東浩紀のレビュー一覧
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本のタイトルにあるように、日本に今後戦後80年は
くるのかという議題で、現政権を中心に批判する
下記の講義集
内田樹氏ー比較敗戦論
東浩紀-本と新聞と大学は生き残れるか
木村草太-集団的自衛権問題とはなんだったのか
山室信一-戦後が戦前に転じるとき
上野千鶴子-戦後日本の下半身
河村小百合-この国の財政・経済のこれから
姜尚中-総括講演
このなかでも、山室信一氏、上野千鶴子氏、河村小百合氏の
3本がとても興味を引きました。
どれも、日本が破綻し、または戦争の道に進むのでは
ないかという潜在的な恐れを感じる内容です。
支持率は高いですが、本当に今の政権でいいのでしょうか?
他人事ではないような気がします。英国や米国、韓国、
日本と反知性主義的というのか、そういうものが蔓延して、
そのうえに乗っかっている知性的でない治世者に将来を
奪われていくことになるような暗い気持ちになってきます。
そうではないかもしれませんが、そうならないためにも
これらのことを、警告として受け止めて
自分の判断基軸の一つとして認識することに意味が
あるのではないかと思います。 -
Posted by ブクログ
面白い。
わりと論旨はわかりやすくて、ルソーが昔語ったようわからんものだった「一般意志」は、現代のICT革命を経て可視化された。それを政治に活かしていったら面白いんちゃうん?て感じかな。
ルソーの一般意志って「人間は真理に自然とたどり着ける」みたいな人間への信頼感が根底にはあると思ってて、2.0ではその人間観はどうかなぁと思ったら、全然変わってないように見える。うーんどうなんだ。なんて読み進めたら、2.0はあくまでカウンターパートとして使うべき。みたいにあって。バランス感覚があるなぁ。なんて思ったけどそれって本末転倒というか、思想の鋭さが鈍った感じもする。そこから先の章は正直紙幅も足りてないしとっちらかってるから流し読み。
熟議やデータベースの限界性とか、人間は結局情念で動くとか、そんな知見も面白く読めた。
仮に一般意志を可視化できるものだとして、そこにはやっぱり頭のいい人たちが必要なんだよな。バイアス緩和のプログラムデザインする人とかね。可視化されたそれを踏まえ正確に読解し、かつ議論を進め、それと対決できる人はなかなかいるのかなぁ。憲法草案に対してだってバイアス取り除いて中立に誤読せず発議してる人だってネットでも少なく見えるのに。そんなことを考える2016年参院選の日。 -
Posted by ブクログ
感情と論理は、対になる概念なのだろうか。
「感情的にならず論理的になれ」とか。「お前は理屈っぽい人間だから人の感情が理解できないんだ」とか(これはあまりにも暴論か)。
感情と論理を対概念として、オルタナティブの様に扱う人は多い。
しかし、本書はそれを否定する。感情は論理を規程しうる、ということからもわかるように、感情と論理は「あちらが立てばこちらが立たぬ」式の二者択一ではない。
宮台によれば、いわゆる「ネトウヨ」や「ブサヨ」が台頭している背景にあるのは、「感情の劣化」だ。
知性とは態度であり、したがって論理的思考力などの知的能力によって規程される類のモノではない。問題はむしろ思考を方向づける感情にある、というのは頷ける話だ。
ネトウヨの言っていることに全く理がないわけではない、という(少なくともネトウヨを研究した身としての)肌感覚は、それをよく示している。彼らに理がないわけではない。それが劣化した感情に基づいている=知性的な態度ではないことこそが問題なのだ。 -
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オタク論でありポストモダン論であり文学論。
ラノベにも美少女ゲームにも触れたことのない人にとっては理解しにくいかもしれない。そういう人でも理解しやすいように本文中で詳しく説明されているが、やっぱり実感としてわかるかどうかは大きな違いだろう。
本書は2007年に出版されたが、2016年現在、ここで予言されていた新たな文学のあり方が当時よりも顕在化、加速化している気がする。メタ物語的な想像力に支えられた物語、読者を物語の中に参加させる手法は今や定番でありふれたものだし、当時よりもずっと、物語外の世界の権力は物語そのものを押しのけて肥大している。
物語外の世界(読者/消費者/プレイヤー)に重心を置き物語外の物語を膨らませる手法すら、今はデータベース化されている気がする。さらにいえば物語外の物語すらデータベース化されている。
