トルストイのレビュー一覧
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なんだろう、真面目というにはことばが足りない。このジッドに似たこの信仰心。光さすような力強くておもわず目がくらんでしまうような。
別に父なる神という大いなる存在の前にひれ伏して身を委ねているというわけでもない。彼のことばこそが光となって動いているのだ。名前が悪いかもしれないが、トルストイ教、そんな感じ。
タイトルは人生論となっているが、人生の「生」どう生きるかではなくて、「生きる」とは何か。ひたむきな考察である。彼は決して論じているのではなく、「考えて」いる。「生命考」といった方が正確かもしれない。
生命とは遍く幸福を求める存在である。幸福とは動物的な自分の快楽ではなく、理性が求める他人の幸福だ。これこそ、愛の力である。ひとがひとであるのは、この動物的なもの、すなわち肉体に加え、理性的なもの、精神が備わっているからである。理性は必ずすべてのひとに備わっているが、その発芽・自立は決して自分ではわからない。理性は空間や時間とは関係なく存在するからだ。ゆえに、理性は生まれることもなければ、死ぬこともない。それならば、理性的存在であるはずの人間の魂が消滅するということはありえない。人間よ、死におびえることなく、理性に従い、愛に生きなさい。
というのが、彼の教えのようだ。理性に対する考察、生きる愛の力、これほどまでに力強く述べるものは宗教以外に知らない。
だが、おそらく、ニーチェはふん、と鼻で笑ってそっぽを向くだろう。カミュなら一通り話を聞いた後で黙って背を向けてトルストイの前から去るだろう。
自分の幸福ではなく、他人の幸福を。理性の求める幸福は自分と他人の間に違いはない。では自分の幸福や他人の幸福から幸福をひいたら何が残るか。自分と他人である。彼にはこの考察が決定的にかけている。どんなにあがいても、自分ではない他人の幸福というのは、自分という存在の前提なしにはありえない。他人がいないといっているのではない、他人を知るのはひとえにこの「自分」の存在がまずなければありえない。他人の身体をつねっても、決して自分が痛いということはない。痛いというものは知っているけれど、それは他人の痛みではありえない。ひとの痛みを知ることはできても、それを代わることはできない。これを彼はどう考えるのか。
後半になって、個我と理性という区別を彼はしている。個我は動物的なもの、理性とはそうではない精神的なものだという。個我を理性に従わせること、これが人間には必要だ。では、なぜ個我は理性に従えるのだろうか。動物や植物に理性はないと彼は断言する。けれど、そうであるなら、なぜ植物は春に花を咲かせることができるのか。なぜ、動物は食物を求めようとするのか。動物にだって理性は在る。物質的な因果と彼は切り捨てるが、物質的な因果がなぜ起こるのか、これを理性と呼ばずに何と呼ぶのか。はじめから、彼の言う動物的なものと理性的なものは同じものであるはずだ。彼はそれを切り離してしまった。だが、切り離せば切り離すほど、逃れることはできない。ちょうど、表だけが存在しないのと同じように。彼が理性を声高に述べれば述べるほど、もう一方の動物的な部分がどんどん力を増す。個我も理性も同じ「わたし」でなければなんだというのか。
そういう点でやっぱり宗教は詐欺なのだ。彼もまた、愛という名で、この両方を併せ持つ人間という存在を覆い隠したのだ。巧みに「自分」というものの考察を避けているのだ。
おそらく、彼にとって、自分や他人という存在は疑うことのない、確かな存在だったのだと思う。ゆえに彼は他人の幸福というときに、なぜ自分が他人ではなくこちら側なのか、という端的な事実に驚かないのだ。他人の幸福を求めるというのは、他人が幸福だと自分に思われるもの、そういう在り方なしには求めることはできない。
キリストが、自分の父や母・きょうだいを愛するのではなく、神の子キリストを愛せ、というのは決して自己犠牲に努めろというのではなく、キリスト自身が自分も他人も含む全き存在であるから、自分という存在が他人という存在に裏打ちされた存在であるから愛せ、と言っているのだ。ひとに宿るこの精神を目覚めさせるのには、自分の立ち上がった精神を示さなければならない。キリストにはそれを負う覚悟がある。だからこそ、すべてのひとの罪も憎しみも、愛も引き受けようと言えるのだ。
そう考えると、トルストイの言う死というものはないのだから恐れるなというのはどうも難しい注文だと感じる。生命は滅びないのではなく、自分が存在しない、というこのことをひとは考えることができないのだ。考えることができないということと、存在しないということは別の話だ。宗教のずるいところは、その存在しないということは考えられないということを逆手にとって教義に組み込んでいるところだ。
