あらすじ
華やかなパリ社交界に暮す二人の娘に全財産を注ぎこみ屋根裏部屋で窮死するゴリオ爺さん。娘ゆえの自己犠牲に破滅する父親の悲劇。
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昨今の過剰なフェミニズムにかき消されてる父性愛をテーマにした名作だと思う。こういうの今出たらいいのにと思う。 1835年にフランスで書かれたものだけど現在のアメリカのトランプ現象の根本を表してる。今のアメリカ社会は父性=キリストを求めた。
バルザック(読み)ばるざっく(その他表記)Honoré de Balzac
デジタル大辞泉 「バルザック」の意味・読み・例文・類語
バルザック(Honoré de Balzac)
[1799~1850]フランスの小説家。近代リアリズム小説の代表者。フランス社会のあらゆる階層の人物が登場する約90編の小説にみずから「人間喜劇」の総題をつけた。作「ゴリオ爺さん」「谷間の百合」「従妹ベット」。→人間喜劇
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精選版 日本国語大辞典 「バルザック」の意味・読み・例文・類語
バルザック
( Honoré de Balzac オノレ=ド━ ) フランスの小説家。近代小説の創始者の一人。写実と強烈な想像力とを総合し、一九世紀、フランス社会の風俗と典型的人間像を描いた。「ゴリオ爺さん」「谷間の百合」「従妹ベット」など、著作の大部分は、小説による社会史という巨大な構想の下に書かれ、総題を「人間喜劇」と名づけている。(一七九九‐一八五〇)
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バルザック」の意味・わかりやすい解説
バルザック
ばるざっく
Honoré de Balzac
(1799―1850)
フランスの小説家。5月20日、ロアール川沿いの都市トゥールに師団糧秣(りょうまつ)部長の長男として生まれる。貴族を意味するdeは作家になってから僭称(せんしょう)したもの。南仏の農家出身の父は、社会問題や長寿法に関心をもち、100歳まで生きると信じていた愉快な啓蒙(けいもう)思想信奉者だったが、パリの商家出の母が30歳以上も年下だったために、夫婦仲が冷たく、バルザックは里子に出されたり、バンドームのオラトリオ会派寄宿学校に入れられたりして、母の愛を受けることが少なかった。
8歳から14歳までのバンドーム時代は孤独に苦しみ、級友からも仲間外れにされて読書と夢想に没頭し、やがて濫読のため衰弱して両親に引き取られた。1814年家族とともにパリに移り、翌年パリ大学法学部に入学、かたわら法律事務所の書記を勤めた。しかし文学への志を捨て切れず、2年間の猶予を得て、レズディギエール街の屋根裏部屋で悲劇『クロムウェル』の執筆に精魂を傾けたが、失敗に終わった。20年、郊外に移った家族のもとに帰り、仮名で、ときには友人と合作の形もとり、八編の長編を書いたが、後年彼も否認したとおり、当時流行の荒唐無稽(むけい)な暗黒小説、感傷小説を模倣したまったく通俗的な駄作ばかりで、それで経済的な独立をかちとろうとした企図も挫折(ざせつ)した。25年には出版業に手を出し、これが赤字になると印刷業、活字鋳造業にまで間口を広げて、最後に破産宣告を受けた。その際の5万3000フランという莫大(ばくだい)な負債を返済するため、背水の陣を敷いて創作に戻ったおかげで、フランス最大の小説家が誕生したわけだが、浪費癖のため、この負債は一生彼に付きまとった。
[平岡篤頼]
蓄積の時代目次を見る
第一作『ふくろう党』(1829)は、W・スコットとアメリカの小説家J・F・クーパーの影響下に、大革命時代のブルターニュ農民の反乱を描いた歴史小説だが、かなりの好評を博し、ついで、それと対照的に皮肉でふざけた『結婚生理学』(1829)も話題となったことが、作家としての地位を確定した。社交界に出入りし、各種新聞雑誌に風俗スケッチ的戯文を寄稿しながらも、彼独特のリアリズムの出発点ともいうべき短編集『私生活情景』(1830)、哲学的寓意(ぐうい)小説『あら皮』(1831)、「哲学ノート」などを書いた少年時代以来の思索の体系化の試みともいうべき小説『ルイ・ランベール』(1832)、人道主義的なユートピア小説『田舎(いなか)医者』(1833)などといった多彩な作品群を矢つぎばやに発表した。この時期の多産な仕事ぶりは超人的といってよく、『トゥールの司祭』(1832)、『シャベール大佐』(1832)、『海辺の悲劇』(1835)など多くの短編のほかに、『ウージェニー・グランデ』(1833)、『絶対の探究』(1834)、『ゴリオ爺(じい)さん』(1835)などの力作長編で近代小説の祖型ともいうべきリアリズム文学を確立した。ロマンチックな暗黒小説に学んだ劇的な筋立てや背後に隠されたものへの偏愛、現実社会の卑俗な事象への旺盛(おうせい)な好奇心が、作者のたぐいまれな幻視的資質のなかでみごとに融合し、彼の奔流のような創作エネルギーを吸収して、現実世界にも匹敵する規模へとその虚構世界を成長肥大させていったのだった。
[平岡篤頼]
総題『人間喜劇』の展開目次を見る
そこでバルザックは、『ふくろう党』以後の全作品に『人間喜劇』Comédie humaineという総題を与え、社会事象を「結果」として描く「風俗研究」、その原因を追求する「哲学研究」、原理を究明する「分析研究」に三大別し、なかでもいちばん分量の多い「風俗研究」は、さらに「私生活情景」「地方生活情景」「パリ生活情景」など六つの「情景」に分類した。そして、これから書く作品をも含めた総体を19世紀フランスの風俗史たらしめようとする野心に取りつかれ、たびたびの変更を経て、『人間喜劇』序文(1842)でそのプランを説明している。すなわち、生物界に統一性を想定した生物学者ジョフロア・サンチレールに示唆され、バルザックは、人間社会にも階級、職業、性格、環境で区別される「種」が存在すると考え、戸籍簿と競争するようにそれらを描き尽くすのでなければ、社会の全体像を把握できないと主張した。
しかし、とりわけ彼が考案した画期的な手段は、『ゴリオ爺さん』で初めて採用した「人物再出」の手法で、先行する作品の主人公を新しい作品の脇役(わきやく)的人物として、あるいはその逆の形で再登場させ、作品間に縦横の立体的関係の網目を織り上げようとするものだった。その結果、彼が書き残した91編の作品は、それぞれ独立した小説でありながら、かならず他の作品を想起させ、同じ2000人余の登場人物が住む一つの世界の内部に有機的に位置づけられるという印象を与える。『ゴリオ爺さん』以前の作品の登場人物も、そのため名前を取り替えられ、体系として多少の食い違い、矛盾を生じたが、『人間喜劇』の世界の生成発展とともに徐々に形成され整備されていった体系であるだけに、そこに再現された、王政復古(1814)から七月王政(1830~48)に至るフランス社会の総括的な展望に多元的な力動感を与えるのに貢献した。
若いときからスウェーデンボリらの神秘哲学の影響を受けたバルザックは、また、主人公が男女両性を具有する秘義小説『セラフィータ』(1835)を書いたが、思想的にはむしろ、欲望すること、思考することが生命を破壊するというエネルギー説を基調とし、無際限な知的探究心(ルイ・ランベール)、発明欲(バルタザール・クラース)、父性愛(ゴリオ爺さん)などのために生命力を燃え尽きさせる情熱的人物の運命を好んで描く。サント・ブーブに対抗して書いた悲痛な恋愛小説『谷間の百合(ゆり)』(1836)のモルソフ夫人は貞潔な恋のために力尽きる。『従妹(いとこ)ベット』(1846)のユロ男爵は、果てしない好色のあげくに、貞淑な妻を絶命させる。作者バルザック自身、果てしない創作欲に精力を使い果たして死ぬから、この観察の最良の実例となるわけだが、彼はまた、金銭のうちに社会の動向を左右するエネルギーの象徴をみ、各種の銀行家、高利貸を登場させ、金銭欲から発したさまざまな陰謀、画策、攻防のドラマを活写した。貴族にあこがれ、立身を夢みて、政治的には王党派的見解を口にしたが、のちにエンゲルスらにたたえられる透徹した史観を盛り込みえたのも、連作長編『幻滅』(1837~43)と『浮かれ女盛衰記』(1838~47)で活躍する脱獄囚ボートランや『従兄(いとこ)ポンス』(1847)の主人公のように、批判者、犠牲者、あるいは貧しい庶民の視点から、激動する社会の実相を見据えたからだと思われる。
[平岡篤頼]
激動・波瀾の生涯目次を見る
