東浩紀のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
対談の起し本だが、大塚氏と東氏とのやりとりの臨場感が、ものすごい迫力を持って感じられ、引き込まれるように読んだ。
サブタイトルの「おたく/オタクはどう生きるか」の「おたく」と「オタク」は、大塚氏と東氏の暗喩であろうか。
両氏の差異が鮮明に現れるのは、書き手(知識人)として、公共性というものに対してにどう向き合っているか、という点であり、大塚氏が自身の文章や発言が公共に対して影響を与えることに自覚的である種の責任を追うべきと考えるのに対して、東氏は公共に対する影響は認めつつもそのような責任は追いきれるものではないとする。
公共に対する東氏の考えは自分自身の感覚としても理解できるが、最後のと -
Posted by ブクログ
⭐️要約⭐️
「今と昔では、何を欲望して生きているのかが違う」というお話。
昔は、「いい大学→いい会社→結婚→幸せな家庭」のように、社会全体で共有された「大きな物語」があった。だから人は、「自分は何を目指して生きるべきか」を、その物語に当てはめて考えることができた。
ところが現代では、そうした共通の人生の目標が弱くなった。「別に会社員にならなくてもいいし、結婚しなくてもいい。自分の好きなように生きればいい」。これは自由になったとも言える。
しかし、その代わりに「じゃあ、自分は何を目指せばいいの?」という問いが現れる。
そこで現代人は、壮大な人生の意味よりも、「自分が今欲しいもの」を満た -
Posted by ブクログ
久々にYU-NOとか思い出した。
哲学的な要素は難しい部分もあるものの、具体的な例が沢山あり、なんとなく分かったような気になれる。
2001年頃の本なので、現在はどうか、というのを考えながら読んだ。より動物化が進んだ所が多いような気がしている。よりインスタントに得られるものが多くなっているというか。
ギャルゲーの主人公は色んな女性を落とすけど、分岐によりそれぞれで純愛をするので、主人公のキャラとしては浮気者ではなく一途なキャラになりがち、という違和感、はあまり感じてなかったのでなるほどと思った。
これがラブコメ漫画だと、一つの物語になるので、主人公のキャラ付けが大事になる(叩かれがち)が、ギ -
Posted by ブクログ
論破を目的としたディベートと議論は似て非なるもの。
議論が成立するためには、自分も相手も意見は変わるものという認識が必要。
訂正とは、自分に都合よく現実を見ることではない。
現実を直視して、少しずつ変化させながら続けていく。
すべてが交換できる世界(その場が嫌ならば転職や転校をすればいい)というのは、人を自由にしてくれる。最近は、この交換可能性を高めることが善として語られることが多い。でも肝心の自分の心身は交換できない。環境を交換しただけでは対応できないケースが起きたとき、本当に自分を自由にしてくれるのは「訂正する力」だ。
物事を単純に友と敵に二分して対立するのではなく、両儀的に考える。両者 -
Posted by ブクログ
三宅香帆さんのYouTubeから
本書は「批評」とはいかなるものかという文脈の中で紹介された一冊で、三宅香帆さんが影響を受けた批評家として名前を挙げられた東浩紀さんの代表作とのことだったように思う
2001年に発刊され、当時の西郷隆盛違うわ!テクニカルな間違え方すな!隆盛(りゅうせい)を誇ったオタク文化についての論評である
そして今読んでもぜんぜん古さを感じないという評価をよく耳にするが、いやめちゃくちゃ古いやないかい!っていう
懐かしさしか感じないわ!っていうね
待て
待て待て
分かってます
そういう表面的なことじゃなくてね
出てくる作品がうわー懐かしーっていうような表面的な話じゃなく -
Posted by ブクログ
過去の間違いを認め、正しく訂正していくことが大切。そういう話かと思ったが、もう少し深い話でした。
この本では、間違いをただ訂正するだけではなく過去との整合性を保ちながら訂正していく力が大切だと言っています。
また、興味深い言葉として、「反証可能性と訂正可能性」がでてきました。
「反証可能性」は現在正しいとされているものは常に反証される可能性にさらされ、反証されるまでは暫定的に正しいものとして扱われるという自然科学の考え方です。
一方で作者の述べる「訂正可能性」は、一度反証された論を打ち消さないという点で反証可能性とは異なっているというのです。
この反証可能性と訂正可能性という考え方は今まで自分