東浩紀のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
主としてコミュニケーション能力に起因する問題について議論が進められていき、エリート目線の宮台に東が疑問を提示する形でのやり取りなどは読み物としても非常に面白い。
しかし、ちょうど同年代の幼い娘をもつ父親としては、まったりと子育てを語る第1章に惹かれる。
実際に幼児を抱えて世界の見え方がガラリと変わってしまう体験をしている身として、ただ単純に共感しちゃうんだもの。
子供を介しての地域ネットワークへの繋がりとか、ショッピングモールなどに対する見方とか。
この感覚はおそらく子供のいない方には理解不能なものだろうし、逆にもっと子供が大きく成長してる親御さんにとっては「はぁ?」というものであろ -
Posted by ブクログ
頭の悪い私は途中から議論についていけなくなった…(涙目)
そんな身分でレビューを記すのはあれなので、備忘録的に自分が思ったことを記しておく。
自分は「親」でありたい。
親になれば、子どもの存在が故に、
地域その他色々なコミュニティに否応がなしに関与することになる。
この本でいうところの「グルーブワーク能力」が求められる。
人ってのは色んな顔を持っている存在であって、各コミュニティで担う役割も違ってくる。
また、全ての役割を担うこともできないから、相互のコミュニケーションで扶助し合うことになる。
「親」とはそれを実践する存在であって、その背中を見て、というか真似して育つ。
そんな親子関係 -
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Posted by ブクログ
為政が見えにくくシステム化していく社会にあってなおも為政する側の主体の存在を疑い、また、社会に関わるための「主体のあるべき」を議論しようという大塚氏と、まずは主体を切り離した中から見えてくる世界像を考察しようという東氏の、立脚点の差異に最初から最後まで互いが歩み寄らず、話が噛み合わない。が、現在の社会の状況についての洞察には両者ともに肯けるところが多く、両者ともに基本的に相手の考察を認め合っているので、「その噛み合わないところはいいから話を進めてくれ」と思うことはあっても、対談そのものが破綻しているというわけではない。どちらのとらえ方をするのかで、どちらがどういうものが見えてきて、どういうもの
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Posted by ブクログ
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の注でも紹介されている本書。初版は2001年なので、もはや23年前の本になるが、今年は東浩紀氏の本をたくさん読んでみたいと思っているので、彼の思考を辿る意味でも読んでみることに。
本書はオタク分析からアプローチしているので、サブカルチャーやアニメ、プログラミングなどオタクの世界の読み解きについていくのは正直大変。
したがって、一度全体を読んでから哲学的な考察を拾いながら振り返った。
『暇と退屈の倫理学』でも「動物になること」はキーワードとして出てきているが、改めて「動物化とはどういう状態か」に注目。
本書はアレクサンドル・コジェーブの考え方を参考にしていて、 -
Posted by ブクログ
正しさが求められる現代社会における誤りを見直し、訂正することの重要性を説いている。プラトン、ウィトゲンシュタイン、ルソー、フーリエ、エマニュエル・トッド、ドストエフスキー、アーレント等の歴史上の哲学者・思想家を批判しつつ、そこに訂正可能性の考えを加えると…を論じている。特にルソーはコミュ障とか言ってることが人生の各フェーズで変わるとか「告白」についてとか結構ディスっている。ユヴァル・ノア・ハラリ、落合陽一、成田悠輔らの言説を「人工知能民主主義」として、AIで正解を出して、不正解を排除する思想社会の危険性に警鐘を鳴らしている。とはいえ、やはりあくまで批評家であり、AI関連技術への解像度は低いよう
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現代日本に必要なのは、一貫性をもちながら変わっていくこと。これを「訂正する力」と名付けて、色々と論じた本。1章は現代日本の問題点をうまく言語化していて良かった。でも、2章以降は観念的な話になっていって、イマイチよく分からなかった。
第1章で、日本で訂正する力が働かないのは、「ぶれないこと」をアイデンティティにしている勢力がいて、議論が硬直し、社会の停滞を招いているから。その背景は、日本人は対話において信頼関係を築く訓練を受けておらず、いたずらに意見を変えると攻撃の対象になるかもしれないという不安を強く抱えているから。
これは現代日本SNSの状況なんかを、よく現している気がする。
でも、それ