筒井康隆のレビュー一覧
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ネタバレ聞き慣れない難読な単語が多く、注釈でそれぞれの意味が記されているがそれでは足りない程難しく書かれている。一つ一つ意味を確かめながら読む時もあれば、なんだかスルスルとその漢字が持つ空気感だけで意味を感じ取り読み進める時もあった。ラストに印象的に示されたスケープゴートがこの作品の主題であって、それを表す事に、ここまで詳細に1人の人生、貴夫の人生を書き連ねて行く事を果たして筒井さんの他誰ができるのでしょうか。性の根源を切り取られた男性、貴夫がどのような生涯を送るのか、読者として簡単に想像を細かに組み立てられる人は殆ど居ないと思います。ああ、そりゃこうなるよね、当たり前だよね、と読み進められるはずはなく、一つ一つの言動を噛み締め咀嚼しながら丁寧に読み進めたくなるまさしく絶品料理のようでもあります。つぶグミのような一辺倒なドラマティックではなく、落合陽一が言うような複雑性を伴う天然の事柄を、その材料の保管から調理法まで寸分の狂いまた手抜きなく作り上げた料理をひと口ひと口味わい進めて行くような感覚。後味は苦く爽快でした。素晴らしい!
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「わたしのグランパ」筒井康隆。1999年初出。文春文庫。
薄い文庫本で、文字が大きくて読みやすい。素晴らしい。なんにつけ文庫本はかくあるべしという文字の大きさです。
筒井康隆さんは1934年生まれ。個人的にも30年以上読んでいる、好きな小説家さん。
この2~3年小説書いておられるのかはちょっと分かりませんが。
筒井さんの65歳くらいのときの小説が「わたしのグランパ」。
東京の中流?サラリーマン家庭の中学生・珠子の家に、長く「旅行(刑務所)」に行っていた祖父が帰って来る、という話。
一件疫病神に見える祖父だが、(実際にかなりアウトローな人なんだけれども)人としてマットウで、珠子のいじめをはじめ、地域や家庭の問題をあれよあれよと改善していってしまう…という。
小説書くの、上手いなあ、という一冊でした。これは、うまい。
ちょっと(かなり)違いますが、クリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」とか似てます。
あと、逆に振れるとウディ・アレンの飄々とした強引な物語の映画のような(大好き)。
ご都合と言えばご都合だし、ファンタジーと言えばファンタジー。
でも、老いた年代の意識、珠子のように「老人の中で理想化された少女」への思いがちゃんと幹にあって、ぼちぼちそういう年代が近づく読み手には大変に面白かった。
「赤毛のアン」にも似てますね。アンが成長し巣立つ物語に見せておいて、実はマリラとマシューが老いてアンを手放していく物語。常に書き手は10代では無いですから。
未見ですが映画化されていて、菅原文太さんが祖父を演じていたことは知っています。
脳内で「文太化」しつづけて読みました。 -
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ネタバレ「筒井調」満載の短編集。メタ・パラフィクションもあって、堪能した。
ひとつ不思議なのが、エッセイの「ウクライナ幻想」が「付録」として掲載されていること。著者がその昔、旧ソ連を訪れたときの思い出を、イリヤ・ムロウメツの物語とともに書いている。
ただ、その中身はと言うと、「今はただ、不幸な戦いの中にあるウクライナの首都、あの伝統の町キエフに戦禍が及ばぬことを(後略・文中ママ)」とか、「日本贔屓のお嬢さんを持つプーチンに、自国民の大多数と欧米諸国との板挟み状態に立つ苦境を乗り越えて平和への道を探ってほしい(略)」などと書かれてあってザワザワさせられ、思わず奥付を何度も確かめた(文庫発行日は令和3年6月1日)。
「もしかして、内容を自動的に最新にする技術が使われてるのか?」などという妄想も抱いてしまったり……(紙の文庫です!)。
実は、単行本の発行が2015年。
つまり、ここに書かれているウクライナとロシアの争いは、2014年から始まったウクライナ紛争を受けてのもの。しかし、偶然とは言え、こんなところでまた、「筒井康隆の先見性」について考えてしまった。 -
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ネタバレ七瀬三部作の最終章。
前作では、超能力者の仲間たちが抹殺され、七瀬自身もかなり危険な状況で終わってしまった。
この本では、七瀬はある名門高校の教務課職員として働いており、前作からどのように生き延びたのか、暗躍する組織もまったく触れずに物語は進んでいくので、七瀬が主人公であるものの、スピンオフ的な作品なのかと思いながら読んでいきました。
