あらすじ
日本にいま必要なのは「訂正する力」です。保守とリベラルの対話にも、成熟した国のあり方や老いを肯定するためにも、さらにはビジネスにおける組織論、日本の思想や歴史理解にも、あらゆる局面で「訂正」は大きな「力」になります。人が生きることにとって必要な哲学を実践的に示した決定版です。
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Posted by ブクログ
昨年、『訂正可能性の哲学』(ゲンロン)と立て続けに発売されていて気になっていた、東浩紀さんの「訂正」シリーズ。どちらから読もうかと迷った結果、新書のこちらの本から手に取ってみました。
「訂正する力」とは何か?
読み進めてみると、「聞く力である」「続く力である」「老いる力である」とたくさん出てきます。どうやら一言で説明するのが難しそうな力です。
「この状況認識は「脱構築」に似ている」とあり、千葉雅也『現代思想入門』でジャック・デリダの脱構築という考え方もおさらいしながら読み進めていくと、一気に理解が進みました。
「脱構築」とは、何か対立する場面において、自分が安定していたいという思いに介入して、他者の考え方にも開いて対立を乗り越えていこうとする考え方。
要するに、「訂正する力」はデリダの「脱構築」をより現代の私たち日本人に伝わりやすいように東浩紀さんがアップデートしてくれたもので、さらに対立を乗り越えるだけでなく、それを持続させていこうというときに、状況に合わせて訂正し続けることがその解決策になるのだ、と理解しました。
そして、東浩紀さんは私たち日本人こそが訂正が得意なんだと訴えかけています。
「ぼくはなぜか、いまの世界には考えるひとがあまりにも少なく、それはまずいと感じてしまった。みなが「考えないで成功する」ための方法ばかりを求める国は、いつか破滅すると感じてしまった。そう危機感を抱いたこともまた、本書執筆のきっかけのひとつです。」
最後のこのメッセージは刺さりました。
AIが躍動する便利な世の中だからこそ、しっかり学び考える力を養わないと!
続いて『訂正可能性の哲学』に進みます
Posted by ブクログ
人は過去の過ちを認められなかったり、自分が正しいと思い込んでしまいがち。間違いを認めたり、謝罪したり、考えを変えたりすることは悪として、日常の出来事から政治・社会問題まで軌道修正ができないことは往々としてあること。思想・イデオロギー先行の分断社会だからこそ、今一度立ち止まって、何をもって正しいことなのか訂正可能性を踏まえながら物事を考えることがAI時代の現代において不可欠となる。
Posted by ブクログ
あまりにも誤りが許されない(風潮にあると感じられる)のが辛いと日常感じていた時に、本書を手にした。この本は「訂正する力」を提言している。大事なのは「ぶれない」「リセット」の上手いバランスをとること。過去を訂正することなんてざらにあるわけで「じつは・・・だった」にあふれている。過去の解釈を変えて現在に適用することは別におかしな話じゃない。
作興、特に SNS では一度でも誤るとものすごい非難が来る。そのためにそもそも誤らないように行動することになる。生きづらい、訂正することが許されないし、訂正する余地がないとも言える。つまり過去言ったことにしばられることになる。SNSの過去の言動を切り出して言ってること違うよ、というのは一定正しいけど、それが過剰になると非常につらい。それでずっと責められる。だいたい10年20年経てば意見が変わるだろうに。やはり「ブレない」と「リセット」のバランスを見て、なんとなくうまい具合に判断することが大事なんじゃないかと思う。0と1で何でも白黒つけるなんて厳しすぎる。
Posted by ブクログ
面白かった。
訂正可能性と交換可能性を行き来することが重要だと言っていて、なるほどなと思う一方どのような場面で訂正が必要になるかはもう少し考えたいなと思った。
クリプキのクワス算の話で、「クワス算をやってたんだよ」という人は必ず出てくる。
その場合、その異端者を出禁にするか、ルールを変えるか、運用を変えるかの選択を迫られる。出禁にする=交換の世界。ルールを変える=訂正の世界。
多様性の時代だし訂正は大事だと頭ではわかってる一方で、
自分の想定外のものにルールを合わせるのって相当柔軟な思考が求められると思う。
まだまだ未熟なんだろうなとおもった。
Posted by ブクログ
訂正できる力を身につけたいと思った。
1つの考え方に固執するのでなく、訂正して柔軟で平和に暮らせるように。
AIが台頭する時代には、人の作家性、この人でなければという部分がより重要視されるという部分も響いた。
Posted by ブクログ
一貫性を持ちながら変わっていくことを「訂正する」と定義して、さまざまな面からの考察を試みたユニークな本だ.この定義をさらに敷衍して、訂正する力とは、過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え現実に合わせて変化する力 と述べている.保守勢力もリベラル派も、過去に出した論説を変えることに躊躇しているのは事実だ.戦後の日本は、経済復興や国際復帰を達成するために、平和国家という物語をつくった.それを訂正する時期に来ているという主張はうなずけるものがある.
