東浩紀のレビュー一覧
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現代社会の整理、否定神学的マルチチュード、すなわちチープで一過性の動員。これを刷新するための郵便的マルチチュードという概念の立ち上げ、その主体たる観光客を支える倫理としての家族、不気味なもの、そしてドストエフスキー。
革新的な思想というには早計ではあるが、真面目な政治の外部にテロリズムがあり、それは不真面目なものであるから政治では対応出来ない。
政治は真面目と不真面目を分割するが、文学はその分割を必要としない。
それが終章への韻律と、行間に感情を埋め込む筆跡、そして象徴的な締めくくりを迎え、理路整然とした整理から零れ落ちる感情へと人を移行させる。 -
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ウェブ上で提供されるさまざまなサーヴィスによって人々の「動物的」な欲望が可視化され、「データベース」として利用しうるようになった現代社会の状況を踏まえ、それをルソーが説いた「一般意志」という謎めいた概念の現代的な解釈として捉えなおすことで、新たな民主主義の可能性を論じる試みです。
「文庫版あとがき」で明確に述べられているように著者は、大衆の欲望がそのまま実現されるべきだと主張しているのではありません。著者がめざしているのは、カントやヘーゲルの倫理学や、現代のアレントやハーバーマスの政治哲学が、理性に基づく公共性に高い価値を置いていることを批判しつつ、彼らの主張するような「熟議」が対峙するべき大衆の無意識的な欲望を「モノ」化し可視化するアーキテクチャを構築し、「欲望(一般意志)と政治(統治)のあいだの闘争のアリーナ」を立ち上げることを主張しています。
ハーバーマスのカント主義的な「公共性」を転倒するに当たって、ヒューム的な保守主義に回帰するのではなく、ルソーの一般意志の大胆な読み替えを通じて、ローティのプラグマティズムに近い立場へとジャンプするというアクロバティックな議論には、知的興奮を呼び起こされました。
ただ、単なる大衆の欲望への盲従に陥ることなく、著者の言う「欲望と政治のあいだの闘争のアリーナ」が、どのような原理に基づいて可能になるのかということが明確にされていないため、どうしても危うさを感じてしまいます。著者は、ローティの「憐れみ」に基づく連帯に希望を見ようとしていますが、やはり何らかの意味での「暴力批判論」による歯止めがあってしかるべきなのではないか、と考えずにはいられません。 -
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ネタバレ「観光客」という共同体や民族を越境する者(越境者)が、また人間の「観光客」的な在り方がこの先の世界を動かす(ひいては世界平和を実現する)?
そんな刺激的な問いを哲学的なアプローチで描いている本著。
盛りだくさんすぎて正直1回読んだだけでは私には処理しきれない・・!
でも面白いと感じる部分がたくさんあった。
著者はそのような読み方を望まないだろうけど、哲学(とその歴史)に興味を持つとっかかりとして手に取るのも面白いかも。
しかし高校の歴史や道徳、大学の文化論で登場した哲学者や文学者の名前がたくさん出てくる。
当時は興味を引かれなかったけど、思想を引用されるとみんな面白いことを考えてたんだなあと思える。カントなんて『永遠平和のために』どうすべきか真面目に考えてたんだなあって。すごいよな。
個人的にハンナ・アーレントの『人間の条件』は読んでみたくなった。
あと国(国民国家)を人間になぞらえて、そのうち政治=上半身、経済=下半身と例える表現とかはうまいし面白い。現代は愛(政治的な信頼関係)を持たぬまま肉体関係(経済の依存関係)を深めてしまった者(国)たちの時代らしい。
ドストエフスキーは『地下室の手記』と『カラマーゾフの兄弟』を読んだけど、この第7章で描かれてる研究者たちや批評家のような読み方にはまったくもって至れなかったのでまた読み直してみたいな。今なら違う読み方ができそう。 -
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(01)
冒頭で、えらく古い易経において、「観光」の語が「国」という語とセットになった一文に発現したらしきことに触れつつ、すぐさま見切られ、西欧のツーリズムの方へと心移りがなされている。本書の全体の視野の広がりからすれば、ささいな見切りであるともいえるが、果たして「観」や「光」という漢の字が、本書で語られるテーマにまるかぶりする意味はなかったのだろうか。
