小田嶋隆のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
短編集。23区を舞台とし、各区での異なった
人物同士のエピソードが連なる。
同じ人物が現れることもあるが、基本的に
繋がりは気にせず読める。
最初は一つ一つの短編が繋がっていくのかと
思っていた。実際前半は登場人物が関わった人物の
過去やその後が描かれるなどしているので
そういった考えもあったように感じるが、
後半は一話完結したエピソードが多い。
描かれるストーリーはどれもなんとなく
寂寥感が漂う。道でばったり出会った変人、
愛憎絡まる親子、人に言えない過去を持つ少年。
話は展開するでもなく、収束するでもなく、
日記の一ページのような出来事で終わり、
それから10年後20年後というように
ぱっと時間が飛び、グッドエンドにも
バッドエンドにもならない。終わりなのか
続くのかもわからぬまま、次の人に視点は移っていく。
小説としては、正直いい構成ではないように思う。
一人一人の内容の濃さや続き方がバラバラで
編みかけの生地を3つ、4つ放り投げられた感じだ。
それぞれの内容はなんとなく読みいってしまうが、
仕事の休憩所で聞かされた気になるエピソード程度で、
そこからのまとまりがない。そもそも23区の
特色が出てる物では無いし、後半は23区縛りですら
なくなってる。
だけど先述した、東京が持つ乾いた寂寥感は
かなり表現されていると思う。
仕事、友情、恋愛、結婚。多くの出会いがあり、
人の行く末は様々だが、そこからさらに年月が過ぎると
だいたい音信不通か死んでいる。でも誰も気にしない。
むしろ気にしてあげないことが優しさ。
それが東京。そんな雰囲気が感じられた。
不勉強で知らなかったが、著者は有名な
コラムニストとのこと。
取材と経験から描かれるリアリティは確かに
感じられた。ならばこの諸行無常の感覚も
作者が感じたリアリティなのだろう。
ちなみにこの連作だが、最後の話だけ
毛色が違う。最後に持ってこられたこの話は
繰り返す日常に主人公が果敢に立ち向かう。
(ほんとにSFチックに)
主人公が言う台詞はここで描かれた人々の
人生を例えるようで、とても味わい深いと思った。
この作品を上梓した後に亡くなられた作者も
このような考えであって、東京を楽しんでいたらと
願うばかりである。
〈月日は百代の過客にして という
問題文を眺めながら、芭蕉翁のことを考える。〉
〈時間の川を流れ下るオレたち人間は、
いずれ年をとって死ぬ。一見、これは、むなしい
行き暮れに思える。〉
〈だが、立ち止まってしゃがんでいる場面ではない。
とにかく、歩くことだ。歩き続けている限り、
オレは、立ち止まっているままの元のオレではない。
長明の爺さんが、教えてくれている。
行く川の流れは絶えない。しかももとの水ではない。
オレたちは永遠に変化するのだ。わかるか?松尾。〉 -
Posted by ブクログ
あまり達者に書かれた一冊ではなかった。小田嶋さん、遺作ちゃんと読んだよ、というような思い入れ。
最初の方の短編とかほとんど覚えてない。連作のようで連作でないみたいな構成も特によい効果を生んでいるわけでもなく、単に筋と通すことの努力を放棄しているようにしか見えない。つーか新宿とか杉並とか起承転結がないどころかほぼなんにもない章のしんどさ。なんなんあれ。もう少し小説を書くということに自覚的でないと小説なんて書いたらいけないんじゃない?有能なコラムニストなら許されるの?だとしたらファックでしかないんだが。
シマヘビの話は印象に残った。この話だけ、登場人物のことを考えるときにオダジマンを想像する必要がなかった。洒落ていて小粋で好き。
あと10年生きて精進してればいい作品が書けたかもね!追悼! -
Posted by ブクログ
ネタバレ日本語を、取り戻す。
著者:小田嶋隆
発行:亜紀書房
2020年9月20日
人気、実力とも当代切ってのコラムニストが安倍政権時代に書いたコラムを、いくつか集めた本。言葉を扱うはずの政治家が、あまりにおかしな日本語を使っている様子を鋭くつくことで、安倍政権がまともに政治をしていない状況を指摘している。批判は安倍政権だけではなく、それを監視する機能を放棄し、すっかり御用機関になってしまったマスメディア、そして、だらしない証人喚問をする野党にまで向いている。