22歳のとき、倍も年上の人妻ベルニー夫人Mme de Bernyと恋に陥り、10年間近くも彼女から精神的、物質的援助を受けたバルザックは、ほかにも女性遍歴があったが、1832年ポーランドの大貴族ハンスカ夫人Mme Eve Hanskaを知り、彼女と結婚することを生涯の念願とした。そして、たまの逢瀬(おうせ)のほかは文通に終始し、膨大な量の書簡を書き残した。しかし、重なる過労と休みない執筆のために健康を害し、1850年になってやっと彼女と結婚したものの、半年後の8月18日に死亡した。
精力的な創作活動のかたわら、フランス国内ばかりでなくヨーロッパ各地を旅行して回り、青年時代の失敗にも懲(こ)りずに個人雑誌を発行してみたり、代議士やアカデミーに立候補するかと思うと、製紙や製材業に手を出したり、銀山採掘に色気をみせたりする不屈の事業家気どりであったが、成功したものは一つもない。だが、そうした破綻(はたん)の経験が彼の文学にもたらした栄養は計り知れないものがあろう。彼の文学がフロベールやボードレールやドストエフスキーやプルーストに与えた影響も計り知れない。
[平岡篤頼]
『水野亮他訳『バルザック全集』全26巻(1973~76・東京創元社)』▽『安士正夫著『バルザック研究――「人間喜劇」の成立』(1960・東京創元社)』▽『寺田透著『バルザック――「人間喜劇」の平土間から』(1967・現代思潮社)』▽『アラン著、岩瀬孝・加藤尚宏訳『バルザック論』(1968・冬樹社)』
[参照項目] | 従兄ポンス | ウージェニー・グランデ | 絶対の探究 | 谷間の百合 | 手紙
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改訂新版 世界大百科事典 「バルザック」の意味・わかりやすい解説
バルザック
Honoré de Balzac
生没年:1799-1850
フランスの小説家。トゥールに生まれる。父親は当時,陸軍トゥール師団糧秣部長。1807年より13年まで,バンドーム中学に学ぶ。16年パリ大学法学部に入学,同時に見習書記として法律事務所に勤務。19年文学志望を表明,職業の選択をめぐって両親と対立したが,結局,2年の猶予期間を得,パリのレスディギエール街の屋根裏部屋にこもって文学修業に専念した。20年韻文悲劇《クロムウェル》を完成,さらに22年より27年にかけて,《ビラーグの女相続人》その他多数の通俗小説を偽名で発表した。1825年,出版業,印刷業,活字鋳造業などの実業に乗り出すが,いずれも失敗に終わり,28年に業務の清算が行われ,約6万フランの借金を背負った。29年,《ふくろう党》および《結婚の生理学》を発表して文壇に登場。社交界に出入りするとともに,多数の雑誌に短編小説や雑文を寄稿するようになった。《ふくろう党》は,ブルターニュ地方の反革命的反乱を扱っており,歴史小説の手法を近い過去に適用したものといえる。次いで《ウージェニー・グランデ》(1833),《ゴリオ爺さん》(1835),《谷間のゆり》(1836),《幻滅》(1843),《従妹ベット》(1846),《従兄ポンス》(1847)などの作品を次々に発表し,42年から48年にかけて《人間喜劇》16巻,補巻1を刊行した。これは,初期習作,劇作,雑文,《風流滑稽談》などを除き,《ふくろう党》以後のすべての小説を,一種の全集としてまとめたものである。他方バルザックとポーランドの貴族ハンスカ夫人との交際は1832年に始まっているが,41年同夫人が寡婦となったので,夫人との結婚が彼の人生の最大の関心事となった。49年はもっぱらハンスカ夫人の領地,ウクライナのベルディチェフで過ごし,50年3月同夫人と結婚,5月パリに帰着,8月に世を去った。
バルザックの生きた時代は,フランス市民社会の成立期に当たり,身分的秩序の崩壊と競争原理の出現,生活水準の向上,現世的・個人中心的な思想の一般化など,ひとことで〈近代化〉とよばれる現象が生じたが,このような社会変動こそバルザックの小説の背景にあったものである。彼は興隆する市民階級のエネルギーと欲望を描き,フランス市民社会の最初の描き手となった。同時にまた市民的〈近代化〉の最初の批判者ともなった。なぜならば,《ゴリオ爺さん》をはじめとして,バルザックの作品には,個人の心情を容赦なく押し潰す近代社会の過酷な原理が描かれているからである。彼は政治的には君主制主義者,宗教的には正統的カトリシズムの支援者だったが,そのような思想は,フランス革命以後に成立した社会的・思想的原理への批判を含むものと解すべきである。バルザックの作風は,ひとことでいえば写実主義であるが,《あら皮》《セラフィータ》などの哲学小説をはじめとして,幻想的な傾向がうかがわれる作品もある。
執筆者:高山 鉄男
バルザック
Jean Louis Guez de Balzac
生没年:1597-1654
フランスの作家。トゥールに生まれ,パリで法律を修める。文学を志し小説,戯曲を乱作。一方さまざまな事業を興すがいずれも失敗,膨大な借金を背負う。これを償うべく決意も新たに,初めて本名で書いた小説《ふくろう党》(1829年)で認められる。以後驚異的な多作ぶりを発揮,《田舎医者》《ウジェニー・グランデ》《絶対の探求》《ゴリオ爺さん》などの傑作を次々と産み出す。その間にも新聞経営や土地投機を試みたり代議士に立候補したりするが失敗。また欧州各地を旅行する。やがて《人間喜劇》という壮大な構想を得,《谷間の百合(ゆり)》《幻滅》《農民》《従妹ベット》《従兄ポンス》などの有名な作品を書く。しかし,長年にわたる心身の酷使のため,1850年,18年来の恋人ハンスカ夫人と結婚間もなく死亡。リアリズム小説の祖とされると同時に,悪徳から神性に至る人間社会の全的な世界像を創造しようとした偉大なる〈幻視家〉(ボードレール)としても評価されている。
ゴリオ爺さん (光文社古典新訳文庫)
by バルザック、中村 佳子
その虐められっ子こそ、元製麺業者のゴリオ爺さんだった。きっと画家や歴史学者なら、この男の顔にすべての光を当てるはずだ。いったいここのひとびとは、いかなる経緯から、その下宿一番の古株にそんなふうに底意地の悪い態度をとったり、少し見下して仲間外れにしたり、不幸な様子を小馬鹿にするようになったのだろう? ひとが悪徳よりも目くじらを立てる特異さだとか奇妙さの類が、その引き金を引いたのだろうか? こうした疑問は、巷に 溢れる不正と密接に繫がっている。おそらくそれは人間の本性なのだが、ひとは相手が身分の低さから、弱さから、あるいは無頓着からどんなことでも我慢するとわかると、徹底的に苦しめてやろうとする。誰だってみな、誰かをあるいはなにかを犠牲にして、おのれの力を証明したがるものではないだろうか。一番の弱者でさえそうだ。たとえばパリの浮浪児だって、 凍えそうに寒い日にあらゆる家の戸口のベルを鳴らしたり、自分の名前を刻みつけようと、まっさらな記念碑のうえによじ登ったりするではないか。
ヴォケール夫人はしばしばこの嘆かわしい事件を思い出しては、自分は猫よりも警戒心が強いというのに、なんであんなに簡単に 騙されてしまったのかしらと愚痴をこぼした。しかしながら、身近な人間のことは警戒するのに、 余所者 には心を許してしまう彼女のようなひとは多い。これは心の問題で、奇妙ではあるが現実にあることだ。おそらくある種のひとびとは、生活をともにしている人間のそばではもはやなにも得られないのだろう。彼らは自らの精神がからっぽであることをそばにいる人間に晒しているので、相手が自分をあるがまま容赦なく評価しているのを感じる。しかしひとは誰からも褒められないと、褒められたくてしかたがなくなるし、長所がないとあるように見せたくてしかたがなくなる。だから外部の人間の評価や優しさがいかに儚いものであっても当てにするようになる。ようするに、生まれつき打算的な人間がいたとして、彼らが友人や近親者のためになることをなにひとつしないのは当然なのだ。彼らは未知の人間に貢献することで、自尊心の糧を得るのである。交際仲間との距離が近ければ近いほど、薄情になり、遠ければ遠いほど、親切になるのである。ヴォケール夫人はおそらくこうした心底さもしく、腹黒く、いまわしい性質をすべて持っているのだった。
