東浩紀のレビュー一覧
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昨年、『訂正可能性の哲学』(ゲンロン)と立て続けに発売されていて気になっていた、東浩紀さんの「訂正」シリーズ。どちらから読もうかと迷った結果、新書のこちらの本から手に取ってみました。
「訂正する力」とは何か?
読み進めてみると、「聞く力である」「続く力である」「老いる力である」とたくさん出てきます。どうやら一言で説明するのが難しそうな力です。
「この状況認識は「脱構築」に似ている」とあり、千葉雅也『現代思想入門』でジャック・デリダの脱構築という考え方もおさらいしながら読み進めていくと、一気に理解が進みました。
「脱構築」とは、何か対立する場面において、自分が安定していたいという思いに介 -
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ネタバレ15 思想の核となるアイデアはいままで言い尽くされている。
ゆえに哲学書の本質は、そのテーマの新しさにではなく、むしろスタイルや意匠の新しさに存する。
つまり、いかに語るかという装飾という非本質な部分こそが本質だと言えるし、本質こそが非本質である。
さらに、言えば、この本質と非本質の定まらなさ・決定不可能性こそが哲学の「本質」だとも言える。
241とある時代のとある主張は、「新しい思想」というよりも、単にその時代状況の表現だと考えた方がよい時がある。
26. 「観光」の条件
労働階級の台頭、大衆社会化、産業主義化。
・クックは、観光を通じて大衆を啓蒙し、社会をより良くすることができると -
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あまりにも誤りが許されない(風潮にあると感じられる)のが辛いと日常感じていた時に、本書を手にした。この本は「訂正する力」を提言している。大事なのは「ぶれない」「リセット」の上手いバランスをとること。過去を訂正することなんてざらにあるわけで「じつは・・・だった」にあふれている。過去の解釈を変えて現在に適用することは別におかしな話じゃない。
作興、特に SNS では一度でも誤るとものすごい非難が来る。そのためにそもそも誤らないように行動することになる。生きづらい、訂正することが許されないし、訂正する余地がないとも言える。つまり過去言ったことにしばられることになる。SNSの過去の言動を切り出して言 -
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気になった、自分に刺さった内容をピックアップして感想を記述(本の内容が重厚なので)
・リベラル村
リベラルを追求している結果、結果的にリベラルを許容する意識の高い人だけを集めることとなってしまい、皮肉にもリベラル的な思想から外れてしまっている。これは私も常日頃から感じていた。新の多様性とは、受け入れにくい人すらも受け入れる(というか否定せず、無関心)必要があると感じている。
・誤配=訂正可能性
あらゆることはいずれ訂正される可能性がある。まずはそれを許容する必要がある。共同体とは開かれてもいて、閉じられてもいる。それを誤配によってつなぎかえを行っている。再帰的な保守主義という言葉が素晴らし -
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面白かった。
訂正可能性と交換可能性を行き来することが重要だと言っていて、なるほどなと思う一方どのような場面で訂正が必要になるかはもう少し考えたいなと思った。
クリプキのクワス算の話で、「クワス算をやってたんだよ」という人は必ず出てくる。
その場合、その異端者を出禁にするか、ルールを変えるか、運用を変えるかの選択を迫られる。出禁にする=交換の世界。ルールを変える=訂正の世界。
多様性の時代だし訂正は大事だと頭ではわかってる一方で、
自分の想定外のものにルールを合わせるのって相当柔軟な思考が求められると思う。
まだまだ未熟なんだろうなとおもった。 -
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ゲンロン、シラスの取り組み、そしてこの取り組みを本にまとめたことについては、本当に尊敬している……ホモソーシャルから抜け出たようには見えないけど……
「ゲンロンはたしかにぼくがつくった。
でもぼくのためのものではない。
「ぼくみたいなやつ」のためのものでもない」
p222引用
「特定のトピックに焦点をあてて、無理に「最先端」のシーンを演出するようなことをしていません。
ぼくがその場その場で関心をもった方々、関心をもった主題を集めている」
「言い換えれば、ぼくは自分の関心が自分だけのものであること、自分が孤独であることを受け入れたわけです」
p223引用
「「ぼくみたいなやつ」はぼくしかい -
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かなり面白い論考だった。
「民主主義とは本来熟議が必要なものであり、現代の民主主義には熟議が足りてないんだ!」というステレオタイプの思い込みをひっくり返された。実装面は置いといて、大衆の無意識を直接反映できるようになれば、「民意を反映してない」みたいな批判は一定避けられるようになるだろう。
一方で、現役世代の一般意志に従うだけでは、環境問題や伝統の継承など、未来・過去の世代を考慮した判断は難しいように思える。特に、環境問題のような、現役世代の欲望を抑えて将来世代の負担を軽減するような問題については、熟議の方が解決に導ける気もする…。難しい。 -
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人間は環境に規定されてしまう。
そんな人間が「かけがえのない自分」として生きていくためのヒントとして、環境にノイズを忍び込ませること、記号では捉えきれない「モノ」があると認識すること、無責任・軽薄に生きる側面を持つこと、すなわち「観光客」として生きてみることが提案されている。
最近、法律の勉強に時間を割かれ、記号の世界に閉じ込められていた。お金も時間もないし、友人が海外旅行する様をInstagramで見て、俺は日常の中に小さい幸せを見つけられるんだ、なんて小さい捻くれた世界に閉じこもっていた。
旅に出たいと本気で思う本だった。今の僕の人生には明らかにノイズが足りていない。脳みそも心もどんどん -
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(2014/10/11)
ネットは弱いようで強いつながりだという。
固定した仲間としかつるまない。
新しい環境に触れるには、
弱いリアルを求めるのが一番。
そのためには旅をしようという。
ネットでストリートビューをすれば現地の様子はわかる、
でもそれは旅ではない。
その違いは移動時間にあるという。
その場に行くまで、帰るとき、
体を一定時間その場に拘束すること、そして欲望することに
意味があるという。
深い。
だから著者はダークツーリズム、チェルノブイリ観光を実施し、
さらに福島原発を観光地化しようとする。
平野啓一郎氏の分人化にも触れている。
ただ、平野氏がそれぞれの村人であれ、というの