東浩紀のレビュー一覧
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思いのほか、とても読みやすかった。文芸批評では取り上げられることのない、新井素子、法月綸太郎、押井守、小松左京の4名の作家から、閉塞したセカイ系をどう突破しようとしたか、が語られる。押井守の映画は何作品か見ていた他、法月綸太郎の本はほとんど読んでいたが、その他2名の作家はあまり読んでいない。それでもとても分かりやすい。
法月綸太郎は、正統派本格ミステリであるようでいて、変格でもある。一時期までは主人公がよく悩んでおり、そこに共感していた(あんまり悩まなくなった近作は、作品としてのパワーも落ちてきたように思える)。が、セカイ系と恋愛の問題、として読み解くことができるとは全く思わなかった。 -
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ネタバレ面白かった。ボクはラノベもミステリーもほとんど読まないので、実感として東さんのいうことはわからないし、押井守にもハマらなかったけれど、ポストモダンとセカイ系の危機、その時代における小説の役割をわかりやすく説明してくれている。僕らよりも若い世代の価値観の一端も垣間見えたような気がする。
特に、押井守の物語のループ性は、細野晴臣が言っていた「世界は螺旋形をしている」と似ているなと思った。反復しながらズレていく世界の中で、自分の生の一回性をどのように価値付けていくのか、愛、家族、もうひとつの母性・・・ 難しいけれど、東さん自身は肯定的な未来を模索し、見出しているようにも思えた。 -
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p22 しかし上述した九○年代の状況は、いまや批評の言語がその特権的役割を担っていないし、またそれを期待されてもいないことを意味している。というのも、メッセージ的強度とメディア的戦略の分割とは、見方を変えれば、アカデミックな批評には思考(メッセージの強度)はあるが日本語(流通可能性)がなく、逆にジャーナリスティックな批評には日本語はあるが思考がないという、思考と日本語の分割にほかならないからである。
思考のための新しい文体が必要とされるだろう。思考の強度と流通可能性をともに備え、「情報」の横溢のなかを意味を失わずに漂うことのできる日本語(…)。
ポストモダン再考
美学的に70年代のハイブリッド化さらた消費社会(が生み出す芸術様式)を肯定するジェンクス。
思想的に60年代のラディカリズム(68年の哲学)を継承するリオタール。
無理のある二重性を担わされてきた。
日本においてポストモダニズムについて考えるとは、また、八○年代のナルシシズムについて考えることである。
郵便的不安たち
デリダの哲学にはキーワードがない。ある特定のキーワードで世界を切るということがもはやできない。
デリダは「転移」を操作する精神分析的な人。相手によって使う言葉を変え、けれど会話が終わってみると相手が使っていた言葉の意味そのものが変わってしまっている。言葉の転移化。
郵便的超越論性。「偉大な哲学者というのは、いつもちょっと大きな郵便局だ」デリダ
象徴界という後ろ盾がない象徴の力、社会(政治と文学)という後ろ盾がない新しい言葉の力。
批判とはものごとの前提を明らかにすること。
(…)上客が逃げ、あとはペンペン草も生えなくなる。そういうプロセスが反復しています。賞味期限が一年もない。内輪の盛り上がりが示す他者への視線の鈍感ぶりが上質な人々を退けるプロセスは、思想の領域でも起こっています。(宮台)
(『存在論的、郵便的』について)浅田彰に頭がいいと思われる、そのためだけに一冊の本を書いてしまった。そのバカバカしさに呆れ果てます。
『ソルジェニーツィン試論ー確率の手触り』
固有名、確率、必然性、奇跡。
根源的な問いと、非根源的な問いの区別が存在しない。「なぜ」という問いの禁止。空しい問いか、運命の甘受か。個人的に嘘に参加しない道徳性。手段と結果の連関が断たれたとき、あえて「理由」を見出す試み。ユークリッド的世界(政治的言説)と、非ユークリッド的世界(宗教的言説)。必然的に思える堕落を逃れる「奇跡」。
