筒井康隆のレビュー一覧
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10代の頃、一度読んだが、当時は面白いとは思わなかった。しかし再読は一気読み。
おそらく戦争というものへの知識というか、イメージというか何かが不足していて、この本を消化できなかったものと思われる。
馬頭星雲系に属する、顔が犬に似た人間の世界は、より文明が進んだ地球人類が関与した事も一因となり、全面戦争状態となる。
戦争に入用となる物資を軍人に売る商売をしている、「戦争ばあさん」とその4人の息子。
しかしその戦争が、長男・次男・三男を次々とばあさんから引き離していく。
長男は戦争で富豪となり、次男は反政府の農民軍を率いるリーダーとなり、ばあさんの元に残ったのは、馬鹿で喋る事の出来ない、末っ子のみとなる。
あとがきにも書かれているが、この本には戦争の全てが描かれている。悲惨で、カッコ良く、悲しく、馬鹿馬鹿しい。
この著者ならではの切り口で語られる戦争は、リアルである。
鳥居氏の「昭和二十年」の次に読んだので、まるで現実の戦争のように感じた。 -
全てにおいて強烈!
是非々々一回は読むべき本、しかし、二回読む本ではありません。
人間の汚さが、あまりにも“露骨に”書かれ過ぎてます。
まるで、目の前に「膓」をぶちまけられた感覚…。
私の読書歴の中でも読後の不快感は断トツのトップ…。
でもあえて、その「不快感」を感じる価値がある本です。
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Posted by ブクログ
本書が単行本で出たときに買ったのだが、積ん読になったまま幾星霜。
宇宙を航行している大船団がある。その一宇宙船に船団司令部より指令が下る。使命は惑星クォール全居住民の殲滅。
鼬族の人口爆発により彼らによる犯罪が頻発。特に凶悪な鼬族約千名を3度にわたり惑星クォールに流刑にして約千年。鼬族は惑星クォールで文明を再び発展させ、刑紀九九九年に到り、「大空からの殺戮者」が襲来する。
そういう話なのだが……
なのだが……
まずコンパスが登場する。なぜなら、指令が下る船というが文具船だからである。船長は赤鉛筆で、副船長がメモ用紙、繊維じゃなくて船医は紙の楮(こうぞ)先生だったりする。文房具は生きているのか。生きているらしい。コンパスなら例の尖端に針のある両脚があると同時に、人間のような身体器官がある描写が何の説明もなく併存している。量子論で量子が波であると同時に粒子であるかのように、文房具たちは文具としての身体を持つと同時に人間の身体を持っているようなのだ。そしてそのことについては何ら説明がない。
第1章「文房具」はこの文具船の乗組員たちを次々に紹介していくのだが、みな狂っているか、狂う寸前なのである。一見正常そうな者は、実は妄想を持つがゆえに正常な行動をとっているなどというややこしいことも起こっている。ただし狂っているといってもおおむねそれは性格が極端に偏っているとか著しいこだわりを持っているとかいうだけのことに過ぎず、われわれの周囲にいる人々を少し極端にしただけともいえ、いわば「普通の人々」の戯画なのだ。文房具とは人間が人間自身の機能を拡張するために生み出したものであり、極めて人間的なものともいえる。
指令はクォールの居住民である鼬族二十四億の殲滅。しかも艦隊への復帰の指令はない。だいたいもう狂っているのだが船員たちは狂ったようになる。戦闘で死ぬかも知れない。二十四億の住民を皆殺しにするなどいつまでかかるかわからない。俺たちは捨て駒だ。
第2章「鼬族十種」はクォール一千年の歴史である。記述法は歴史書か歴史の教科書かといったもので、おおむね淡々と書かれている。歴史の教科書を読まされるのはうんざりだなあと思うが読んでみるとこれが面白い。つまり内容は淡々としてはおらず、さまざまな王朝が起こっては戦争し虐殺しといったもので、人類の歴史の戯画なのである。最後は二大国の対立と核戦争の危機というところにいたる。鼬だけに前王を喰ってしまったり、最後っ屁をかましたりするが、人間だって似たようなものだ。実は第3章でこのクォール史は文具船のある船員によって数十年の調査執筆によってなったものであることが明らかにされるのだが、千年の歴史の重みを描いた上でその歴史を破壊する文具船がやってくることで否が応でも黙示録的な雰囲気が高まるという仕掛けになっている。黙示録とは歴史の終焉だからである。
顕微鏡的に人間的なものをデフォルメした第1章に、望遠鏡的に俯瞰した人類史のパロディの第2章が激突すると、歴史の終焉のあとにあるのは第3章「神話」である。文具船侵攻直後やらその天空からの殺戮者の存在がもはや事実かどうかもわからなくなった未来までさまざまな時点の記述が文房具側も鼬側も次々に視点を変えて列挙され全貌はその断片から伺い知るしかなくなる。しかも、そこに雑音がはいってくる。作者の実生活の話題や、執筆中に聞こえてきたと思しき選挙カーの絶叫。