Posted by ブクログ
平易で、すらすらと読めてしまうが今一度見つめ直すべき視点が書かれた本だった。
それは昨今の善悪や属性をはっきりさせる風潮における軋轢や対立を止め、互いに訂正しつつゆるやかに共存させていくような力で、このような力こそこれからの世の中には必要不可欠だと感じた。
Posted by ブクログ
訂正する力ってなんだろうと思い読んでみた
実は、、だったんだってそういえばそうだなと歴史を振り返ってみるとそう思うし実際そうして歴史は語られてきていると実感した
自分を振り返ってみて実は、、だったんだってどんな時にそうなんだろうって思うと過去の失敗とか振り返る時、前に進む時とかに考えてるかもとか思ったり
喧騒が必要って本当
良い視点に気づけた本でした
Posted by ブクログ
別の本だが、えげつないが的を射た表現があって、それをキッカケにレビューを書き始めてみたい。ー 「人間とは黒のインクに発情する生き物」
これはなんだと思ったが、つまりこれは、例えば官能小説はただの記号の連なりだが、人間の生理に確実に侵食してくるし、ただのインクの曲線的図形が卑猥にも妖艶にも見える事もあろう。
こうした学習した記憶が身体反応に直結するという現象は人間のみに見られるのだという。例えば、フェロモンはリモートでは感じ得ないはずだが、人間が映像からそれを感受するのは、視覚が経験を呼び覚ますからだ。ネット環境でリアルな知り合いではない相手の性別はジェンダーレスで本来良いはずだが、相手の性差を意識することは避けられないのではないだろうか。
この身体性こそ、意味を理解するのに重要なことだということは「思い出せてスッキリした感覚。謎解きできて晴れやかな気分」という経験からも、それこそ体感的に理解しやすい。
東浩紀はこの「身体性」にまでは言及していないが、似たような表現として「作家性」という言葉を選んでいる。
ー 良質なコンテンツが安価で無限につくられてしまうAI社会においては、あらためて本体と付加情報のずれが問われてくると思うのです。要は、作家性がますます大事になってくるということです。ここまで本書を読んできたかたはおわかりのとおり、これもまた訂正する力と関係しています。作家性を支えるのは、まさに「じつは・・・だった」という発見の感覚だからです。ぼくはさきほど、それを固有名における定義の変更の問題として説明しました。目のまえに、稚拙な子どもの絵がずらりと並んでいたとする。「ふーん」と無関心でいたところに、ある絵を指して「これはあなたのお子さんが描いたんですよ」と言われる。そうすると、突然すごくいい絵に見えてくる。だれしもそういう経験はあると思いますが、まさにそれこそが訂正の行為であり、作家性の感覚の萌芽です。
人間には「じつは・・・だった」の発見があり、真実という観念自体が言葉のなかの意味付けでしかない以上、いまの状況に合わせて再解釈をするために「訂正」する事が求められる。
支持政党も歴史認識も誰かの評価も、あなた自身のアイデンティティも社会的価値観も、何かのランキングも、一旦、共同作業のために「認識共有」して目的を果たしたなら、その後は訂正していけば良い。少なくとも人間は、文字列からイメージをデコードしてフェロモンまで感じ取ってしまうほど観念(意味)世界に生きているのだから、その意味を訂正することは、我々には、世界を作り変えるほど重要なはずだ。
またAI時代に大切なのは、その観念世界の住人として、生々しい身体性と連続性をブランドのように相手に認識してもらうことだ。その互いの身体を己に取り込む拡張・所有可能性こそ、人間存在の証明になっていくのかも知れない。
つまり、キャラを訂正しながらも同じ人物として持続でき認知され得ること。この「持続した非一貫性」というのは、「同じ身体のアドミンとしての同一性」に対し「認知の訂正による日々のアップデート」によってのみ実現する。これがAIには無理、いや、実は、擬人化されたAIにはできてしまうという人間側のバグがあるのだが。
Posted by ブクログ
白黒はっきりつけすぎじゃない?