手段と結果の連関が断たれた確率的悲劇的状況下で「因果関係の必然性」への根源的懐疑を抱いたときにどう振る舞えるか。空しく「なぜ」と問うのでなく、運命を甘受するのでもなく、堕落しない生き方。そのような「奇跡」はなぜ可能なのか。 -
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ライトノベル→キャラクター小説
自然主義的リアリズム→透明
まんが・アニメ的リアリズム→不透明
ゲーム的リアリズム→半透明
自然主義的読解→物語的主題
環境分析的読解→構造的主題
>日本文学は、一〇〇年前に自然主義を輸入し、六〇年前にそれをマンガに輸出し、三〇年前にその理想をあらためてマンガから逆輸入することで、キャラクター小説を生み出したまんが・アニメ的リアリズムには、その理想が屈折して畳みこまれている。その屈折は、キャラクター小説に、いままでの自然主義的な写生とは異なる、「不透明な」表現を可能にする。つまりは、キャラクター小説には、その歴史的な経緯から、近代文学とは異質な文体の可能性がある。
>私たちは、一回かぎりの生を、それが一回かぎりではなかったかもしれない、という反実仮想を挟みこむことで、はじめて一回かぎりだと認識することができる。
キリヤの状況=「ポストモダン化の進行の中、選択肢の多さに圧倒され、特定の価値を選ぶことがますます難しくなっている、私たち自身の生の条件の隠喩」
『ひぐらしのなく頃に』のご都合主義的な物語の下には、物語外の現実とつながった感情操作のメカニズムがあり、そこに作家の現実感や世界観、あるいは「哲学」を読み取ることができる。/「もっともっと、私たちは幸せになれるから」「望んだ数だけ、幸せになれるから」という言葉に対して、物語のご都合主義とは全く別の水準で、あまりにも非現実的で多幸症的だという疑義を呈する。複眼性を持つ批評。
批評的=臨界的(critical)。特定のジャンルにおいて、その可能性を臨界まで引き出そうと試みたがゆえに、逆にジャンルの条件や限界を無意識のうちに顕在化させてしまう、そのようなアクロバティックな創造的行為一般を指す形容詞。 -
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先日の芥川賞選考における、石原都知事の「自分の人生を反映したリアリティーがない」との指摘に対する返答である。石原都知事の指摘はある意味でもっともであり、しかしある意味では的外れである。動物化するポストモダンと本著を通読し、その意味が理解できた。そしてそこから今まで考えられることのなかった「寓話的で幻想的でメタ物語的なポストモダンの実存文学」の系譜に目を向けることができる。
大きな物語の消尽のあと、もはや自分が動物=キャラクターでしかないことを知りながらも、それでも人間=プレイヤーでありたいと願ってしまう私たち自身(東浩紀)の、実存に関わる一読のみならず、人生において何度も読み返したい一冊。 -
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情報技術について本質的に考える上で大いに参考になった。
第一回
「精神圏 noosphere」(マクルーハン、シャルダンの神秘思想(汎神論的進化論)を援用)
→マクルーハンはメディア自体に空間性を見ていた。
- ハイデガー=ヴィリリオ的な、速度=距離的メディア理解
- マクルーハン的な空間的メディア理解
※マクルーハンのメディア理解は、この二つの間を揺れている。
「サイバースペース cyberspace」はウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』(1984年)が初出。
「東京」と「情報/メディア技術」という不気味な諸要素を、地理的遠方に局所化し押さえ込む悪魔祓い。
→テクノ・オリエンタリズム
没入することによる分身的効果は、乗り換え(スイッチング)として描かれている。登場人物の同一性を脅かすことはない。
→電子メディアの介在によって登場人物の「いま、ここ」が分裂し、彼らの意識自体が二重化する感覚、その結果生じる電子的自己の「幽霊性」が回避されている。
第二回