こうした 凋落 の原因を、いったい誰に推察することができただろう? 実に難解な謎解きだ。偽伯爵夫人が言ったとおり、ゴリオ爺さんは口数の少ない、感情を表に出さない人間だったからだ。頭の空っぽな人間がみな口が軽いのは、どうでもいいことしか話さないからだが、この連中の論理に従うなら、自分のことを話さない人間というのは必ずや悪いことをしているのである。したがってかの上品な卸売商はただの詐欺師に、色男はただの老いぼれ奇人に格下げされた。当時、ヴォケール館に越してきたばかりだったヴォートランの説によれは、ゴリオ爺さんはかつて証券取引所に通ってそこで大損したのちに、今度は国債のほうで金融界の強烈な言い回しにしたがえば「けちな相場を張って」いるのだという。いやいや運まかせに毎晩賭け事で一〇フランを稼ぐシケた博打うちだ、いやいや公安所属のスパイだという意見もあった。しかしヴォートランは、スパイにしてはゴリオ爺さんには 狡猾 さが足りないと主張した。いやいやゴリオ爺さんは短期間高利で金を貸す守銭奴だとか、同じナンバーばかり買う宝くじマニアだという説もあった。ひとはこの男の素性について、悪徳、恥辱、無能さからイメージされるあらゆるものの中でも、もっとも謎めいたものを想像した。ただしその振る舞いや欠点がいくら見苦しく、見ていてうんざりするからといって、ゴリオが追放されることはなかった。家賃を払っていたからだ。それに彼には利用価値があった。誰もが彼を冷やかしたり、小突いたりすることで、ちょっと機嫌よくなったり、憂さを晴らしたりするのだった。
三年目が終わる頃、ゴリオ爺さんは、一段と無駄な出費を削った。住居を四階に移し、月四五フランの部屋に暮らす身分になった。煙草もやめた。理容師をお払い箱にし、頭に染粉を振るのをやめた。ゴリオ爺さんが初めて素のままの頭髪で姿を現したとき、女将はその髪の色を見て、思わず驚きの声を漏らしてしまった。薄汚く灰色にくすみ、緑がかっていた。彼の容貌は隠された心痛によって日ごとに影を増し、テーブルを囲む誰よりも悲嘆に暮れて見えるのだった。もう疑いの余地はなかろう。ゴリオ爺さんは老いぼれの放蕩者なのだ。病のために飲まざるをえない薬に副作用はあるが、腕のよい医者のおかげでかろうじて失明は免れている。その薄気味悪い髪の色は、不摂生とそれを続けるために飲んだ薬のせいなのだ。こうした馬鹿げた噂話が繰り返されるのも、この老人の心身の状態からすれば仕方なかった。
こんな具合にこのドラマが動きだす一八一九年十一月の終わりごろには、ヴォケール館の誰もが、この憐れな老人について断定的な考えを持っていた。それによれば彼には娘も妻もいたことはないのだった。「快楽の過剰摂取が、カスケット属に分類される人型カタツムリ、人型軟体動物をつくるんですな」などと外から夕食に通ってくる博物館員は言う。「ゴリオに比べれば、ポワレは知性派の紳士ですよ。ポワレは発言し、抗弁し、返答します。まあ、発言し、抗弁し、返答したところで、実のところ彼はなにも言っていませんがね。なにしろ他人の言ったことを、言いかたを変えて繰り返すのが常なんですからね。とはいえ会話には参加します。彼は生き生きとしているし、なにかしらものを感じていそうです。ところがゴリオ爺さんときたら」博物館員はなおも言う。「いつまでたっても温度計はゼロのままですからね」
彼は非常に 高邁 であったため、おのれの能力以外は頼りにしないぞと思った。しかし彼の気質は、きわめて南仏的であった。つまり決めたことを実行しようとする段になると、きまって若者ならではの迷いに捕らわれる。大海原の真ん中で、自分の力をどちらに向ければいいか、帆をどの角度に張ればいいかを知らぬ若者は、こうした 逡巡 に襲われるものだ。最初は勉学にがむしゃらに身を投じたいと思っていたはずなのに、そのうちに有力な人脈をつくらなければという観念に囚われ、そうなると社交における女性の力にはたと気がつき、そうだ、社交界に飛び込もう、と突然思う。そこでなら自分を庇護してくれる女性を見つけられるだろう。彼女たちは、情熱豊かで知的な若者に飢えているかもしれないじゃないか。その若者には情熱や知性に加えて、それを引き立てる優雅な物腰と、力 漲る美しさもあるんだ。女性が喜んで身を任せたくなるような美しさだぞ。こうした考えが、散歩の途中、田園の真ん中でふと彼の頭に降りてきた。かつて散歩といえば、兄は妹たちと延々楽しくおしゃべりをしたものだったのに、妹たちは兄が変わったと思った。
「お嬢さん、神さまにお父さんの心を和らげてとお祈りするのもいいが」ヴォートランは娘に椅子を勧めながら言った。「それだけじゃ足りない。あなたに必要なのは友だちです、あのクズみたいな男に、あの野蛮人に、おまえのやっていることは間違っているとはっきり言ってくれる友だちがね。三〇〇万も金を持っているくせに、あなたに持参金も持たせないとは。このご時世、美しいお嬢さんには持参金が必要だってのに」
「いいでしょう! ラスティニャックさん。社交界を相手にするなら、そういうものだと覚悟してかかることです。出世なさりたいのならお手伝いいたします。女の腐敗がどれほど根深いか、男のくだらない虚栄心がどれほど 蔓延っているか、その目でとっくりと測量するといいのです。わたしは社交界という名の本をどれだけ読んだかしれません。それでも知らないページに出くわすのです。いま、わたしはすべてを知り尽くしました。 計算高く冷徹になればなるほど、あなたは出世するでしょう。相手を殴るときは情け容赦なくやりなさい。そうすればひとから怖がられます。相手が男だろうが女だろうが、郵便馬車の馬のように扱えばいいのです。使えなくなったら次の中継所で交換すればいいのです。そうすればあなたが望む最高の場所に到達できるでしょう。よくお聞きなさい。あなたに興味を持つ女性を手に入れられないかぎり、ここでは何者にもなれません。あなたには若くて金持ちで上等な女性が必要です。でもいいですか、もし相手に本物の感情を抱いてしまったときは、それを財宝のように隠すことです。けっして相手に悟られてはいけません。すべてを失ってしまいます。死刑執行人でなくなった途端、あなたは被害者になるのです。 もし万一、愛してしまったら、秘密を守りとおすことです! 相手のことをよく知る前から、心を開いてはいけません。いまはまだ存在していないその愛を守りたければ、この世の中を疑うことを学ばなくてはいけません。
パリでは女性にもてることがすべてなのです。それは力への鍵なのです。女たちがあなたのうちに知性や才能を見つければ、男たちもそれを信じるようになるのです。あなたがドジを踏まなければですが。そうすれば、あなたはなんでも望めるようになります。どこへでも足を踏み入れることができるようになります。そうすれば、あなたは社交界がどういうものか、それが詐欺師やペテン師の集まりだということがわかるでしょう。そんな 有象無象 の仲間に入ってはいけませんよ。あなたがこの迷宮へ入っていけるよう、アリアドネがテセウスに糸を貸したように( 61)、わたしはわたしの名前をあなたにお貸ししましょう。どうか傷をつけないで」彼女は首を 傾げ、学生に女王のような眼差しを投げた。「まっさらな状態で返してくださいね。さあ、そろそろ行ってください。わたしたち女には、女の闘いがあるのです」
雲ひとつない青空のような幸福が七年続いたのち、ゴリオは妻に先立たれた。彼女は愛情以外の側面でも、ゴリオの内面に強大な影響を与えつつあった。ひょっとして彼女なら、ゴリオの不毛な精神の土壌を耕すこともできたかもしれない。彼女なら夫に、ひとづきあいや生活についてのこまごましたことを理解するセンスをおしえられたかもしれないのに、残念なことだ。こうした経緯からゴリオの中で父性愛だけが常軌を逸するまでに肥大することになった。彼は妻の死でやり場を失った愛情をふたりの娘の上に注ぎ、娘たちも昔は父親を存分に喜ばせてくれた。やもめのゴリオのところには仲買人や農民から、ぜひ自分の娘を後添えに貰ってくれという申し出がいくつかあったが、それがいかに旨みのある縁談であっても、彼は再婚しようとしなかった。ゴリオの舅というのは唯一彼が慕う人物だったが、これが娘婿の気持ちを汲み取って、ゴリオはたとえ死に分かたれようと妻を裏切らないと心に決めているのだとひとに説明してやった。
きみはひとがどうやって出世の道を切り開くか知っているか? 才能を 閃かせるか、さもなければ汚い手を使うのさ。大砲の弾のようにこうしたひと混みの中に飛びこんでいくか、さもなければペストのようにそっと忍びこむ必要があるんだ。正直さなんてなんの役にも立たない。ひとは才能ある人間の力の前に 平伏すが、一方でそいつを憎み、必死になって中傷する。なぜならそいつがすべてを独り占めにするからだ。しかしそいつが健在のかぎり服従する。ようするに、そいつを泥沼に沈めることができない限りは、 跪いて 崇める。 自ずと不正が横行する。才能にはそうそう恵まれるものではない。だからそのへんにごろごろいる凡人にとっては不正が武器になるのさ。きみはそこらじゅうにそういう連中の台頭を感じるだろう。夫の年収はせいぜいが六〇〇〇フランなのに、身繕いに一万フラン以上の金を使う妻がいる。賃金一二〇〇フランのくせに土地を買う役人がいる。娼婦になってフランスきっての大貴族の子息の馬車に乗っちまう女がいる。ロンシャン詣で( 11) に貴族の表参道を走っていける馬車にね。きみはあの 頓馬 のゴリオの爺さんが可哀想に娘の出した手形を肩代わりして払うはめになったのを見たろう。娘の旦那には五万リーヴル[=五万フラン] の金利収入があるってのに。