愛というものは、他人のために善いことをなすことはもちろんだが、すでに今ここに、「わたし」ということが存在してしまっている、これこそが神の愛であり、許されている事実なのだ。生れてしまったからには幸福を求めなさいというのはわかる。理性が時間や空間に独立しているのも確かにわかる。だが、その理性がどうしてこの肉体に宿ってしまったのか。どうして幸福を求めるのはこの自分なのか、ここに対する彼の驚きがどうしても感じられない。 -
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「人生とはこの男が調べようとしている水車である。水車が必要なのは粉をよく挽くためであり、人生もそれをよきものにするためにのみ、必要なのだ。(P20)」人生とは、それ自体が目的なのではなくて、粉を挽くために必要なもの。粉を挽くために与えられたもの。この考え方は私にとってはパラダイムシフトだった。ただ生きていることに価値があると、ぼんやりと認識していたが、人生はそれ自体に意味があるわけではなく、何かのためにあるのだという発想。人生をやり過ごしている感じがあった私は背筋を伸ばされた。ただ健康に長生きして人生をやりすごすのは、何の目的もない水車がただ回り続けているのと同じ。私は何をしたいのか。私はこの人生を何に捧げるのか。
「己れの行動を選択するのに指針というものがなくては、人は生きていけないのだ。そこで人はいやおうなく、理性の判断をはなれて、個々の人間社会に今日まで常に滞在してきている表面的な生活方針にしたがうことになるのである。この指針はなんら合理的な説明をもつものではないが、これこそ万人の大半の行動の原動力をなしているのだ。(p58)」本当にその通りで、私は自分の人生の目指すものを自分で決めずに周りに流されて人生を終わらせてしまおうとしている。訳の分からないところに流れて行って死んで良いのか。周りの、世の中の流れがいかにどうでも良いかってこと。自分の人生は一瞬。どこに流れてていきたいのか。
人間の本能についての考察よりもむしろ、どのようにそれを理性で支配するかということが大事。
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最初から中盤まではとても、面白かった。ただ後半の内容は、トルストイ自身、死について考えざるを得ないほどの恐怖心を持っていて、考えに考えて作り上げた納得できる「死の在り方」という印象を受けた。私は死ぬことにあまり恐怖心を抱いていないから(あるいは死を間近に感じる経験をしていないからかもしれないが、)彼のこだわりに対して興味を持てなかった。 -
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愛、律法、幸福、基本的な概念の捉え方や、前提がかけ離れていて、「知らない以上、否定は出来ない」という無限ループに陥っているユリウスとパンフィリウスのやりとりに、理解の難しさを感じました。これが、少数派にすぎない原始キリスト教の姿の一面であったとすれば、本作で問われ続けた「瞞着」を擦り合わせながら、世界的な信仰へと変化して現代の姿もあるのだろうな、と想像を刺激されました。
前半部、「やって見せよ」「人に見せるためではない」という二人の問答があった。
幸福、あるいは飛躍して救済のための奉仕を淡々と積み重ねていると主張する姿に迷いは見られないが、パンフィリウスとユリウスの中間くらいの位置で、人知れず煩悶しながら救いを求めて共同体への奉仕を続ける人物として、「灰羽連盟」のレキを思い起こさずにはいられませんでした。
居候、使い古したものを譲り受ける、など、既存の共同体に恩恵を受けた存在としての在り方を中立的に描いた「灰羽連盟」との対比で、荒削りで、原理主義的な思想として、すんなりと希望を感じさせない描きかただな、というのが、初読の印象でした。 -
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クロイツェルソナタ
電車で乗り合わせた男の話。
始めは『人生論』のような固い一般論から、次第に男の話は熱を帯びて、その一般論をかざすに至った自らの起こした事件について語り、その語りは読み手の感情を揺さぶり始める。妻の死前後辺り以降が秀逸。あー面白かった。