フロイトの精神分析枠組み=三審級間の争いは神経ネットワーク上の伝達速度・情報処理速度の違いに基づく。そのずれが「不気味なもの」として現れる。
p.29 しばしば言われるように、精神分析の革新性は、ひとりの人間の中に、知覚と運動を制御する複数の情報処理審級、意識/前意識/無意識(第一局所論)や自我/超自我/エス(第二局所論)といった構造を見いだし、それら諸審級の争いを発見したことにある。つまりフロイトは、ひとりの人間の中に複数の心的人格(psychische Persönlichkeit)を見ている。それゆえもし彼にとって「ひとりの人間」なる統一体があるとしたら、それは必然的に、それら複数の心的人格の_争いの場_、ある空間として想定されるほかない。
→「無意識と熟議の対決の場」(『一般意志2.0』)
第四回
ディックの『ヴァリス』。情報潮流=神。情報論的汎神論。経験的/超越的、個人的意識/集合的無意識、有機的/非有機的、両者の媒介者=キリストは人間と機械のハイブリッド=不気味な存在。
→『涼宮ハルヒの消失』の長門ですか。
第五回
スクリーンとアイデンティティの複数性。鏡像段階による想像的同一化=自己イメージの獲得。象徴界=世界の背後=大文字の他者からの不可視な視線を認識することによる象徴的同一化=社会化=社会秩序への信認。
「サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか」第五回の「スクリーンと背後の二重構造」を論じている図6が、『動物化するポストモダン』の概念図に似てるのは、きっと意味がある類似なんだろう。あとで「動ポモ」読み直そう。
ラカンによればマゾヒズムは主体の側があえて自らを律する「法=大文字の他者」を設立する倒錯。マゾヒストは絶対的自由に耐えられず、それを制限する他者(サディスト)を自ら育て上げる。この倒錯の一般化は現代社会が全体として「大文字の他者」を失いつつあること、社会全体を律する象徴秩序の弱体化、各々が勝手に「小さな大文字の他者」を設立する必要性に迫られていることを意味する。
あえて騙される→アイロニカルな没入
オンスクリーンの仮想現実に没入できるのは「象徴的同一化の機能不全(大文字の他者=国家の幻想が崩壊)」「象徴的同一化の想像的なシミュレーション」だという仮説は実証可能かも。例えば「ミクさんマジ天使」的感性と信仰の関係。なぜ日本で仮想現実が受け入れられやすいのか、とか…思いつき
1968年、ポストモダン、カリフォルニア・イデオロギーなどから『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』を再読したくなる。
「インターフェイス的主体性」は「データベース的動物」に対応してる。
インターフェイス的主体性と情報論的汎神論は、同じコインの裏表であり、カリフォルニア・イデオロギーはそのあいだに挿まれている。
190 象徴的同一化=社会化の機能不全に陥り、言葉の力だけでは主体になることができないから、言い換えれば「言葉(象徴界)が信じられない」から私たちは仮想現実に熱中するのだと…なるほど…これは『リトル・ピープルの時代』の「拡張現実」論と関係が深い。
「大文字の他者の死」=「象徴的同一化の機能不全」=「言葉が信じられない」から「熟議は不可能」なので「コミュニケーションなき政治」(『一般意志2.0』)が必要になるわけですね。それは同時に社会化・主体化が不可能で「動物化」するという話にもつながる。
197 テレビとニコ生の比較のような議論もすでに書かれてた。撮られる訓練を積んでない人がニコ生などのカメラを前にしたときの反応には世代差があると思うんだけど、それは象徴的同一化の世代差かもしれないなあ…
205 結び:「オンラインコミュニケーションの身体性」を追求する理想について。ぼくが「身体性」というときには間身体性やそれによる共感を重視している。そこではビデオチャット的な視覚的コミュニケーションが重要だと思っている。しかし、それは現実のオンラインコミュニケーションにおいて不可避な「時間的不一致」を否認する態度でもある。むしろ視覚的撹乱と時間的不一致を肯定したコミュニケーションを考えることもできるはず。それが例えばニコ生と熟議の組み合わせなんだろう。
