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「短篇小説を書こうとする者は、自分の中に浸みこんでいる古臭い、常識的な作法をむしろ意識して捨てなければならない」。その言葉どおりに数かずの話題作を生み出してきた作家が、ディケンズら先駆者の名作を読み解き、黎明期の短篇に宿る形式と技法の極意を探る。自身の小説で試みた実験的手法も新たに解説する増補版。
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Posted by ブクログ
かなり前に書かれた筒井さんのこの小説執筆論が、令和の時代に小説家になろうとする人間に、とても参考になる。 昨今、小説投稿サイトの増加などに伴い、小説を書く人は激増している。新人向けの小説コンテストも多く、規模の大小を問わなければ、投稿できるコンテストは毎月十件くらいあるのではないか、と思う。 そ...続きを読むのような環境の中で、短編小説のあり方はまさに多様化していて、筒井さんが言う「小説は自由だ」との主張は説得力を増している。 この本で紹介されている事例は海外作家のものが多いがゆえに、短編小説における様々な試行錯誤の事例が、テーマ選定、文章の構造の斬新さ、という視点に偏っていることは否めない。 令和時代における国内短編小説のカンブリア爆発的多様化は、日本語の特性をフル活用した文体の多様化に負う部分が大きいのではないかと思うが、そのような事例の紹介はない。 とはいえ、「何を書くか」「どう書くか」のそれぞれの軸において、小説はなんでもありの自由なものである、という主張はそのまま流用可能である。 つまり、この本の講義の内容は、具体例としては少し古いかもしれない。だが、短編小説論としては最前線に返り咲いているのだと思う。
筒井康隆といえば気の向くまま、筆の赴くままに大量の作品を生み出し続けてきた印象があるが、しかし本書ではその実、短編小説を書くためのテクニックや心構え、文学界の課題意識について綿密な考察を披露する。紹介されている短編小説とセットで読みたい一冊。
あれこれ考えすぎて、頭でっかちになってる人、袋小路にはまっている人には、筒井先生のような方に、何を書いてもいいのだ、決まりなんてないのだと言われると少し気が楽になるだろうが、それは裏を返せば誰にも真似できない自分だけの個性を見つけろと言われているのではないか。要するに優れた作品を書くのに近道や決まっ...続きを読むたルールはなく、ただただ唯一無二の個性を求めて書き続けることが大事だという事ではないか。
短篇小説を書く指南書を想像していたら、そんな甘いものではない。著者の理想は「孤高に存在し、誰にも真似られることのない短篇小説。つまりその独特な形式も技法も、ただその短篇小説だけにしか通用しないという短篇小説。そのためにはその独特な形式と技法がそのテーマや内容によってしか生かされず、他のいかなるもの...続きを読むにも応用のきかない短篇小説」。 才能ある作家でも一生に一度しか書けない、遥か高みのハードルを呆然と見上げてしまう。 テキスト短篇の中、読んでいたのは「アウル・クリーク橋の一事件」とボーナス・トラック「繁栄の昭和」のみ。 「二十六人の男と一人の少女」はメルヘンのようで興味を引かれた。「爆弾犬」は巧みな紹介に頬が緩んだ。
創作者ならでは視点が興味深い。短編小説と長編小説、戯曲との違いなんてあまり考えたことがなかったなぁ。
