村上春樹のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(以下、この本に沿って『キャッチャー』と呼ぶ)の翻訳を手掛けた村上春樹と、彼の翻訳仲間である柴田元幸が、翻訳者という視点からサリンジャー及び『キャッチャー』について縦横無尽に語る本。
小説について作家が語る本を読むのは、おそらく初めてだと思う。読書ガイドとして書評集を買うことはあったが、どれも一冊につき2~3頁程度で語られており、こうして一冊の本としてガッツリ語られたものを読んだことはなかった。 読むことになった理由は、『キャッチャー』を読んだ時の印象が、普段読む多くの青春小説に比べ非常にもやもやした感覚が残ったため。
青春小説というと、例えば主人公に好きな人がいて、その女の子(男の子)とのロマンスがある。で、相手を愛したり憎んだりいろいろして、結ばれたり結ばれなかったりする。そして、そこで様々な経験を通じ、物語が始まった時より少しだけ大人になっている。そんな物語が圧倒的に多い。古くは夏目漱石の『坊っちゃん』とか、私の愛してやまない『文学少女シリーズ』とか、最近なら『君の膵臓をたべたい』とか、アニメ『宇宙よりも遠い場所』とか。
こうした「物語を通じた若者の成長」という枠に、どうしても『キャッチャー』がしっくりこなかった。元々大反響を呼んだ小説だということはもやっと聞き及んでいたので、この違和感の正体を垣間見たくて、この本を読むことにした。
この本で語られている限り、やはり主人公の成長というよりは、ホールデンは永遠の16歳であり、「そこにしっかりと留まり、読者の心のひとつのありかとして機能することを宿命づけられた小説」(p.220)なのだそうだ。
また、同時に米国の、しかも60年代の小説ということもあり、出版当時教育界などからヒステリックなまでのバッシングがあったこと、今でも一部では有害図書として扱われていること、ある凶悪殺人犯がこの小説をバイブルの如く扱っていたこと、当時は(日本もそうだろうが)社会・世間の繋がりが非常に強かったので、説教や世間に当て嵌めるような教育が今以上に重視されていたこと、など、小説を読んだだけでは気付けなかったものも多数あり、作品の理解(?)に大いに役立った。
あとは、サリンジャーがホールデンのように、あるいはホールデン以上にイノセンスな世界にのめり込んでしまい、隠遁生活を送るようになるという解説のくだりはやはり印象的だった。前にも後ろにも進めないホールデンの閉塞感が悪い方向に向かってしまったような(そりゃ社会から隔絶された隠遁生活が悪くも何ともないと言えばそれまでだが)、汚いとも取れるノット・イノセンスの世界を拒絶するということがどういうことか、
突き付けられている気もする。 -
Posted by ブクログ
同じ小説なのですが、清水さん訳とは全然違った印象で読ませていただきました。どちらかといえば、しっかりとした筋で、読みやすい印象でした。読後の感想としても、どこで何が起こったのかがよく分かりました。ただそれ故に、この作品の独特の分からなさ、不気味さが減ってしまっている印象があり残念でした。もちろん残っていますし、その中で十分面白かったのですが。
主人公が、面識の無い弁護士からの電話で急に事件に巻き込まれていきます。そこからその背景を知りたいという主人公の悪い性格が出てきて、事件が進んでいく。それだけでは陳腐な物語ですが、そうさせない、それぞれの場面があり、それを楽しむのがチャンドラーを楽しむということなのだと、改めて感じました。 -
Posted by ブクログ
安西氏の描く素朴な絵と、村上春樹の「ランゲルハンス島の午後」というエッセイを読んで、またあのまったりとした日常を読みたくて購入。
内容はフィクションやジョークを多く用いておりあからさまに現実ではありえない話をぶっ混んできたり、如何にもそれが調べたら本当に出てくる情報のように語り、最後のオチでは「嘘です」(と自白してるのだからマシだが、他作品では多々これを平然とやってのける)。あえて内容の薄いお話をあらゆる文字組みを試して展開させているのだろう。読みやすさは愚問である。これは、頭を空っぽにしてちょっとコーヒーを淹れて飲むとするか。そんなノリである。 -
Posted by ブクログ
以前単行本で読んだものの文庫版。
読み返すのいつぶりだろう?その後もたくさん彼のエッセイを読んできたので新しさは感じなかったのですが、その分彼自身と彼の作品がもつ一貫した強固なものが再確認できました。
だれになにを言われようが、という信念。書きたくて書いている。小説家というのはほんとうにそういう職業だと思う。頼まれて書いてるわけじゃないのだ。自分の中にふつふつと湧いたものを、わざわざペンをにぎりしめ物語にしてやろうだなんてちょっと途方もない。
物語をつくるというのは「たとえば」をえんえんと繰り返す作業だ。限りのないパラフレーズの連鎖。
そういうことを好き好んでできる人たちだけが生き残っている世界。
p76 文学賞は特定の作品に脚光をあてることはできるけれど、その作品に生命を吹き込むことまではできません。
p126 頭の中にいろんなことをそのまま放り込んでおくと、消えるべきものは消え、残るべきものは残ります。僕はそういう記憶の自然淘汰みたいなものを好むわけです。
p128 イマジネーションというのはまさに、脈絡を欠いた断片的な記憶のコンビネーションのことなのです。あるいは語義的に矛盾した表現に聞こえるかもしれませんが、「有効に組み合わされた脈絡のない記憶」は、それ自体の直感を持ち、予見性を持つようになります。そしてそれこそが正しい物語の動力となるべきものです。
小説家的直感はやはり読書を通して培われるものだと思った。
私も今はとにかく本をたくさん読んでたくさんの物語と言葉を自分の身体に通過させよう。
そうして、潮が満ちれば必ずわかる。リングにようこそ。 -
Posted by ブクログ
同じかもしれないし、違うところもある、二人の話。
村上春樹のエッセイが好きだ。ジャズが好きなのは知っていたけれど、クラシックにも詳しいとは。レコードを聴き比べたことがないし、それほどオーケストラに思い入れもないけれど、二人の対談は色々と感心することが多かった。指揮者の話、小澤さんの考え方だけでなく、バーンスタインやカラヤンほかの指揮者、またソリストのことや、弦楽四重奏の魅力など、今まで注目していなかった世界を知ることができた喜び。
「良き音楽」とは。楽譜を演奏するとは。指揮とは。考えたら、楽譜を書いた作曲者の意図は、もしかしたら指揮者や演奏者が思っているのと、全然違うかもしれない。それは、作家が描いた物語が、全然意図していない、もしくは意図していたものを超えて、読者に読まれるのと似ているのかも。でも、音楽は、作曲者、指揮者や演奏者だけでなく、聴く人というポジションもある。
異なるかもしれないけれど、通じ合えるかもしれないところ。それを探すのは、ロマンだな、と。