されます。
●捕虜として、つらい日々を送るピエール。
●やがて、ナポレオン軍は寒い冬の中、総崩れ、フランスに向けて無秩序に撤退します。襲いかかるロシア軍。何万人と死んでいきます。雪の中の死の行軍。ピエールも死にかけますが、たまたまロシア軍に助けられます。助けたロシアの武官は、第2巻あたりでピエールと因縁があったドーロホフ。
●ちなみにその戦闘で、第1巻ではまだお子ちゃまだった、ニコライの弟が、あっけなく戦死。
●生還したピエールは、多少たくましくなります。そして、ナターシャと再会。アンドレイのことがありつつも、「僕はあの人と結婚しなければならない」。
●ニコライは、モスクワ撤退の混乱の中で、危なかった令嬢を助けます。それが偶然、アンドレイの妹、マリア。ふたりは電撃的に一目ぼれ。
●ニコライの父が死んで、一家は貴族だったけど経済的に破産。青ざめるニコライ。
~~~~~そして、一気に10年以上の月日が流れ~~~~~~
●ピエールとナターシャは幸せに結婚。子供もいっぱい生まれて、順調。
●ニコライとマリアも色々あったけど結婚。子供も生まれている。そして、ニコライの家族は破産したけれど、マリアの財産をニコライが堅実に運営して大黒字。かつての自分の領地まで買い戻せるくらい。
●そして、アンドレイの忘れ形見の一人息子も、その四人に囲まれて、健やかに育っているよ。
と、いう、ハッピーエンド。
ただ、その中でも帝政末期のロシアの混沌とした諸問題があって、ひとりひとり信条は違う。
まだまだ、いろんなことがあるんだろうな、という余韻。
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いやあ、本当に面白かったなあ、という素直な後味。
そして、10代20代に読んでも、この面白さは分からなかっただろうなあ、と思います。
また、60代くらいに再読してみたい作品。
その時は、岩波書店版で読んでみようかな...。
(「アンナ・カレーニナ」よりも、面白かった...。
あれはあれで、アンナと、もう一人の男性と、二つの世界の話が並行して語られる小説でした。
僕の読んだ時の印象としては、
「アンナの話だけにしておけば、大傑作だったのに」
でした。) -
Posted by ブクログ
最終巻第四巻は戦争の記述が多い。
後半1/4は物語を終結させトルストイが論じる戦争、歴史、民俗、人間と神のあり方などで締められる。
※以下登場人物の生死などネタバレしておりますのでご了承ください。※
【ベズウーホフ伯爵家】
❖ピエール(ピョートル・キリーロヴィチ・ベズウーホフ伯爵):
三巻ラストでモスクワでの破壊工作とナポレオン暗殺計画を疑われてフランス軍捕虜に。
過酷な捕虜生活。他の捕囚者との交流と身近な死。
捕虜体験はピエールをどう変えたのか。
解放されたピエールは、アンドレイ公爵の妹マリヤと、ナターシャ・ロストワと再会する。
改めてナターシャへの愛の喜びに浸るピエール。
そして新たな生活へ。
❖エレン
三巻で「ここまでやればむしろ天晴れ」な不道徳行為を示したので、このあとどうなるのかかえって楽しみだったんだが、あっさりと…。
私も児童文学で読んだり映画で観たりはしているから彼女がどうなるかは知っていたけれど、こんなにあっけなかったっけ。
【ボルコンスキィ公爵家】
❖アンドレイ・ニコラーエヴィチ・ボルコンスキィ公爵:
三巻で瀕死の重傷を負ったアンドレイは、妹マリヤとかつての婚約者ナターシャの看病の下にあった。
アンドレイはまだ生きていたが、世界はアンドレイがすでに死んだかのように進む。そしてアンドレイ本人も自分自身をすでに死んだもの認識している。
そして訪れるその時。
ピエールとアンドレイはトルストイの分身らしい。
アンドレイに対しては、冷たさを示す一方、純粋な愛や瀕死の床で辿りついた境地、神や自分が関わった人への感謝、しかしそれでも消えないすべてに対しての冷淡さ…の描写が実に美しい。
全くの余談ですが、「こち亀」の中川はアンドレイ公爵がお気に入りらしい(笑)
❖マリヤ・ニコラーエヴナ・ボルコンスカヤ:
父の死後、公爵家として片付ける問題をこなしていくマリヤ。
今までは横暴な父、神経質な兄、兄の子の養育、そして自身が不美人のため、内面も環境も控えめな女でいたマリヤだが、案外女主としての才覚を持っている様子。
モスクワからフランス軍は撤退したが、ロシア人たちによる混乱と略奪が起きていたが、公爵家の財産と屋敷は多少の破壊は受けたがそれなりの財産は残っていた。
