東浩紀のレビュー一覧
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『存在論的、郵便的』と表裏をなす表題作「郵便的不安たち」他、文学・サブカルチャー・エッセイ等を収録した一冊。
『郵便的不安たち』『郵便的不安たち#』『郵便的不安たちβ』とある中でどれを読めばよいのかよくわからなかったが、解説によると『郵便的不安たち』(単行本)≒『郵便的不安たち#』(文庫化)→『郵便的不安たちβ』(再文庫化、加除あり――「思想・文学」系を目次から削除し、文化/時事批評の「存在論的、広告的」追加?)と言った流れの様子。いずれにしても文庫化はありがたい。単行本の『存在論的、郵便的』をうっかり足に落として結構痛い思いをしたり、そうでなくても移動時間に読もうと本を入れたとたんに鞄が重くなったりして随分時間がかかったからだ。 -
Posted by ブクログ
読後の率直な感想として、哲学の限界と弱点に対して徹底的に向き合って、哲学書として哲学的なアプローチで真っ向から乗り越えようとしている姿勢を強く感じた。20年以上も人文・哲学のジャンルで戦ってきたから東さんだからこその、使命を感じた。
本書の中でも触れられている通り、しばしば人文・哲学の言葉は抽象的な魔法のような言葉で、具体性を持つことなく完結してしまう。マルチチュードの概念も、反体制的な抵抗運動を指す言葉であり、デモのように強い政治性を持つ活動を行わなくとも連帯される(!)というような理想的な概念である。しかしその実は、否定神学的で具体性はなく、声を上げればネットの力でなんとかなるレベルの議論しかされていない。
そうした人文・哲学の所作をアップデートするために、①郵便的マルチチュードという概念を導入し(少し哲学の所作を超えられてない気がする)②哲学的な概念に数学的な裏付けを試みている。
特に、②は二層構造の数学的な裏付けとして位置づけているところは面白い。抽象的な哲学に対して、具体的な数学を取り入れて、なんとか哲学的な思考に具体的なロジックを担保しようとするアプローチは胸を打つ(逆に数学に社会的な哲学的な意味をもたせるという視点も共感)
しかし、同時に哲学の所作を乗り越えることが極めて困難であることの葛藤もひしひしと感じた。
本書の中でも、
・ソーカル事件に触れながら、数学を自己流による解釈で概念だけ抽出し誤った疑似科学になっていりうリスクがあると指摘していたり(実際、ソーカル的ではないと立証するに至っていないように見える)
・実際に②の数学的なアプローチも具体的に論証しきれていないとしていたり
・観光客が誤配のようなコミュニケーション(現地人と話すなど)をすれば、それが即すなわち反体制的なマルチチュードになるかといえばそうでないとしていたり、
・それに対して、本書の位置づけはあくまで草案であり、具体的な議論は次の仕事に譲るような記述になっている。
本当に難しいんだと思う。それでも、ここまで詳細に哲学・政治学のテキスト・議論を引用しながらまとめあげ、それを真っ向からアップデートする試みは東さんしかできないと感じました。 -
Posted by ブクログ
「最初に人間=人格への愛があり、それがときに例外的に種の壁を越えるわけではない。最初から憐れみ=誤配が種の壁を越えてしまっているからこそ、ぼくたちは家族をつくることができるのである。」
「人間とは何か?」を考えていたわけではなく、「人間とは何であるべきか?」を考えてきたのが哲学で、大衆化に応じて語られた哲学でさえ、大衆を包含した概念を語れていなかった。その意味で哲学は未だ近代以前である。シールズに代表される市民運動も未だ概念にはなっていない。著者が常日頃言っている、近代以降を説明し時代を変える概念(例えばそれは自由や公平)を探った試論が本書。
シュミット、コジェーヴ、アーレントなどの思想を説明し、その課題を揚げて試論につなげていくスタイルで、よくもまぁこれ程整理できるもんだと感心する議論の進め方で、著者の要約力がスゴいので自分が頭がいいという錯覚に陥る。
ジョン・ロールズが正義論を発表したのが1971年で、リベラリズムの歴史は結構浅い。世界を覆うかと思われていた公正の哲学は、ポピュリズムの噴出によってただの理想だったことが露呈した。
リチャード・ローティーの書くとおり、正義は普遍性を放棄し本音と建前という矛盾を受け入れるんだろうけど、それはとても人間的な社会ではある。