読んでいると、安倍政権時代の悪夢ぶりが甦ると同時に、まともにかかっていかなかったというか、いつのまにか安倍のペースにまきこまれていた自分の為体(ていたらく)ぶりにも恥じ入るばかりになる。
安倍辞任以前に書かれたものばかりで、安倍の辞任や辞任後の自民党政治を予見するような内容もある。1本だけ麻生内閣時代のものがあった。
本のタイトルはもちろん、安倍晋三と自民党が使っていた「日本を、取り戻す」のパロディ。
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安倍総理は、演説の中で、自分の言葉に自信を持てない心理状態に陥ると、「まさに」という強調語を多用して、自分を立て直すことを試みる。さらに、官僚に与えられた原稿を自分の中でうまく消化しきれていない場合には、「言わば」という言葉を繰り返すことで。なんとかその場を取り繕おうとする。ほかにも、例えば、質問に対して適切な回答を思い浮かべることが出来ないケースでは、センテンスとセンテンスの間に「なかにおいて」という無意味な接続の言葉を挿入することで時間を稼ぎにかかる。
アベノミクスは、経済用語ではない。経済隠蔽用語だ。
「オレオレ経済政策用語」だ。(114P)
副総理ともあろう麻生太郎が「武漢ウイルス」というのが正確な名前だと思う、ととんでもない暴言を吐いたが、あまり報道されなかった。あまりにも非常識な発言であったがゆえに、メディアが追及を躊躇したに違いない。国際的な恥さらし以外の何ものでもなから。
企業倒産で言われる「too big fail=影響が大きすぎて倒産させられない」の応用版として「too nasty to write=ひどすぎて記事にできない」という原則が新たに策定されつつある・・・
麻生総理時代、「踏襲」を「ふしゅう」と読み、古館、みの、安藤優子はもちろん、こぶ平レベルの司会者から、使い捨てのコメント供給業者、ひな壇専任の木っ端芸人に至るまでが、上から目線で嘲笑した。
なぜか?あの偉そうな、いかにもモノを知っていますっぽく、アゴを上げ気味にもったいぶって喋る態度が、あまりにもものの見事に「小面憎い」からこそ、ミスをした失点がより劇的に見える。
これが例えば小渕さんなら、「えへへ」的な笑顔を見せる。
竹下さんなら、漢字の読みミス自体が一種持ってまわった計算なのではなかろうかと思わせる底の知れなさがあった。「さすがは天下の朝日の記者だわな。万事心得ておられて感服だわな」と言われては記事にできない。
小泉さんなら「あっそう。トウシュウって読むの。知らなかったなあ。トウシュウサイシャラク。ラブミー・テンダー。人生いろいろ。感動した」と煙に巻く。
初入閣のときの小泉進次郎新大臣の演説はある意味見事だった。あれほどまでに内容希薄な話を、あれほど自信満々な語り口で言い切ることのできる政治家は、近来では珍しい。小泉純一郎以来。
この五年ほどの間に「政治的」という言葉は、もっぱら「反政府的」という意味でのみ使用され、解釈され、警戒され、忌避されるようになった。政権に対して親和的な態度は「政治的」とは見なされず、単に「公共的」な振る舞いとして扱われる。(2019年)
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役人が文書を残すことは、飲食店の従業員がトイレの後に手を洗うのと同じく、仕事をする上での大前提なので(南スーダンPKOの日報が「破棄された」との答弁は)明らかな異常事態。
安倍総理に関する小論を書くときに感じる疲労感は、自分にとって彼が思考の対象であるより、感情の源泉だからではないか。
安倍総理は、いずれ足元を固めているネポティズム(縁故主義)の罠によって、近いうちに幕を下ろすことになるはずだ。(「新潮45」2018年6月号)
安倍さんは、ガチで自分がタイホされる近未来を予測している。その事態を心底から恐れている。(2020年5月)
党派的な人々がゴロゴロ歩いていた70年代のキャンパスは、その一方で、その党派的な学生同士がわりとだらしなく党派を超えてツルんでいた場所でもあった。
昨今の新聞社の偉い人たちは、その神聖なる業務を放棄している。政府が「骨太の方針」と言ってくれば、その日本語の気持ち悪さを検証することもせずに、そのまま「骨太の方針」という名前で記事を書いてしまう。
安保法案の衆院特別委員会で可決される前日に石破地方創生相は
