東浩紀のレビュー一覧
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ネタバレ哲学書ながら読みやすい一冊だった。グローバリゼーションとナショナリズムの狭間でどう生きるのか。経済的に結び付きゆく世界の中で、自分と他者の壁をどこに設定するのか。難しい問題について考えさせられた。
ゆるく生きる、というのとは少し異なる気がするが、概ね筆者の意見には納得した。ナショナリズムに限らず、例えば会社をとっても、多様な働き方があるいまの時代、一つの組織や集団への帰属意識は不安定なものになりつつある。そこで大切なのが観光客としてのコミュニケーション、つまりすべてが繋がっていることを許容しながらも、自己と他者の境目をなんとなく意識すること。そして他者の認識は100%そのものを理解していると認識せず、見えているのは一部=誤配でしかないことを認め、そのなかで他者理解に努めること。様々な物事について、この考え方は適用できるのではないかと感じた。
100%理解できたとは思えず、また再読したい。 -
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ネタバレ「観光客の哲学」初版は既に購入して読んでいたのだけれど、今回の増補版で再読して
新たな発見がいくつもあったので、備忘録として記しておくことにした。
まず第4章の「二層構造」。カント、ヘーゲルの時代から哲学者が考えてきた国家と市民社会のことがものすごくわかりやすく述べられている。21世紀はネーションの統合性が壊れただけの状態であり、2つの秩序が独立して存在する「二層構造の時代」であると。
もはや普遍的な正義が存在しない、リベラリズムの根幹が揺らいでいる現代には、上半身(理性、政治)と下半身(欲望、経済)は別々の秩序で動く。これは、コロナ禍を経験した我々には実感を伴って感じられる。医療者である私の上半身(理性)は、この新型ウイルスを正しく恐れ、思慮深く理性的に行動することを職場から求められ、医クラは一致団結をして正しい情報を発信しようとする。そして、欲望のままに行動する市民を厳しく糾弾する。そこには、「我々だって飲みに行きたいのに我慢して病院内でクラスターを作らないように行動を抑制しているのに」という、自由に行動する者に対する軽蔑とともに、羨望も含まれていたことは否定できない。実際に、そのような理性的な振る舞いを求められることに疲れ、職場を去ったものは数知れない。このようなリバタリアンな側面とコミュニタリアンな側面の折り合いをつけることがどれほど難しいかということが、身に染みてわかるのだ。
そして、これまた、規律訓練と生権力という権力の二類型についても、同じ個人が、個別のコミュニケーションの場では人間として扱われ、同時に統計の対象としては動物として扱われるということは、医者の世界では日常的である。癌の5年生存率を語るときに、私たちは努めて冷淡に「情報」を伝える。一方で、目の前にいる個人に対して、私たちはその動揺や葛藤を傾聴し、支えるのだ。どの職業でも同じだろうが、エビデンスや統計を重視する科学重視派の医師と、患者の気持ちを支える人情派の医師は、時に同じ職場の中でぶつかることもある。
この二層を横断する運動として、個人(私)を出発点として公共の政治に繋げるような試みとして、第5章の観光客(誤配)、郵便的マルチチュードが導入される。
グラフ理論のスモールワールドとスケールフリーは、まさに脳科学の分野でシナプスの振る舞いとして研究が進んでいるもので、この話を初めて本著で見た時にはとても興奮したことを覚えている。もう10年ほど前になるが、東大の池谷先生の講演で、シナプスのネットワークのつなぎかえについても、学習や記憶、可塑性の観点から話を聞いたことがある。生物学的な(数学的な)法則は人間の社会的な側面にも深く浸透しているのだということをダイナミックに示してもらったようで、科学と人文学のクロストークに触れた気分だ。
本章で東は、リチャード・ローティーのプラグマティズムに触れる。共感の連帯、ルソーからつながる憐れみの連帯を、再誤配の戦略として捉え、そして観光客の哲学を家族の哲学
へとつなげていく。
