激動・波瀾の生涯目次を見る
22歳のとき、倍も年上の人妻ベルニー夫人Mme de Bernyと恋に陥り、10年間近くも彼女から精神的、物質的援助を受けたバルザックは、ほかにも女性遍歴があったが、1832年ポーランドの大貴族ハンスカ夫人Mme Eve Hanskaを知り、彼女と結婚することを生涯の念願とした。そして、たまの逢瀬(おうせ)のほかは文通に終始し、膨大な量の書簡を書き残した。しかし、重なる過労と休みない執筆のために健康を害し、1850年になってやっと彼女と結婚したものの、半年後の8月18日に死亡した。
バルザック
Jean Louis Guez de Balzac
生没年:1597-1654
フランスの作家。トゥールに生まれ,パリで法律を修める。文学を志し小説,戯曲を乱作。一方さまざまな事業を興すがいずれも失敗,膨大な借金を背負う。これを償うべく決意も新たに,初めて本名で書いた小説《ふくろう党》(1829年)で認められる。以後驚異的な多作ぶりを発揮,《田舎医者》《ウジェニー・グランデ》《絶対の探求》《ゴリオ爺さん》などの傑作を次々と産み出す。その間にも新聞経営や土地投機を試みたり代議士に立候補したりするが失敗。また欧州各地を旅行する。やがて《人間喜劇》という壮大な構想を得,《谷間の百合(ゆり)》《幻滅》《農民》《従妹ベット》《従兄ポンス》などの有名な作品を書く。しかし,長年にわたる心身の酷使のため,1850年,18年来の恋人ハンスカ夫人と結婚間もなく死亡。リアリズム小説の祖とされると同時に,悪徳から神性に至る人間社会の全的な世界像を創造しようとした偉大なる〈幻視家〉(ボードレール)としても評価されている。
ゴリオ爺さん (光文社古典新訳文庫)
by バルザック、中村 佳子
その虐められっ子こそ、元製麺業者のゴリオ爺さんだった。きっと画家や歴史学者なら、この男の顔にすべての光を当てるはずだ。いったいここのひとびとは、いかなる経緯から、その下宿一番の古株にそんなふうに底意地の悪い態度をとったり、少し見下して仲間外れにしたり、不幸な様子を小馬鹿にするようになったのだろう? ひとが悪徳よりも目くじらを立てる特異さだとか奇妙さの類が、その引き金を引いたのだろうか? こうした疑問は、巷に 溢れる不正と密接に繫がっている。おそらくそれは人間の本性なのだが、ひとは相手が身分の低さから、弱さから、あるいは無頓着からどんなことでも我慢するとわかると、徹底的に苦しめてやろうとする。誰だってみな、誰かをあるいはなにかを犠牲にして、おのれの力を証明したがるものではないだろうか。一番の弱者でさえそうだ。たとえばパリの浮浪児だって、 凍えそうに寒い日にあらゆる家の戸口のベルを鳴らしたり、自分の名前を刻みつけようと、まっさらな記念碑のうえによじ登ったりするではないか。
ここで、起業家バルザックの歩みを簡単にふり返ってみたい。パリ大学法学部に入ると同時に代訴人事務所で見習いもしたバルザックは、文学者志望を捨てきれず、大学を中退する(なお、奇しくもフローベールもパリ大学法学部中退である)。そして小説や芝居を書くも芽が出ず、一時期は、貸本屋――フランスでは「読書室cabinet de lecture」と呼ばれていた――向けの通俗小説を、友人と共同執筆していたという。