ところどころで触れられているが、近代ツーリズム(*02)における「観」ること、視覚の優位は何を意味していたのだろうか、アーリの「観光のまなざし」の主構成はこの視覚の問題が根幹に据えられている。
また、「光」は、風光と熟され、その風光は風景とほぼ同義であることから、「景」の提喩ないし換喩(*03)としても考えられる。風景や風光はなぜ近代によって観光され、発見されなければならなかったのか、といった問題系から本書を起こすことも、あるいは可能であったように思う。
(02)
ルソーから、あるいはスピノザから始まる西欧の近代に始まり、現代までの主要な思想(*04)を、観光客が観光するような視線で、ざっくりとレビューし、著者の90年代から00年代までの著作や近著も含めセルフレビューし、プレビューとして一画面(インターフェイスかスクリーンか)に収めてしまう力には舌を巻いた。また、観光客から家族へという無茶ぶりともいえる接続ないし横断をやってのける力にも、歓声がどこからかあがるかもしれない。力を感じる評論である。
(03)
ふまじめ、ふわふわ、痛さ、憐みといった現代語のチョイスは適切であり、本書の立論では欠かせないキーとなるワードとしてもってきており、言論や人文の復権への意志と、粋な心意気が感じ取れる。
また、平易な言葉で書き表し、図と図式的なことばで喝破することは哲学の王道(エクリチュール!)でもあり、哲学への自負を感じる。
(04)
思想的な座標、二項、二層性は示されたとして、政治的なトピック、社会的なアクシデント、経済的なトレンドについてはどのように構え、応対しているであろか。
右派左派、民主主義、共和制、権力と生権力のいろいろ、テロリストほど極端に走っていないとしても移民と難民と市民たちの移動と不動のあれこれ、資本と労働(*05)とネットワーク(*06)のアゲサゲといった現代の相もふんだんに盛り込まれていて、現代をパースとして見通すのにも便利である。世相が観光の対象となりうるのであれば、世相のガイドブックとして参照されうる、行き届いた本でもある。カテゴライズが効いていて参照性が高いのかもしれない。いずれにせよ、大いに誤配や誤伝の可能性に開かれている。
(05)
貧困や過剰な労働に立ち向かっているだろうか、観光は所詮、ブルジョアらの慰みではないだろうかという本書への批判をどこかで目にした。現代の観光の経済活動をみたときに、著者のいう観光のフラット化というステージまでは未だ躍り出ておらず、古典的であり近代的でもある格差や階級差のほうが観光より普遍的な題目であるという反論もあるかもしれない。
中盤のマルチチュードの戦略としての観光を説くあたり、社会や経済の底辺まで浚え、救われるようにも思えた。観光には救済もありそうでもある。所得の外にはじかれた/はじかれつつある人びとにも本書は届くところがあるのではないだろうか。
(06)
ネットワーク理論の紹介は、例えば私の様に、知らない人は知らないので利がある。そうしたスモールワールド(*07)の現代知から「つなぎかえ」がなされ、スケールフリーに飛躍するように、また振り出しに戻るかのように、100年前に話は飛ぶ。終盤は、ドストエフスキー分析がなされ、フロイトのウンハイムリヒや父殺しといった19世紀末のミステリーに落としどころをもってくる流れは、現代家族の擬制の限界を示すのに便宜を図っている。
(07)
個人個人のネットワークがスモールワールドであるのと同時に、本書での指摘ではないが、都市間交流もスモールワールドなネットワークで構成されていると考えてよいものだろうか。その場合、地方や田舎や故郷はどのようにネットワークされるのだろうか。
このような都市論として観光についての問いを立てたき、国内の、盆正月のラッシュ、出張と左遷と栄転、移住、避難、巡礼と観戦といったモービリゼーション(動員)を捉えてもいいし、より小さなスケールで立ち飲みや立ち働き、送り迎え、福祉的な移送、散歩、まち歩きやのみ歩き、トレッキング、キャンピングのふるまいを見直してもいいのかもしれない。人類学と観光のアナロジーについての脚注も本書には書き留められていた。
アーリにもやや示唆されていたが、移動は手段ではなく、目的でもある。動くために人はとどまる。観光するために、人はふとそこにとどまっているだけなのかもしれない。 -