そして第2部は、家族についての哲学である。普段の診療の中で子どもを通じて「家族」を扱う小児科医としても、この第2部は非常に知的好奇心を刺激された。家族の強制性、偶然性、拡張性について述べられた第6章を読むだけでも、この議論が一筋縄ではいかないことがよくわかる。出自の問題や家族の強制性については、多くの作家の小説でも主題として取り上げられているし、その偶然性や拡張性については、例えば是枝裕和の映画の主題でもあるだろう。そして第7章ではフロイトの論文「不気味なもの」をタイトルに取り上げる。
ラカンの主体性についての想像的同一化から象徴的同一化への二重性が、ポストモダンの時代変遷の中でどう位置付けられるべきかについての考察はとても興味深い。平野啓一郎の分人主義の著書に当時私も大変共感したのだが、小児科の実臨床では「器用に分人を使い分けられない」子どもや大人を目の前にするばかり。理論(理想)通りいかないことばかりの壁にぶち当たる。ここで東の述べるように、現代の情報社会の本質を、こちらとあちらが曖昧になる「不気味なもの」として捉えることの重要性は、アクチュアルな思想の実践としてたいへん実臨床と親和性の高いものだと感じた。フロイトのテクストの再読を予感させる続編を期待したい。
第8章のドストエフスキー論については、カラマーゾフを再読してから改めて考えたいと感じたが、章の最後にある東のメッセージである「親であることは誤配を起こすことであり、親として生きよ」は、親子関係を扱い、子どもを通じてではあるが親をエンパワーする立場にある私たち臨床家にも大変力強い言葉であった。
まとまりなく読んだ感想をつらつらと重ねたが、訂正可能性の哲学も早く読みたいところである。 -
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読み始めて数ページは「なんだ週刊誌のコラムのまとめか」と思ったが、読み進めていくうちに引き込まれた。
毎日の日常を当たり前に生きていると漠然と変化を感じることはあるけどその正体はよくわからない、しかも日常だから深く考えずに過ぎてしまう。でも冷静に去年の今頃とか3年前とかを思い返すと、だいぶ変わってきたんだなと感じることがある。そういうことが週刊誌のコラムであるからこそ小刻みの等間隔で振り返れて、世の中がじわじわと確実に変わってきたこと、または結局変わってないことなどをリアルに実感できた。自分が生きている時代(2017年1月〜2022年4月)を見つめ直す有意義な機会をもらえた。
そのような大局的な時代の変化を振り返ることができただけでなく、毎週のコラムの中身も示唆に富んでいる。
迷惑と権利、政治と経済、政治とメディア、ネット社会と民主主義、政府と国民、与党と野党、ジェンダー、加害者と被害者、感染症と差別、感染防止と経済・自由、五輪、ロシアとウクライナ、などなど。世の中の諸問題の複雑さ、虚しさ、でも向き合って考え続けること、忘れないことの重要性などを実感できた。
終盤までの感想は概ね以上だけど、最後の方、特にコロナ禍以降と最後の付録を読んで、筆者東さんが平成以降今に至るまでの日本の現状にかなり失望しているということが強く印象に残った。
東さんのことは「ゲンロン戦記」を読んで「シラス」?での対談の一部をYoutubeで拝見したくらいしか存じ上げないが、不器用で誠実で少しお茶目で、前向きに真剣に世の中のことを考えている方という印象だった。それだけに今の社会にこんなに諦めを感じられているのかと知ってなかなかショックだった。気持ちは分からんでもないけど、今こそ刺激的で面白い世の中だと思うし、失望しているより前向きに生きている方がやっぱり絶対にいいと思う。
自分は東さんより10個くらい年下の若造だけど、こんな誠実で愛すべきおっさんが世の中に失望しているのは勿体無い、よりよい社会にしなければ、と思ってしまった。
いずれにしても、即時的で雑多な情報に惑わされずに、地に足つけてじっくり考えながら前向きに成熟していきたいと思った。 -
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【はじめに】
本書は、2017年1月から2022年4月までの約五年の間週刊『AERA』に掲載された巻頭コラム131回分を収めたものである。ざっとこの100回を超えるコラムを読むと、この五年間でそれなりのことが起こったのだなと改めて思い返される。
【五年間のこと、特に政治について】
その五年間のコラム掲載期間の後半は、日本中がコロナに翻弄された。著者も何度も言及し、なし崩し的に権利の制限が行われたことが後世に与える影響を懸念している。