考え変わったらそれを受け止めようよ(過去をひっくり返すのはどうなのよ)
って話。視点が新しく感じれて面白かった
Posted by ブクログ
暫定的に最も正しい答えを有する自然科学と異なり、人文系の学問はつねに新たな視点から再解釈(=訂正)することを目指す。
それが常に古典を研究し続けられる理由である。
人文系の学問が何をやっているのかということについて、自分の学生自体に説明をつけられた気がしてよかった。
Posted by ブクログ
変わること、持続する力。併存を認め変わっていくこと、凝り固まらないこと。この柔軟さが未来を作ることもあること。自分で自分を縛り上げないこと。取り替えのきかない「固有性」を持つこと。かわいげ。意味のない二項対立は幼稚。
Posted by ブクログ
明確な正解がない時代において、0 か1の極論に固執するだけでは前に進めない。だからこそ、今この「訂正する」が大事だと感じました。
これは過去をバッサリ切り捨てることでなく、過去との一貫性の中で、現実に合わせて過去の解釈も含めて変化させていくこと。
日本の未来だけでなく、我々個人にとっても、課題を乗り越え、これからの時代を生き抜いていくために必要なスキルだと思いました。
Posted by ブクログ
新書なので平易な文章でまとめてくれはいるが、それでもその思想の深淵には踏み込めないもどかしさがある。微妙なニュアンスで差異が生じる「歴史修正主義」と「訂正する力」の明確な区別が自分の中で説明しきれていない。
「組織・組合」の重要性を説いているのが新鮮であった。このご時世、人間関係がどんどん希薄になっているという常識の反面、一部のコミケや独特なサークルなんかは今も活動盛んなのかもとか考える。そのような組織で「余剰な情報」を相互提供しあえる関係性って、「私」というアイデンティティが育まれ人生が豊かになりそうー。
ともあれ、ポストモダンの脱構築にも通ずる点も感じるし、自分ごとに引き戻してみると二項対立に陥ることの危険性は常々意識して生きていきたいと胸に刻むのです。
ゲンロンの著者個人的な体験からの気づきなどエピソードも充実しており、思弁的な論に偏ることもなく読み通すには難を感じないと思われる。
気になっている思想家の一人なので、今後もどんどん訂正する力を発揮した活動が楽しみである。
Posted by ブクログ
ひとまず読み終わった。また土日にまとめようかと思うけど、色々とターニングポイントに立っている自分にとっては面白い本だったな。ただ政治色が後半強いのでちゃんと身構えながら読まないと混乱した。
Posted by ブクログ
序盤はあまり響かなかったが、中盤は読み応えがあった。終盤は混沌として少し不漁。シンプルで壮大な読みを提示しているようで、そりゃそうだ、と思えてもしまうあたりまえさもあり、浅いのか深いのかよく分からない。けど、立場や間合いは参考になる。オリジナルな個性の確立の仕方は、リスクをとって進む事なのかな。たくましい。
Posted by ブクログ
東浩紀さんの「訂正可能性の哲学」の直後に出版された語りおろし本。
聞き手および構成を近現代史研究家の辻田真佐憲さんが担当。東さんのコラム集的な性格を持ちながらも、各章には「本章のまとめ」が付され、「訂正可能性の哲学」と執筆時期が重なっていることから、その補助線としての役割も果たしています。
また、戦後日本の平和を「政治の欠如」と断言した点は、憲法第9条とともに硬直化している平和主義に一石を投じる可能性がある(そうなってほしい)。ちなみに本書で東さんは「軍備増強と平和外交は矛盾しない(平和のために軍備増強すべし)」という立場を明確にしており、日本のビジョンについての彼の考えを読める点でも一読の価値があります。
「訂正可能性」という概念は、ビジネスの文脈では「ピボット(PIVOT)」、IT分野では「PMF(Product Market Fit)」、あるいは「PDCAサイクルのAction(カイゼン)」と類似した概念といえる。自己都合による「(歴史)修正主義」との違いは本書で丁寧に説明されていますが、要するに新たな視点から得られた気づきをもとに、時には誤りを認め謝罪しながら、より高次の段階へと止揚(アウフヘーベン)していこうという考え方です。