破産したニコライと再会、結婚。
それまで周りに振り回され一歩引いていた彼女だけど安定した家庭で自分の存在を築いているようで安心した。
❖ニコーレンカ(ニコライ・アンドレーヴィチ・ボルコンスキイ…のはず)
アンドレイ公爵と、亡き妻リーザの遺児。将来のボルコンスキイ公爵ですね。
養育権者のマリヤ結婚後はニコライと彼らの子供たちと同居。
父親似た性質と外見に、記憶にない父がピエールやナターシャ、マリヤとの交流を夢想する。
ピエールの事は尊敬し、ニコライに対しては敬愛するが軽蔑も交る。
ニコライもこの義理の甥は苦手としている。
世代が変わってもアンドレイタイプとニコライタイプは相性が合わないのね。(^。^;)
「戦争と平和」の登場人物たちの最終場面は、ニコーレンカの「亡き父がぼくを誇りに思うようになろう」という決意で終わる。あとはトルストイの論文。
【ロストフ伯爵家】
❖ニコライ・イリーイチ・ロストフ伯爵:
最初はフランス兵により、撤退後はロシア人により蹂躙されたモスクワで、ロストフ伯爵家は破産する。
ボルコンスキイ公爵令嬢マリヤと結婚したニコライは、領土を見直し家を建て直す。
本人は軍人になりたがっていたけれど、着実な田舎領主で良き家庭人でいることがニコライの本分か。
ちょいと甘いお坊ちゃん的な本質は抜けないが、妻マリヤが良い風に補ってくれていて、ニコライもそれに応えようとしている。
マリヤは地味だけど「一緒にいるといい人になりたいと思わせる女性」なんだろうね。
❖ナターシャ・ロストワ(ナターリア・イリイニーシナ・ロストワ公爵令嬢):
マリヤとともにアンドレイ公爵を看取る。
アンドレイは自分自身を完全に死者として扱っている。そんな人間と共にいるのはどんな心情か。
再会したピエールと愛し合い彼の妻となり新たな人生へ進む。
さて。ナターシャは全編を通じて何度かの変化を遂げる。
天真爛漫で恋に恋する少女、今を楽しみ明るい輝きを信じた娘時代、愚かな行為に走る思春期、それを乗り越えアンドレイに対しての真摯な看護、そしてピエールとの結婚後は強くて家庭がすべての多産の牝。
しかしナターシャが本当に欲しかったのは夫と家庭で、完全な家庭人になりたがっていたことを母(ロストワ伯爵夫人)は見抜いていた。
夫にも家庭を優先してもらう代わりに夫のすべてを理解しようとする。貴族夫婦の理想なのだろう。
…しかし本編通して溌剌とした魅力が強調されていたナターシャが「太って付き合いが悪くて家庭にしか興味を持たない平凡なおばちゃん」になる姿は、
今日でもヨーロッパの若くて美しい娘さんがある年になったらど~~んと太ったおばちゃんになる姿に妙な納得を覚えたのであった…f(^^;)
❖ペーチャ(ピョートル・イリーイチ・ロストフ)
ニコライとナターシャの弟。ピエールを尊敬している。
まだ少年と言っていい歳だが戦場を望み作戦に同行させてもらう。
しかし弾丸が彼の頭を貫く。
❖ソーニャ:
ニコライの事実上の婚約者だったが保護者も持参金もナシで誰にも歓迎されず。
ニコライだけをずっと愛していたが、ある心情に辿りつき自らにニコライに別れを告げる。
ここぞとばかりにその別れに乗っかるニコライ。「ソーニャに対して責任は感じてたよ?でも彼女から別れようって言われたんだよ?マリヤの事はお金じゃなくて心の美しさに惹かれたんだよ?金じゃないったら金じゃないよ?」って現代だったら「大丈夫かこの男」なんだが…(ー。ー)
(ニコライの名誉のために、結婚後は良い一家の主、領主となったと書いておこう。マリヤの内助の功が大きいと思うけどね)
しかもその後、保護者も資産もないソーニャはニコライとマリヤが結婚した後も扶養家族として同居。こりゃたまらんな(ー。ー)
今日でも「女性の権利向上~」とか言われるが、
昔は本当に後ろ盾や資産の無い女のなんと寄る辺ない事。そもそも女に個人資産なんてないんだもんね…。
❖クトゥーゾフ:
ロシア軍総司令官。
戦争判断は、ロシアのアレクサンドル皇帝からも不満を持たれていたが、
トルストイは強く評価している様子。
最後にちょいと気になったことが。
巻末解説で、トルストイはもともと30年の収容生活からモスクワに戻った老夫婦を書こうと思ったが、
そのために彼らの過去から始めることになり、どんどん時代が遡って行って…ということが書かれていた。
この夫婦とはピエールとナターシャ。
年代を考えると、「戦争と平和」が終わった5年後くらいにこの夫婦は30年間収容される未来が待っているのか??