327 「サイバースペース」は空間的、場所的、地理的なヒエラルキー。「不気味なもの」が外部に排除される(サイードのオリエンタリズム)。しかし本来サイバーメディアは地理的なヒエラルキーを壊す。 -
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コミック、アニメ、ゲーム、パソコン、SF、特撮、フィギュアなどに耽溺する
人々の総称をオタクとして、いわゆるオタク系文化がポストモダン(70年代以降の
文化的世界)とどう関係しているかを論じた本。
とくに、コミック、アニメ、ゲームの類に熱中する人々をオタクと呼んでいます。
アイドルオタクは本書では扱われていません。
そこで語られるオタクによるアニメキャラの萌え要素への分解、
材料化がポストモダンの世界の構造と一緒で、
オタク系文化はポストモダンそのものみたいに言われている。
言われているというか、看破して論理づけて説明してくれているので、
それを読む限り、ほぼ間違いなく、オタク系文化はポストモダンを色濃く反映しています。
反映しているというよりも、ポストモダンの構造そのものです。
本書を読んでもらわないと、僕があーだこーだ書いたところで、
何を言っているのかわからないと思います。
それでも、あえて書いていきましょう。
アニメキャラの萌え要素への分解、材料化、
そしてそれをデータベース化して二次使用するというシステムは、
オタク系文化の中でそのような特徴が出来あがる以前に、
僕が知っている限り、80年代初頭の世界の音楽シーンで見られたことじゃないでしょうか。
『音楽機械論』で坂本龍一さんがそれとなくそんなことを言ってたような。
坂本さんは、誰がこんな音やフレーズを使ったというのもみんな知っていて、
それを確信的にパクったり発展させたりしているのが今の音楽だって、
80年代の初頭に言っている。
つまり、データベース型での世界の捉え方は、
アニメオタクよりもミュージシャンのほうが早かったんじゃないのかな。
と、読んでいる途中で感じたら、
「ハリウッド映画やテクノミュージックでも言えるのではないか」と
一言添えられている部分を後に読みました。
まぁ、なによりも、こうやってオタク系文化をひも解いて分析していくことで
ポストモダンという世界の特徴がわかりやすくなっていきます。
そして、ポストモダンを知るということにより、もはやその渦中というか、
どっぷりとポストモダンの世界に浸かっている僕ら、人間を知るということに
繋がっていきます。
つまり、本書は、現代人理解の本だと言えるでしょう。
友達のA君はほんと、オタク型のポストモダン人間だな、とか、
B君は、すぐに「降りる」ところがポストモダン人間の特徴として強いな、とか、
そういう観点がもたらされるでしょう。
そして、僕の直観からいうと、「ポストモダン」という世界と人間ができあがったのは、
産業革命が起こり、情報伝達技術が発達し、新聞、ラジオ、テレビ、とマスメディアが
発展し、人口が増え、多様化し、さまざまな価値が林立していく中で、
それに対してそれまでの生き方、
「世界の捉え方」ではその世界で適応ができなくなったためでしょう。
世界を人間が複雑にし、その複雑化した世界が人間をポストモダン化させたのです、おそらく。
昔と今の区別をつけるのに、そして、また言いますが現代人理解のために
必読の本と僕は言いきってしまいます。
2001年発刊ですから、もう10年も前になりますが、今読んでも勉強になります。
もうちょっとクリアに世界を認識したいなという欲求を持つ人は、
年末年始のお休みに読んでみると良いかもしれないです。 -
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むず…むず…むずかしか…た…(瀕死)対談はまだしも各論はもうダメでした、何ヶ月かかったよ読むの…
ううううーーー…象徴界想像界現実界の話は何度も理解したつもりで何度も解らなくなる。どうも言葉がイメージになって落ちて来ないというか私そんな風に世界を認識してないのかもしかしてこれ。という気すらしてきました…文系ですらなく図系。。。
