東浩紀のレビュー一覧
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p22 しかし上述した九○年代の状況は、いまや批評の言語がその特権的役割を担っていないし、またそれを期待されてもいないことを意味している。というのも、メッセージ的強度とメディア的戦略の分割とは、見方を変えれば、アカデミックな批評には思考(メッセージの強度)はあるが日本語(流通可能性)がなく、逆にジャーナリスティックな批評には日本語はあるが思考がないという、思考と日本語の分割にほかならないからである。
思考のための新しい文体が必要とされるだろう。思考の強度と流通可能性をともに備え、「情報」の横溢のなかを意味を失わずに漂うことのできる日本語(…)。
ポストモダン再考
美学的に70年代のハイブリ -
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ライトノベル→キャラクター小説
自然主義的リアリズム→透明
まんが・アニメ的リアリズム→不透明
ゲーム的リアリズム→半透明
自然主義的読解→物語的主題
環境分析的読解→構造的主題
>日本文学は、一〇〇年前に自然主義を輸入し、六〇年前にそれをマンガに輸出し、三〇年前にその理想をあらためてマンガから逆輸入することで、キャラクター小説を生み出したまんが・アニメ的リアリズムには、その理想が屈折して畳みこまれている。その屈折は、キャラクター小説に、いままでの自然主義的な写生とは異なる、「不透明な」表現を可能にする。つまりは、キャラクター小説には、その歴史的な経緯から、近代文学とは異質な文体の可能性 -
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先日の芥川賞選考における、石原都知事の「自分の人生を反映したリアリティーがない」との指摘に対する返答である。石原都知事の指摘はある意味でもっともであり、しかしある意味では的外れである。動物化するポストモダンと本著を通読し、その意味が理解できた。そしてそこから今まで考えられることのなかった「寓話的で幻想的でメタ物語的なポストモダンの実存文学」の系譜に目を向けることができる。
大きな物語の消尽のあと、もはや自分が動物=キャラクターでしかないことを知りながらも、それでも人間=プレイヤーでありたいと願ってしまう私たち自身(東浩紀)の、実存に関わる一読のみならず、人生において何度も読み返したい一冊。 -
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情報技術について本質的に考える上で大いに参考になった。
第一回
「精神圏 noosphere」(マクルーハン、シャルダンの神秘思想(汎神論的進化論)を援用)
→マクルーハンはメディア自体に空間性を見ていた。
- ハイデガー=ヴィリリオ的な、速度=距離的メディア理解
- マクルーハン的な空間的メディア理解
※マクルーハンのメディア理解は、この二つの間を揺れている。
「サイバースペース cyberspace」はウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』(1984年)が初出。
「東京」と「情報/メディア技術」という不気味な諸要素を、地理的遠方に局所化し押さえ込む悪魔祓い。
→テクノ・オリエンタ -
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コミック、アニメ、ゲーム、パソコン、SF、特撮、フィギュアなどに耽溺する
人々の総称をオタクとして、いわゆるオタク系文化がポストモダン(70年代以降の
文化的世界)とどう関係しているかを論じた本。
とくに、コミック、アニメ、ゲームの類に熱中する人々をオタクと呼んでいます。
アイドルオタクは本書では扱われていません。
そこで語られるオタクによるアニメキャラの萌え要素への分解、
材料化がポストモダンの世界の構造と一緒で、
オタク系文化はポストモダンそのものみたいに言われている。
言われているというか、看破して論理づけて説明してくれているので、
それを読む限り、ほぼ間違いなく、オタク系文化はポス -
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むず…むず…むずかしか…た…(瀕死)対談はまだしも各論はもうダメでした、何ヶ月かかったよ読むの…
ううううーーー…象徴界想像界現実界の話は何度も理解したつもりで何度も解らなくなる。どうも言葉がイメージになって落ちて来ないというか私そんな風に世界を認識してないのかもしかしてこれ。という気すらしてきました…文系ですらなく図系。。。
ほんとに良くわからんのでしたが、多分これは最新著作の一般意志2.0にどう繋がってったのかを考えた方が解るのかなと思いました。もう何周かしてみるけど解らんダロナー。でもすっごいチカチカするんです、ひらめきそうなイメージが脳裏を掠めてて読まずにいられないー。いつかは自分 -
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東浩紀と宮台真司の対談本。
父親の視点から家族・教育・社会等、
様々な意見を交わし合っている。
特に最近よく思う、
フラット化した社会における、
ダイバーシティ(多様性)の問題が指摘されていたのが興味深かった。
やっぱり、
「豊かさ」って「多様さ」だよな。
業田良家の
「人類の代表」という短編漫画に、
「渾沌とは豊饒のことである」
というようなことが描いてあるのだけれど、
コミュニティの中に金持ちもいれば貧乏人もい、
ヤクザもいれば坊主もいる、
みたいな「無秩序」で「渾沌」とした環境が、
豊かさの証左なのだと思う。
こういった豊かな環境が作れる器は、
日本では「学校」である。
そして -
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東浩紀と宮台真司の対談本。
小さな子どもを持つ父親、という視点から、子どもを通じて現代社会を考察する。
育児本ではない。
二人の言ってることはどれももっともなことだと思う。
でも対談本だから「言論人の本音」に近いところがあからさまに出ていて、
それは少しいやだ。
言論人は基本的に選民思想というか、自分たちが「デキル人間」だと強く思っている。(実際彼らはデキル人間だし、それを否定するつもりはない)
そして、意識的なのか無意識的なのかは知らないけれど、そういう「デキル人間」ではない人たちのことをあからさまに見下した発言をすることがある。
宮台の「幸せになれない人間」とか。
「基本的なソーシャルス -
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ひとは、わかってることしか分からないのかも。知ってること、体験したことに言葉が当てはめられたときに、説論ていうのはカチッとくるものなのかなー。整理されて視界が開ける。確かな快感。それだ、と膝を打つような。あるいは、そういう見方、つなげ方があったか!とか。いずれ、身のうちに既にあるものを見て読んでるー。
わからないものも沢山読んで、宿題として転がしておくと、十年後とかにカチッときたりする。けど、これは自分がわかる、が後から追いついただけのことだしなん。
というようなことを延々と考えさせられました。半分くらい、"先生ここわかりません"。批評になると、批評の対象作品まず深読み -
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大きな物語の終焉と小さな物語の氾濫、増殖がポストモダンの特徴であると著者は指摘する。前近代においては、人々は神話や民話を通して現実を、近代では写実的現実を表現した自然主義的文学から現実を、知ろうとしたのに対して、ポストモダンではキャラクター小説にみられるデータベースを前提として成立した新しい現実を求めることになっている。理想の時代・虚構の時代が過ぎ去り、いまや、身体性を伴った快感原則の追求が希求され社会について人々は考えなくなる時代を「動物の時代」としたのだった。
このような時代にあって、まんが・アニメ的リアリズムの台頭ののち、ゲーム的リアリズムが誕生することになった。これは時代環境に導か