トルストイというと神の視点のイメージがあり、人間そのものの生をじわじわ太く書くのが良さだと思っていた、そして今回読んで実にそうだと思った。やはり一人の人物に語らせ、前半の一般論の証明のような作品のかたちは、テーマというか作者の意図が絞られるというか、どうしてもパンチは軽くなる、そのぶん切れ味は鋭いんだけどね。まぁ、前半の愛論はなくても、後半だけでもすごい読みごたえあるわ、繰り返すけど、やっぱり最後の妻殺すところ。男は妻を愛しているとかそうじゃないとか、まとめられないけど、小説の中には全ての感情が書かれているよ。全然陳腐じゃない。
女はいつの時代も性の対象でしかない、堕落するくらいなら人類滅びろ的な論もぶっ飛んでて新鮮だったし、納得できるものだった。妊娠した妻のために自慰で耐える旦那(おれ)はえらい。文庫の裏側に『性に関するきわめてストイックな考え』ってあって、性とストイックって考えてみると本当に面白い組合せで、やっぱり性に関しても妥協を知らないトルストイが好き。
悪魔
確かに、結婚前にすごくいい思いをさせてくれたセフレ的女と、結婚後に再開したら破滅する。結婚後ってのが大事。別にただ女と付き合ってるだけならそこまでは思わない。しかも嫁も暮らしてる同じ領地内で、毎日会わざるをえないとなると、うーん、想像しただけで掻き立てられるものがある。誰しも小さい悪魔を心のなかに飼ってるんだろう、大きくなっていかないだけで。
誰かの死を期待してしまうのも、改めて人が書いた文章で確認すると恐ろしさがわかる。文庫の収録の順番は逆の方がいいんじゃないだろうか。
伯父さんの『で、別嬪なのかね?』の一言でゲスい感じを表現できるのはさすが。トルストイにもっとコメディ書いてほしかった。 -
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アンナの物語とリョービンの物語が好対照。
アンナの物語よりもリョービンの物語のが好きだけど、農業については良くわからない……。
「読書ガイド」を読み飛ばしてしまっているのが原因だとは分かっているけど、読み始めた勢いを削ぎたくないんだよなー……。
カレーニンのように自分の感情を素直に表せない人もいれば、オブロンスキーのように極めて自然体で上手に人と付き合える人もいる。
人生これからだ!な弟と人生これまでだ……な兄の対照や、人を愛することで明るい方へ行けるキティと愛することでどんどん苦しくなるアンナの対照が面白い。
(簡単に二項対立の構図にしてしまうと浅い読みになってしまうけど、楽しんで読むんならこれが一番わかりやすい、と思う)
色々な人がいて、それぞれがいきいきとしているのは凄いなあ。
カレーニンが善玉になってしまって、これからますますアンナとヴロンスキーの物語を読むのがつらくなってくるぞ。
これでようやく半分か! -
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再読。3年半前に読んだ時も衝撃的で、文学嫌いな私でも読める本があるものだなと思わせてくれた本。
あれから私もいろんな勉強をして、思想が現代風に近づいたけれど、今読んでも違った意味でよかった。
意味や、普遍的な正しさが失われたといわれる現代にあって、もしまた規範的なものが必要とされるならきっとこういうものになるんだろうなと思った。そしてたしかにそんな日は近付いてきている。
ただ、この時期ってトルストイはたしか深い鬱状態みたいなものに悩まされていた時なので、これを盲信しすぎるの危険なのかもしれない。
光あるうち光の中を歩め.... 限界まで来たらだらだらするひと休みも可、という但し書きは必要そうだ。
再読2・
事あるごとに、自分に甘えが強く見えすぎるときに読みたくなる本。”よく”生きるとは本当に難しい。欲を捨てることは同時に全てが無意味な無気力とかしてしまう危険性がある。特に自分がどれほどよく生きようと努めても、周りにはそういう人たちばかりではない(つまりその基準においてなのであるが)ので、人間嫌いが加速する危険性を秘めている。それでも自分が納得がいかない”悪行”を無理やり自分に強いるよりはいいのかもしれないのだが。 -
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不倫物語。
男は~とか女は~っていうところではちょっとフェミっちゃうし、結婚どころか恋すらまともにしたことがない私には理解し難い部分ばかり。
それでも面白くてサクサク読めてしまうのは、この作品が超名作だからなのか、新訳が上手に訳してくれてるからでしょう。
舞台となっている時代のロシアや西欧の知識が全く無いので、知識の不足を強く感じてしまう。
なぜ彼らはロシア語だけでなくフランス語、英語、ドイツ語を使って会話するのか?
