東浩紀のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
グローバリズムに対する反発から世界中で排外主義やナショナリズムが台頭した原因として、正しさを求めすぎて他者を排除する「真面目すぎるリベラリズムの限界」を指摘し、政治的・共同体的責任を負わず、興味のある場所を訪れ、消費して去っていく不真面目でユルい「観光客」のコミュニケーションを提唱する。様々な場所で人と会い、偶然の繋がりと失敗を繰り返すことが分断された世界を寛容にする突破口になるという主張。目の覚めるような切り口ではなく泥臭い手法の見直しで、社会の分断に直接的に働きかけるより、時間をかけて遠回りに変えていこうという試み。それ自体は受け入れ易いし実際の行動にも移しやすいとは思うけど、現在の状況からすると、やや時代遅れ感が否めない。面白かったのは終盤のドストエフスキー論。ドストエフスキーをグローバリズムに対する「テロリストの文学」と呼び、『地下室の手記』の主人公は「俺には不合理に生きる権利がある」と叫ぶコミュニタリアンであり、『悪霊』のスタヴローギンはIT起業家と同じリバタリアンである。リベラルはグローバリズムという偽善を語り、コミュニタリアンはマゾヒズムの快楽に浸り、リバタリアンはサディストで無関心病を患っている。そして、その先にあるものが『カラマーゾフの兄弟』の第二部で書かれる予定だったらしい。「観光客」も「テロリスト」も国家や社会の公的責任を背負わない存在という点では全く同じ。ドストエフスキーは読んだことないが興味をそそられる考察。
-
Posted by ブクログ
ネタバレ訂正する力とは、一貫性を持ちながら変化する力のこと。しかし、日本には変化=訂正を嫌う文化があり、かつての自分の意見とわずかにでも異なる意見を述べると、「以前の発言と矛盾する」と指摘され、集中砲火を浴びて炎上する。また、すぐにゼロかイチか、過去を否定するか肯定するか、リセットするかなにも変えないかの対立の議論になってしまう。少しでも動こうとすると両方の勢力から批判される。
このような状況を変えるには、相手が意見を変える可能性をたがいに認めあわなくてはいけない。「ひとの意見は変わるもので、われわれも意見が変わるし、あなたがたも意見が変わる」という認識をみなで共有すし、相手の意見を受けて自分の意見を変えていく、また相手の変化も認めあえるようになる必要がある。
人間は結局のところ誰のことも理解できず、誰にも理解されない。できることは「実はこういう人だったのか」と理解を訂正し続けることだけで、それが対話ということになる。つまり対話とは結論に達する手段ではなく、どこまでも続いていくものである。
自分の限界を知り、人生を見つめ直し、過去に何をしてきたか、これから何ができるかを新しいパースペクティブのもとで訂正する。訂正する力を身につけるには、まずは固有名になるように努力しなければならない。他者が自分を職業や役職などの属性を超えた固有名として見てくれないと、自分の人生も訂正できない。
期待された役割(属性)の外に「余剰の情報」が必要で、「実は……だった」と周りのひとに自分を「再発見」させるような環境をつくることが大事。人生は、自分を属性で判断する人に囲まれても豊かにならないし、信者に囲まれても閉塞感が増すばかり。自分のイメージが他人のなかでたえず訂正され、他人のイメージも自分のなかでたえず訂正されていく、そういう柔軟な環境が生きることをとても楽にしてくれる。 -
Posted by ブクログ
動物化するポストモダンの続編として書かれた本である。文学おけるリアリティ(現実の解釈)がマンガ/アニメ的リアリズム(一回性の死/物語)から0年代以降ゲーム的リアリズム(並行世界/メタ物語)へと変化していった事を明示している。
昨今の文学のみならずゲームやアニメ、漫画、SNSなどあらゆるコンテンツがゲーム的リアリズムになったであろう。ゲームをプレイする主体と、そこに存在するゲームシステム、何度も繰り返す物語の分岐とはじまり。あらゆるものがカオスに、そして再生産され消費される。最近だと異世界転生物が流行っているが、あれも世界系からの新たなるライトノベルの系譜であり、現代社会の表層が現れていると常々感じている(それがなんなのかは一旦置いておく)
私が本書で良いと思った点は、物語の分岐における「選択」の話だ。何かを選ぶ事は何かを捨てる責任とセットとして存在している。「オールユー」の中で主人公が何度もリセットされる世界(虚構)の中で最愛な人と過ごす事を選択する事を望むが、最終的にはリセットを終わらせる事を選び取る。その結果最愛の人は失ってしまう悲しい物語である。しかし、主人公は何度も繰り返すゲームを終わらせて現実に帰る事を選択した。
私達の現実も常にメタ物語をプレイしながらも、現実に帰る契機を伺っているのかもしれない。たとえその物語がどれだけ魅力的であっても。
本書は0年代批評としても大変優れていると同時に、文化評論としても同時代を生きる人間として(全然若い)とても面白く参考になりました。オススメです。 -
Posted by ブクログ
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の注でも紹介されている本書。初版は2001年なので、もはや23年前の本になるが、今年は東浩紀氏の本をたくさん読んでみたいと思っているので、彼の思考を辿る意味でも読んでみることに。
本書はオタク分析からアプローチしているので、サブカルチャーやアニメ、プログラミングなどオタクの世界の読み解きについていくのは正直大変。
したがって、一度全体を読んでから哲学的な考察を拾いながら振り返った。
『暇と退屈の倫理学』でも「動物になること」はキーワードとして出てきているが、改めて「動物化とはどういう状態か」に注目。
本書はアレクサンドル・コジェーブの考え方を参考にしていて、どうやら動物は欲求しか持たないのに対し、人間は欲望を持つらしい。
どういうことか。
欲望は羨望や嫉妬などのように他者の欲望を欲望する。つまり欲望は他者を必要とする。つまり関係を必要とする。
それに対して、欲求は自らの欠乏さえ満たせればよいから孤独に生きられる。動物はただ単に自分の食欲を満たして生きている。確かにそうかもしれない。
つまり、ポストモダンの人間は、自分の欠乏を満たしながら孤独に生きているということ。東氏は嘆きや憂いというよりも冷静にその時代性を俯瞰しているよう感じた。
人間はつながりを生むが、欲望は消えることがなく自然と調和できない。
動物は欲求を満たせばいいから自然と調和するけど、孤独。
果たして、人間がいいのか、動物がいいのか?
そして、今の自分は人間か動物か?
考えさせられる一冊です。