また、アメリカでのトランプ大統領の誕生も驚きではあったが、政治的出来事としてある意味ではとてもこの五年間までの政治の変化を象徴する出来事であった。一方でこの五年間は日本では安倍長期政権から菅政権、岸田政権と首相が変わった時期と重なる。そういえば、平成から令和になったのもこの五年の間に起きた出来事である。小池百合子都知事が豊洲市場移転問題などで政治を劇場化したが、日本の政治的にも不毛で、結果としてあきらめが先行した時代であった。そして、時同じくしてメディアも歩を合わせて信頼を失ってきたように思える。著者は、常に自民党と共産党以外の党に投票をしてきたが、もはやその投票行動も意義を認められないものになっていると独りごちる。
また、日本の女性の地位の世界基準に対する低さにも何度か言及する。そこに著者の問題意識があるのもよくわかる。マイノリティの問題、ヘイトの問題なども何度か取り上げられた課題である。政治とは敵と味方にわけることだとしたカール・シュミットの言葉と、社会はそうであるべきではないということも著者はコラムの中で繰り返している。
著者の会社が催行するチェルノブイリ原発ツアーも何度か言及され、ウクライナとロシアの危うい関係も触れられている。このときにはまさか本格的な戦争になるとは想定していなかったであろうが、このころからウクライナには影は落ちていたことがわかる。
【平成という病】
この本は131回の連載コラムが再掲されていると書いたが、この後に「平成という病」と名付けられたエッセイが置かれている。このコラムが著者の独白のようで平成という時代が個人的にどのようなものとして位置付けられているのかを語ったものである。
東浩紀は1971年生まれで、自分とほぼ同世代である。著者は自らを平成の批評家であり、令和の時代においてはもはや新しく社会の流れを作っていくような仕事をすることはないだろうと語る。そして、その身を捧げた時代である平成のことが好きではないという。
「かつて日本には未来があった。平成の三十年は、祭りを繰り返し、その未来を潰した三十年だった」というのが著者による平成の総括である。確かに経済的にはその通りであったし、政治的にも一時の政権交代があったものの祭りとして過ぎた後に自民党政権は盤石のものとなった。
平成という三十年の時代は同じく自分にとっても人生の中での重要な時期を概ね占めている。昭和が高校生までで実家にいた時代で、平成になって独り暮らしを始めて、社会人となって家族も持って子供も生まれた。世界の中で日本は第二位の経済大国であり、優れた車や家電製品を世界中に輸出していた。電子立国とも言われていたその時代に、自分も少し高揚した気分で電子工学科を選んだことを思い出す。
【忘却にあらがう】
タイトルの『忘却にあらがう』は、第一回目のコラムで使われた言葉だ。忘却にあらがうことを、言い換えれば著者は「「意味」を探る力」であるとする。
著者はいずれのコラムでもその短い文章の中に、自分でよく考えるべきだ、というメッセージを出していたように思う。一方で、そこにある種の諦めも感じ取れてしまう。著者は平成を不毛な時代と断じ、その時代に共振して不毛な人生を過ごしてしまった人も多かったのではないかと書いている。著者として、この諦観は、もはや積極的に選択されるべき諦めであるのかもしれない。それでもなお、この本のタイトルを『忘却にあらがう』としたように、僕たちは「意味」を探っていくことは忘れないようにしたいと思うのだ。 -
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この本の中では東浩紀さんがずっと展開してきた「誤配」という言葉について何度も語られている。まさに私も東浩紀、そしてゲンロンに出会ったこと自体が「誤配」の結果であり、そこから多くの影響を受けているということを読みながら改めて実感した。震災後の福島について、人文知的アプローチをしているところを探していたらゲンロンに出会い、よく分からないままゲンロンカフェに行って小松理虔さんの出版イベントに参加した。東さんや飛び込みで津田さんなどがいて熱く語り、観客もまた熱心に聞く、物凄い熱量の空間であった。まさに私もあの場で「知の観客」となっていた。しかし、ゲンロンがそこに至るまで、そしてそれ以降、裏では大変なことになっていたというのが本を読んで初めて分かった。2018年末、東浩紀さんのツイートがネガティブでゴタゴタしている感じを見ていたくなくてゲンロンから離れてしまったが、実はえらいことになっていたのだった。これはまさに「戦記」と呼ぶにふさわしい内容。