「ほとんどなにもしなくていい」糸の先にうまく魚がかかったのを感じた釣り人のように、その男の顔に 微かに喜びの色が浮かんだ。「いいか、よく聴けよ! 幸薄い憐れな貧乏娘の心というのは、愛に満たされたいと渇望するスポンジみたいなもんさ。からからに乾いたスポンジは、同情のひとしずくでもそこにおちれば、すぐさま膨張する。孤独で悲しみのどん底にあり、貧しくて、将来自分に財産が転がりこんでくるなんて思ってもいない、そういう条件の娘に言い寄るんだ。そしたらぽんっ! ストレートと 4 カード合わせたくらい強い。買う前から当たりの数字を知ってる宝くじみたいなもんだ。情報を摑んだうえで、これという枠に賭け金を張る。きみは基礎のしっかりした杭の上に不滅の結婚を築くんだ。その若い娘に何百万もの金が入ってくる。彼女はきみの足元に小石かなにかのように、それを投げだすだろう。『受けとって、愛するあなた! どうぞ、アドルフ! アルフレッド! 受けとってちょうだい、ウジェーヌ!』もしアドルフやアルフレッドやウジェーヌが真心をもって彼女のために尽くしてやれば、彼女はそう言うだろう。
人間ってのは国家以上に賢くなる必要はない。たとえばフランスじゃ、国にほんのちょっと貢献した程度の人間が、終生、共和主義を貫いたように見えたって理由で英雄扱いされているが、あんなのはまあ国立工芸院の機械のあいだに展示してやるくらいでいいんだ。ラファイエット( 17) って名札を貼ってやってさ。その一方であのタレーラン大公( 18) には誰もが石をぶつけているわけさ。大公は人間なんてものを軽蔑していたから、請われるたびにいくらでも誓いの言葉を吐いてやったものだ。彼こそはウィーン会議でフランス分割を防いだひとだぞ。ひとは彼をこそ讃えるべきなのに、泥をぶつけるのさ。ああ! おれは物事に通じているんだ、おれさまはね! たくさんの人間の秘密を握っている! うんざりするほどね。おれだっていつの日か揺るぎのない意見を持つかもしれないぞ。三人の人間が三人とも、これが世界の正しい原則だと意見が一致する日が来たらばね。まあだいぶ先になろうがね! 法律の条文ひとつ取ったって、裁判のたびに三人の判事が同じ解釈を持つことなんてありゃあしないんだから。
「つまり、あなたはこれまで一度も出会ったことがないんですね、あなたのものになりたいと胸が張り裂けそうなくらい願っている人間に」ウジェーヌが言った。「あなたがた女性が求めているもの、それは幸せではありませんか?」彼は心に響くような声で言った。「たとえば、とある女性の幸せが、愛されること、情熱的に愛されることであるのなら、望みや夢、心の痛みや喜びを打ち明けられる恋人を持つことであるのなら、つまり裏切られやしないかなどと心配することもなく、その本心を、かわいらしい短所や美しい長所とともに曝け出すことにあるのなら……いいですか、わたしの話をよく聞いてください、献身的で、いつだって情熱に溢れた愛情は、ただひとりの若者にしか見いだせませんよ。その男はたくさんの夢を抱え、あなたの合図ひとつで命を捨てることのできる男です。彼はまだ世界についてなにも知りませんし、知りたいとも思っていません。なぜなら、あなたが彼の世界になるからなのです。あなたはきっと、わたしを子供だと言って笑うでしょうね。わたしは本物の田舎から出てきたばかりの新参者で、いまだに気高い魂を持ったひとびとしか知りません。このまま愛を知らずに生きるのだろうと思っていました。運よく従姉に会うことができ、しごく近しい距離に置いてもらえました。それであのひとのうちに情熱というたくさんの財宝があることがわかったのです。わたしは、ケルビーノ( 29) のように、すべての女性に恋するのです。そのうちの誰かひとりに、自分を捧げる日が来るまでは。ここへ入ってきたとき、お姿を拝見しながら、自分が潮の流れのようなものによって運ばれてきた気がしました。わたしはすでにあなたのことをあれこれ夢見てきました! しかし現実のあなたは夢もかなわぬほどに美しかった。ボーセアン夫人…
「こんな甘い生活が続けられるものなら、いつだってお伴いたしますが。しかしわたしはしがない学生です。財を成すのはこれからですから」 「なんとかなりますわ」彼女は笑いながら言った。「ねえ、すべてはなんとかなるのです。自分がこんなに幸せになれるなんて思いもしませんでした」
「なるほど! それはですな……ただそのまえに」ゴンデュローは彼女の耳元で言った。「あなたのお友だちに、いちいち口を挟ませないでいただきたい、さもなきゃ永遠に話が終わりませんよ。ひとに話を聞いてもらいたかったら、まず大金持ちにならなきゃ。トロンプ=ラ=モールは正直者の皮を被って上京し、パリの善良な市民に化け、下町の下宿屋に暮らし、 尻尾 を出しません。実に抜け目のないやつです。つまりこういうことです! いまのままでは我々はやつを不意打ちできないのです。ようするにヴォートラン氏というのは商売人として成功した人物と見なされていますからね」
ウジェーヌは押し黙ったまま腕を組み、みすぼらしい部屋の中を無闇に歩きまわった。ゴリオ爺さんは学生が彼に背を向けているあいだに、暖炉の上に赤いモロッコ革張りの箱を置いた。箱の上には、ラスティニャック家の紋章が金色に刻まれていた。 「どうか聞いてください」哀れな老人が言う。「わたしももう引き下がれないのです。なにしろ、わたしにもしっかりと自分の都合があるのです。あなたの引っ越しはわたしにも関わりのあることなのです。どうか断らないでください。ただ、少しばかりお願いを聞いていただけませんか?」
ふたりのこんな様子を眺めているとね、奥さん、ついつい考えちゃうんです。ふたりは互いに惹かれあうように神さまに創られたんじゃないかなってね。神の思し召しってのはわかりにくいものですからね。神はひとの秘められた感情を探りだすのがうまいから」彼は高らかに言った。「きみたちが同じように美しく清らかで、また、あらゆる人間的感情によって、結ばれているのを見ているとね、きみたちが将来、離ればなれになることなんてありえないという気がしてくる。神は正しい。
ところで」彼は娘に言った。「たしかきみには金持ちになる相が出てたっけね。手を出してごらん、ヴィクトリーヌお嬢さん、おれは手相が読めるんだ。よく占いをやったもんさ。どおれ、怖がらないで。こいつはすごい! なにが見えたかって? 紳士の名誉にかけて言うが、きみはあと少しで、パリ一番の金持ちの跡取り娘になるぜ。きみはきみのことを愛する男性をおおいに幸せにするだろう。きみの父上は、きみをそばに呼び戻す。きみは若く美しくきみのことを熱愛する貴族の若者と結婚するだろう」
しかし、数々の偏見を乗り越えるのが優れた人間であり、善行にもれなくついてくる不幸を甘受するのがキリスト教徒なのです。善行というのは世間の人が考えているようなものではありませんから。
きっと褒美を受け取れるはずだとわくわくしながら、彼はすぐさまデルフィーヌに会いにいった。ニュッシンゲン夫人は入浴中だった。ラスティニャックは夫人の居間で待った。二年来の目標であった恋人を持つことができるのだと心が 逸り胸の熱くなった若者は、当然、いてもたってもいられなくなった。こうした感動は、若者の人生に二度とは訪れない。初めての女というのは、文字通り、ひとりの男をすっかり虜にしてしまう。つまり、その青年にとってはその女こそが、パリ社交界が求める栄華の証しなのである。これに 勝る女なんているはずがない。
パリにおける恋愛は、そのほかの恋愛とはまったくの別物なのである。パリでは男も女も、公の場で、わたしの愛は無私無欲ですなどとうそぶいて、これみよがしに愛想をふりまくが、そんな上っ面に 騙されるものはひとりもいない。この地では、女はただ心や性欲を満足させていればいいというわけにはいかない。パリの女はおのれに課せられたもっとも大きな義務が、人生を構成する何千もの虚栄を満たしてやることだと心得ているのである。なによりパリで見受けられる恋愛はたいてい、自慢屋で厚かましく、浪費家で、ほら吹きで、派手好きだ。かつて、かのルイ十四世は、ラ・ヴァリエール嬢に執心するあまり、それぞれ一〇〇〇エキュ[=三〇〇〇フラン] もする自慢の袖飾りをお構いなしに破らせておいたという(