本来小説は何を書いても良い最も自由な形式の文学であったが、近年(これが出版されたのは1990年)短篇小説が「お稽古事」とかし、決まりやルールを守ることが重要視されいる。では決まり事も何もなかったはずの短篇小説が生まれた当時の短編はどうやって生み出されたのか。それを探るため、岩波文庫の短編集を虚心に読...続きを読むみ返し、自分の鑑賞眼のみで小説を批評し、その作品が何もルールのないところから生み出されたのか、それとも既存の詩や戯曲の影響を受けていたのかを探る本である。 それぞれ短編を上げて、テーマや技法について論じるが、テーマはそれを語る作家の数だけあるわけで自然と話は技法に向く。 紹介された短編で既読なのは「アウルクリーク橋の一事件」のみ。他の本は知らないが、この本を短篇小説の紹介本の視点で読むと、いづれも興味深い作品で読みたいと思わせる。 短篇小説講義の表題にもっともかなっていたのはエンタメの技法を解説したローソン「爆弾犬」だろう。ギャグの解説はともすれば寒くなりがちだがこの爆弾犬は解説越しでも面白い。 今回の増補版で追加された筒井康隆自身の手による短編「繁栄の昭和」は、この解説がなければ自分の経験からでは十分に読み取れなかっただろう。戦後数十年の高度経済成長期も、江戸川乱歩に親しんでいたわけでもないからだ。この一篇はたしかに解説に足る新しさと現在的かつ普遍のテーマを扱っていて面白い。解説のおかげで知識不足でも楽しめた。
短編小説の名手である筒井康隆による短編小説の形式や手法の極意が述べられている一冊。今では古典として扱われている海外の名作短編を取り扱っており、作家がどのような思考をもとに作品を創作したか、理解することができた。短編小説の黎明期にあたって、海外の作家が道を切り開く軌跡をたどることができた。 世界的な作...続きを読む家も、作家人生のなかで一生に一度しか書けないほどに、生涯の代表作となる短編小説を作るというのは大変であることを痛感した。 現在の日本の文学に向けて提言もなされており、非常に興味深い内容となっている。 30年以上前に書かれた短編小説の創作論が、30年のときを経て、加筆修正により、新たに筒井康隆本人の作品を取り上げた章が加えられている。
スラップスティックのところ、すごい面白かった。ということは、増補版以外のところは一回読んでるのかもね。いやしかし文章がいいよね。何様ってコメントですが。
昭和を代表する小説家筒井康隆の短編小説論。きらめく宝石のように、小説についての名言がならぶ。ほぼ引用で要約するしかない。(下記は増補版ではなく初版の感想) ・「小説というものはいうまでもなく、何を、どのように書いてもいい自由な文学形式なのだ。意外に思われる読者もおられようが、実は小説というのは最...続きを読むも新しい文芸ジャンルなのである。小説以前から存在した詩や戯曲などの形式による拘束、・・・、そうした形式上の束縛を嫌い、より自由に書こうとして生まれた文学形式ことが小説だった筈なのである。」 ・しかし、特に短編小説の傑作は、生まれにくくなっている。第一に、芸道化(お稽古ごと化)している。第二に、韻律のない自由詩や身辺雑記の随筆などと区別がつかなくなり、意図するところも似てくるため、作法がうんぬんされる。 ・「現在小説作法と言われているもののほとんどは方法論ではなく、体験論である。これはそうなるのが当然」 ・「短編小説という形式の外在律は短いということだけだろう」・・・しかし、「ほとんどの外在律から自由になり、・・・、書きたいように書けば、よい短編小説ができるのだろうか。・・・創作心理というものを考えると、どのようなジャンルであろうが、なんの内在律もなしに書ける文芸作品など、ちょっと考えられない。」 ・この内在律を考えることが、本書の目的。 ディケンズ(1812-1870) 「ジョージ・シルヴァーマンの釈明」・・・書き出し ・筒井は「通常は、少なくとも書き出しだけは結末まできちんと考えた上で書き出すようにしている。」 ・しかし、ディケンズは、本短編で、主人公に、書き出しを迷わせてみせる。これは、「効果的に釈明し、誰にも裏を見透かされないため」の主人公の迷い・工夫なのか、主人公の戸惑いか作者の苦しみか判然としない現代的な「さまようディスクール」「ためらうテクスト」「エクリチュールの混乱」か。 ホフマン(1776-1822)「隅の窓」・・・観察・想像・描写、諷刺・ユーモア、対話体 ・「ホフマンは・・・短編小説の勃興期に多くの短編小説を書いたのであり、したがって彼自身もまた短編小説の開拓者だった。・・・これは彼の最後の作品なのである。」。