議論好きなオッサンは「うるさがた」「老害」などと揶揄され、若者から敬遠されがちですが、東浩紀さんは「くまのプーさん」のような外見もあって、「愛されキャラ」が確立されている。東さんの「愛されキャラ」を支える重要な要素が「訂正可能性の哲学」ではないかと思った。思えば、ReHacQ(リハック)の高橋弘樹さん(こちらはパンダだね)も東浩紀さんと似た印象がある。両者とも大御所でありながら、祀(まつ)られることなく若者からも慕われ、多様な人々のハブの役割を果たし続けている。そういえば、ふたりは容姿の印象だけでなく「ヒロキ」という名前も共通してすね。今後も注目したいおふたりだなぁ。
Posted by ブクログ
面白くて一気読み。
(一読なので色々読み落としてるかもしれない)
まえがきから大変面白い。
印象的だったのはポリコレの"C"にcorrectingという動名詞を充てたこと。またゲンロンの動画配信という対話/おしゃべりの持つ効用は、自分もPodcastを日頃聞いてて感じるもので、納得感があった。
個別の議論については (自分はリベラル気味なので) ところどころ首を傾げる部分もあったが、地に足のついた中庸なスタンスで信頼に基づく豊かな議論を展開しようとする姿勢に最も共感を覚えた。
Posted by ブクログ
訂正する力という観点で社会課題に切り込んでいくのが面白い。
政治、メディアのあり方などよくよく考えてみると非を認めない、変わってはいけない、貫き通さなくては。という姿勢が停滞を生んでいる。
テーマ自体は政治など非常に大きいところを扱っているが、私自身も変化に対応しながら訂正できる人でいたい。
Posted by ブクログ
著者の訂正する力の定義。
過去との一貫性を主張しながら過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力の事。
自分の形を変えて行く力。
繋ぎ直す力。
Posted by ブクログ
東浩紀の本は「動物化するポストモダン」「一般意志2.0」「弱いつながり」「ゲンロン戦記」など面白く読んでいて、今回久々に手にとった本。新書なので内容は入門編で、わかりやすい語り口。語り下ろしなので余計にスラスラと読める。訂正力高めていきましょう。
Posted by ブクログ
変化が激しく、ちょっと目を離すと善悪が反転していく世の中で、矛盾なく生きていくことは不可能でそのために訂正し続ける力が必要となる。といった表面的な題材は分かったが、中身が難しすぎて、本質は理解できていないと思う。また、いろんな本を読んで再読したい。
Posted by ブクログ
2025/08/9
第二章 じつは‥‥‥だったのダイナミズム が良かった。未来の可能性は過去の訂正によって開かれる。文系不要論に悲しくなることがあったが、東さんの言葉に少し安心した。
Posted by ブクログ
現代日本に必要なのは、一貫性をもちながら変わっていくこと。これを「訂正する力」と名付けて、色々と論じた本。1章は現代日本の問題点をうまく言語化していて良かった。でも、2章以降は観念的な話になっていって、イマイチよく分からなかった。
第1章で、日本で訂正する力が働かないのは、「ぶれないこと」をアイデンティティにしている勢力がいて、議論が硬直し、社会の停滞を招いているから。その背景は、日本人は対話において信頼関係を築く訓練を受けておらず、いたずらに意見を変えると攻撃の対象になるかもしれないという不安を強く抱えているから。
これは現代日本SNSの状況なんかを、よく現している気がする。
でも、それに対して本書で示される処方箋は、どう実現性があるのか、私の頭では理解し切れなかった。著者がインテリなのは分かったけど、もうちょっと一般人のレベルに降りてきて話してもらいたく。。。