とにもかくにも 崇める対象があるのなら、その前にたくさん香を運んで 焚いてやればいい。そうすれば向こうはどんどんこちらに好意的になるだろう。愛とは、ひとつの宗教なのだ。そしてその儀式は、他のどの宗教儀式よりも高い代価を要求する。愛というのは移ろうのが早いうえに、場を荒らすことで自分が通った足跡を残そうとする青臭いところがあるのだ。パリの貧しい屋根裏部屋に詩情があるのは、そこに感情が溢れているからだ。こうした豊かさがなくて、どうして屋根裏で愛が育つだろう?
「それでおまえはその茶番を信じた」ゴリオ爺さんは叫んだ。「あれはとんでもない食わせ者だぞ! 仕事でドイツ人と付きあったことがあるがね、ほぼ全員が誠実で、いかにもおひとよしだ。ところがだ、いくら表面が誠実でおひとよしでも、連中はひとたびその気になれば誰よりずる賢い詐欺師になるんだ。おまえの夫はおまえを食い物にしている。やつは目の前に迫る危険を察知して、死んだふりをする。つまり自分の名前でなく、おまえの名前でもっと好き勝手するつもりなのさ。この機に乗じて、安全なところに身を置いて商いを行おうという腹だ。油断ならないずる賢いやつだ。なんという悪党なのだ。
だめだ、だめだ、このまま娘たちが丸裸にされていくのを放って、 墓場 になんぞ行くわけにはいかんぞ。わたしはまだ多少商取引の世界に通じている」彼は言った。「やつが新しい事業を始めただと? なんの! であれば、やつがどれだけ 儲けたかは証券やら証書やら契約書やらを見ればわかるじゃないか! やつにそれを提示させて、おまえの財産がいくらになるか明確にしなければいかん。とにかくもっとも優良な投資先を選ぶんだ、それに一か八か賭けてみよう。そして『ニュッシンゲン男爵とは財産を分離している配偶者デルフィーヌ・ゴリオ』という名義で確認証書をつくらせる。それにしても、やつは我々を馬鹿だと思っているのかな?
「しかし、これはわたしの息子だよ、わたしたちの子供、おまえの弟、おまえの救世主じゃないか」ゴリオ爺さんが叫んだ。「さあこのひとにキスするんだ、ナジー! さあ、わたしはこのひとにキスするよ」彼はウジェーヌをある種の熱狂を込めて抱きしめた。「ああ、息子よ! これからわたしは、おまえさんにとってただ父親であるだけではないぞ。家族のみんなになろうじゃないか。神になれたらなあ。おまえさんの足元に世界をつくってやるんだが。さあ、どうしたナジー、彼にキスしないのか? このひとはただの人間じゃないぞ、天使だ、本物のね!」
「ああ、こっちに寄越しなさい、馬鹿だな、わたしは、それを忘れていた! しかし、気分が悪かったんだよ、ナジー、恨まないでおくれ。危機を脱したら、手紙をおくれ。いいや、わたしが行こう、いいや、行くわけにはいかない。わたしはもうおまえの旦那には会えない。会えば殺してしまうだろう。おまえの地所を奪おうとする件については、わたしが相手になる。さあ、行きなさい。急いで。行って、マクシムをいい子にさせなさい」
「今夜、イタリア座で」彼女はウジェーヌに言った。「そしたら父の具合をおしえてね。明日は、引っ越しするのよ、ねえ。あなたの部屋を見せてよ。まあ! なんて惨状なの!」彼女はそこに入りながら言った。「まあ、父よりひどい部屋だったのね。ウジェーヌ、あなたの行動は立派だったわ。わたしもっともっとあなたを愛するわ、まだまだ愛せる余地があればだけど。でもね、聞いて、お金持ちになりたいのなら、さっきみたいに一万二〇〇〇フランを窓から投げ捨てるみたいなことをしてはだめよ。トライユ伯爵は根っからのギャンブラーよ。姉はそう考えたくないのでしょうけど。彼にしたら一万二〇〇〇フランを取り返そうとまたそこへ行くだけのことです。大負けしたり大勝ちしたりは慣れっこだから」
ウジェーヌは黙ったままでいた。噓のない愛情をそっくり物語る無邪気な表現に感動していた。たしかにパリの女性たちはしばしば噓つきで見栄っ張りで、自己中心的で浮気で冷淡かもしれないが、本当に誰かを愛するときには、間違いなく世界中のどこの女性よりその情熱に 溺れるのである。彼女らは卑小でありながら精一杯成長し、ついには驚嘆すべきものになるのである。さらにウジェーヌは、誰かを本気で愛した女性が、その特別な感情ゆえにほかの感情から切り離され、やけに冷静になって、もっとも自然な感情について適切で深い洞察を繰り広げるようになることに、大きな衝撃を受けていた。ニュッシンゲン夫人はウジェーヌが黙ったままでいるので腹を立てた。
「娘はどちらも来ない!」ラスティニャックが叫んだ。「おれがふたりに手紙を書こう」 「どちらも」老人が起き上がりながら言った。「忙しいから、眠っているから、あの子らは来ない。そうだろうとも。まさしくそれが子供なのだということは、死ぬ段にならなければわからない。ああ! 友よ、結婚なんてするもんじゃない。子供なんてつくるもんじゃない! 命を与えてやれば、死を寄越す。社交界に入れてやれば、そこからこちらを追い払う。そうだとも、あの子らが来るわけがない! そんなことは十年も前からわかっている。わたしだってときどき思うことはあった。しかし信じたくなかったんだ」
「ああ! もしわたしが金持ちだったら、財産を維持していたら、それをあの子らに与えていなかったら、あの子らはここに来たでしょう。あの子らはわたしの頰を 舐めるようにキスをしたでしょう! わたしは立派な屋敷に暮らし、きれいな部屋と召使いを持ち、好きなだけ火を焚けたんでしょうなあ。そしてあの子らは涙をいっぱいに溜め、夫と子供たちといっしょにここにいたんでしょう。それをすべて持っていたかもしれないのに。なのに、なにもない。すべては金次第なのです。娘だってね。
ああ! わたしの金はどこだ? もしわたしになにか残してやる財宝があったら、あの子らはわたしの看病をしてくれたんだ。わたしの世話をしてくれたんだ。あの子らの声を聞き、あの子らの姿を眺められたんだ。ああ! でもせがれや、ただひとりのせがれや、それでもわたしはこんなふうに見捨てられ、極貧の中にあるほうがまだいい! だって貧乏なのに愛されたなら、少なくともそれは本当に愛されているということでしょう。いいや、やっぱり金持ちのほうがいい、あの子らに会えるからねえ。ね、そうでしょう! あの子らの心はどちらとも石のように冷たい。わたしがあの子らを愛しすぎたために、あの子らはわたしを愛せないのだ。父親というのは、つねに金持ちでいるべきなのだ。子供たちを相手にするときは腹黒い馬を相手にするようにその手綱を緩めてはいけないのだ。なのにわたしはあの子らの前に跪いた。ろくでもない子供たちだ! あの子らはもう十年来わたしに対して偉そうに振る舞っている。
いまからは想像もつかないでしょうが、あの子らが結婚したばかりの頃、本当に 甲斐甲斐しくわたしの世話を焼いてくれたんですよ!(苦しい! 殉教者の苦しみだ!)それぞれに八〇万フランちかくの金を与えてやったばかりでした。娘たちも夫たちもわたしに冷たくできっこない。『お父さん、こちらへどうぞ、お父さん、あちらへどうぞ』と歓迎されたものでした。あの子らの家には、つねにわたしの食事が用意されていた。というか、わたしはあの子らの夫たちと夕食を取り、連中にちやほやされたものでした。わたしにはまだなにかしらの威厳があった。なぜでしょう? わたしは自分の商売の話なんていっさいしなかったのに。八〇万フランを娘たちに…
会話のしかたがわからなかったからです。そのうち客のなかには婿にそっと訊ねる者もでてくる。『あのかたはどなたです?』『あれは 舅 です、べらぼうに金を持っています』『おお、それはすごい!』彼らはそう言って、そのべらぼうな金ゆえに、わたしを尊敬の眼差しで眺める。たしかにわたしはときどき粗相もしたが、それを補うこともしたじゃないか! そもそも完璧な人間なんてどこにいる?(頭が割れる!)なるほどわたしはいま死の苦しみに耐えています、ウジェーヌさん! でも、それがなんです! どんなにつらいことも、アナスタジーに初めて睨まれたときに感じたつらさに比べたら。
あの子の目は、わたしがたったいま愚かなことを言って、あの子に大恥をかかせたのだと物語っていました。その目はわたしの体じゅうの血管に 刃 を突き立てました。わたしは理由を知りたいと思った。しかし、みんな 端 からわかっていることではありませんか。つまりわたしはこの地上にいてはいけないということです。翌日、わたしは慰めてもらおうとデルフィーヌの家に行った。そしてまんまとそこで粗相をしでかし、彼女を怒らせてしまったというわけです。それで、わたしは阿呆のように混乱してしまった。わたしは身の処しかたのわからぬまま一週間を過ごした。あの子らには会いにいけなかった。非難されるのが怖かったから。そしてごらんのように娘たちに追い出されてしまったというわけです。