しかし、ゲンロンがどんな想いで作られ、守られてきたのかがわかり、そして会社をやるというのがどういうことかも生々しく知ることができる本だった。 -
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ルソーによると、一般意志とは国人の意思の集合体である共同体意思のことを指す。したがって市民はこの一般意志に従わなければならない。ただし政府は一般意志を執行するための"代理機関"にすぎないため、市民は政府に服従しなければならないわけではなく、むしろ革命権を肯定している点はホッブズと異なる考え方。
現代社会において一般意志とは何か考えてみるとまず思いつくのは世論あたりになるが、これとは全く性質が異なる。なぜならルソーは一般意志について「一般意志はつねに正しく、つねに公共の利益に向かう」と述べているからだ。世論は、みんなの意思だがしばしば誤ることがある全体意志に該当することになる。
このように一般意志は人間の秩序(コミュニケーションの秩序)ではなくモノの秩序(数学の秩序)に属するため、必ずしも共同体の成員の合意は必要ではない。つまり政治にコミュニケーションは不要という奇妙な結論が導かれることになる。
コミュニケーションこの概念は常識的な意味での「政治」や「意志」からかけ離れているといえるが、現代の文脈においてGoogleのビックデータやSNS発信といった、膨大なデータ蓄積が進んだ現代社会に通じる点があり、もはやこのようなプラットフォーム上では個々人の思いを超えた無意識の欲望パターンの抽出が可能になっている(→データベース、集合知)本書では一般意志の概念全体を「一般意志」とした時、ルソーのテキストを総記録社会の現実の照らして捉え直し、それをアップデートして得られた概念を「一般意志2・0」と定義している。 -
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ゲンロンの経営者としての東浩紀の試行錯誤を記した本。あとがきで東はもともと「とてもややこしい現代思想の世界を専門としていた」が「専門書ではなにも伝わらないし、なにも変わらないと感じるようにもなっている。哲学は生きられねばならない。」と書いている。うーんそうなんすかね、まあそうなんだろうな。ただ別のなにかのインタビューで、専門書を読めば俺は専門書を読めるし実際すでにほとんど読んだぞと自信に繋がって、その手のコンプレックスを抱かなくなると答えていた。亀の甲より年の功てきなことかもしれないけど、それでも専門書を読む意味が消えることはないんだろう。
仲間を集めたいという動機で始めたゲンロンだったけど、その欲望自体が弱点でさまざまな失敗を繰り返した結果「ぼくみたいじゃないやつ」と一緒にやっていくことを決意する。「ぼくみたいなやつ」がどこにもいないことの孤独を受け入れて、「それでいい」的な態度で哲学を続けるーー。
これは批評空間と対比関係にあるものとしての「社会」に出て、実践的な経験を積んできたからこそ得られた経験則によるものが大きいんだろうけど、なるほどなあと思った。
そのあとで、「信者=アンチ」関係から脱却するためにゲンロンは株式会社でありビジネスであることに拘ったと記している。貨幣と商品の等価交換こそが友と敵の分割を壊す。質のよい商品を提供すれば関心をもってくれるし、そうでなければ観客は離れていくーーこの一見冷淡にみえる態度こそがコンテンツのクオリティを高く維持するための鍵となる。
これもなるほど! ですね。質を高く保つために緊張感を感じながらやっていくには「信者」とか「アンチ」とか、「仲間」とか「敵」とかそういうところからは離れなければいけない。
まあ、そうなんでしょうねえ…。 -
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・20世紀が戦争の時代であったなら、21世紀は観光の時代になるかもしれない。そのため、哲学は観光について考えるべきである。
・観光とは何か
ー「楽しみのための旅行であり、報酬を得る活動をせず、日常の生活圏から脱出し、滞在すること」だったが、それが生まれたのは大衆文化と消費社会の誕生が背景にある。新しい交通と新しい産業が生み出した新しい生活様式と結びついた行為であり、古い既得権益層と衝突する行為でもあった。
ー日本の観光学は実学的であり、「楽しみのための旅行」という定義だけでは、何も思考を促してくれない。