なんとなくピエールはその性格もあって逆境にあっても落ちぶれすぎないような妙な安心感があったのだが、この後大丈夫なんだろうか。
二人の未来に安寧あれ。 -
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この巻ではリョーヴィンが百姓と草刈りをする場面が1番好き。疲れと清々しさがよくわかる。
この巻の前半ではリョーヴィンの農業に対する考えや場面が展開され、その後はアンナの問題。
巻末のガイドでは、リョーヴィンの農業の話は退屈に思う人が多いようだと書かれていたけれど、私は退屈に思えなかった。
結婚や離婚の考え方が複雑。
アンナも今まで結婚生活についてはかわいそうだったので…というのを踏まえて、だからこうなっちゃったんだよ…みたいに読めばいいの?
アンナ、どっちやねん!ってツッコミ入れたくなる。
時代背景がわかれば、こういう複雑なことが起こりうるということがわかりました。 -
Posted by ブクログ
不倫が結構当たり前というか。みーんな知ってますよ状態。
カレーニンの“「どうしてここまで放っておいたんだ?こんな見苦しい状況をどうして解消しないのだ?」と義憤を覚えたものだった。”
まさに読者がそれをカレーニンに言いたくなる。
好きなシーンがあって、ヴロンスキーの競馬のシーン。疾走感、躍動感があり、自分自身がヴロンスキーになって走っているかのような描写だ。
タイトルにあるのだから、アンナは主人公になるんだろうけど、なんだか影がうすい… 上流の綺麗な女、恋に流された女っていう印象で。これからパッとしてくるのかな?
最後の方の無理をしているキティの姿が描かれていて、そりゃ無理をしたらいつかしんどくなると思った。でも、若いというのはそういった部分があり、気付いていくものだと思う。決断についても。
続きはどうなっていくのやら? -
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真実の愛とは何かという普遍的なテーマを、不倫の恋という側面から切り取る、純文学的な物語でした。アンナはどうすれば良かったのでしょう? 愛してもいない夫の元に留まるのが真実の愛に即した行動だったのか…否。では夫には隠したまま不倫を続け、愛人の子を夫の元で育てるのが正しかったのか…否。では、やはり筋書き通り夫を捨てて愛人と逃げるしかなかったのか…そうかもしれない。確かに、アンナはヴロンスキーの愛さえあれば幸せであり続けられたのかもしれません。けれどそうはいかなかった。普通の人間は、彼女ほど愛に対して純粋ではありません。だから恋人に飽きられたって次の恋を探すなり、冷えた関係のまま共に暮らすなり、ともあれ「愛がないなら生きてはいけない」とばかりに自ら死を選ぶなんてことはまずありえません。彼女の何が、このような破滅を導いたのでしょう? なにが罪でなにが罰だったのか? いえ、愛に理屈など通用しないのだから、可哀相ではありますが、愛に純粋である彼女は、こうなるしかなかったのでしょう。
中心テーマがアンナにあることは題名からも明白ですが、正直私はもう一人の主人公、リョーヴィンの物語の方が好きです。ハッピーエンドが好みなので…。『戦争と平和』のピエール・ナターシャ夫妻や、ニコライ・マリア夫妻でも思いましたが、トルストイの描く理想的な夫婦の描写が私は好きです。思想は違えど、互いに尊敬しあえる夫婦…。現実にはまず滅多にいないけれど、だからこそロマンがあって、微笑ましくて良いと思います。 -
Posted by ブクログ
なんだろう、真面目というにはことばが足りない。このジッドに似たこの信仰心。光さすような力強くておもわず目がくらんでしまうような。
別に父なる神という大いなる存在の前にひれ伏して身を委ねているというわけでもない。彼のことばこそが光となって動いているのだ。名前が悪いかもしれないが、トルストイ教、そんな感じ。
タイトルは人生論となっているが、人生の「生」どう生きるかではなくて、「生きる」とは何か。ひたむきな考察である。彼は決して論じているのではなく、「考えて」いる。「生命考」といった方が正確かもしれない。