匿名でネトウヨ発言をし、目の前のマイノリティには寄り添う。そんな風にやりたいようにやればいいのだ。 -
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大まかに前半が理論的な内容で、ゲーム的リアリズム自然主義的な読解に対する環境分析的な読解等が説明される。後半が環境分析的な読解による具体的な作品批評、という構成。
後半により、かなりクリアに色々理解できた気がする。俺はこの本で主に取り上げられている類の小説、ラノベとか舞城王太郎は殆ど読んでなくて、数少ない接点である例えば西尾維新原作の漫画とかは何となく圧倒される感じだったけども、なんかその圧倒される理由の構造的な部分が理解できた。
この本が書かれた2007年は、ゲーム的リアリズムは虚構の世界に軸足があったように思えるけども、現在(2018年)は現実がかなりゲーム的になってきていて、現実が糞ゲーに思えて、政府を始め社会を動かす人組織仕組み全般をゴミ運営として捉えているのかな、と考えながら読んだりしていた。
そういう流れで、最後の方の、
"私たちは、メタ物語的でゲーム的な世界に生きている。そこで、ゲームの外に出るのではなく(なぜならばゲームの外など存在しないから)、かといってゲームの内に居直るのでもなく(なぜならばそれは絶対的なものではないから)、それがゲームであることを知りつつ、そしてほかの物語の展開があることを知りつつ、しかしその物語の「一瞬」を現実として肯定せよ、これご、筆者が読むかぎりでの、『九十九十九』のひとつの結論である。"
っていうのに何故かとても感動した。 -
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インパク知 6・7
自分たちだけの閉じられた世界(想像界)と、それを破壊するどうしようもない力(現実界)が短絡し、社会や政治など、本来であればふたつをつなぐもの(象徴界)への言及がない――「涼宮ハルヒ」などに代表される「セカイ系」の作品が抱える、「社会とのつながりのなさ」に、作家はどのように対抗しているのか、という考察。
新井素子の「家族」、法月綸太郎の「恋愛」、押井守の「ループ」、そして、小松左京の「未来」について、それぞれの章で考察を加えている。
本書においては、「セカイ系」の解決策は、「自分を(何らかの形で)未来につなぐこと」であると述べられていたように思う。四人の作家の作品への愛と、筋道を立てた読解でわかりやすくそのことが述べられていた本書は、たいへん面白かった。ジャケ買い成功である。
一方で、筆者よりもさらに下の世代である自分には、その解決策が、幻想に過ぎないのではないかという懐疑がある。
虚構において、ひとが社会(象徴界)を必要としないならば、つまり、虚構が現実を描かないのであれば、文学はいらない。これが「セカイ系」の抱える問題である。しかし、四人の作家による作品は「自分を未来につなぐこと」が、そこからの脱却のヒントを示している……というのが本書の主張であるが、「自分を未来につなぐこと」が救いになると読むその点に、筆者のマトモさ、もっといえば「人間に対する絶対的信頼」を感じた。
これが「評論」だ、と思う。しかし、そうであるならば、「評論」は、人間に絶対的信頼を寄せることのできる、一部のエリートのものだ。筆者が「セカイ系」の読者として語る「オタク」に、果たしてその「人間への絶対的信頼」はあるのだろうか。
本書はとても面白い。とても面白いのだが、だからこそ、虚構の中で社会(象徴界)を求め、享受することができるのは、エリートだけなのだという寂しさも感じた。 -
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"Author mentioned that we were separated in globalism - Libertarian - and nationalism - Communitarianism, and we lost concrete ties in our world. However the miss-delivery which is indicated in this book as "Tourist Philosophy" will be able to re-connect the separated world."