ほんとに良くわからんのでしたが、多分これは最新著作の一般意志2.0にどう繋がってったのかを考えた方が解るのかなと思いました。もう何周かしてみるけど解らんダロナー。でもすっごいチカチカするんです、ひらめきそうなイメージが脳裏を掠めてて読まずにいられないー。いつかは自分のスペック上がらないかなー精進精進。
表題作を読んで、瀬名秀明氏著作世界を思い出しました。直近で読んでたから、及び、あんまりSF作品すら読んで無いからなんですけど。 -
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ひとは、わかってることしか分からないのかも。知ってること、体験したことに言葉が当てはめられたときに、説論ていうのはカチッとくるものなのかなー。整理されて視界が開ける。確かな快感。それだ、と膝を打つような。あるいは、そういう見方、つなげ方があったか!とか。いずれ、身のうちに既にあるものを見て読んでるー。
わからないものも沢山読んで、宿題として転がしておくと、十年後とかにカチッときたりする。けど、これは自分がわかる、が後から追いついただけのことだしなん。
というようなことを延々と考えさせられました。半分くらい、"先生ここわかりません"。批評になると、批評の対象作品まず深読みしとかんと無理やしとかもあるます。
パラフレーズや喩えの妙で救われるのも、知ってることに引き寄せて分かるから、なんて当たり前なのかもしれませんが。氏の言葉が好きなのは多分にその辺りの巧さ、そいと横断の多さなんじゃないかと。
わかるとこだけカチッときて悦んで、でいいよとどこかでおっしゃってたのに甘えつつ、たぶんきっと己がよかように"わかって"います。
そういう意味では、小説や映画や漫画アニメなどの表現、媒体になると、既にあることの説明だけでなく、無いものを有るにできるから、、、とか、いやほいでもそれは仮定と比喩という技巧と同じなのかな、とか、もこもこ脱線した。のも、横断する氏の在り方ありてかも。
いつも何周もするのも、追いつくまでいっぱい経験や思索を自分なりに積み重ねないとだからなんだなー、と思いました。分かった!て"コミュニケーション成立"増えたらいいなん。分かったしたらそっからまたこんな風に投函できるし、嬉しいです。
皆が皆、孤島に円満に生きて、ほんとに幸せかな?幸せなの?毒吐いて鬱になって幸せそうに見えないんだー。という相変わらずの宿題だけが残りました。
ぐだぐだ考えて、結局、明日から生き方が変わるかと言われたらそういや変わらないなーとも思ったです。 -
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大きな物語の終焉と小さな物語の氾濫、増殖がポストモダンの特徴であると著者は指摘する。前近代においては、人々は神話や民話を通して現実を、近代では写実的現実を表現した自然主義的文学から現実を、知ろうとしたのに対して、ポストモダンではキャラクター小説にみられるデータベースを前提として成立した新しい現実を求めることになっている。理想の時代・虚構の時代が過ぎ去り、いまや、身体性を伴った快感原則の追求が希求され社会について人々は考えなくなる時代を「動物の時代」としたのだった。
このような時代にあって、まんが・アニメ的リアリズムの台頭ののち、ゲーム的リアリズムが誕生することになった。これは時代環境に導かれた必然であるともいえる現象であったのだ。マンガ、アニメは記号的表現でありながら、あるいは記号的表現であるがゆえに、身体性をいかに持たせることができるかというのが課題であった。すなわち、死にゆく身体をどうやって「現実」として表現できるかということである。他方ゲーム的リアリズム的作品は、キャラクターがたった一つの物語を生きるのはなく、別の物語の中でも生きることが可能であるかのように錯覚されることができる。通常ゲーム的というのは、死の一回性が意識されない。なんどでもリセットが可能でだからである。しかし、リセット可能であるという環境にあるからこそ、受け手は、いつかなんらかの物語を選択し同時に喪失を受け入れなければならないというメッセージを意識することが逆説的に可能になる。もしゲーム的リアリズムに文学的可能性が開かれるとしたら、こうした方向であろうと著者は予想している。 -