ー他の国は観光を表層的なものとしてしか捉えておらず、観光の本質については議論していない。それが1990年代の「観光のまなざし」で変わる。
観光の起源は大衆観光であり、人々に余暇という時間概念の誕生に付随して生まれた。
素朴な土地→観光客の発見→経済的利益の追求→素朴さの破壊
ではなく
あらかじめ、観光客の視点を内面化して町並みやコミュニティが形成されるように変わってしまったのではないか
→テーマパーク化、メタ視点
必要性と不必要性
観光客はふわふわと移動する(偶然性)、たまたま出会ったモノに惹かれ、たまたま出会った人と交流をもつ。
→観光客の限界と可能性(第4章)
観光客は現実の二次創作者である。
ー世の中に溢れている観光プログラムの多くが2次創作物。でも、1次創作を大切にしなければならない。オリジナル。
・観光客と住民の対立は観光が大衆化された19世紀から存在している。
ートマスクックの肖像
・自分の中での観光の概念(自己分析)
・ヴォルテールによると「観光客はまちがいに気づく」。(not最善説)カントによると「観光客は永遠平和を設立する」。
・観光客から考えられる人間の定義は何か?21世紀の考え方では時代遅れ。
・労働を強いられているものは生物学的には人間であるが、精神的には人間ではない。人間は欲望に沿って生きていくべきである。
・ナショナリズム(政治、公)とグローバリズム(経済、私、市民社会)の対立
ー観光がこれを解決することができるのでは。公共と普遍につながる回路を探ること。
・政府の議論はネーション単位だが、経済の議論、市民の欲望は国境を越えて繋がりあってる。
・現代は上記の思想が共存する2層構造の時代。
・規律と管理は同時に作動しうる(本: 帝国)
・郵便的マルチチュード
ーマルチチュード: 現在のグローバル的な主権と資本主義の支配下にいる全ての人々。消費、群衆。
ー郵便的: 誤配(予期せぬコミュなど)を多く含む状態。
・つまり、群衆で消費をする観光客は旅先で様々なものに出会う。
・誤配は観光では否定的な経験ではない。
・否定神学的マルチチュードの限界は、連帯が存在しないことで存在するとされていたが、郵便的マルチチュードでは、絶えず連帯が失敗することで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するように見えること。
・ネットワーク理論、スモールワールド性、スケールフリー性
ーつなぎかえ、近道、成長、優先的選択
・21世紀の抵抗は、帝国と国民国家の隙間から生まれる。つまり、誤配を演じなおすことを企てる。出会うはずのない人と出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずないことを考える。
・21世紀の新たな連帯は、誤配の再上演(観光客の原理)から始まる。
・人間が社会を作るのは憐れみから。
・観光客が拠り所にすべきアイデンティティは家族である。
・家族の強制性と偶然性と拡張性。
まとめ
・ぼくたちは世界に対して親が子に接するように接するべきだ。
ーコミュニタリアン(ナショナリズム)でもなくリバタリアン(グローバリズム)でもなく、家族的類似性に基づき、新生児に接するように他者と接するべき。
・子として死ぬだけでなく、親としても生きろ。生物学的だけでなく、象徴的、文化的なものも存在する。
ー親であるとは、誤配を起こし、偶然の子供たちに囲まれるから。
ーすでにある環境だけでなく、リバタリアンのように信じた道を進みつつも、偶然なる出会い(誤配)を大切にする。 -
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ネタバレ東浩紀が師匠の石田英敬の構想をきく形で行われたゲンロン・カフェでの対談講義を書籍にしたもの。最新の知見にもとづいて、「記号論」を構想しなおしており、知的にとても刺激をうける。
特に、脳とメディアの関係性は、自分の問題意識とあっている。
一方、橘玲がかなり否定的に書いているフッサールやフロイトを肯定しているので、考えさせられる。
第1講義 記号論と脳科学
・歴史的には、バロック記号論(ロックとライプニッツ)から現代記号論(パースとソシュール)を経て情報記号論に
・フォトグラフ(光)、フォノグラフ(音声)、シネマトグラフ(運動)のグラフは「書く」ということであり、記号として通底
・ヒトはみな同じ文字を書いている!