父親というものは、本当に愚か者なのです! わたしはあの子らをあまりに愛したために、賭けに溺れた 博打打ちのように娘たちに溺れてしまいました。娘たちはわたしにとって悪癖のようなものだったのです。愛妾ですよ、とどのつまり! ふたりがアクセサリーだのなんだのを必要としていると小間使いたちから聞けば、わたしは優しくされたい一心でそれを買ってやったものです! それなのにあの子らはわたしの社交界でのマナーについて一から十まで小言を言うのです。おお! あの子らは実にせっかちで、こちらができるようになるのを少しも待ってくれません。あの子らはわたしのことを恥じるようになりました。我が子に教育なんて与えるからこういうことになるのです。わたしの歳では学校へ行くわけにもいかない(めちゃくちゃ痛いぞ、ああ! お医者さま! 先生! 頭を切開されるほうが、まだましです)。
父親が足蹴にされているようでは、この国は滅びるぞ。それは明白だ。社会は、世界は、父性愛という土台の上で回っているんだ。子供が父親を愛さないようでは、すべてが崩壊する。おお! あの子らに会い、その声を聞きたい。
情けない、父親が自分の娘たちに隠れて会わねばならないとは! わたしはあの子らにわたしの人生を与えたのに、今日、あの子らはわたしに一時間さえくれないでしょう。わたしが渇き、飢え、焦がれていても、この最期の苦しみを鎮めにきてはくれないでしょう。だってわたしは死にますから。そうなるでしょうよ。ようするにあの子らは父親の 屍 を踏んでいくということが、どういうことかわかっていない! 天には神さまがいるんだから、神さまはこっちが止めたって我々世の父親たちの仕返しをしてしまうだろう。
「たったいま叫びと嘆きを聞いたとこなのさ。神はいる! そうだ、そのはずだ! 神がいて、おれたちのために最高の世界をつくった。さもなきゃこの地上はなんのためにあるんだ。もしこれほどの悲劇でなければ、おれはおいおい泣いたかもしれない。しかしいまは胸のあたりが締めつけられて苦しくてたまらない」
そのバルザックが生きた一九世紀のヨーロッパは、活字メディアの世紀であり、本や新聞を読むデモクラシーが開花した世紀といっても過言ではない。識字率が飛躍的に向上して、読む行為が選良のみならず、ふつうの人々にとっても身近なふるまいとなっていった(婚姻署名などから算出されたフランスにおける識字率は、一八世紀末に四割弱だったのが、一九世紀末には九割近くに達する)。このことと連動するかのごとく、新聞や雑誌という活字媒体が急速に発展して、「ジャーナリズム」が成立する。ジャーナリストや編集者といった職業が生まれるのも、この時代なのである。
人々の身のまわりに、書かれたものがあふれるようになった時代。それはまた、「小説」というジャンルがメジャーな存在になっていく時代でもあった。識字率の低い時代に広くもてはやされたのは、たとえば詩であり、また芝居であった。いずれも、「声」を支えとするジャンルだ。詩は朗唱されるだけではなく、楽曲となって愛唱もされた。芝居が手軽な娯楽として人々に熱狂的に愛されたことはいうまでもない。だが、一九世紀になると、状況は変わっていく。小説という 融通無碍 の文学形式が、同時代の社会風俗を映し出すスクリーンとなって、人々の喜びや悲しみをかき立て、あるいは社会的な義憤や反抗心を誘うジャンルとして幅をきかせて
作家の立場からすれば、発表媒体が多様化したことには大きなメリットがあった。新聞・雑誌に連載・分載した段階で原稿料が稼げるし、次に単行本となる段階でまた「印税」が入るのである。一九世紀の芝居は現代のテレビのようなもので、もっとも身近な娯楽であったから、小説作品が舞台化される例もしばしばで、その際には、さらに収入が確保されるのだった。デュマに至っては、自作上演用の芝居小屋「歴史劇場」をパリの盛り場グラン・ブールヴァールに建てて、『モンテ・クリスト伯』をロングランさせたのである。
ここで、起業家バルザックの歩みを簡単にふり返ってみたい。パリ大学法学部に入ると同時に代訴人事務所で見習いもしたバルザックは、文学者志望を捨てきれず、大学を中退する(なお、奇しくもフローベールもパリ大学法学部中退である)。そして小説や芝居を書くも芽が出ず、一時期は、貸本屋――フランスでは「読書室cabinet de lecture」と呼ばれていた――向けの通俗小説を、友人と共同執筆していたという。
やがて、とりあえずビジネスでがっぽり稼いでから、安心して文学に専念しようと考えて、書店主ユルバン・カネルと出版社の共同経営に乗り出す。友人や向かいの屋敷に住む年上の愛人ベルニー夫人も資金提供してくれた。そもそも、バルザックには楽天的なところがあり、成功ばかりを夢見て、勝手に妄想をたくましくするという欠点があった。心配した末の妹ローランスが、こう忠告している。
「オノレ兄さん、なんだか三つ四つ、商売をするんですって? わたし、そのことが頭にこびりついて離れないの。作家には文学の女神がついていれば十分なんです。(中略)ビジネスなんか、若いうちからよくわかっていないと無理ですよ。(中略)もっと悪いのは、兄さんは、この三つ四つの商売の舵取りを、ひとりではできないこと。これほど儲かる仕事はないって、兄さんに思わせてしまう連中といっしょなんですものね。で、兄さんの想像力は例によってふくらんでいって、三万リーヴルの不労所得が入る自分の姿を思い描いてしまうのよね。兄さんは人がよくて、まっすぐな性格だから、他人のずるがしこさに対して無防備なのよね。(中略)オノレ兄さん、事業がうまくいって、一財産築いた兄…
そしてもうひとつ、注意すべきことがある。『ゴリオ爺さん』は、当初は「パリ生活情景」の一篇として世に出された。ところが、《人間喜劇》全体の構成についてのバルザックの最終プランなるものが残されていて(一八四五年)、これに従って、『ゴリオ爺さん』の最終的な分類先は、「パリ生活情景」(『浮かれ女盛衰記』『十三人組物語』『セザール・ビロトー』『従妹ベット』『従兄ポンス』『ニュッシンゲン銀行』『ファチーノ・カーネ』など)ではなく、「私生活情景」(『イヴの娘』『三十女』『捨てられた女』『ゴプセック』『ざくろ屋敷』『禁治産』などのグループ)となっている。
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すごいもん読んだ…って感じです。個人と社会と欲望と仕組みが多重構造になってて、父を裏切る娘のシンプルな話なのに複雑で、、、クライマックスは読むのがしんどかったです。常に社会と自分に与える影響と大切な人、をしっかり見つめないと。
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食べ物を与えるのではなく、食べ物の取り方を教えることこそが本人のためになり、愛であるなと改めて思った
甘やかしすぎてお互いに不幸になるなんて
ゴリオ爺さん死の間際ではっきりそれがわかって絶望したんだろう
娘たちは悪いことをしたなど微塵も思わない
当たり前だったから
あまりに哀しい
側から見ていたラスティニャックたちには可哀想に映っただろう
人間物語だった
ゴリオさん、天国では幸せであれ
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すごく考えさせられる。
たしかにゴリオ爺さんの娘たちへの献身は想像を絶している。しかし、最後はこれでいいのか、との疑問は拭えない。利己と虚栄にのみ生きるのが人間なのか。そんな身も蓋もない社会なのか。
主人公の学生が葛藤することにのみしか、微かな希望はない。
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今年の正月読書はバルザックの「ゴリオ爺さん」。愛娘二人に金を注ぎ込み、自らは貧乏生活を続けついには惨めな死を迎えるゴリオ爺さん。お金があるあいだは、娘とその旦那達から歓迎と尊敬を受けていたが、ひとたびお金が尽きてしまえば、見向きもされなくなる。行き過ぎた親馬鹿が、悲劇的な結末を呼び寄せる。苦しみながら死ぬのは娘たちのせいではなく、自分の父性愛を制御しきれないで自滅したせいだと、ゴリオ爺さんは死の直前に気づく。(神がその被造者に対して持つような父性愛?)