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為政が見えにくくシステム化していく社会にあってなおも為政する側の主体の存在を疑い、また、社会に関わるための「主体のあるべき」を議論しようという大塚氏と、まずは主体を切り離した中から見えてくる世界像を考察しようという東氏の、立脚点の差異に最初から最後まで互いが歩み寄らず、話が噛み合わない。が、現在の社会の状況についての洞察には両者ともに肯けるところが多く、両者ともに基本的に相手の考察を認め合っているので、「その噛み合わないところはいいから話を進めてくれ」と思うことはあっても、対談そのものが破綻しているというわけではない。どちらのとらえ方をするのかで、どちらがどういうものが見えてきて、どういうものが見えにくくなるのか、そんなことを考えてみる刺激には満ちている。それぞれの著作を何も知らずいきなりこれを読んでも、何を議論しているかよくわからないかも。
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東浩紀&津田大介の仲直り記念として読んだ。津田氏が、ゲンロンにはめちゃくちゃたくさん関わったのに『ゲンロン戦記』ではあまり言及されてなかった、というようなことを言っていたけれど、門外漢からすると、ちゃんとお名前も出てくるし、あとがきにも書かれてるし、そんなに失礼な印象はなかった。
「戦記」というタイトルから、もっと大きな戦いがいっぱい出てくるのかと思ったけど、会社あるあるなかんじ。経営当事者には胃に穴があく問題だろうけど、世界中のあらゆる企業で起きていることだろう。
で、私のような事務職で生きてきた一般人が読んだ感想。哲学者、批評家、作家、学者、芸術家、思想家、表現者などなどからすると、我々「亜インテリ」にも満たない人間はものすごく下に見られてるんだな、ということ。東浩紀氏は正直にその思い上がりを書き記してくれていると思った。
イソップ寓話の『胃袋と足』のように、表で活躍する彼らインテリと我々事務労働者が離れてしまうと、企業という身体は動かない。これは会社組織でよくある、本社の経営部門や企画部門と、支社の営業や生産工場などで生まれる軋轢とも似ている気がする。職業に貴賤なしというか、どんな職業も大切な社会の構成要素なんだから尊重してほしいものだよ。
で、思想的な理想と組織体制について、個人的には最近よく考えてしまう。すばらしい理念のNPO法人、熱い思いの教育機関など、始めた人は立派だけど、経営や組織体制をハンドリングできずにグダグダになってしまうのを見かける。政治団体も、結局、思想の内容ではなくて、組織運営の上手下手なんじゃないかという気がする。だから左派リベラルは弱くて、企業家が多い右派政党が強いのではないか、と。 -
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いらだっているのは大塚氏ではなく、触れられたくない部分を突っ込まれる東氏の方で、たぶんそこに東氏がとなえる立場の理由が隠されているのだろう。
たまたまボートを手に入れたら沖に出てしまい元の陸地に戻りたいのに戻れない沖の孤島で生活を始めてしまった男の口には出せない後悔を感じてしまう。研究者でありたかったのかなぁ。
あと東氏は相手に何かを必ず言い返さなければならないと思っているのか、思ってもいない事も口にするし、自分でその言葉を信じていない。
「実はそうなんですよ」と相手に同意出来る余裕があれば、自分の弱点も包み隠す必要もなくなるであろうに
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現代(2000年代)は物語が喪失した時代であった。オタクたち、たとえばエヴァのおたくは、エヴァンゲリオンの世界観が好きというよりは綾波レイが好きで、彼女起点で勝手に世界観無視の二次創作が始まる。これは世界観が大切にされたガンダムマニアには考えられないことである。「大きな物語の喪失」が現代なのである。。。とはいうものの、最近の世界では「強い中国」「強国ロシア」といった大きな物語が巡り巡って復活しているように思える。一方で「自由で平等で誰にもチャンスが与えられる国、アメリカ」といった大きな物語の喪失に直面している国もある。現代は複雑さが増している。