(最後の方でその謎は解かれるのですが)
不思議な力で護られている高校生の香川智広。そして七瀬は自分の意思か何かの意思の力で智広と相思相愛の恋愛に堕ちていきます。(今まで男性を避けてきた七瀬がそうなることに少し嫉妬した)
さてさて、内容は詳しく書けないのと自分の表現力が弱いので終わりにしますが、香川智広の父の頼央が失踪した妻の珠子や智広との幸せな過去を顧みて話すシーンは何10ページもかけて書かれており凄い。そこからラストまで一気に読んでしまう迫力がありました。特に頼央と形を変えた珠子との性的シーンは麻薬的でとてもエロティックなもので、こういう感覚のまま死んだら人はなんて幸せなのかと本気で思ってしまった。(エロい自分だけかもしれないけど)
そして、手塚治虫の火の鳥に通じるような、壮大な宇宙的な発想、結末に感動しました。よかった。 -
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ネタバレここまで平易にハイデガーの『存在と時間』を読み解くことができるのかという驚きの一冊。現存在が気遣いの存在であり空文を駆使して生きているが、そこから本来の生に戻してくれるのは死への不安である。一方で、死を絶対化していいのかという否定神学批判が展開されるのが、その後のポストモダンの思想であるというのが私なりの理解。
解説は大澤真幸によるキリストの二重性(生きて死んだ神)に着目したもの。頽落したキリストの弟子たちの話を書くことで『存在と時間』に話を合わせつつ、死への恐怖から神に祈りながらも結局殺されるキリストを描く。復活しては元の頽落に戻ってしまうので、あくまでも死ぬときの重要性を強調する。しかし復活するからキリストはキリストたり得たとも思うので、このあたりはもっと考えを聞きたいと思ったところ。 -
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まず最初に映画を観ることをおすすめしたい。
厚い本であると同時に専門的なことが詳細に描かれているので、映像でイメージできないとギブアップしそう。
映画が好きで原作も読んでみたが、世界観重視の映画ではわからなかった細かい設定や経緯もよくわかってすごくよかった。
夢と現実が混濁した世界を文字だけでこうも表現できるのは、流石文学界の巨匠といわれるだけあるなと感服する。
専門用語も多く、読み返すと理解が深まったり新しい発見が出来そう。
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精神医学研究所に勤める千葉敦子はノーベル賞級の研究者/サイコセラピスト。だが、彼女にはもうひとつの秘密の顔があった。他人の夢とシンクロして無意識界に侵入する夢探偵パプリカ。人格の破壊も可能なほど強力な最新型精神治療テクノロジー「DCミニ」をめぐる争奪戦が刻一刻とテンションを増し、現実と夢が極限まで交錯したその瞬間、物語世界は驚愕の未体験ゾーンに突入する! -
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ネタバレ昭和を代表する小説家筒井康隆の短編小説論。きらめく宝石のように、小説についての名言がならぶ。ほぼ引用で要約するしかない。(下記は増補版ではなく初版の感想)
・「小説というものはいうまでもなく、何を、どのように書いてもいい自由な文学形式なのだ。意外に思われる読者もおられようが、実は小説というのは最も新しい文芸ジャンルなのである。小説以前から存在した詩や戯曲などの形式による拘束、・・・、そうした形式上の束縛を嫌い、より自由に書こうとして生まれた文学形式ことが小説だった筈なのである。」
・しかし、特に短編小説の傑作は、生まれにくくなっている。第一に、芸道化(お稽古ごと化)している。第二に、韻律のない自由詩や身辺雑記の随筆などと区別がつかなくなり、意図するところも似てくるため、作法がうんぬんされる。
・「現在小説作法と言われているもののほとんどは方法論ではなく、体験論である。これはそうなるのが当然」
・「短編小説という形式の外在律は短いということだけだろう」・・・しかし、「ほとんどの外在律から自由になり、・・・、書きたいように書けば、よい短編小説ができるのだろうか。・・・創作心理というものを考えると、どのようなジャンルであろうが、なんの内在律もなしに書ける文芸作品など、ちょっと考えられない。」
・この内在律を考えることが、本書の目的。
ディケンズ(1812-1870) 「ジョージ・シルヴァーマンの釈明」・・・書き出し
・筒井は「通常は、少なくとも書き出しだけは結末まできちんと考えた上で書き出すようにしている。」
