東浩紀のレビュー一覧
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クリプキのある種詭弁ともいえるような議論から「家族とは訂正可能性の共同体だ」(p88)と驚くべき議論が展開されていく。そして、AI・ビッグデータのような技術で人間社会のリセット(いってみれば完全最適化)はできないと説き、「私」という固有性の感覚に直面しない思想は「欠陥」(p258)と切り捨てる。
100%の民意や100%の正義、100%のテクノロジーはありえない。
『ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ』(p343)
アメリカ大統領選でトランプ氏の再選が現実味を帯びるなかで、そして日本でも、議論なき一方通行の政治・文化が展開されるなかで、ごく当たり前の、そして大変まっとうな主張だといえる。訂正することを認める。変わることに開かれる。そこからしか、我々は前に進めない。
ちなみに、訂正する「家族」として、日本の天皇制をイメージしてみた。あたらずとも遠からずではなかろうか。つまり「男性」一辺倒じゃなくてもいいだろう、と著者の議論を使えばそういう結論が導かれる。訂正していいだろう、と。日本の少しでもまともなエリート、言論人ならば、本書を手引としてもらいたいものだ。 -
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「動ポ」の頃の東さんのような文体と、まるで大学で講義を受けているかのような懇切丁寧な脚注。
文系軽視の日本社会を「人文学への信頼の失墜」と自己批判しつつ、著作によって回復させようとする試み。
当時は近しい考えを述べていた、と吐露しつつ徹底されている落合・成田(というか、人工知能民主主義への)批判。
ルソー人物伝から繰り出される社会契約論の再解釈。
常に誤り、訂正するのが民主主義であり、ひいては生きていくということであり、理解するのではなく変化させていくのが哲学の役割という明瞭な論旨。
なんの事前情報もなく、ふと東さんの最近の仕事を一気に読みたいと思って手に取ったのですが、コロナ禍以降の取り組みの集大成で、大変労作でした。 -
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久々ずしんと来た一冊。
ヴィットゲインシュタインの言語ゲーム、ハンナアーレントの公共の議論、ルソーの一般意志と『新エロイーズ』などなど、読み応え盛りだくさん。
「家族」って一言で言っても全然違うんちゃうか。
「公共」って何。
「民主主義」(人工知能民主主義)ってほんまに大事なとこどこなん。
この辺のすごく現代時に取ってこそばゆいところに上手く手を伸ばして深く掘り下げてくれる本。
笑いを取って笑顔にするには自虐ネタだけ繰り返したりツッコミだけでは限界があるから、やっぱりテンポとボケと間があってしゃべくりが続いていくことこそ醍醐味やなと、ごちゃごちゃした街中の中で育った(今も難波以南はごちゃごちゃしてるけど)大阪人の感覚に置き換えて最後の方は読んでた。
同時に読み進めていた土井善晴さんの『一汁一菜でよいという提案』も、まさに「訂正」の実践そのもの。
「訂正可能性」の考え方は、子供がごっこ遊びをどんどん変更させてルールをどんどん変更していく過程から料理から政治から全てに通じてるので、すごくしっくり来る。読んでいる読者自身にも共通して持ってる感覚ではないか。
「誤配」のその先へ、僕たちが生きていく荒野に不可欠な戦略のように思う。
一読する絶対に価値あり。
大学生ぐらいの本を読めるようになる時期に出会ってたら、人生変わるぐらいになるのでは。
それぐらい名著。 -
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「訂正する力」を読んだ上での「ゲンロン戦記」。この二冊が思索編と行動編のニコイチのセットであることがあまりに感動的でした。「観光客」とか「誤配」とか著者ならではのキーワードも決して理論の意味深なメタファーなのではなくゲンロンというリアルな模索から生まれたド直球の意味であることを知りました。なので「修正」ではなく「訂正」という最近の言葉の提案も非常に実感を伴ったものであるものとして受け取れました。学生の時からスポットライトを浴びてマスコミにも良く登場し大学でのポジションも確保できそうだった論客が、それを捨ててのビジネスでの七転八倒ヒストリー。考え違い、思惑の違いに翻弄され、自分の弱さから逃げ、やがて向き合う10年間の歴史の痛々しさは、まさに戦記です。その血が流れている感じがSNS論壇とか研究室論考とかと違う、強さを持っていることに繋がっているのでしょう。この「ゲンロン戦記」の結果生まれた「訂正する力」が先日発表された新書大賞2024で第二位になったのは大納得です。こんどこそ「訂正可能性の哲学」読まなきゃ!