ゴリオ爺さんの寂しい葬式は、グレートギャッツビーの主人公、ジェイ・ギャッツビーの葬式を思い出させる。
本作におけるもう一人の主人公は、学生ながらも華やかなパリの社交界に憧れ、いち早く出世を目論むウージェイヌ・ラスティニャックである。野心に溢れ社交界に飛び込む若者と言えば、スタンダール「赤と黒」のジュリヤン・ソレルが頭に浮かぶが、高貴な夫人を誘惑して出世を目論もうとするあたり、まるで瓜二つである。逆に言えば、当時から金も地位もない若者が社会でのし上がる方法は、それくらいしかない、ということだろう。
もう一人の個性的な登場人物は、社会に対して強烈な反抗思想を持つヴォートランである。アナキズムなのかニヒリズムなのか、明確な分類は困難であるが、ヴォートランの一貫して反社会的な思想は、田舎から家族の期待を背負って出てきた出世に燃えるラスティニャックが、ゴリオ爺さんの悲劇を目の当たりにし、きらびやかな世界が覆い隠す、偽善と虚栄の存在を知っていく中で、悪魔的な誘惑となり彼を板挟みの状態へと移行させる。そんな彼がヴォートランの逮捕やゴリオ爺さんの死を経験し、最終的に自らの今後の行動を決意したところで物語は終わる。世界の十大小説と呼ばれるのも納得の、圧巻の人間喜劇であった。
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病的と言ってもよいぐらいの親バカなゴリオ爺さん。親の死に目にも顔を見せないふたりの娘たち。どのような過程を経て、そのような娘たちに育ったのか明らかではないが、最後に遺された金のロケットは彼女たちにも純粋な時代があったことを物語る。その彼女たちが虚栄に満ちたパリの社交界に入ることになって、家族の悲劇に拍車がかかったように思われる。ヴォケー夫人の下宿屋と社交界の間を行き来するラスティニャックが、まだどちらの世界の住人にもなり切れずに良心を何とか保っているのが少し救われた。さすが名作。
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ライトノベルばかり読んでいても舌が麻痺しそうなのでまともな小説も読む
と自然に書いてしまうが
ライトノベルでないのにもライトノベル平均点に及ばない作品はいくらでもあるので
単に味付けの違いと思う
『マカロニほうれん荘』と『ドカベン』と『ブラックジャック』は同じ雑誌に掲載された
同じマンガ作品でも
まったく違うものなのと同じ
でバルザックの人間喜劇は小説では手塚治虫作品みたいなものである
200年越しに読み継がれている名作だが
手塚治虫作品の最高峰が比べて劣っているわけではない
けれど歌劇的な畳みかける膨大な台詞での心情吐露は
日本作品が容易に真似し得ない欧州文化の精華
いってみれば日本語で書かれた小説が一文一句の「ことば」へこだわり続ける限りは
たどり着けない境地かもしれない
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すごい小説というものは、確かに時代を超えて残る。例えば、『デイヴィッド・コパフィールド』『エマ』『ファウスト』『カラマーゾフの兄弟』。それらと同様の圧倒される感じを味わった。
「人間喜劇」の構想を得て、最初にスターシステムを導入して描いた作品だという。これが初の試みだったとは、どれだけの緻密なプロットを用意して臨んだのかと驚く。主人公ゴリオの悲劇の性格ももちろん深いのだが、それ以上に、その後の作品にも繰り返し登場することになる主役級スター二人、ラスティニャックとヴォートランのキャラクターが素晴らしい。上昇志向、端麗な容姿、強い意志と感覚の鋭さという、魅力的なラスティニャックの視点で物語るというのは上手い。また、本編では半端な狂言回しといった退場のしかたになっているが、ヴォートランの謎めいた様子、世間に対する斜に構えた態度と裏腹な情熱、正体を暴かれた後の豪放なセリフなど、これも飛びぬけて豊かな造形だと思う。
ヴォートランについてはゲイであることがさらっと述べられているが、時代をかんがみると不思議に感じた。この時代、同性愛者が小説に登場することにはタブー感や異様の印象は無かったのだろうか?