・後半のドフトエフスキー論を足がかりにした、「家族の哲学」が一番興味深い。グローバリゼーションによって、「体はつながっているが、頭は別々」に分断されてしまった世界をつなぎ変える=脱構築する可能性として、「家族」が挙げられる。
ドフトエフスキーの小説における主人公像の変遷(失望したコミュニスト→アナーキスト→リバタリアン→??だったかな)という変遷を参照しつつ、世界をもっかい脱構築するにはどうすべきなのか?を素描する。
・ルソーは人間が嫌いだった。人間は他社とつながりたくなどないと思っていた。でも人間は社会を作る、それはなぜかっていうと「憐み」「憐憫」があるからなのだ、という。生まれたての子供が道端に捨てられていたら、それを見捨てることができない、という人間のプリミティブな感情こそが社会を作り上げているのだと言う。
・「不気味なもの」とは何だったのか?
・『おやすみプンプン』にも似たモチーフがある。プンプンとペガサス。個人主義(≒リバタリアン)と、博愛主義(≒コミュニタリアン)。リバタリアンも、コミュニタリアンも、比喩として死ぬ(というか殺される)。そして、リバタリアンは、血縁でも地縁でもない、まったくの他人との、疑似的な家族関係によって救われる。
これはきっと、自分の中の神様、あるいは最も信じるものをなくしても、それに似た何かに再接続することで絶望から救われる物語。
ドフトエフスキー。飼っていた犬は死んだ。その犬はこの世界に一匹しかおらず、他に代わりのないものだ。でも別の犬が、その唯一性を満たすことはなくても、代替することはできる。田中愛子は死んだけど、田中愛子/「自分」って神様がいなくなっても、疑似的な家族に救われてしまう(逆に言うと死ぬことはできない)。
それを「汚れてしまった」などと嘆くのはばかげている。死ぬ前は単に幼稚だっただけだ。人間は人間が嫌い、でも生きるために神さまを作り上げて、そのために生きるのだと思う。でも神は死んだ。だから多様な現実を引き受け、前に進む(父になる)しかない。それが大人になるってことだわねえ。世界に活かされてた側から、世界を作る側になるんだよ。人間はくだらないし何かの間違い。でもそれに嫌気がさしてあきらめるんなら死ぬしかない。死にたくないなら、「神は死んだ」ことを引き受けて生きるしかない。
・クリエイティブ都市論との接続。
ネットワーク理論によれば、Dotは多い方が多様なネットワークを形成しやすく、したがって人的集積が豊富な都市圏ほど、この「マルチチュード」は成り立つのではないか。
国家ではなく都市という単位で見れば、縮む日本は都市圏に集中せざるを得ず、都市としては、東京や大阪・名古屋という集積圏は今後も成長を続けるだろう。そしてその時、競争相手は国家ではなく同じ都市圏。
こういう接続が容易にでき、グローバリスト/ナショナリストではなく、グローバリズムを前提とした都市型の生き方(グローバルエリートとか安っぽい話ではなく、国家ではなく都市が競争単位となったとき、リバタリアンもコミュニタリアンも、双方とも統一され、再接続され、世界はまた、領域国家から都市国家に変貌してくような、そんな気がする -
Posted by ブクログ
ネタバレ批評が忘れ去られようとしている世の中で、その忘れ去られようとしている過程を年代ごとに紐解いていき、悲観論で終わるわけでなく、時代の空気と格闘し、「観客=外部のアイデンティティ」の復興を模索する。まさに文中で東さんも述べている通り、スポーツと同じ構造だと思った。当事者性ばかりがクローズアップされるが、周囲にはプロになりたい人、アマチュアリズムでも持続する人(趣味の人とも言える)、熱狂的なファン、テレビなどでそれなりに楽しむ観客まで、さまざまな階層の人が世界を形成している。そういう息の長い哲学・理論で思考すること。それはどの世界に生きていても必要な事だと思う。教育の重要性、関わりの多様性、異質なものを受け入れる包容力、人間や組織としての器が試される時代である。
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東浩紀は『弱いつながり』以来2冊目だったので、弱い~の続編的な目線で読んだ。2017年の人文書としてはかなり読まれた1冊で、目を通してみると著者の熱量がうかがえる。わかりやすく丁寧な文体で書かれながらも、今の時代を憂い行動を起こそうというような焦りを感じる。これがゲンロンカフェなどを精力的に展開しようとする東の原動力であるかと思うと、納得がいく。言論人として、批評家としての世界とのかかわり方。こうした人と人の撹拌の意図は本書でいう「誤配」だろう。