矮小ながら徹底的に細部をえぐっていく人物描写と長大ながらも殺伐とした歴史、いずれも内容は矮小なのにその叙述の形式によって壮大な黙示録的世界を生み出す。つまりカオスとしての神話がここに実現されるのだ、しかも人間的なあまりに人間的な。 -
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文壇をテーマにした小説らしいということで読み出したがすでにそうしたものには『大いなる助走』がある。うろ覚えで恐縮だが新進作家が文壇の俗物どもにいいようにされて最後にぶち切れて文壇皆殺しをはじめるといった話でなかったか。筒井康隆ともあろう者が同じようなものを書くとも思えぬ。と読み出してみると似たエピソードが導入となっている。つまり私小説を書いている同人誌作家が文壇の前衛作家を狙って爆弾事件を起こすというのが冒頭。しかし本書のテーマは「文壇」ではなく「文学」なのだ。
そこで書評の導入もこんな風に路線変更。
私は週に1回だが、少々遠方に仕事に行っている。これまで自家用車で行っていたが、諸般の事情で電車にかえた。すると片道1時間ばかり読書時間が確保できてとても嬉しい。車中読書をしながらふと視線をあげると覚醒している乗客の多くがスマホをいじっているというお馴染みの情景がある。それでも1車両にひとりやふたりは自分の他にも本を開いている人がいる。絶滅危惧種なのかも知れないが少しほっとする。これはそんな時代の「文学」に関するメタフィクションなのである。
登場人物はいずれも実験的な姿勢をもった作家たち。登場するのはベテランの前衛作家、新進の実験的作家、ホラーを脱臼させた実験的作風で支持を集める作家、同様に推理小説でそれをやっている作家、前衛詩の大御所(彼は盲である)、その弟子でジュヴナイル小説で売れ出した作家など。三人称だが視点はどんどん変わる。
「ベラス・レトラス」とは文学青年だったパソコン・ソフト会社社長が創刊した実験的文学の専門誌で、スペイン語で「純文学」の意である(ただし本書では「純文学」「大衆小説」という分類は取らない。実験的な小説とエンターテインメントと記されている)。破格の原稿料で登場する多くの作家が寄稿しているが、みなそこに書いた作品は実験的であるというだけで碌でもないものだと思っている。
ここをフィクション第1層としよう。
登場人物たる小説家の作品自体も地の文に続けて「引用」されているのでこれをフィクション第2層としよう。フィクション内のフィクションだからである。
さて、フィクション第1層の登場人物たち、つまり実験的作家たちはふと気がつくと、船に揺られているような感覚を覚え、やがて実際に巨船ベラス・レトラスに乗っていることに気づく。しかしまたふと気づくと現実(すなわちフィクション第1層)に戻っている。こんな往復を続けながら話が進むが、巨船ベラス・レトラスには自分が書いた小説の登場人物も乗船している。すなわちそこはメタフィクション層なのある。とすれば当然、フィクション第0層のあの人も登場するはずではないか。
巨船ベラス・レトラスは文学界の象徴である。批評家たちの集う空中楼閣があとを監視するようにつけてきており、航路にはテレビ島やインターネット島も見え、船主はそんなところに寄るななどと言っているが、ややっ、ここはインターネット島ではないか。
昔は同人誌作家が大変な読書量を誇り文学界を下支えしてきたが、いまや彼らは他の人の作品を読まずデビューした作家をやっかむばかりである。かつてはエンターテインメント作家も文学的な教養を豊かに持ち、あわよくば実験的小説にも手を出そうとしてそれがエンタメ小説の面白味を支えていたのに出版社も作家もとりあえず売れればと言う姿勢でいるために却って小説がつまらなくなって売れなくなっている。などと当時人物たちが議論を展開する。あるいは差別表現の問題。言葉を憎むと差別をする人を憎むのではなくなってしまう。文学者としては「目が亡くなる」という言葉を大事にするべきだ。いまやネットなどを中心にただ批判するだけの人が増えてしまった。登場人物の作家のひとりは9.11多発テロ事件への論評で世間のバッシングを受けている。ならばその主張を小説にしてしまおう。登場人物の主張する意見ならばそれがすぐに作家の意見といえるわけではなく批判しにくいだろう。というのを筒井康隆はこの小説でやっているのだ。