貴族社会や、当時のロシア社会そのもの等、勉強してみたくなります。
この調子で、今月中に全四巻読破したいなあ。
視線で会話しすぎ。 -
Posted by ブクログ
幸福な読書だったなぁ、と思う。
3巻から作者トルストイの「語り」が多くなり、うーん?と思う部分もしばしばあり、もっと正直に言えば辟易する部分もなきにしもあらずだった。しかし、それでも、私はもうこの物語を読み終えてしまった。
『戦争と平和』というタイトルの通り、トルストイが描きたかったのは、おそらく「人間の意思」だったのではないかと思う(個人としても、「われわれ」としても)。しかし、この最終巻である4巻を読んで特に感じたのは、トルストイは人間の「仕組み」や「歴史」を描くよりも断然、人間の「魂」を、感情と性格を描く方がまばゆいばかりの光を放つということだ。
彼の人間を描く筆、それもたくさんの、実にさまざまな人間を描き分け、しかもその一人一人を生き生きと立ち上げ思考し活動する筆は、本当に圧巻というほかない。
そして「人間の魂」という点でもう一つ思ったのは、トルストイにとって結婚とは、そして家庭の幸福とは、相当に大きなテーマだったのだな、ということだ。
アンナ・カレーニナの有名な冒頭(「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」 望月哲男・訳)からして、彼がいかにこの問題にずっと取り組み続け、また生涯においてこれに悩み続けたかがうかがわれる。
彼はその晩年、妻との不和に苦しみ、そして家出をする。そして、世界的に名を知られる文豪であり、「あと100年生きてください」と言われるような作家であったにも関わらず、家出の末に寒村の小駅で死去する。
これは馬鹿げたことだけれど、もし、私がトルストイと友人だったとしたら、私は彼に、あなたは素晴らしい、あなたは素晴らしいものを書く、けれど、あなたは考えすぎだ、と言うかもしれない。
本当に馬鹿げた、滑稽な話だけれど。…… -
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3巻はそのほとんどを戦争シーンが占めており、登場人物がそれぞれに生き生きと動き詩的な美しさを感じる2巻に比べると、やや退屈に感じてしまった(それでもすごいんだけど!)。
トルストイは「戦争」の中で何度も何度も、「歴史とは一人の人物や一つの原因が作るのではない」と強調する。これがあったからこうなった、ということはなく、それは後世がその結果からただ線を引き繋げて言っているに過ぎないのだと。その場の全て、どれとも誰とも言えない、あえて言うならば「その時」こそが歴史であり、「その場」こそが民衆なのだと。
そして、それらが積み重なり、その時その時が終わって振り返ってようやく、我々はそれを「歴史」として「事実」として認識するのだと。
こう言うとまるで、個人の力は時の流れにゆらゆらと漂う頼りない木の葉に過ぎないような書かれ方をしているかのようだ。
けれど、これほどダイナミックに、これほど感情豊かに「戦争」を描く本はないのではないか、と私は思う。
次巻はいよいよ最終巻。この壮大にして繊細な物語が、どういう終わりを迎えるのかわかると思うと、嬉しくもあり、けれど読み終わるのが怖いような気もする。 -
Posted by ブクログ
イエスは言われた。
「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
(新共同訳『聖書 旧約聖書続編つき』日本聖書協会、新約聖書193ページ)
この 光 の意味は 信仰心 ということなのかな。
神というわけではない。
闇の中にも 神はいるはずだから。
物語は キリスト生誕 100年後。
原始キリスト教の時代で、ユリウスとパンフィリウスの会話が基本となり、その間に 医師が話をする。
役者はそろっている。ユリウスの奥さんも、一時期、傾いたりする。
ユリウスとパンフィリウスは 三度であい、
そこで、ユリウスは パンフィリウスのところにいこうとするが
思いとどまる。一生のストーリーにしている。
老いた時に やっと パンフィリウスのところにいく。
物語の構成は シンプルで、結末も想定される。
光あるうちに光の中を歩もうとする物語であるからだ。
トルストイは キリスト教を信仰したいという想いが
最初から あったような気もあり、動機が明確だ。
その論議として、信仰を持つと言う必然性を書こうとするが
どうも、成功しているとはいいがたい感じがする。
どこに無理があるのだろうか?
題材として 原始キリスト教であることが限界があるのかな。
弾圧に対して 殉死を えらぶということが、ある。
宗教と国家という関係がうまく説明できない。
共同体としか描けないところに弱さがある。
それに、共同体に関する ユリウスの指摘は 意外と正鵠をえている。
ユリウスに押し寄せる 幸福が欠落した気持ちが 人生の節目に起こる。
それが ふらふらとする 要因でもある。
これを読みながら キリスト教を信仰しながら
戦争を起こす輩がいること自体が 矛盾の極みである。
ここでは、はっきりしていないのは
利己的な社会形成と 利他的な社会形成 という視点で
腑分けするともう少し鮮明になりそうだ。 -
Posted by ブクログ
クロイツェルソナタ
嫉妬と思い込みから妻を殺してしまった男の独白。
ここまで徹底した独白の小説を読んだのは初めて。物事の経緯やその時々の心情を事細かに描写している。
悪魔
クロイツェルソナタが男性上位な思想によるもの(に私には思える)としたら、こちらはその中にあって、妻に誠実であろうとする主人公の苦悩。
時代や文化やいろいろな背景があるけれど、私はこんなに道徳や嫉妬や宗教にがんじがらめになるのはつらいし、この男たちは面倒くさいと思った。そして、その面倒くさいことで出来上がっているこの小説はとてもおもしろかった。
翻訳もきれいで読みやすく、ところどころ面白い表現があって笑えた。40年も前の訳なのに日本語がちっとも古くない。