「国民の理解が進んでいるかどうかは世論調査のとおり、まだ進んでいるとは言えない」と発言。
この法案に関して、政府は当初から「理解」を連発している。法案を支持しない人々を「理解不足」と決めつけている。ここでいう「理解」には、法案を「聖典」視させる一種の詐術が含まれている。
安保関連法案は「理解が進んでいない」ではなく、「支持されていない」と見る方が正しい。
「理解できない」「意味わかんない」を、「容認できない」「共感できない」ないしは「馬鹿馬鹿しくて相手にする気にもならない」くらいなニュアンスで使う若い人たちが増えている。
森友問題での佐川宣寿前国税庁長官(前理財局長)証人喚問で、彼が「その点につきましては、さきほどから何度も繰り返し申し上げておりますとおり、まさに刑事訴追のおそれがあるということでございますので、私の方からの答弁は差し控えさせていただきたいといいうふうに思っておるのでございます」というような言い方。
それを聞けば、「過剰な敬語を使う人間のうさんくささ」「厳重な丁寧語の壁の向こう側に隠蔽されているもんのけたくその悪さ」「させていただく敬語の気持ちの悪さ」「敬語の鎧で自らを防衛せんとしている人間の内実の脆弱さ」を感じる。
「お答え」「お示し」「ご理解をしてございます」あたりの耳慣れない言い回しを聞かされるに至っては、「バカにしてんのか?」と気色ばむ向きも少なくなかった。
キャリア官僚のような立場の人間が、防護壁や本音隠蔽のカーテンとして敬語を振り回すケースでは、「あなたと私は対等の人間ではない」ということを先方に思い知らせるための実にイヤミったらしいツールにもなる。
野党の質問、批判に対して、どうして「代案」などとういう場違いな言葉が突然出てくるのか?例えば、トランプ政権の疑惑を追及した時、「1院を支配しながら政策の代案を示さずに政権追及に終始すれば、世論の批判の矛先が民衆党に向かう可能性もある」とメディアは書いていた。追及するのかしないのか?なのに、「代案」もなにもない。野党が疑惑追及をしている場合、与党側からの反論として「代案」という言葉を提示しておくのがセオリーだという思い込みが、記者の頭の中に転がっていたのではないか?
(これは日本の政治にも大いにあり。反対こそが「代案」というケースが多いのに、自民党支持者は代案とかほざく)
新型コロナウイルスは、国際ウイルス分類委員会(ICTV)によって「SARS-CoV-2」と決定されている。「COVID-19」はWHOが命名した、このウイルスが起こす病気の症状名。
放送による表現の自由は憲法21条によって保障され、放送法はさらに「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」(第1条2号)を定めている。
誤解されているのは、「放送の不偏不党」「真実」「自律」は、放送する側の義務ではなく、政府などの公権力に(保障しろと)求められているもの。
現代日本でとりわけコミュニケーション能力が重視される傾向は、民族的にも、文化的にも、言語環境上も、極めて同質性の高い社会を形成していることと、近年、産業構造が高度化し、ほとんど全ての被雇用者の業務が、人間を相手にするサービス業に近い仕事にシフトしていることに関連している。われわれは、コミュ力の低い人間を障害者として分類せざるを得ない社会で暮らしている。
サッカープレミアリーグのリバプールFC、ユルゲン・クロップ監督は、政治やコロナウイルスのようなシリアスな問題について、サッカー監督の意見を聞きたがる風潮が理解できない」と言っている。
日本でわれわれは、政治にまるで素人のお笑い芸人のコメントを、テレビで聞き、新聞で読まねばならない国にすんでいる。
マスクもトイレットペーパーも、デマに踊らされ、パニックに陥った大衆が過剰な買い占めに走った結果、店頭から消えたというわけではないようだ。普通の生活をしている普通の日本人が、聞きに対応した当然の生活防衛として、一定の買い置きを心がけただけのことで、日本中の市場から在庫が消失してしまった事実こそ教訓にすべき。これは、われわれの商品流通市場が、30年来の不況へ対応するために、在庫と配送回数を極限まで切り詰める形での経営努力を続けてきた結果として、効率と引き換えに、冗長性(余裕)をかなりのレベルで喪失したことを意味している。 -
Posted by ブクログ