・しかし、ディケンズは、本短編で、主人公に、書き出しを迷わせてみせる。これは、「効果的に釈明し、誰にも裏を見透かされないため」の主人公の迷い・工夫なのか、主人公の戸惑いか作者の苦しみか判然としない現代的な「さまようディスクール」「ためらうテクスト」「エクリチュールの混乱」か。
ホフマン(1776-1822)「隅の窓」・・・観察・想像・描写、諷刺・ユーモア、対話体
・「ホフマンは・・・短編小説の勃興期に多くの短編小説を書いたのであり、したがって彼自身もまた短編小説の開拓者だった。・・・これは彼の最後の作品なのである。」。すなわち、ホフマン自身が、自らを投影した作品といえる。文中に出てくる「タトエ今は酷トシテモ、イツマデモ酷いママニツヅキハシナイ」というモットーは、ホフマン自身のモットーでもあったという。
・「観察、描写、想像といった側面(にせよ)、また諷刺、ユーモアの側面(にせよ)、対話体による効果(にせよ)」という3つが混然一体となった文章となっている。そして「いずれもホフマン自身が、病に冒されて寝たきりとなり、怪奇幻想に向かうべき興味や想像力をたまたま自分の身のまわりに向けたからこその成果であったということが言える。」
・「この作品には現代に通じる新しさがある。ちょっと見ただけの人物を辛辣に批評し、そこからさまざまな想像を過激に働かせて類型や典型を造形してしまうというのは現代でももっとも新しいギャグとしてスタンダップ・コメディなどによく使われるネタである」
・「この短編の大部分を占める対話体も、ホフマンお得意の手法であり、一方に飛躍しがちな幻想家、一方にリアリストを配置して平衡と重層性を保つ方法は他のいくつかの作品にも見られることである。」
アンブロウズ・ビアス(1842-1913?) 「アウル・クリーク橋の一事件」・・・テーマ、意外性のある結末
・「ビアスの小説は、ほとんどすべてがといっていいくらい「死」をテーマにしている。」
・「ビアスの小説の文学性を示すものとしては、他に、のちのハードボイルドの先駆けと解釈できそうな、即物的で感傷に流されることのない、現代的ともいえる描写がある。」
・「人間心理が「死」というテーマと「結末の意外性」によってくっきりと浮かび上がり、そこには人間を見るアンブロウズ・ビアスのいつもの皮肉な視点もちゃんと備わっている。文体、描写、三段階のプロット、技法、いずれを欠いてもこれほどの傑作にはならなかっただろうと想像できるが故の、これ以上「どうしようもない傑作」なのである。」
・しかしながら、「ほかの作品は、・・・いささかレベルの低い作品ばかりなのだ」
・「短編小説の傑作というものは本来、アンブロウズ・ビアスほどの才能のある人物でさえ、ただひとつのテーマ、ただひとつの技法に頑固に執着して全作品を書いたとしても、まるで偶然のようにやっと一篇が生まれるというほど、稀にしか出現しないものなのではないか」
マーク・トウェイン(1835-1910)「頭突き羊の物語」・・・ほら話
・「アメリカの西部や南部には、法螺話の伝統というものがあった。」
・「マーク・トウェイン自身によって南西部風に、スケッチ(寸劇)、テール(一口咄)、バーレスク(狂言)、ホークス(げてもの)、ホッグウォッシュ(狂文)、フロード(詐欺、ひっかけばなし)などと分類されているが、そのいずれにもトールトーク(ほらばなし)、誇大癖)の要素が強いそうだ。」
・「そうした話法でひとを笑わせようとするときにいちばん肝心なのは、なんといっても「間」であるということだ。」
・「この短篇の独自性はその着想にある。」
・「(話の横滑りは)小説は何をどう書いてもいいのだという思想の実践であり、結末さえ必要ないのだとする主張でもあると解釈することができる。」
ゴーリキー(1868-1936)「二十六人の男と一人の少女」・・・文体
・「この作品は、・・・最後まで一人称複数のままである」
・「本来は内容に最も適したよりよき文体を考え抜く姿勢こそが、偶然のように実験的で新鮮な表現を生み出し、成功させるのであり、新しい文体や奇矯な手法が先にあるべきではないのであろう。」
・「夢」や「理想」や「希望」が、醜い現実によって無残に打ち砕かれるというのが、初期のゴーリキー作品の特徴だった。」
・「この短編は、リアリティとロマンチシズムと手法が三位一体となって詩的な高い格調をもっているということが言えるだろう。」
トオマス・マン(1875-1955)「幻滅」・・・観念小説、若書き
・「大学時代に処女作を書いて文壇に登場したひとが多い事実は、小説が決して豊富な社会体験、年季の入った技巧、長い年月の思索などによるものだけではないことを示している。」