本書のテーマは「観光客」。国民ではなく、旅人でもなく、観光客。国民国家と帝国という今までの社会論では二項対立的に語られていた概念が、政治と経済、コミュニタリアニズムとグローバリズム、社会と個人というそれぞれの文脈に分化されながらも、溶け合ってしまっているのが現代である。そのような時代においては、ヘーゲルが言うような個人→家庭→社会→国家という単線的な発展の図式は意味をなさなくなっている。だからこそ国家に閉じられた存在としての「国民」ではなく、どこにも根をもたない「旅人」でもなく、国家の住民でありながらも、自由に異国を訪れる「観光客」としてのふるまいに可能性を見つけている。観光客は、同じものを見ても住民が見つめるようにその景色を見つめることはない。観光客のまなざしは「偶然」に照らされたまなざしである。文化や言語の伝統的な文脈を通じてその景色を見るのではなく、偶然に「誤配された存在として」その景色に出会い、目撃するのである。そのような既存の世界を再解釈するまなざしに、次の時代の可能性があるのではないかと著者は訴える。
とても面白く読んだ。
18.1.19 -
Posted by ブクログ
ゲンロン0 観光客の哲学 東浩紀 genron
読み始めは屁理屈かと思いきや 終わりに近づくほど面白くなる
始めの内は進まず何度かバカバカしくなりながらの
二章の終わり頃までの感想は
混沌の中のリアリティーと言うプロセスを明確に見せてくれる内容であった
哲学が根源性を追求するものだとすればこの物語は
才走って道草を食っている状態にあるように見える
それは過去に根ざす縄張りの穏便な安全地帯から
覗き趣味の気晴らしをしている観光で
平和を良しとして求める第三者のナンセンスを
教えてくれる反面教師のようである
観光は時の流れの中で今を捉えながら
出合いの選択をし続ける冒険の旅と比べると程遠い
覗き趣味は選択の自由自在性を奪う代わりに
支配者が奴隷にあてがう娯楽でしかない
などと思いながら読み進む内に段々と面白くなって引き込まれることになる
多彩な知識が盛り込まれているだけでなく
咀嚼された深読みによる解き明かしにうなずけもするし共感もできる -
Posted by ブクログ
ネタバレ政治に他者に関わることなく引きこもって自らの欲求を追求して暮らすことが可能な動物の時代。神も国家もアイデンティティの拠り所として機能せず、グローバルリズムを否定するためにテロリストでさえふわふわした浅薄な理由で(動画を見て)生まれる。テクノロジーとグローバル化により均質になっていく世界で、数々の哲学者の論説をひもときながら人はどうあるべきか模索する。
本来は世界市民となるはずだった現代人はリベラリズムに疲れはて、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムに分裂している。グローバリズム(経済的利益、肉体関係)はナショナリズム(政治、恋愛関係)を取り残したまま歪な秩序として浸透したのだ。SNSやLGBT運動に見られるネットと愛さえあればどうにかなるというマルティテュードも実効性が薄い。
シンギュラリティは空想社会主義にすぎず、仮想現実世界では匿名性がフェイクニュースやヘイトなど悪い意味で現実を侵食していく。
筆者は観光客=二次創作だと主張する。観光とはまさに産業社会によりうみ出された産物、大衆消費行動だ。しかし観光は単なる娯楽であると同時に誤配を生み、偶然性によって人の視野を広げ社会を繋げ直す。そして観光客は訪れる場所を観光地に変える。観光客は無力ではない。
国という概念が機能しなくなったテロリズムの問題は文学の範疇にあると筆者はとく。ドフトエフスキーの地下室人の手記、カラマーゾフの兄弟、悪霊について取り上げている。強制されると反発するためだけに反発するのが人の性。人はライプニッツ的理想の世界に殉じようとするが、現実の不条理に耐えられなくて絶望してテロリストとなり、さらにどちらの態度からも離れた無関心なニヒリストとなる。ニヒリストを克服するには、不能な父(観光客)となるしかないという。そして解決は次の世代に託し、そしてまたテロリストが生まれていく…。終わりなき円環の中に人は生きていくと筆者はしめくくる。