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乙武さんと対談形式での議論。
対談相手はお馴染みのメンバーともいえ、この本以外でも著作があったり、よく他の対談本でも登場したりする人物ばかり。
なのでその人の主張自体は他の本にも出てきて特に新鮮味はない、その意味では出てくる人本人が書いた本の方が詳しい。
ただ、この本の持つ新鮮味は内容よりも「乙武さん」が相手であることに尽きるようにも思う。
非常に稀有な経歴を持つ乙武さんゆえ、対談の中でも視点が新しいというか、広さを感じるので、その部分に対して面白さがあったと思う。
最後都知事、政治家への転身を勧められていたが、どうなんでしょうね。見てみたい気もするが、一議員としてではなく首長としてがいいのかな。一議員だと「障がい者」の立場を代表する人、としてしか見られないおそれがどうしてもあるし。 -
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2014年初版
乙武洋匡 対談
現代社会のおかしさ、課題についての8篇の対談集。
若手論客8人対乙武さんという対談本 (R25の対談企画の書籍化)。八人八様の社会への向き合い方・戦い方を紹介しつつも、共通している「既存勢力・既得権益との向き合い方」については東氏のまとめた「内側・外側」のまとめがわかりやすい。既存のルールの上でも戦える準備をする=内側。既存のルールを真っ向否定し、トリックスター的に変革を目指す=外側。
論壇会にも世代があるし、スタンスの違いもあるということがなんとなくわかった一冊。それにしても乙武さんのスタンスがいい意味でずるい。いいところを結局持っていくような構成でした。 -
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二つの観点を前提にしなければならない。一つはインターネットに象徴される情報コミュニケーションの革命的変異が一気に進んでいると言うこと。2つめは情報交通政治思想のグローバル化により価値観が急速に陳腐化しつつあると言うこと。
2つの前提が成立する以前ならば、ある哲学者・知識人の言説や芸術家の独創性は長い間独創性として維持されてきた。しかし、2つの前提が成立すると、独創性は即時的広範囲に模倣され、アレンジされて記号化されることになった。そして一般的には今日生産される差異はひとつひとつが記号化されデータベースに積み上げられてく。
この状況下で批評家の為す役割というのは変異するか、しぼんでいくかのどちらかに陥る傾向が強くなった。なぜなら、批評家は例えば理想と現実の差異を分析し、その性質を論じ、方向性について読者や社会に啓蒙する働きを期待されるからである。さらに、これまでは応える余地があった。しかし、それは差異がいつまでも差異として存在し、かつ正体不明の扱いにくいものとして維持し続ける環境あってこその批評であった。
2つの前提が成立すると、批評家のその役割は縮小し、0に向かって限りなく収束することになる。ここにおいて著者の2人のスタンスは異なる。それでも社会に啓蒙する役割の可能性を信じる大塚と可能性を信じない東とである。
2つの前提がこれから一層その傾向を強めたときに、批評家の飯の種である差異は一般的な存在から個人的なレベルのに落ちる。つまり差異は個人的なものにしか存在し得ないと言うことである。はたしてそのときに極めて個人的な差異を論評する価値や意味があるのだろうかという疑い。また仮に一般的・社会的に評価・共感しうる差異を発見し得たとしても、すぐにその差異は記号化され、批評家の叫びとは無関係に修正・アレンジされていく。いわば、記号のデータベースというカタログに載らない差異が差異といしての価値を持つが、価値を持った瞬間それはカタログに載せられ、その価値の所以であった「カタログに載ってない」価値は消失するのである。
そしてこの差異の消費活動は促進され、スピードを増し、批評家の出番はなくなる。批評家に残された仕事の可能性と言えば、新たなる価値(差異)の予言であるが、そこまでいくと批評家と創作者の区別はなくなるのである。
ネットによる差異のデータベースとアレンジゲームはまだ始まったばかりでかつその進歩と共に構造までも変えていく。それはカオス的に見れば、構造変異が表出するまで継続するのであろうが、それがいつになるかは誰も予見し得ない。