というのは、まず物語は重要ではなく主役はコミュニケーション、あるいは手軽に自分の欲しい感情(泣く/ときめき/きゅんきゅん/義憤/切なさ)であり、物語はそのために偶然に選択された使い捨ての道具であるように思える。そしてコミュニケーションや感情の内容に意味はなく、コミュニケーションをすること自体、感情を発生させること自体に意味があるように思える。だから簡潔に手っ取り早く記号的なコミュニケーションと感情を手にするために、物語外の物語すらシンプルであることが好まれデータベース化された、と考えるからだ。
昨今の氾濫する物語群とその環境を見て、元オタクの元少年の私はそう考える。
でもたぶん、思春期時代の自分がこの文章を見たら憤慨するだろうなと思う。今の私にはもうわからないが、外から見るよりもずっと繊細な時代ではあるから。
でも外から見ると、物語もそれに対する読者の反応も、反応の仕方や文面まで含めて驚くほど画一的なんだもの……。某web漫画アプリとか見ていると、次のきゅんきゅん、その次のきゅんきゅん、また次の使い捨てきゅんきゅんを求めてあくなき徘徊を繰り返す肉食獣みたいに見えて。そして同時にその無限のきゅんきゅんを共有する仲間とのコミュニケーションが至上の喜びに見える。
あと美少女ゲームをやってるオタクが「純愛」と「浮気」の矛盾した欲望をどちらも満たせるっていうのは面白いと思った。確かに個別ストーリーは純愛なのに、プレイヤーはいろんなキャラシナリオ楽しめるから浮気心も満たせるよね。 -
Posted by ブクログ
大塚英志と東浩紀が、四回にわたっておこなった対談の記録です。第一回は2001年、第二回は2002年で、東が『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)の頃の東が、『物語消費論』の大塚英志と、サブカルチャー批評について議論を交わしています。
第三回は2007年で、今度は東が『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書)を刊行した後の対談です。そして2008年におこなわれた第四回は、秋葉原連続殺傷事件の直後の対談になっています。
対談を通して、大塚は愚直なほどにおなじ問いかけを東に向けています。彼が問うているのは、「公」のことばをもう一度立ちあげなければならないという義務感であり、そうしたことばを語る批評家や作家の登場への期待であり、さらに批評家はそのようなことばを読者へ向けて語りかけなければならないという倫理だといえるように思います。こうした大塚の問いかけに対して、東は一貫して、批評家のことばがもつ力に対する諦念を表明しています。
大塚の主張するような公共性の再建が可能だとは思えないのですが、それ以上に気になるのは、時代状況の変化によって、東のおなじことばが異なるニュアンスで受けとられてしまうのではないかということです。たとえば2001年、2002年の対談での東の立場は、言論の無限の可能性を素朴に信じるのではなく、新しいオタクの消費行動を前提にしなければならないというところへ収斂するのではないかという気がします。しかし2007年、2008年の対談では、東のおなじようなスタンスを語ることばが、アーキテクチャ原理主義のように響いてしまうのも事実ではないかと思います。
両者の対話が噛みあっているということは、まったくといっていいほどないのですが、大塚のいい意味での「いやらしさ」が出ているという点でも、おもしろく読みました。すくなくとも、おなじく話が噛みあっていない、東と笠井潔の往復書簡よりずっと刺激的だったように思います。 -
Posted by ブクログ
小説を読む時に、物語の「構成」はちょくちょく気にしながら読んでいますが、小説の「構造」を意識したことは余りありませんでした。なんていうと言葉遊びのようですが、本書を読み終えて思った率直な感慨です。
普段、文芸評論はほとんど読まず、フィクションの海を漂うに任せていることばかりのワシですが、本書は「セカイ系」の世界へと誘う巻頭言から引き込まれました。セカイ系……ワシの中では「最終兵器彼女」あたりから意識し始めた単語・概念でしたが、そこに至る様々な文学史的経緯があった、しかもそれを著者なりの切り口で深掘りし、強い説得力でもって解説してくれます。
しかしその解説も、全然小難しくはない。丁寧な説明、構成で、分かりやすく論理が進みます。ワシみたいな素人に分かりやすいと言うことは、反面もしかして、本格的に文学研究をやっている方には物足りないのかもしれませんが、単なる「小説好き」「物語好き」の好奇心は充分に刺激されました。
ワシは小説を読む時、「作者が誰か」というのを出来るだけ意識していませんでした。それは、内容だけで面白さを判断したい、という自分なりの稚拙なルールなのですが、本書を読むと、作家の「作家性」が気になってきます。
そして何より、作中世界とその外部≒神=作者、との関係性が気になってきます。作家が文学に込める「セカイ」や「社会」や「自分」の繋がり/断絶、これは、今後小説を読むにあたって意識しながら楽しみたい部分になりました。