・「社会体験の少ない作家はその作品の中に自分が影響を受けた過去の文学作品を「準拠枠」として使わざるを得ない。それがどの程度に使われているか、なまのままで使われているか咀嚼されて使われているか、何を準拠枠として使っているか、それによってその作品の完成度やジャンルが決まってくるのである。」
・「「若書き」でしか生まれなかった作品と言えるのだし、「若書き」でも書け、「若書き」であった方がその感覚にリアリティをあたえることができる作品だったのである。」
サマセット・モーム「雨」、チェーホフ「退屈な話」
・「私は短編小説というものを、物質的なものにせよ精神的なものにせよ、ただひとつの出来事を語るもの、その出来事をはっきり説明するの絶対必要でないものは、一切排除することによって劇的統一を与え得るもの、と理解した。」
・「ひとことで言うならこれは短編小説の作法というよりも一幕劇の作法なのである。」
・「モームが「このごろの退屈な話の洪水」を嘆き、その責任があると指摘したチェーホフに「退屈な話」という傑作があるのは皮肉なことだ。たしかにそこにあるのは老教授のくりごとが大半で、さほどの事件も起こらない。しかしこの教授の鬼気迫る日常の描写はまさに小説でしかなし得ないことだ。」
新たな短編小説に向けて
・「これらの短篇をお手本にして短編小説の書き方を学べ、などとというのではない。」
・「その時代を表現する最も新しい小説を生み出すためには、まずそれまでに書かれた小説や同時代の小説をいやというほどたくさん読み、それに飽きあきしなければならない。飽きあきするということは、それらの小説のテーマや内容や技術に飽きあきすることであり、つまりは熟知してしまうことである。」
・「さて、ここでとりあげた六人の作家は、どのような内在律の力によって短篇小説を書いたのだろう。」
ー「ディケンズにとって短篇小説は何より皆が喜ぶ「お話」だった。」「彼がそれらを書くときの内在律は、当然「語り」の技法であったろう。」
ー「ホフマンはマニエリスムと呼ばれる怪奇幻想文学の旗手とされている・・・実際に創作するときの彼の内在律はゴシック・ロマンに必要な、計算の上に立ってなされた構成の技法といえる」
ー「アンブロウズ・ビアスの内在律は、彼自身がジャーナリストとして健筆をふるったコラムの技法であろうか」
ー「マーク・トウェインもディケンズと同じく語りの技法を内在律としたが、ディケンズの「語り」が「発話される言語(ラング)」であったのと比べると一歩も二歩も進んで、マーク・トウェインのそれは「ことばを実際に発する発話(パロール)の技巧であった。」
ー「初期のゴーリキーの内在律はおそらく、リズムを意味するもうひとつの内在律が必要とされた「詩」であったろう」
ー「トオマス・マンの内在律は自然主義リアリズムだった。・・・驚くべき自己鍛錬の結果、彫刻的表現と呼ばれる技法を早くから身につけた」
・「形式の革命を伴わない内容の革命はあり得ない」
ローソン「爆弾犬」・・・スラップスティックの定石
・「設定」
・「無関係者またはいちばん罪なき者の巻き込まれ」
・「構造主義のいわゆる「後説法」、つまり「そいつは以前どんな馬鹿なことをしたか」「前笑い」「ロシア・フォルマリズムで言う「遅延」」
・「ひとりだけそれに気づかないという、読者の気を揉ませる「はらはら」ギャグ」
・「危険物を身につけた馬鹿が、自分ではそれに気づかず、周囲に騒ぎを起こしたり、自分は恐れられていると誤解したりするギャグ」
・「「本性暴露」ギャグ」
・「「今なら事件が起こってもいいという時に起こらない」というギャグ」
・「「一時的言語障害」ギャグ」
・「いよいよ爆発が起る瞬間という時に、このようにもう一度爆弾の効果を確認するといった念押し」
・「「その事件が起こった時誰が何をしたか」及び「その人物のその事件による後遺症」というギャグ」
・「騒ぎの張本人だけ、騒ぎのもとが自分にあることを知らないというギャグ」 -
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創作に関する技法や覚え書きを書いたもの。エッセイ。
実験作と言われる文学が読みたくなった。
「反復」の章は自作『ダンシング・ヴァニティ』の解説。映画・演劇では当たり前の技法である反復を小説に持ち込んだ実験作ということ。その反復の種類を解説している。
「人物」小説の人物リストを作るのは小説の楽しみ方のひとつ。500人が登場するトルストイ『戦争と平和』、リアリズム小説のゾラ『ナナ』など。
実験小説として書いた作品。『虚人たち』は「省略」というごくごく当たり前の技法を使わず、原稿用紙1ページを1分として正確に置き換えた実験作。
『残像に口紅を』は使用できる文字を制限する実験作。これが遊戯なのか意義があるのかは批評家にまかせるが、作者は書いていて楽しかったとのことの。
『文学部唯野教授』は文芸評論をネタにした小説。