東浩紀のレビュー一覧
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ネタバレ著者の前著『動物化するポストモダン』はオタクの動向だけでなく日本社会全般に当てはまる「『大きな物語』の衰退→物語消費からデータベース消費」という流れに言及したが、当書はオタクの消費活動及び、消費の対象となる作品(「ひぐらしのなく頃に」など)の構造について焦点を当ている。
リオタールの言う「大きな物語」とは高度経済成長期の日本で「仕事を頑張れば明日は今日より良い暮らしができる」というように国民全体に広く受け容れられたスローガン、価値観のこと。ポストモダンはそのような大きな物語が衰退して、拡散的な小さな物語が生まれ、社会やライフスタイルの多様化が尊ばれる時代である。
前著の内容と被り -
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ネタバレ新進気鋭の二人。思想家と学者の「家庭観」について。
まえがきにあったように、東氏は明らかにアウェイ感の否めないダイアログが続いていて、それはそれで読んでいて楽しい。
どこか「絶対感」的言動が多い東氏が、こと家族観になると、一歩引いて話しているところが、彼もやはり人間(笑)と思わせる。氏の他作と会社経営などの多角的活躍を考えると、これはアウェイでも仕方ないのかもしれないけれど。
娘について真剣に考える一人の人間になっていた。
一方、宮代氏は通常通りというか、家庭第一主義。言動は結婚し、子どもを持ってずいぶん変わってきたことを裏付ける結果になっている。
もともと東大大学院でテレクラ研究者と -
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[ 内容 ]
娘ができて初めて見えた日本社会の問題点とは?
若者の非婚や少子化をいかに乗り越えるか?
育児体験の比較から、教育問題や男女のパートナーシップのあり方までを論じ、「子ども手当」など保育支援策を検討。
ツイッターなど新メディアを利用した民主主義の新たな可能性まで、今日の知的課題をも浮き上がらせる白熱の討論。
[ 目次 ]
第1章 親子コミュニケーションのゆくえ―家族を考える(時間感覚の変化;宮崎アニメへの反応 ほか)
第2章 子育てを支える環境―社会を考える(ロスジェネ系議論の問題点;専業主婦願望の背景 ほか)
第3章 均質化する学校空間―教育を考える(グループワークができない子ど -
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[ 内容 ]
「知識人」は希望を語れるか。
「世代間闘争」の末に見えた地平は?
いまの日本は近代か、それともポストモダンか?
サブカルチャーの諸問題から国家論まで、「わかりあう」つもりのない二人が語り尽くす。
[ 目次 ]
はじめに 世代間闘争について
第1章 二〇〇一年-消費の変容(なぜ物語に耐えられないのか 見えない権力システム ほか)
第2章 二〇〇二年-言論の変容(雑誌は誰でも作れる 論壇誌でいかに語るか ほか)
第3章 二〇〇七年-おたく/オタクは公的になれるか(メタ化するか、空気を読むか 啓蒙か、ガス抜きか ほか)
終章 二〇〇八年-秋葉原事件のあとで(同時代の事件に責任を持つ -
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人を幸せにできるひとだけが、幸せになれる。他者と交わるノイズ耐性やグループワーク力のない子供や若者、親が増えている。
昔で言う地元で、ガキ大将がいて、他者と交わって、教えてくれる仲間をリスペクトしたり、という事が必要だ。
それを変えるには、①男性もWMのように仕事と家庭を混ぜて、ノイズに強くなる生活にしてみる。制限された中で対応する力が必要。②コミュニケーション能力=コネを競い合う階級社会にする。親子も複数のコミュニティーに属し、自分がリーダーになれる時もあれば、人に教えてもらう立場も経験することが必要なのだろう。③自分がハブになる。ツイッターでフォロワーの立場だけの人も必要だが、ハブになるこ -
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2章までは2人の話がかみ合ってて面白いんだけど、3章からは宮台さんの研究発表に東さんが相槌を打ってるだけみたいになってしまうのが残念。
それと、父親になると地域社会にコミットせざるを得ないと言うけれど、大学の関係でとある市の子育て支援課にインタビューに行って聞いてきた話によると、父親は依然として地域の子育てコミュニティに参画していない・できない現状があるそうだし、実際自分の父親もご近所付き合いなんて一切しない人で、それでやっていけていたのを目にしている。そりゃ、大学教授みたいな職業なら、論文書く気分転換にお散歩に出てご近所さんにご挨拶する機会なんかは多くなるのかもしれないけど・・・なんだか、宮 -
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二人の喧嘩を「オタク第一世代」と「オタク第三世代」の世代差、と捉える向きもあるが、果たしてそうなんだろうか。
ちょうど『集中講義!アメリカ現代思想―リベラリズムの冒険』を読んだあとだったので、大塚英志氏の意見の方に共感できた。
大塚氏の東氏への苛立ちによって延々と議論が長引くのだが、その苛立ちは理解できる。
「若手の旗手」として衝撃的なデビューを飾った東氏だが、もう年齢的には「若手」とは呼べなくない。大塚氏の苛立ちはひとえに、その「失われた時間」に対するものであろう。
30歳(2001年当時)というのは批評家としては若い部類ではあるが、宮崎勤事件が起きたときの大塚氏も30前後である。覚悟を -
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