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浅田彰が『構造と力』が「完全に過去のものとなった」と、お世辞とも本音ともつかないコメントを寄せた処女作『存在論的、郵便的』から25年、スタイルや力点は随分変化したかに見えるが、東哲学の集大成とされる本書は処女作で既に予告されていたようにも思う。「脱構築」から「訂正可能性」への進化は何を意味するだろうか。
人と人とのコミュニケーション、あるいはその前提となる共通理解はいかにして可能か。それは「誤配」であり、分かり合えるのは偶然に過ぎず、確実な根拠などないとデリダは言う。しかしともかく手紙は配達され、開封され、そして読まれる。「誤配」と判明しない限りコミュニケーションは何の問題もなく継続される。不思議と言えば不思議だが、まずはその事実を受入れるところから始めよう。こうした構えは郵便本に既に潜在していた。
ウィトゲンシュタイン的に言えば、言語ゲームのルールは記述され得ないが、事実としてゲームは遂行される。「家族」という概念も同じで、根拠はよくわからないがともかく人々に受け入れられるある種の関係性のメタファーだ。底の抜けた関係性であったとしても、そこからしかコミュニケーションも社会も始まらない。関係の自明性は常に不確実性にさらされる。でもだからこそ「訂正可能」であり、それを許容する開かれた態度が必要になる。これは未来の予定調和を暗に想定するポパーの「反証可能性」とは似て非なるものだ。「熟議」ではなく「喧噪」に民主主義の可能性を探るのも、冷たい合理性より素朴な実感の方がはるかに頼りになる、それが東が自らの社会実践から得た確信であるからだろう。
「脱構築」と言いながら、デリダがそうであったように浅田はあくまで「脱」に加担する。「逃走せよ!」と煽りつつ何処へ逃げるかを示さない。逃げる場所があると脳天気に信じる古典的左翼よりはましだが、浅田の意図がどうあれ、結局は負けを前提とした悪あがきのポーズを演じたに過ぎず、そういうものとしてニューアカデミズムは消費された。それに比べて「訂正可能性」は実に平凡ではあるが、はるかに大人の哲学だ。「脱」を許容しつつも、遡行的に見出された「構築」を謙虚に受け止め、熱くそしてまたユルく社会にコミットする。それはネット社会がもたらす分断とデジタル民主主義のシニシズムに抗する東浩紀の取り合えずの到達点だ。 -
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東浩紀による観光の哲学のその後の哲学。訂正可能性の哲学とは乱暴に要約すればかのようにの哲学であり、動詞的に考える哲学でもあり、フランス現代思想の系譜にあるように思えるのだけれど、民間にいることもあり、アカデミズムな文脈では評価されていないという。ご本人はそんな評価は望んでいないのだろうけれど。一般意思とは事後的に振り返った時に成立しているという考え方はまさにヘーゲルの哲学に該当していて、あたかも意思があるかのように歴史が発展してきているけれど、それは事後的に意味を確定させたときにのみ成立する考え方でもある。
それにしても高度な哲学的議論をここまで平易に語ることのできる著者の才能には改めて感服。 -
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人間への諦念を前提とした内容ながらも、これをポジティブ、いやニュートラルに捉えられる読後感だった。人間とは、決して合理的で強い存在ではなく、情念に振り回され他者を傷つける弱い存在である。これを、だからといって単純に人間を排除する思想に走るのではなく、それでも過ちを訂正し続けていくからこそ持続可能であると結論付けている。それは、悲観主義ではなく、かといって理想主義でもない、とてもプラグマティックな考え方に思えた。
カール・ポパーが提唱したように、一見すると絶対的だと思われる科学でさえも、その正しさは常に暫定的なものでしかなく、それは反証可能性に開かれている。同様に、正しさの基準も時代や文化によって驚くほど変わる。発話は他者によって誤読され、訂正され、再解釈されていく。人間のコミュニケーションとは、所詮そのようなものでしかない。このような前提に立てば、データや AI に意思決定を委ねる「人工知能民主主義」も、科学やテクノロジーという一側面に依存しているに過ぎない。そのような似非的な「一般意志」には、統計学的な代表性しか現れず、固有名や個々の意志は排斥されてしまう。そこには主体性は宿らず、人間性の退化を招くことになってしまう。人間は不完全な存在であり、不完全にしか物事に関わることはできないが、だからこそ、常に過ちを発見し、正していく「訂正可能性」を持つことができる。そして、不完全な存在だからこそ、正しさを探求し続ける自由が保証される。本書を読んで、プラグマティズムへの関心がより強まった。