・自然と見分ける脳の領域を転用して文字を見分けるようになったという「ニューロンリサイクル仮説」
第2講義 フロイトへの回帰
・フロイトの治療の効果は否定されているが、彼のイメージした「心の装置」は「不思議のメモ帳」をアナロジーとしており、有効
・さらにフロイトの「心の装置」とソシュールの「言語の装置」を対比させることで、無意識に視覚(物表象)が、意識に聴覚(語表象)が対応することが明らかにされる
第3講義 書き込みの体制2000
4つの追伸 ハイパーコントロール社会について -
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改めて読み直した。素晴らしい哲学書は何度読んでも読み応えがあるし、新たな発見があるなと再認識した。
この本ほど大量の哲学者たちの引用&要約されているものはあまり読んだことがなく(特に要約力が高すぎる)、その圧倒的な読みやすさからも、この本自体があたかも哲学への観光のようだった。
再読した現在、BlackLivesMatterデモが加速していて、なんでこんな地獄みたいな社会になったのだろうか、とぼんやりだけど切実なガッカリ感が自分の中にあったが、この本はそのガッカリ感に言葉をくれた気がする(直接的な主題ではないが)。
とにかく素晴らしい本でした。内容はもちろん、読み物として素晴らしい。 -
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緊急事態宣言が発せられた最初の土曜日。予定がキャンセルで引きこもり状態なったので、よし、積読解消モードだ!ということで2017年に毎日出版文化賞でチェックしていた本書を開きました。たぶん出版後すぐ読んでも受け取れることの多い読書になったはずですが、3年後このタイミングで読んだからこそ、の浸み込み度が大きかったと思います。今回のパンデミックによってデリケートなバランスで成立していたグローバルとナショナルの関係が崩れていく予感がしますが(同じ土曜日夜のETV特集でも世界の識者がそこ指摘してました…)、そのグローバリズムとナショナリズムの二層構造に分裂してしまった(それは今回のことだけではなくトランプ勝利やBREXITで顕在化はされていた)世界に対する哲学を創出しようという挑戦のプレゼンテーションでした。哲学というと難しいイメージがありますが作者の使う言葉は極めて明快で分かりやすく、分かりやすいキーワードで経済でも政治でもできない哲学ならではの現実世界へのコミットを指し示しています。そのキーワードは「観光客」。グローバルな仕組みとナショナルな社会を楽しみのために行き来する回路をそう呼んでいます。それはアントニオ・ネグリ、マイケル・ハートの「マルチチュード」という概念をベースに、作者が20年前から使っている「郵便」という概念でアップデートしたもの。「観光客」=「郵便的マルチチュード」なのですが、こうやってメモしているとなんのこっちゃ?ですよね。でも、読むとするする分かるのです。今回の災厄に対する危機感が難解な言説も本能的にわかるように鳴っているのかな?時々、東浩紀は読んできたのですが今回が一番するする浸み込んだ感じです。