生命とは遍く幸福を求める存在である。幸福とは動物的な自分の快楽ではなく、理性が求める他人の幸福だ。これこそ、愛の力である。ひとがひとであるのは、この動物的なもの、すなわち肉体に加え、理性的なもの、精神が備わっているからである。理性は必ずすべてのひとに備わっているが、その発芽・自立は決して自分ではわからない。理性は空間や時間とは関係なく存在するからだ。ゆえに、理性は生まれることもなければ、死ぬこともない。それならば、理性的存在であるはずの人間の魂が消滅するということはありえない。人間よ、死におびえることなく、理性に従い、愛に生きなさい。
というのが、彼の教えのようだ。理性に対する考察、生きる愛の力、これほどまでに力強く述べるものは宗教以外に知らない。
だが、おそらく、ニーチェはふん、と鼻で笑ってそっぽを向くだろう。カミュなら一通り話を聞いた後で黙って背を向けてトルストイの前から去るだろう。
自分の幸福ではなく、他人の幸福を。理性の求める幸福は自分と他人の間に違いはない。では自分の幸福や他人の幸福から幸福をひいたら何が残るか。自分と他人である。彼にはこの考察が決定的にかけている。どんなにあがいても、自分ではない他人の幸福というのは、自分という存在の前提なしにはありえない。他人がいないといっているのではない、他人を知るのはひとえにこの「自分」の存在がまずなければありえない。他人の身体をつねっても、決して自分が痛いということはない。痛いというものは知っているけれど、それは他人の痛みではありえない。ひとの痛みを知ることはできても、それを代わることはできない。これを彼はどう考えるのか。
後半になって、個我と理性という区別を彼はしている。個我は動物的なもの、理性とはそうではない精神的なものだという。個我を理性に従わせること、これが人間には必要だ。では、なぜ個我は理性に従えるのだろうか。動物や植物に理性はないと彼は断言する。けれど、そうであるなら、なぜ植物は春に花を咲かせることができるのか。なぜ、動物は食物を求めようとするのか。動物にだって理性は在る。物質的な因果と彼は切り捨てるが、物質的な因果がなぜ起こるのか、これを理性と呼ばずに何と呼ぶのか。はじめから、彼の言う動物的なものと理性的なものは同じものであるはずだ。彼はそれを切り離してしまった。だが、切り離せば切り離すほど、逃れることはできない。ちょうど、表だけが存在しないのと同じように。彼が理性を声高に述べれば述べるほど、もう一方の動物的な部分がどんどん力を増す。個我も理性も同じ「わたし」でなければなんだというのか。
そういう点でやっぱり宗教は詐欺なのだ。彼もまた、愛という名で、この両方を併せ持つ人間という存在を覆い隠したのだ。巧みに「自分」というものの考察を避けているのだ。
おそらく、彼にとって、自分や他人という存在は疑うことのない、確かな存在だったのだと思う。ゆえに彼は他人の幸福というときに、なぜ自分が他人ではなくこちら側なのか、という端的な事実に驚かないのだ。他人の幸福を求めるというのは、他人が幸福だと自分に思われるもの、そういう在り方なしには求めることはできない。
キリストが、自分の父や母・きょうだいを愛するのではなく、神の子キリストを愛せ、というのは決して自己犠牲に努めろというのではなく、キリスト自身が自分も他人も含む全き存在であるから、自分という存在が他人という存在に裏打ちされた存在であるから愛せ、と言っているのだ。ひとに宿るこの精神を目覚めさせるのには、自分の立ち上がった精神を示さなければならない。キリストにはそれを負う覚悟がある。だからこそ、すべてのひとの罪も憎しみも、愛も引き受けようと言えるのだ。
そう考えると、トルストイの言う死というものはないのだから恐れるなというのはどうも難しい注文だと感じる。生命は滅びないのではなく、自分が存在しない、というこのことをひとは考えることができないのだ。考えることができないということと、存在しないということは別の話だ。宗教のずるいところは、その存在しないということは考えられないということを逆手にとって教義に組み込んでいるところだ。
愛というものは、他人のために善いことをなすことはもちろんだが、すでに今ここに、「わたし」ということが存在してしまっている、これこそが神の愛であり、許されている事実なのだ。生れてしまったからには幸福を求めなさいというのはわかる。理性が時間や空間に独立しているのも確かにわかる。だが、その理性がどうしてこの肉体に宿ってしまったのか。どうして幸福を求めるのはこの自分なのか、ここに対する彼の驚きがどうしても感じられない。