なお、本書の趣旨とは全然違うけど、仕事をしていると、何か間違えたり失敗したりしても、「上手くいかなかった理由を分析して、プロセスを改善して次に活かそう」とか、「状況が変わったので、現状に合わせて以前とは違う判断をする」みたいなのは普通にある。だから、難しいことをごちゃごちゃ考える前に、結果が求められる現場で働けば良いのだ。(違
Posted by ブクログ
変化を変化として許容するが、根本は変わったと思わせない。根っこでは一貫性を保ち続ける。この姿勢が何よりも大事だというのが、私がこの本から抽出するべきいちばんのエッセンスだと感じた。日本は様々な外からの文化を受け入れて、日本なりに「訂正」して文化を育んできた。訂正する力の土壌は十分にあるから、この力を取り戻し、日本は復活を遂げてほしい。
Posted by ブクログ
自分の価値観、視点、過ごしてきた人生で得た経験値を「訂正する力」を活用することで、過去・現在・未来に至るまでの今生きている自分の考え方を柔軟に世の中を俯瞰できるようになるという内容である。
人間、一人が得られる価値観や視点には限界がある。人との共生のなかで、様々な価値観や考え方を知り、柔軟に自分の人生に取り入れていくことが必要と説く。
本著でも示唆されているが、論破や対話拒否とは違う捉え方であり、議論を通して喧騒あれど、その対話のやり取りは生産性があるとしている。
この本が伝えたい内容は、個人間の話では留まらず、これから、日本は移民が増え、都市開発や都市形態も変容が進み、政治も変わり、社会全体が変わることを慎重にかつ訂正しながら進むことだろう。そこには生産的でありながらも時代に合わせた適応していく姿勢が個人や社会全体への変化と変わらない変化を共生する世の中を私たちが築くことになるだろう。
Posted by ブクログ
SNSが普及し情報社会となり、いつまでも過去の発言が残り続けることで、発言を撤回、訂正しづらい時代ではあるが、訂正すべきことがあれば勇気を持って訂正したり、交換することが必要だと学ぶことができた。
Posted by ブクログ
本書は語り下ろし形式のためか全体として大づかみな印象を受ける一方、約1時間程度で読める手頃な新書として、非常に読みやすい一冊だった。本書は、タイトルにもある通り「訂正可能性の哲学」とでも呼べるような、新たな思考の枠組みを提唱する意欲作である。
「訂正する力」とは、過去の自らの過ちや誤解を、後から「実はこうだったのではないか」として捉え直し、訂正していく態度を指している。これは一見、科学における「反証可能性」にも通じるが、東の立場はより信念的で実存的な色合いを帯びている。すなわち、「その時には正しいと信じていたことを、後から素直に訂正すること」にこそ価値を見出す姿勢である。信じる力と訂正する力が共存することの重要性が強調されていたように思う。
また本書では、「理論」「自治」「実存」という三つの領域を横断しながら、「訂正する力」の可能性が論じられている。この三領域の統合的視座は、著者自身も重視しており、個人的にも非常に共感を覚えた部分である。
主に政治を主眼に据えた本書の切り口とは異なるが、訂正がもつ意外性の発見という視点は心理学的にみても興味深い。人間は予想に反する出来事に対してシナプスの結合が強化されやすいという神経学的知見に照らしてみても、「実は〜でした」といった訂正の表明には、意外性や再解釈といった要素が加わることで、認知的にも強いインパクトを与える。こうした語り口は、自己物語の再構築や、面接における応答といった実生活の場面においても、有効な表現技法として機能し得るのではないかと思わされた。
実際、就職活動のような場面では、思ってもみないことを口にしてしまい、後から「訂正したい」と感じる経験は多くの人にあるだろう。そうした実存的な語りの事故すらも、この「訂正する力」によって回収し、意味づけ直すことができるのではないだろうか。本書の枠組みを用いて、「語りの訂正可能性」についてもさらに射程を広げていくことができれば、より実践的な視座としても今後面白い展開が期待できるのではなかろうか。