すなわち、ホフマン自身が、自らを投影した作品といえる。文中に出てくる「タトエ今は酷トシテモ、イツマデモ酷いママニツヅキハシナイ」というモットーは、ホフマン自身のモットーでもあったという。 ・「観察、描写、想像といった側面(にせよ)、また諷刺、ユーモアの側面(にせよ)、対話体による効果(にせよ)」という3つが混然一体となった文章となっている。そして「いずれもホフマン自身が、病に冒されて寝たきりとなり、怪奇幻想に向かうべき興味や想像力をたまたま自分の身のまわりに向けたからこその成果であったということが言える。」 ・「この作品には現代に通じる新しさがある。ちょっと見ただけの人物を辛辣に批評し、そこからさまざまな想像を過激に働かせて類型や典型を造形してしまうというのは現代でももっとも新しいギャグとしてスタンダップ・コメディなどによく使われるネタである」 ・「この短編の大部分を占める対話体も、ホフマンお得意の手法であり、一方に飛躍しがちな幻想家、一方にリアリストを配置して平衡と重層性を保つ方法は他のいくつかの作品にも見られることである。」 アンブロウズ・ビアス(1842-1913?) 「アウル・クリーク橋の一事件」・・・テーマ、意外性のある結末 ・「ビアスの小説は、ほとんどすべてがといっていいくらい「死」をテーマにしている。」 ・「ビアスの小説の文学性を示すものとしては、他に、のちのハードボイルドの先駆けと解釈できそうな、即物的で感傷に流されることのない、現代的ともいえる描写がある。」 ・「人間心理が「死」というテーマと「結末の意外性」によってくっきりと浮かび上がり、そこには人間を見るアンブロウズ・ビアスのいつもの皮肉な視点もちゃんと備わっている。文体、描写、三段階のプロット、技法、いずれを欠いてもこれほどの傑作にはならなかっただろうと想像できるが故の、これ以上「どうしようもない傑作」なのである。」 ・しかしながら、「ほかの作品は、・・・いささかレベルの低い作品ばかりなのだ」 ・「短編小説の傑作というものは本来、アンブロウズ・ビアスほどの才能のある人物でさえ、ただひとつのテーマ、ただひとつの技法に頑固に執着して全作品を書いたとしても、まるで偶然のようにやっと一篇が生まれるというほど、稀にしか出現しないものなのではないか」 マーク・トウェイン(1835-1910)「頭突き羊の物語」・・・ほら話 ・「アメリカの西部や南部には、法螺話の伝統というものがあった。」 ・「マーク・トウェイン自身によって南西部風に、スケッチ(寸劇)、テール(一口咄)、バーレスク(狂言)、ホークス(げてもの)、ホッグウォッシュ(狂文)、フロード(詐欺、ひっかけばなし)などと分類されているが、そのいずれにもトールトーク(ほらばなし)、誇大癖)の要素が強いそうだ。」 ・「そうした話法でひとを笑わせようとするときにいちばん肝心なのは、なんといっても「間」であるということだ。」 ・「この短篇の独自性はその着想にある。」 ・「(話の横滑りは)小説は何をどう書いてもいいのだという思想の実践であり、結末さえ必要ないのだとする主張でもあると解釈することができる。」 ゴーリキー(1868-1936)「二十六人の男と一人の少女」・・・文体 ・「この作品は、・・・最後まで一人称複数のままである」 ・「本来は内容に最も適したよりよき文体を考え抜く姿勢こそが、偶然のように実験的で新鮮な表現を生み出し、成功させるのであり、新しい文体や奇矯な手法が先にあるべきではないのであろう。」 ・「夢」や「理想」や「希望」が、醜い現実によって無残に打ち砕かれるというのが、初期のゴーリキー作品の特徴だった。」 ・「この短編は、リアリティとロマンチシズムと手法が三位一体となって詩的な高い格調をもっているということが言えるだろう。」 トオマス・マン(1875-1955)「幻滅」・・・観念小説、若書き ・「大学時代に処女作を書いて文壇に登場したひとが多い事実は、小説が決して豊富な社会体験、年季の入った技巧、長い年月の思索などによるものだけではないことを示している。」 ・「社会体験の少ない作家はその作品の中に自分が影響を受けた過去の文学作品を「準拠枠」として使わざるを得ない。それがどの程度に使われているか、なまのままで使われているか咀嚼されて使われているか、何を準拠枠として使っているか、それによってその作品の完成度やジャンルが決まってくるのである。」 ・「「若書き」でしか生まれなかった作品と言えるのだし、「若書き」でも書け、「若書き」であった方がその感覚にリアリティをあたえることができる作品だったのである。」 サマセット・モーム「雨」、チェーホフ「退屈な話」 ・「私は短編小説というものを、物質的なものにせよ精神的なものにせよ、ただひとつの出来事を語るもの、その出来事をはっきり説明するの絶対必要でないものは、一切排除することによって劇的統一を与え得るもの、と理解した。」 ・「ひとことで言うならこれは短編小説の作法というよりも一幕劇の作法なのである。」 ・「モームが「このごろの退屈な話の洪水」を嘆き、その責任があると指摘したチェーホフに「退屈な話」という傑作があるのは皮肉なことだ。たしかにそこにあるのは老教授のくりごとが大半で、さほどの事件も起こらない。しかしこの教授の鬼気迫る日常の描写はまさに小説でしかなし得ないことだ。」 新たな短編小説に向けて ・「これらの短篇をお手本にして短編小説の書き方を学べ、などとというのではない。」 ・「その時代を表現する最も新しい小説を生み出すためには、まずそれまでに書かれた小説や同時代の小説をいやというほどたくさん読み、それに飽きあきしなければならない。飽きあきするということは、それらの小説のテーマや内容や技術に飽きあきすることであり、つまりは熟知してしまうことである。」 ・「さて、ここでとりあげた六人の作家は、どのような内在律の力によって短篇小説を書いたのだろう。」 ー「ディケンズにとって短篇小説は何より皆が喜ぶ「お話」だった。」「彼がそれらを書くときの内在律は、当然「語り」の技法であったろう。」 ー「ホフマンはマニエリスムと呼ばれる怪奇幻想文学の旗手とされている・・・実際に創作するときの彼の内在律はゴシック・ロマンに必要な、計算の上に立ってなされた構成の技法といえる」 ー「アンブロウズ・ビアスの内在律は、彼自身がジャーナリストとして健筆をふるったコラムの技法であろうか」 ー「マーク・トウェインもディケンズと同じく語りの技法を内在律としたが、ディケンズの「語り」が「発話される言語(ラング)」であったのと比べると一歩も二歩も進んで、マーク・トウェインのそれは「ことばを実際に発する発話(パロール)の技巧であった。」 ー「初期のゴーリキーの内在律はおそらく、リズムを意味するもうひとつの内在律が必要とされた「詩」であったろう」 ー「トオマス・マンの内在律は自然主義リアリズムだった。・・・驚くべき自己鍛錬の結果、彫刻的表現と呼ばれる技法を早くから身につけた」 ・「形式の革命を伴わない内容の革命はあり得ない」 ローソン「爆弾犬」・・・スラップスティックの定石 ・「設定」 ・「無関係者またはいちばん罪なき者の巻き込まれ」 ・「構造主義のいわゆる「後説法」、つまり「そいつは以前どんな馬鹿なことをしたか」「前笑い」「ロシア・フォルマリズムで言う「遅延」」 ・「ひとりだけそれに気づかないという、読者の気を揉ませる「はらはら」ギャグ」 ・「危険物を身につけた馬鹿が、自分ではそれに気づかず、周囲に騒ぎを起こしたり、自分は恐れられていると誤解したりするギャグ」 ・「「本性暴露」ギャグ」 ・「「今なら事件が起こってもいいという時に起こらない」というギャグ」 ・「「一時的言語障害」ギャグ」 ・「いよいよ爆発が起る瞬間という時に、このようにもう一度爆弾の効果を確認するといった念押し」 ・「「その事件が起こった時誰が何をしたか」及び「その人物のその事件による後遺症」というギャグ」 ・「騒ぎの張本人だけ、騒ぎのもとが自分にあることを知らないというギャグ」
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