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世間と言う真因はそのようなきらびやかな世界がどんなに偽善と妥協と搾取によって支えられているかを悟り、恐ろしくなる。ゴリオの爺さんもある種搾取される側の人生を堪能し、自らの幸福を他人に求めることで幸せを享受していたのだと思う。社交の場に乗り上げた途端、父親を恥ずかしく思うという娘たちの心情と、その成果を呪うという醜悪な非業の死もうまく描きあげられている。社交の場にありがちな心象風景を見事に描ききっている。何を持って生き甲斐とするか、人生をどう生きるべきなのか、世間とどう向き合うのか、色々と考えさせられる作品だ。
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俺は登りつめる!と意気込んだ若者が若さゆえの暴走で
失敗する…あるある、あるよね、と思ってしまう
うっかり言っちゃうのやっちゃう、若さゆえ
青年ラスティニャック目線で物語は進んでいくけど
最後にはゴリオ爺さんの強烈な人生の終焉で終わる
面白かった、満足。人間喜劇は読み続けたい。
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田舎の貧しい貴族で学生のラスティニャックが、成功への足掛かりに欲望渦巻く社交会へ入って行こうとする話。並行して、娘たちに身を削ってお金を与え続けるゴリオと、お金を搾り取るだけ搾り取ったら親に興味がない娘たちという親子関係が書かれる。ひどいことが書かれてあるようで、人の世はいつでもこうなのだな。テレビドラマのような筋立てで飽きずに読むことができた。
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こんなに父性ゴリゴリの物語、どうしても娘の立場で読んでしまう。自分の父とも重ねるけど、やはり15歳くらいのときの娘でいて欲しいのだな〜こちらは歳を重ねるごとに現実でサバイブできるようにトランスフォームし尽くさなきゃいけないのに。彼女たちはお金以外のなにかをわかろうとしたほうがよかったけれど、有り余る父性を先にお金に換金してしまったのは紛れもなくゴリオだったのだ。
ラスティニャック青年の出世欲と誠実さのバランスが愛おしい。飽きない展開に目が離せず、世界の十大小説と言われるのも納得。おもしろかった。
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バルザックの一連の作品は「人間喜劇」として有名らしいが、正しく喜劇というか、喜びも憎しみも感じさせる作品。
小説なのに、テレビドラマを観ているような、どこで読むのを中断すればいいのか、本当にわからなかった。久しぶりにしっかりした長編を読みした。
ドラマティックな展開を期待する方にぜひ。
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無償の愛の見返りが、文字通り無償に終わるゴリオ爺さんの話を軸に、表向きは華やかなパリの社交の場へ進出を目指す青年ラスティニャックや、青年に反抗哲学を植え付けようと唆すヴォートランらヴォケー館の住民たちの話が展開される
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寝不足を招く一冊。要は親バカ過ぎるゴリオ爺さんと、親不孝な娘二人の話だか、実際の主人公はその娘一人と結ばれるはずの学生のように思える。
途切れが少なく、一つのシーンでの話が延々と続くので、やめ時がない。寝る前に読み始めると眠れない。
描写が繊細な訳ではないが、なぜかシーンが鮮明に頭に浮かんでくる。きっと設定が想像できる範囲内だからだろう。ドラマっぽく、結構チャキチャキと展開する割には、ついていけない感じはしない。
ただ、登場人物はもちろんカタカナの名前で、姓と名が混在しまくってるので、はじめの頃は登場人物がなかなか把握できなかった。これは日本語しかできない自分のせいだろうけど。
回収されない伏線がいくつか見られるので、他の作品も読んでみたい。
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読むのにとても時間がかかり挫折しそうだったが、真ん中のヴォートランの秘密辺りから加速。
解説に「主人公はパリ」と書いてあるのにとても納得。途中気になった、登場人物の他の作品での展開もあるらしい。
ゴリオ爺さんの最後、溺愛する娘たちに看取られず悲しすぎた(自分は家族の愛に感謝し、大切にしようと思った)。ウージェーヌ、身の丈に合ってない社交界に入るのだが、ゴリオ親子を見てこの世界に闘いを挑む最後は救われる。
しかし、この時代のパリの文化はすごい…。夫人を平気で誘惑。きらびやかなパーティー。贅沢な暮らし(光と影)。調べたら、ショパンの時代も重なっている。
Posted by ブクログ
パリ社交界に憧れる貧しい学生と、社交界に嫁いだ娘たちのため自分の身を削るお爺さんの交流。人間の傲慢さ、狡さ、醜さがパリ社交界の煌びやかさと対照的に描かれている。
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大学生の身でありながら学問はさぼりがちで
人妻訪問にばかり精をだす
ウージェーヌ・ラスティニャックがそうするのは
社交界で人脈を作ることこそ、出世の早道と信ずるからであるが
なにしろそのためには金がかかるのだった
そんな彼の前に、二人の男が現れては破滅し、去っていく
ジャック・コランとゴリオ爺さんだ
一人は、資産家の娘を篭絡してしゃぶりつくすことをそそのかす悪党
もう一人は、娘たちへの愛情だけを杖に生きてる惨めな老人
ウージェーヌは、そのどちらにも一定の共感を抱くが
しかし、どちらの示す道をも選ぶつもりはなかった
いわば父性との決別
それがナポレオン・ボナパルト斃れし後の
フランス共和主義の気分というものだったのかもしれない
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すべてを愛す
裏返しは盲目
カミュの紹介から。
流れるような矢継ぎ早の表現に絡め取られて、煙にまかれてしまいそうになる。
同じパリに生きる人間を描いているというのに、サガンのそれとはまるで違う。サガンはたった数人の人間関係を持続させることで、気怠いパリの空気を吐き続けた。
バルザックは、その気怠さを金と愛の汚泥から容赦なく叩きつける。
描かれる人間それぞれに人生(ドラマ)を与えていて、きちんと役割をこなす。美しいものは美しく、汚れたものはとことん汚く、その予定調和さにどこか嫌悪を覚えてしまう。パリのみせる二面性があまりにもクリアなのだ。
ヴォートランの存在は作品全体に色濃く印象を与えていて、様々な可能性を秘めている。彼は社会への反逆を標榜しているように見えるが、彼のことば通りなら反逆などできるのだろうか。法則が不条理で存在せず、出来事だけというのなら、その時出来事は存在するのだろうか。彼は反抗できないことを知っていて、興味本位からウージェーヌを唆したのだろうか。彼の生き様は気になる。
ボーセアン公爵夫人の気丈さ、それを支える愚かなまでのひたむきさ。隠遁した先で彼女はそんな自分をどう考えるのか。
何よりもゴリオ爺さん。金で買えるものは、金で買えるものでしかない。娘がどんなに大切だろうと、切り売りできるそんな接し方でしかない。それを愛と呼び溺れる、彼の迎える結末。父性なんて自己愛の裏返し。
ひとつの完結した物語でありながら、幾重にも可能性を秘める。どういうわけか、パリはひとを惹きつける。
Posted by ブクログ
ゴリオ爺さんはかわいそうだけど、自分から進んで財布になってれば人間扱いもされなくなるでしょ。父親としての立場を放り出してお金で釣ろうなんて娼婦を買う男の発想だし、その根性に娘はけっこう失望してたと思うよ。
この話で一番かわいそうなのはバカ娘を押し付けられた二人の婿さんと思う。まあこの人らも持参金目当ての結婚だったろうから自業自得とも言えるけど。
ストッパーの奥さんが早逝しちゃったのが爺さんにとっての悲劇だな。救いのないラストだけど悲劇というには滑稽すぎて、「人間喜劇」って副題に納得。ジェットコースターみたいにズバッと読めた。
Posted by ブクログ
これね、ホント感情を動かされる
正しく感動って感じ
特に終盤は大変よ、ぐっちゃぐちゃになる
社交界を目指して出世欲を滾らせるウージェーヌに突きつけられた現実の残酷さに辛くなった
フランス文学特有のアバンチュールも酷な現実を表すのに一役買っている
善人が最期に愛情に裏切られて死ぬのをみて決意を固めるところは胸がすく思いだった
眠気覚ましに最後サラッと読もうかと思ったら、感情ぐちゃぐちゃにされたわ
いや…もう「金の切れ目が縁の切れ目」を間近に突きつけられた
Posted by ブクログ
大事なことは見失いがちということかもしれない。
というより、そもそも本能的に目を逸らしてしまうということなんやろう。
娘たちはもちろん、お爺さんも、ラスティニャックも結局は欲望に取り憑かれてしまう悲しい性の渦にいとも簡単に、それとは気づかず飲み込まれてしまう。
「さあ今度は、おれとお前の勝負だ!」
人間たちの愚かなサーカスに挑む事で、進んでサーカスの団員になるこの光景は、自分自身もみたような気がする。
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バルザックはフランスではとても有名な作家ですが、その作品を初めて読みました。1835年の作品ですから、19世紀の前半、フランス革命やナポレオン帝政の後、7月王政の時代です。パリも都市として大きく発展していたころで、この小説の主人公ラスティニャックのように、地方から出てきて出世を目指していた若者も多かったようです。
娘を溺愛しながらも省みられることなく最期を迎えるゴリオ爺さんが物語の中心にはあります。しかし、それを取り巻くしたたかな人物設定(特にヴォートランや下宿のおかみヴォケー夫人)や、パリの社交界が狩猟社会の様相を呈しているあたりの描写(192頁)が基調を作っていますので、読んでいて悲痛な気持ちになるはありませんでした。よく言われるバルザックの「人間喜劇」を楽しめます。
人間の多面性や社会の本質が見事に描かれています。それは、バルザックの人間社会への鋭い洞察や人生経験によるところも大きいでしょう。一方、作品の登場人物に命を吹き込み、作中で生き生きと立ち回らせることができるあたり、彼の小説家としての凄みを感じさせました。
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2人の娘を盲目的に愛し、玉の輿に乗せた後も求められるがままに自分を犠牲にして全てを与えた哀れな老人ゴリオ。リア王にはコーデリアがいたが、彼には愛情を返してくれる娘はいなかった。
登場人物が人間臭くて面白い。ここに出てくるラスティニャックは出世のためなら何でもする人間の代名詞になったようだが、ここではまだ純粋さを持った1人の若者、彼がその後どのように変貌して行くのか他の作品も読んでみたい。