筒井康隆すなわちフィクション第0層のあの人が作品世界に登場するところがクライマックスである。ベラス・レトラスに降臨した彼が長々と述べるのは実際に彼が体験した出来事である。まあ文学に関わっているといえば関わっているがそこまでの話と直接関わってるわけではない唐突さ。それは北宋社なる出版社が彼の著作権を侵害した事件であって唖然とするような話で面白いことこの上ない。が、日常の些事を事細かに語るのだからこれは筒井の私小説である。なぜかここ、すごく盛りあがる。
されば巨船ベラス・レトラス、どこへ行く。といった小説なのであるが不思議にも感動する。感動のあまり俺も文学を書くぞと奮起してしまいそうな小説である。 -
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本作は文学的実験である。しかし同時に娯楽小説でもある。実験の主たる手法は反復。
「おれ」は美術評論家で、母親と妻、幼い娘、出戻りの妹とその娘と先祖代々の家に住んでいる。ストーリーは「おれ」の本が売れたり家を建てたり画家と付き合ったりという美術評論家の日常であるが……
「ねえ。誰かが家の前で喧嘩してるよ」と妹が言いにくる。とばっちりを受けたら大変と家族を奥の部屋に避難させ、「おれ」は二階の窓から様子をうかがう。すると家の前ではやくざと大学生が喧嘩している。喧嘩がエスカレートして死人が出たところで、再び「ねえ。誰かが家の前で喧嘩してるよ」。とばっちりを受けたら大変と家族を奥の部屋に避難させ、「おれ」は二階の窓から様子をうかがう。すると家の前ではやくざの抗争だ。ついにパトカーが来ると、再び「ねえ。誰かが家の前で喧嘩してるよ」。とばっちりを受けたら大変と家族を奥の部屋に避難させ、「おれ」は二階の窓から様子をうかがう。すると家の前では下っ端相撲取りが喧嘩している。喧嘩がエスカレートして死人が出たところで、ようやくループから抜け出して次の展開に進む。
といった具合。反復というのは音楽では古来当たり前の技法だった。ソナタ形式では提示部を反復する。というのは主題をすぐには覚えられないからである。展開部で主題は様々に変化を施され再現部で再びもとの主題がもとの形で戻ってくる。現代の芸術でも美術ではミニマル・アートがあるし音楽でもミニマル・ミュージックがある。ただ、本書でなされている反復はクラシック音楽的なものではなく、ジャズのアドリヴの意匠のようにも思える。演劇でも反復の技法があるし、反復のないダンスなんてあり得ない。ところが文学では反復というのは忌避されるだけだった。この「反復」については『創作の極意と掟』のなかで入念に解説されていて、先頃映画化された『All You Need Is Kill』などゲーム小説への言及もある。
作品ではこの反復自体が魔術的リアリズムとして機能する。さらに死んだ父は思い出の父として平気で作中に登場するし、幼くして交通事故で亡くなった長男も思い出の中で成長して成人となって登場する。これも繰り返し登場するという「反復」でもある。浮世絵の始祖といわれる岩佐又兵衛のことを調べるために彼の住んでいたあたりに直接行ってみようと思い立てばそのまま万治三年の江戸に行ってしまう。
表紙のフクロウは要所要所で顔を出す、これも反復のひとつの形態である。バーニーガールは表紙には2人しか書いてないが10人ほどいるコロスで途中で出てくる(あるいはこの2人は歌手になった「おれ」の姪と娘かも知れないが)。古代ギリシャ劇のコロスつまりコーラスの語源となったものである。舞台に上がって状況を説明をしたり注釈したり観客に語りかける。これを普通の小説的の記述の中でやってしまうのだ。コロスもまた反復のひとつの技法である。
反復のリズムがギャグを生むこともあるし夢と現実の混淆を生み出しもする。しかしこの反復の律動に身を委ねていると、ああ人生ってつまらない繰り返しだなあなどといった想念も頭に浮かんでくる。ヴァニティとは、空虚、むなしさ、無意味といった意味で、転じて虚栄心の意味もある。踊る空虚。 -
Posted by ブクログ
筒井康隆の傑作の1つである。登場人物の自我からの脱出の顛末。自我同士の絡まり合いとぶつかり合いによる、時空がねじれ合うドタバタなのに、不思議と最後までするすると読めてしまうのはタイトルにも有るサンバをはじめとした音楽的リズムの賜である。20年ぶりに再読したが相変わらず新鮮。自我により世界が想いのままにねじれのたうつのは、映画「マトリックス」「インセプション」の元ネタになったのではないかとの説もあるが、無いだろう。むしろ下地に有る夢野久作や、どっちが下地かわからないつげ義春の作品が時々フラッシュする。最後の論文のパロディがやや退屈と思ったところで、「これからがパロディでなく、これまでがパロディである自信は?」にギクリとする。夢の木坂も再読したくなった。こんな名作が、文庫で入手困難っていうのはどういうことですか角川さん。