メロドラマに感動するというのは、普段の自分より賢くなるということではなく、自分の規矩を取っ払い眠っている思い切り愚かな感情を解放させること。オペラでも義太夫でも、そこでは誰もが感情過多で、大袈裟で、身勝手で、常に自己憐憫の虜になっている。しかも、彼らは、たやすく激発し、ことあるごとに自暴自棄に陥っている。不穏極まりない激情、ちょっとしたことで腹を切るだの死ぬだのといった直情径行が日常の中で普通に展開されているのだ。でも、この理屈では説明できない愚昧な感情の体現が、時代を超えて人の心を打ち続けてきている。距離をとり斜に構えて客観視を気取る賢しらへの強烈な警句が実に心地よかった。
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Posted by ブクログ
共に都立小石川高校から早稲田大に進学。ひとりは、事の本質を寸鉄釘刺す毒っ気溢れるコラムを主戦場に相田みつをを「便所の神様」(まさに言い得て妙)と称し、時に物議を醸す社会風刺の名コラムニスト小田嶋隆、方や電通クリエィティブ部長の席を辞し、部下3名を引き連れ日本初のクリエィティブエージェンシーを立ち上げる。還暦過ぎても、今なお第一線で活躍するクリエィティブディレクター岡康道。
このふたりが五十路から還暦越え街道へと向かう途上に忍び寄る病・仕事・家族…の「諸問題」に対し、どう立ち向かい、どう対処するかを存分に語り合うふたり。そこに進行役の清野女史が、慈愛にあふれた絶妙なツッコミを入れ、独特のグルーブ感を醸し出す。
さて、その対談内容たるや脱線と蛇行の繰り返し。諸問題解決の一助となるノウハウや指南なんてものは皆無。高校の同級生ふたりの噛み合うような噛み合わないような話に、五十路おっさんの哀しきサガを垣間見、そして提示されたのは諦念と覚悟。
「50代の半分ぐらいは鬱状態」。
「一言多い奴は出世できない」。
「男は、皆んな『猿山』に生きている。定年後でさえ、
心中で『俺は猿山の何番目だ』と値踏みしている」。
「劣等感は勝とうと思うから、「自分は劣っている
のではないか?」と疑念が湧く。それが胸の内に定着
してしまう。『負けたっていいじゃないか…』自分を
許す意識設定が必要」。
そう、五十路の諸問題の処方箋なんてものはないのである。プレゼン上達のようなスキルをもって解決しようと思うのがそもそも間違っている。「それって猿山の中の話ですよ」と諭してもらうのが一番いい。
先日五十路を折り返したばかり。80年代なら定年である。
その頃なら「ハッピーリタイアメント」になれる率高かったんだろうなと思ったりしてると、ついついこれまでの来し方を振り返ってしまった。かつて描いた「“なりたかった自分の将来”」と「実際“なれた自分の現在”」について、しばし沈思黙考。そんな時に出会った本書。
私見だけど、五十路にはびこる諸問題の解決には、とりわけ男はとにかく喋ること、できることなら語り合うことが、最も効果の高い解決策だと信じ込んでる。あの知の哲人 ヘーゲルやキュルケゴールでさえ「弁証法」という対話を重視した。眼前の出世には役には立たないが、人生という時間軸で見れば折々に直面する困難な挫折を乗り超えるチカラになるように思う。『男よ、喋れ!さらば、開かれん!』である。
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Posted by ブクログ
2020年のオリンピックが東京で開催されることが決定されて以降、反対意見がほとんど聞かれなくなったという言論状況そのものについて問題提起をおこなった鼎談です。
元来近い立場にある三人の座談会なので、おたがいの意見を戦わせるような場面もなく、緊張感に欠けるのはいたしかたないのかもしれませんが、語られている内容そのものには賛同できることが多く、著者たちの発言に膝を打ちながら読みました。
もっとも、いくつか違和感をおぼえるところがあったのも事実です。私自身は、内田がさまざまな著作で展開している身体論や、『日本辺境論』(新潮選書)で語られているこの国についての言説には、すこし危ういところがあるのではないかと以前から感じていたので、やや過敏になっていることは自覚しているのですが、「自己アピールが下手」な日本人というイメージや、「健さん的無口さ」を日本人は美徳としてきたといった発言には、なにか引っかかるものを感じてしまいます。